2019年3月31日

王子の回想

「とっくにしっているとおり
あなたは旅にでるのです
そこで世間を見
処世術を身につけましょう」
「ああわかってるよ
その通りにしたつもりだ
みたのは俗なことばかり
僕はこの世に失望した」
「なにをいうのです王子
あなたのやるべき仕事はこれから
俗世を変えていく
あなただけにある力なのです」
だから僕は思ったんだ
ブッダは間違っていたと

焦燥

あのとき君はなにを追いかけていたの
僕があとを追うと影法師さえ消え
気づくと難破船にのっていた
だれもいない船のなか
骸骨とねむり
ゆれつづける足もと
たいまつが尽きそうだ
あのとき君が追いかけていたのが幻で
きっと世紀の勘違いだったとて
僕の体は朽ちていく
だれもいないこの星で
おちてくる星辰が燃え尽きるまで
君に恋い焦がれ死んでいく
のがれえるすべさえなく

億万長者

僕は億万長者になるだろう
そしたら大勢の人を幸せにし
自分は一円も取らない
僕は億万長者になるべくしてなるだろう

めがねにもどした話

僕は姉が買ってもらった
ドラゴンクエスト4を子供のとき
学校から帰ったらすぐやってたら
めがねっこになった
授業で黒板の文字がぼやけだし
先生にさされてあわててめがねをかけたら
みんなに笑われた
高校でかっこつけてコンタクトレンズにしたら
知らない女子校生から告白され
その子の友達が一度だけどうしてもと頼むので
つきあってお祭りにいった
交差点を渡るとき最後に手をつないでみた
彼女から頻繁にメールされ困っていると
親友が別れた方がいいといったので
別れを切り出したら電話口で泣かれ更に困った
成人後めがねにもどした

京都からの夜行バス

むかし京都で一人旅から帰る夜行バスにのった
なぜか隣の席に若い女性がのってきた
それでいいのかわからないけどバスは出発し
隣でその女性は一晩中水を飲んでいた

理想の世界

だれかがいってた
こんな不条理な世界は生まれくるべきでないと
わたしがこたえた
あなたが生まれてくれた理想の世界だと

透視

僕以外君を愛せないことは決まってるのに
まだ気づかないふりをしているのか
たとえ大宇宙がすべて破壊されてしまっても
僕以外君の心を見透かす筈もないのに

君は月が一回りするあいだ
何度あのとき誓った愛を忘れたのか
だれもいなくなった世界であれば
君だけが月なのに

愛の誓い

あなたは私がだれにでも愛を誓うという
実際そうならとっくに僕はキリストだ

罪深い瞬間

罪深い瞬間
君はだれにも触れられない
罰を待ちうける
雨が音をたて路面をたたく
意味のない言葉が宙を舞い
僕にはだれもみえない
僕にはすべて同じだ
虚無を通り越した夜更け
藍色は深まり
かわりにとわをねがう
それも無意味だ
罪深い瞬間に
君が触れる
それもすぐに朝になる

君がいれば

僕がいてもいなくても
世界は何も変わらない
すべてがむなしく
わたしたちを洗い流す
夜深く僕は君の手をとり
この無限の星空につれだす
だけど君のいない街で
またたく星屑は無価値
ひとり物思いに沈み
君の手に握られた空隙
夜更け過ぎ僕はこのうたを届ける
たとえこの世が消えてしまっても
宇宙は何も変わらない
君がいれば

教育によい影響という考えは恣意にすぎない

高校生にフォローされると、学問的に間違えたこと言えなくなっちゃうな。適当に考えた仮説を鵜呑みにされると教育に悪影響ありそう。まあ学問的に正しいことなんて誰にも言えないが。究極は。
 自分なりに学問的に正しいこと言おうとすればいいだけか。
 教育によい影響ってなんだろう? 一体何をモデルにしているんだ。この考え自体が間違ってる。

