2020年7月15日

文はある主題についてそれを読む相手の知性にとって基本的に過不足なき中庸の長さがふさわしい

村上春樹がラジオで次の様にいっていたらしい、ツイッターなんぞじゃ短すぎて何にも伝わらないと。それを俺に集団で半年くらい前に匿名で群れ「極端な短文で書けないやつは低知能だ」とか「修飾語や接続詞使うな」とか恐ろしく頭の悪そうな言動してきたバカ校生みたいな連中に言ってやれと思うわけだが。
 この春樹発言はいつもの長編小説合理化の、常套句だってのが少年時代に研究してた側からはいえるのだが、今回この問題について冷静に考察してみる。
 果たして文の長短は何かを伝達するのにどう向いてるのか? 春樹説が正しいのか本読んだことないゆとりツイッター説が正しいのか?

 先ずカントは『純粋理性批判』第一版序(Ⅻ-ⅩⅢ)でこの問題に一つの明快な答えを出している。曰く「誰にでも分かる様に書くと例えで長文になりすぎてしまうが、専門用語で埋め尽くし短文にしすぎると逆に理解に時間がかかる、故に、主題が分かるのに必要十分な時間で済む構成全体が重要なのだ」と。
 僕はこのカント説、いわば中文説を、しるかぎり最善の物と思っていたのでそれを採用してきた。ところがそこにきたのがやつら匿名モブで、ツイッターは長文読解力とかない馬鹿の集まりだから短く書けないなら消えろ、とか、DMで殺害予告みたいな事もいわれた。それで短文厨は救いがないと初めて知った。
 実はそれまで、自分は箴言集とかが、俳句同様かなり好きだったのである種の短文厨にかなり親近感をもっていたといおうか、できるだけ四畳半的な短さにシャノン情報量をつめこむのが文の技量だくらいに考えていたのだが、去年のツイ民言説が余りに陳腐だったので大いに反省し直すきっかけになった。
 自分は過去、ネットで公に10作以上、いわゆる中編小説という形になるだろう代物を書いたのだが、自分は個人的にそのくらいの長さの小説で何か重要な主題を浮き上がらせるに十分だろうと思っており、『ティファニーで朝食を』か『門』、『スプートニクの恋人』位の長さが一番いいだろうと思っていた。

 が。春樹は僕と考えというか文芸の趣味が違う。彼は長編マニアである。正確には、僕も彼と同年齢くらいの頃(多分18で)読んだが、彼は『カラマーゾフの兄弟』にやたらはまったらしく、自分はアリョーシャがいいやつだったネくらいの感想しかないけど、春樹はあれを模範だと思っている。で趣味が違う。
 自分が読んだ長編で、長すぎなかったといえるのは1個もない。『源氏物語』なんて当然ダメというかそもそもあんなに長くする必要は一切ない話だと思う。短歌混ぜ込んで語ってるのは形式的に歌劇っぽいんだけど、正直あらすじで十分だろう。中身自体は下品だし。『平家物語』も後半がだれてて惜しい。
 米国の小説界だと長編しか売れないらしい。春樹はそこに最適化してる節もある。けど『ねじまき鳥クロニクル』だろうが『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』だろうが、『羊をめぐる冒険』や『風の歌を聴け』より印象に残る場面多かったかといえば、ムダに引き延ばしてあるとしかいえない。
 例えば『あばばばば』なんて芥川の持ち味(ここでは観察の鋭さと、教科書向きな上品さにまとめてある点)がとてもよく出てる短編ですが、あれと比べ、イイネといえる長編って自分が色々観た範囲で殆どない。マドレーヌで思い出したとか娯楽の部類かと思う。つまりカント説は裏づけられてある様に思う。

 結論。春樹が暗示してるのは、複雑な物事を語るには十分な長さが必要で、そればかりじゃなくて長ければ長いほど深い事まで語れる、という一つの常識的立場だ。そりゃ一般にはそうみえる。でも事実でない。なぜなら一般論として『論語』や『ダンマパダ』のが、『1Q84』より深い人間性を語ってるからだ。
 他方で、短文厨ツイ民みたいに、基本的に修辞や文法を無視しやたら文を短くしろと謎命令をネットでして回ってる連中は、単純に言語知能が極端に低い。2013年PIAACで読解力レベル2以下(100点満点に換算すると40点以下)の人達などそれしか辛うじて読み取れないのだろうけど、漫画読んでた方がいい。
 よって、カント中文説の基本的な部分は今も有効だと思う。ある主題を伝えるにはそれにふさわしい長さがあり、専門家向け(上座部的)に書けば抽象語彙でより短くでき、大衆向け(大乗的)に書けば具体的な例えのせいで少々間延びし易い。でもどっちにしても中庸より長すぎても短すぎてもいけないのだ。

 中文説の基本的な部分は有効、裏返せば、応用部分なら中文説は無効とは、ある文が主題に沿って書かれるとは限らないからだ。そして単に長いだけの文それ自体に価値がないとも言い切れないし(異論はあるかもしれないが、通常の意味を取れないという点ではホワイトノイズに近い『フィネガンズウェイク』みたいなものが或いはそれに入るかもしれない)、逆に極端に短くても意味を為す場合もある(例えば習字、書道とか、ある種の自由律俳句。「咳をしても一人」みたいなもの)。