芸術は求愛が起源

きのう、自分の歌声をはじめて自分で聴いて、自分が男性だとやっと気づいた。それで思い出したのだが、或る友人が自分に「女好きじゃないんですか?」と言ってきたことがあった(中立っぽくはあったけど、どちらかといえば批判的な文脈でもあった様な口調だった)。当時の僕はダビンチの忠告に従い人物画の為に美しい女性像とは何かを研究していたに過ぎないのだが、よく考えると動物として人が異性を好むのは極めて自然な話であり、その友人は18の時にもにょもにょを借りていた男なのに、そうでない自分が異性を好むのがおかしいとでもいいたかったのだろうか?
 で自分の声を聴いてみた所、普通に男らしい声だったので驚いた。自分はかなり長い間、自分の性を否定していたからだ。動物を超えた神の様な存在に近づこうとしていた。が世人は普通に自分の本能に従って異性と性関係をもっていると思うのだが、その友人は何が言いたかったのだろうか。
 異性を好むことが悪なのか善なのか、恐らく善悪どちらの場合もあるが、少なくとも美に近い様な気がする。我々の脳内で美を感じる部位(一説に内側眼窩前頭皮質)は、たぶん性本能と一致している様に思う。自分の意見では、美とは異性愛を感じる部位を他の事物にも延伸して用いるものである。
 鳥が歌うのは基本的に求愛の為だ。人の歌も起源は同じではないか。いいかえれば、人間が化粧したり、着飾ったり、身の回りを美化するのは、求愛を高度化した結果といえよう。芸術の起源には異性愛が深く関わっている。古くから短歌の殆どは求愛の歌だ。
 結局、あの友人は、美術の起源にある求愛を軽く否定したがっていた様に思う。今にして思うのは彼が間違っている。むしろより求愛の力を強くした結果、余りの技術力の高さに同性さえ畏怖の念や愛の深さから感動をおぼえる、という次元まで進むべきなのだ。
  わたしは結構大勢の画家志望の若者達をみたけど、絵描きをめざす様な男というのは先ず全員、暴力傾向が非常に低い。女みたいな男ばかりである。それは僕も例外ではなかった。女の様に、いやそれ以上に優しく、思いやり深く繊細なのだ。人に共感する能力が高い人達であり、戦争などする筈もない人達だ。動物でもそうだけど、求愛のため歌をうたったり着飾ったりする種というのは、直接の暴力は好まないのである。これがなぜ画学生とか画家が、女みたいに優しく、暴力を嫌うのかの訳であり、我々は全精力を自作の洗練に使っている。そこで勝負をしているので、直接の暴力は野蛮だと思っているのだ。音楽に涙したり、小説に感動したり、絵の前を離れず深くしげしげ感慨に耽ったりする男というのは、まず間違いなく反戦主義になるものだ。他の芸術家の作品に感激した暁には心から賞賛を惜しまない。そこに友情がある。自分は、絵描きのこの暴力を好まないという点は非常によいところだと思っている。
 同性さえ感動させる偉大な作品をつくりあげ、異性に求愛するという文明における競争が行われるかぎり、そこに暴力の介在する余地はない。日々、芸術家志望の若者がしているよう、一生懸命自分の作品づくりに打ち込むだけだ。求愛の結果、異性の愛を得たなら極めて自然で愛でたいことではないか? しばしば、画家なり芸術家は、精力的で一夫多妻生活していたピカソのイメージで好色漢みたいに語られるけど、これは画家に限らない話で、要するに健康度が高い人ならどの職業でも異性をひきつける。よって堅物でなければ恋愛・性愛関係が多くなるということだ。元々、芸術が求愛目的なら当然といえる。

様式の革新

過去の絵から代表作えらんでみて思ったけど、自作の様式的変遷を省みると、野獣派(最初の自画像)→写実→キュビズム→新造形主義→琳派→流用(アプロプリエーション)→半抽象→抽象(自称・理想画)という流れできたのがわかった。実際、様式の探求に大きな関心があるし、頻繁に更新する。
 専ら自分の今の様式は、抽象表現主義やアンフォルメルとの類似性を否定する必要があるんだが。幾ら理想を投影するという名義づけがしてあっても、外見がただの抽象画にみえてしまうんだよな。理想画、理想主義って確かに様式の定義としては抽象画を主題に対し象徴的に扱う、という意味しかない。そういう考えをもった人は居なかったろうから僕が創始ではあるんだろうけど。どうやったらこの様式をのりこえられるか最近ずっと考えているのだが。

売れない画家を餓死させるのは全人類の重い原罪

私は絵を描くことしかできないので私がそれで餓死したとしたら私の責任ではないと思って、全人類が重い原罪を背負って責任とってね。

2019年3月30日

老成

いつか、他人の偏見や差別をみても何一つ心を動かされなくなるだろう。そのとき自分は老成し、自分の中に寛大さの海をつくり、あらゆる考え方を泳がせながらしかし、どれが最もすぐれた徳かを知っているだろう。
 自分が偏見や差別をみて傷つくのは、人の卑しさに失望するからなのだ。
 ありとあらゆる人間を見てもう人の言動に心動かされなくなった老人は、たとえどれほど卑しい人間をみてもその人に希望も絶望も持たずただ木々をみるよう眺める。どこかから生えてきて、成長しつつある森の一部にある様に。

2019年3月29日

サイコパス

あなたは死にたいといっていた
だからわたしは同情していた
それからあなたは発情しはじめ
下衆にたわけてわたしをそしった
あなたのついていたうそばかりが残り
しかばねさえなくなったとて
わたしがそれに同情するというのか
あなたはこの世を馬鹿にし
その日暮らし
だからわたしは心配していた
だけどあなたはただの俗物だった
あなたがついていたうそのうち
自殺するという予定の日が過ぎても
あなたは良心のないサイコパス

人の長所を生かし短所をかばうべき

自分なりに全力で努力して駄目だったら仕方ない。自分なりに全力で社会に奉仕して一円も儲からなかったらそれ以上なにもできないんだから仕方ない。その結果、餓死したとしても、全力で努力した結果なんだから、世間をうらもうにもそれ以上なにもできなかったのである。無慈悲な国に生まれただけだ。重要なのは自分なりに全力を尽くしたと自分に何一つ疑いなしにいえるかであって、結果が億万長者だろうが餓死だろうが、それは他人が決めることだ。
 ドラクエだわ。俺とか、まじで金儲けスキルだけが突出してないからMP0みたいなもんだよ。それ以外の能力の内、自分の得意分野だけに特化した方がいいんだわ。ということでもう絵しか描かない。それで死んだらパーティ(日本)が悪いと思うな。俺の突出した能力を生かせばいいんだから、カバーしろよ。ドラッカーが言っていた通り、苦手分野の回復とか全く考えない方がいい。それは完全に捨てて長所だけを突出して伸ばすべきだ、個人というのは。やはり日本の教育や文化がおかしいんだ。全員に平凡な平均値をおしつけるというのは。それだから勝てないんだ、日本のサッカー。俺が自力で回復できないキャラと言うことはもはや明白なんだから、ドラクエでいえば戦士か舞闘家であって最初からMP0で回復呪文が使えない。=金儲けする能力が全くない。だって下衆の気持ちなんでわからないもん。下衆に向け何しても無視されるってことは俺の需要と全く違うんだよ。
 突出した長所1点だけで貢献し、他の能力はパーティがかばうしかないんだよ。全員が平均値だけのメンバーは効率も悪ければ、特殊な攻撃受けたら一網打尽になって勝てない。ブラジルみたいなサッカーすればいい。平均能力値とかいらない。最終戦の段階で平均値メンバー(長所がない)はまじでいらない。途中でも効率悪いからベンチでしょ。個性を完全に伸ばしきる事を前提に平均値も普通より高い、という状態までレベル上げするしかないのだ。設定でMP0のメンバーが呪文を覚える努力は全く意味がないので、完全に苦手ならそこは無視だ。金儲け能力って基本的に一般大衆が付与されてる平凡な能力だから、それが最初から0の初期値、全力で努力しまくってもひとかけらもあがらないってのは明らかに何か特別なキャラでしょ。絵かいてたらなぜか褒めてくる人がいる上に賞までもらうことがあるから、自分は絵に才能があるぽいので、もうそれ以外にステータス割り振るの基本的に今でやめる。
 皆も自分をドラクエのキャラだと思おう。そしたらクリアになるよ。初期設定値のデザインが全然違うのだ。特別なキャラで生まれてる場合。
 俺は絵だけに突出して画聖だか画狂として世界史の頂点とることにする。今までステータス振り分けてたから全然絵に集中してなかった。それは平均値あげる必要があるとかいう周りの圧力のせいだった。実際やってきたけどまじでほぼ無意味だった。戦士が魔法の勉強とか必要ないだろ。
 とりあえず世界の頂点をとってから、周りに比類がなくなったのを確認してから、平均値をあげる方にステータスを割り振ろう。それが王道だよ。
 私は今、ものすごく日本人の皆様の為になることをいいました。今世紀で一番重要な知見じゃないかと思う。
 金儲けスキルを完全に捨てるのは恐ろしいし、誰もやってないと思うが、自分は確かにそれを全く捨てて生きてきたので、この2年くらい無理やりあげようとしたけどMP0のままだった。苦手分野というのは誰にでもあるのであって、他人が得意ならそれでいいのだ。パーティ全体に貢献する長所を伸ばそう。戦士が攻撃力とHPだけを果てしなくあげまくればその時点で鉄壁になるわけだ。ステータスを無駄にすばやさ、MP(割り振っても伸びない)、かしこさ、とかにあててたんです、私。それは失敗でした。間違った知見でした。常識とかいらないんです。傑出した超個性の欠点を周りがカバーすることが必要です。凡人とは平均値ステータスを作ったやつで、天才とは超極端な長所を持つステータスをつくった人ですね。欠点があってもOKで、欠点部分の中である程度伸びる分野があればあとから平均値に近づけるところまでいけば十分でしょう。伸びなければ無視。これ本当に大事な見識です。教育で教えて欲しいですね。
 たとえば絵の分野の中でも、得意な分野とそうでないのがある。自分はハイアート側には才能があるけどロウブロウにはない(多分ない)。漫画でなく本画を描くという能力があればそこに特化してしまわなければならない。自分は特に前衛性にしか関心がないから、前衛絵画で世界史の頂点を極める。
 私は35年間、日本人達の同調圧力で死ぬほど苦しんできました。足を引っ張られまくる。妨害されまくる。予備校でも専門でもそうでした。独学にきりかえるまでは本当に苦労しかなかった。なぜなら日本の教育って平均値をつくる目的になってんですよ。傑出すると叩き潰されてしまう。駄目教育ですね。飛び級のできるアメリカならもっと伸び伸びと35年間やってこれて、すさまじい伸び幅になっていたと間違いなく思います。なぜかというと日本の学校教育は私の行った磐城高校という場所以外は、全て足を引っ張ってくる連中しかいなかったからです。磐高はなぜか完全放置してくれたから24時間絵が描けた。日本の国民性が足を引っ張るという陰険な部分が変わらないとしたら今後も衰退し続けるだけだし、場合によっては海外に出ても、とにかく足を引っ張ってくる連中を見たら即座にその衆愚を離れ、組織を出ないといけません。これが本当に大事です。その我慢時間は完全に人生を無駄にしてしまうので。足を引っ張ってくる奴=駄目人間、と断言していいでしょう。その人はステータス値が最初から伸びない人かなんかで、長所を持つ主人公級キャラに嫉妬してるだけなんです。そんなのがいるパーティに入ったら当然即死してしまって全然冒険が前に進まない。とにかく自分の長所を認めてくれる相手と組もう。世界中で偉人と呼ばれている人達。成功者。皆今私がいったとおり、長所を完全に伸ばしきって、人類に貢献した人達です。足を引っ張る日本人大衆は本当に罪悪が深すぎるから、一度、閻魔大王にみてもらったらいいと思う。この国を駄目にしているものの最終正体は、この同調圧力という雑魚の悪意ですよ。なんでもできる東大生にしよう、という意味不明な教育方針。これは完全に間違いです。なんでもなんてできるようにならない。だから東大の国際順位はものすごく下がってしまった。限られた経験値をどのステータスに特化して振るか。これだけ考えないとアメリカみたいなそれが当たり前の国に勝てない。
 欠点を笑うという最悪の風習が日本にはある。これは雑魚中の雑魚がやることで、欠点は絶対に誰にでもある。全く欠点がない人というのをつくりあげたとして、その人はただの日本で最も平凡な人物だから、パーティに入れられない。ボスの打撃で即死するし全体回復もできないし攻撃も中途半端。他人の欠点をみたら、それはパーティとしてかばうんですよ。自分の長所で。それがドラクエでしょ。なんで日本は他人をパーティだと思っていないのか。私の場合、回復呪文が多分生まれつき使えない。つまり金儲けが全くできない。がんばっても全く他人が何を需要しているか意味不明でわかりようがない。なぜかというと私の長所の裏面が、凡人の気持ちがわからない、というところだからだ。回復できないのに放置で死なせたら突出した長所も生かせない。
 私以外にもものすごい長所があるからそこに全力を使えれば明らかに全人類の進歩に貢献できる人が、この国にはわんさか眠っている。ところが、東大学閥の文科省官僚が平均値教育をしてしまい同調圧力を仕込まれるから、長所が伸びられなくなっている。しかも減点法で欠点にステータス割り振らせてる。文科省と同調圧力衆愚をガン無視し、ひたすら自分の長所だと確定しているステータスに、経験値を全振りする、というこのコツ。まさにこれですわ。攻略法。
 人生の攻略法みつけすぎた。
 日本人が幾ら陰険だといっても、他人の長所を認めて自分の長所とかけあわせ、相乗効果を生もうとする人間は必ずいるはずだ。その人達が集まった時、創造的な組織ができ、まさに革新がはじまる。
「好きなことで生きていく」とかいうユーチューブの文言。「長所を生かして世界に貢献する」といいかえれば完全に正しい。好きなことという曖昧模糊とした言い方だから楽してんじゃねーよとか誤解を生むのだ。人は長所によってしか世界に貢献できない。自分のステータスを見返すべきだ。
 他人の長所を認められない奴はゴミだな。
 他人の欠点をあざ笑うやつ(カバーしない)は、その時点でもうパーティに加えたら確実に負けるキャラなんだから、適当にやってても勝てる序盤戦以後は連れてたら害悪しかない。道理で雑魚がいじめやってるわけだ。引きこもりやニートをいじめてる馬鹿は、雑魚確定だな。内向性を生かしたプログラミングとか研究、金にならない創作活動に経験値わりふらせたら突出した偉人になる可能性がありまくるのに。外向性をもつ商人が苦手とする、誰とも話さず一人で延々とこつこつやる必要がある分野に特化すれば勝てる。金儲けのために創作や研究してると低俗な物か応用しか生まれないんだから、全く商売にならないからこそ重要だといえる純粋芸術や純粋理論という分野を馬鹿にしている時点で、やっぱり多数派を占める商人という凡愚の同調圧力が日本の足を引っ張ってることは確実だ。真の実力を潰してしまっている。
 傑出した商売人が幾ら金もうけても完全にそいつの自由だ、ということも認めなければならない。これに対してすら、商人の一部のくせに、労働者全般はねたんで足を引っ張りまくってるよね。最悪だな。
 人の長所を認めず、人の短所を嘲笑するとかいう悪風。これが日本の病根だね。この行動性向を持った人間をみたら無条件で徹底的に潰した方がいいんじゃないかな。正しくは、人の長所を最大限に生かして恩恵をこうむり、人の短所はみなが全力でカバーするのが当たり前なのだ。ドラクエやってみろといいたい。魔法使いを先頭において雑魚敵の軽い攻撃で即死させ、戦士に延々と魔法唱えるコマンド打ち込んでターン無駄にしてるのが日本の有様だ。

ゆとり世代の大部分は恋愛を軽薄かつ利己的な損得勘定で行っている説

心の傷が癒えないな。
 これは心の傷じゃなくて何か別のものらしい。その相手の男のツイートの気色悪さから、吐き気や悪寒がとまらないんだから。某作家志望者のツイートもものすごく気持ち悪いけど、それよりひどいものがある。眞子と小室氏の問題にも感じるものだ、それと同じ何か。他人の醜い性欲自体への嫌悪感なんだろうか?
 本来、他人が愛しあっている場合、それは賞賛したくなる類のものだと思うが、そうならないということはそこに何かがあるのだろう。直感的に。勿論、不純なものが。その不純さの正体が不明な上に、直感では気色悪さだけが果てしなくあるので吐き気がするのだろう。醜い恋愛というのが、ゆとり世代の一部の流行なんだろうか? 多分、損得勘定を純愛より優先している所が醜悪なんだろうな。
 段々わかってきた。彼らゆとり世代の一部の損得愛は、異性を寄生か自分の箔付けかどちらかの目的でしかみていないのだ。それは我々の知っている恋愛や純愛では全然ない。一方は明らかな遊び人を強奪し虚栄心を高めるか、金に寄生するつもりで、一方は遊び人を自慢し他の女を誘惑するのが目的なのだ。単なる自己利益の為にしか相手をみていないところが、みていて吐き気がする原因なのがわかった。
 第一に自己利益のため相手を利用する目的しかなく、第二にそこに性欲のあけすけな表現が加わっていて、しかも周りの下衆なゆとり同世代人に自慢する為にそうしているところが醜悪なのだ。このどちらも旧来みたことがない状態で、しかも大変に退廃したサルもどきの情痴なのだ。恋愛というより商売だ。ゆとり世代の一部の中では、男性が自分を飾る道具か、ただのATM的な寄生先、または女性が性欲を満たす使い捨ての道具化されている。しかもこのことを当人達は恥じる気配がなく、当然だと思って周りにもそうしなよ、とかいっている。ものすごく軽薄かつ心の通っていない単なる自慰道具扱いの様な物、或いはすさまじく愚かで同情の余地のない見栄の張り合いが、ゆとり的損得恋愛の実情の様だ。自分が観察していて余りの醜さに吐き気ばかりするのは、そういった姿を目撃し、失望と悪徳への嫌悪感を本能的に察知しているかららしい。相手が遊び人でありさえすれば、それを自分が奪ったということに、他の女に対する優越感を感じるので、ゆとり的女はこれが恋愛の基本目的だと考えている。しかも彼女らは貞徳をもたないので公然と卑猥なことをいってサルの様にその誘惑をしている。野蛮人そのものだ。
 眞子がどうして小室氏に発情したのだ? とみな疑問に思っているが、それはこの遊び人を奪う虚栄心に似た動機が大きな原因になっているかもしれない。他のゆとり人間を見ていて同様の事例が余りに多い。誠実さというものを全く重んじておらず、嘘ばかりつき、とにかく遊び人に発狂してたかるのだ。一方で、ゆとり男の世界観では、女は使い捨ての性欲処理係という扱いが当然視されている。セフレ(sex friendの略で、交尾友達)といい、とかく多数の女をはべらせようとし、誰か一人を愛することは絶対にない。単に性欲処理係として女を扱えば扱うほど、虚栄心が目的の別の女がたかってくるのでこうなるのだ。このゆとり的損得恋愛の2つの事実、「女に貞徳なく、男に純情なし」を聞いただけでいかにこの国が末期的な退廃に包まれているかがわかりそうなものだ。自分が眺めていて嘔吐感がとれないのも当然だ。石原慎太郎や村上春樹の小説や東京の軽薄なサブカルが悪風を扇動しまくった必然の因果なのだろう。
 単にゆとり女の一部(9割が婚前交渉を当然視するらしいから大部分?)に貞徳がないだけではなく、恋愛対象が遊び人に限定され、しかも他の女に対する優越感が動機になっているのは、性愛が見栄を張る道具になっているというわけだ。そこに純愛など全くないのだが当人達はそれが恋愛と思い込んでいる。ゆとり世代の男の殆どが、女を性欲処理係としてしか見ていないのは、AV(Adult Videoの略、交尾映像)が当然の様にネットで子供の頃から閲覧できた環境で育った必然的な成長結果なのだろう。東京が猥褻物取締りを怠ってきた結果、ゆとり男は先ず女を慰安婦や性奴隷としかみれなくなってしまったのだ。
 勿論、全員がその種の退廃しきった典型的ゆとりなのではない、筈だ。自分が見てきた限り、そこに一人の異性に共感し純情さを持つ男性はいなかったし、また男を見た目や女をはべらせている度合い、金、属性で値踏みせず一人の人間として尊重する当然の人間性を持つ女性はまずみたことがなかった。ゆとり女が30歳に近づくとそれ以上遊べないと判断し、男を寄生先としてみるようになるので、単に虚栄心目的に遊び人にたかるばかりかその遊び人の中でも金が確保できそうな相手に余計に媚を売り始める。その媚の売り方というのは娼婦より酷い類のもので、恥を感じないのである。貞徳がないから。全体としてこの様に、現実を文章化して目の当たりにするだけで吐き気がとれない。それほどゆとり的現実はすさまじくみにくいのである。私が人生で一番ショックを受けたといってもいいその種のゆとり的損得恋愛の現場をみて、これは人間と呼べるのかと疑問に思ったほどだ。サルより野蛮な哺乳類がいる。
 確かに今自分が分析したゆとり的典型像を示しているのは、主に都会、特に東京、関西、愛知、福岡などの人間達だ。しかし問題はこれら大都市を含む全地域がネットで結合されてしまい、しかも東京が退廃の極度にあるのにその悪徳めがけ全国の馬鹿が、なぜか憧れて飛んで火に入ってくる。救いがなくなる。
「まさかそんなことはないだろう」「現実の若者はもっと純粋だろう」と思うだろうが、眞子ですらああなのだ。後は推して知るべし。
 結局、ゆとり的損得恋愛劇場の中では、眞子が実に一番ましな部類なのである。佳子のせりふをみてもそのことに全然疑問をもっていないのがわかる。それほどゆとり教育というのは、他世代に比べその世代の人達の知能を劣化させてしまったということなのだろう。サルより醜い恋愛なんてみたことなかった。現実には、ゆとり的損得恋愛劇を演じられている方が、ゆとり全体では上澄み部分で、勿論その劇場自体が他世代からみると余りの軽薄さに酷く醜悪なのだが、もっと恐ろしいことには他の大部分は下賎なサブカルチャーやポルノで自慰するとか、下手すると同性愛マンガに耽っていて現実に生きていない。同性愛マンガに耽るとは何か? というと、女性が自慰に使っているのである、男性同士の性行為が描かれているマンガを。そういうものがあること自体、他世代は知らないかもしれないが、ゆとり的女はそういうのを同級生で当然かのごとく回し読みしているのである。
 これらの風紀の変化は後戻りせず、東京圏を中心に全国にばらまかれていくので、確かに田舎の方が変化はゆっくりしていて完全に東京化はしないかもしれないが、地方都市部を中心に、東京の悪風に憧れている世間知らずな子供達が全力でまねてしまうだろう。だからいずれ全国民が同じ状態に陥るはずだ。
 ゆとり世代の下の世代(主に10代以下)は自殺率が最高なので、ゆとり教育が終わったとはいえTikitokでソフトポルノじみた踊りを40代の男性に披露し受けを狙い喜んでいる場面をみると、決して過去の道徳状態にもどることはないのがわかる。逆にもっと軽薄になっていく筈だ。眞子はそこではましなのだ。

愛国は義務ではない

労働者らは私に向け差別や侮辱を繰り返し、ありとあらゆる迷惑をまきちらしながら、卑俗な暮らしを自慢していた。一体そんな人達がどういう末路になると思うのか。下層階級たる町人の末裔どもは、業を知るべきだろう。
 労働者の生活向上を図ろうという立憲民主党の考えは、現実をしらなすぎる。現実の労働者達は悪徳のきわみをさらに下回る、とんでもない人達だ。現実を見たら嘔吐してもおかしくないほど退廃している。自分はその様な人達が救われるべきだとは少しも思えない。自由民主党が資本家に都合がよく労働者を冷遇しているにもかかわらず、労働者全般から大層高く評価されているのはどうしてだと思うのか。それほど、労働者全般は無知無能無学で、一言でいえばただの馬鹿なのである。だから自民党にばかり投票し、なんの疑問も感じず奴隷生活を自慢しているのだ。自分から奴隷状態になりたがる様な正真正銘の愚民を優遇するとはなんなのか。再教育するというならまだ理解できる。この矛盾を、労働者自身も薄々わかっていて、だからこそ立憲の労組に与しないのである。自分達の救いのなさに気づいていたらどうしてフランスのよう反抗しないのか? おろかだからだ。
 自民党の正義は、労働者の悪徳ぶりを熟知し、冷遇により常に罰していることにあるのだ。労働者側は奴隷根性の卑人と自認しているから、安倍内閣が自分達をゴミ以下に扱うほど納得してしまう。第三者の目には奇怪な光景だが、それが現実にこの平成時代にあったことのすべてだ。端的にいえば労働者を冷遇すればするほど、奴隷根性に完全に染まりきった一般商人側全体から最高に賞賛される。それが日本国民という病的な奴隷達の実態なのは、戦後最長の安倍晋三内閣が証明している。被虐快楽の性向がある労働者らを優遇してはいけないのである。それをした民主党の末路をみよ。移民と競合するばかりか、最低賃金を法的に撤廃する方が、自民党狂信の労働者側は大歓喜する。なぜなら彼らは自分達が末端の非正規社員を集団虐待する方が楽しいと考えるほど卑しく、道徳にかけた下衆だからだ。自分達の生活状態が自分より貧しい人達と共にあがるより、下民を虐待する方を選ぶのだ。
 勿論、自然は非情なのでその種の悪徳に満ちた正社員らの子孫数は激減していく。誰であれ悪徳に満ちた人達と家庭を維持するなど不可能事だ。だが、それは自民党狂信の労働者達自身の自業自得ではないか。自ら考える能力を放棄し、差別人事に身を任せ、目先の金欲しさに衆愚に堕ちた者。そして絶滅する。ただ非正規雇用者と差別化されたちょっとばかりの金さえ手元にあれば子育てできると考え、奴隷同士の子を産んだとて、その子が生に喜びを感じるだろうか? わが国の10代の自殺率が急増している理由は必然ではないだろうか? 差別の為に生まれた子供が人生に希望をもてるなら、サイコパスだけだろう。インターネット上で悪業三昧してきた労働者達は、日々衰退していくこの国の姿で、因果応報の目にあっているだけだ。社畜の餌と呼ぶべき日本円は日々、アベノミクスの借金返済で目減りしていくが、当人達は額面だけをみて朝三暮四に大層満足している。円安を理解する能力は元々ない。インスタにあげる為に顕示的消費をするつもりでいて、ますます手元の円価自体が目減りしているのには気づかない。それがマーク・ザッカーバーグに踊らされる労働者達の全生態である。安倍晋三を神と崇め、皇族留学費と配偶者の借金返済のため神棚へ礼拝しつつ納税する。従順で愚かな虚栄に耽る愛国者。しこたま金をためた後はなにをするかとおもえば成金自慢の浪費か、不倫ごっこだけだ。もともとが下衆な町人の末裔達、平成商人階級の集まった東京で、狂った生活を全国に美化して届ければ届けるほど口減らしホイホイにかかる。『君の名は』に発情し満員電車におしいれられ痴漢する。自称上品な都会人。
 野党共闘で一体何をするつもりなのか? 労働者側は大満足しているというのに? 自民党狂信さえ続けていれば、この奴隷暮らしが永続できるから。社畜以外になどなれようはずもない無能どもだというのに、なぜ檻から出されたいだろう? 死までの間、安倍晋三に全権を管理されたいといっているのに。ダークトライアドの首相がダークトライアドの天皇から違憲な法律を頼まれ、全会一致で可決する。これほどとち狂った法治国家等この世にない。勿論、そのことを指摘するメディアは皆無だ。なぜならこの国の報道機関は全て、神道という殺人邪教の手先だからだ。宮内庁2階にあがってみるがいい。50年間何の進歩もないので、いっていることは昭和中期と何も違いがないゆとり世代の若者は老人の様に保守的で、何も変えたくないとか会社員が勝ち組といいながら転勤で地方に飛ばされ発狂する。東京の満員電車に鮨詰めされて何をしたいのか。当人にしかわからない。虚栄心に耽り鬱病になる為? 日本女は世界一貞操がなくなり、9割以上が婚前交渉を求めるあばずれになり、結果、遊び人にたかって全員が捨てられている。ナンパ師達は恋愛工学という名でそういう馬鹿女を交尾相手として騙す目的の商売をしているほどだ。動物未満の存在。子供が生まれないのは女が卑しすぎて遊び人にたかるだけで交尾を快楽の為にしかしないからである。それどころか恥知らずすぎてインターネット上で交尾の映像を自分から売り出し、大金を手にして女優ぶってさえいる。やくざと手を組み、東京都内から全国民を馬鹿にする。下衆未満の国柄。
 道徳的に退廃している、それはいうまでもなく、そもそも国家公務員自体が良心を感じないサイコパスの集まりで、トップは成蹊大卒のダークトライアド、さらにその上には違憲な邪教祖が世襲でどんどん控えている。国民に寄生し威張りちらし差別をばらまきながら水際作戦で生存権を奪い命を奪う奉仕者。島国を脱出した成金が贅沢三昧をツイートし、それを眺める衆愚が大歓喜する。なぜだろう? 彼らに一円の得もないのに? 労働者達は贅沢三昧に憧れ、社畜奴隷をなぜ脱却しないか。インフルエンサーに煽られ荒野行動で戦争ごっこをするだけ? 自力で商売などできない無能なので謎の偏差値自慢に耽る。自分では何も判断できないので世間の価値観にすりよろうとする。それで偏差値入試だの人気企業だのとにかく順位づけされているどうでもいい様な悪意に媚を売りまくる。高身長だかイケメンだかといい、そこらのカエルみたいな顔の男にたかる。理由は周りが発情していたからだという。なんという馬鹿か。
 なるほどどの時代も最悪だったのかもしれない。この時代が最善だ、最高幸福だといっている連中の頭の悪そうなこと。現実に満足したらそれ以上何も改善しないのだから永遠にミトコンドリアだか藍藻のままでいればいい様なものだ。原核生物以上の存在ではないのが自称保守の脳細胞という仮説。いやいや、やはりそうだろう。子供等絶滅すればよかったのである。仏陀様のいうとおり。この国を見てください。子供が生まれるのは卑しいことだ。なにせ社畜奴隷達の日ごろの行いをみてほしい。誰が同情できるというのだろう。インターネットを悪用し猥褻物収集、匿名で誹謗する子供だ。罪がないのか? 経費で落とすからと幼稚な発想、いやズルをして税金を払いもせず、子供にとって意味のない広告を15秒だか30秒流させて企業から金をせしめ自分は無駄遣いばかりする。何の教育なのか。馬鹿の教育か。悪党の教育か。節税名目の脱税YouTubeで貧しい子供に乱痴気騒ぎの浪費をみせつけて何が楽しいか。
 三流知識人が偉そうな肩書きをつけ、学歴に頼って馬鹿をいうテレビ・ネット番組。笑えさえしない。勿論何も学べない。ではなぜ流している? 馬鹿を馬鹿にする為なのか。何の諧謔。誰も笑わない我慢比べの退屈すぎる説教もどき。何しろ画面に映っているサイコは不道徳なことをいっているだけなのだ。
 仏教の理想郷が少子化の果てに滅亡した国なら、何を恐れることがあるというのか。退廃した人達が色狂いに耽って自滅していったとて、それがなんだというのか。もともと性欲のままに行動していた猿がふえて、それを祝う意味などない。馬鹿ほどふえやすいのだから、発情している猿を見て軽蔑もする。ただひたすら醜い衆愚をみせられ、一体愛国せよとはなんのことなのだろう。愛国と称している人達の愚かな差別を眺めさせられ、その人達に混じれというのか? 自分の中国移民の血統が生まれつき天皇だと称する邪教に洗脳されたのか? 衆愚の気持ちなど誰にもわからないのだから、愛国は義務ではない。

芸大美大は教え得ない美術で学生を搾取する装置

思い出したら腹立ってきた。本気で芸術家になる決意の元に受験した俺を落として、美術を腰掛にするつもりのバカどもを入学させていた芸大美大。本当に滅びて欲しいね。害悪以外なにものでもない。将来、土下座されても芸大美大には関わらない。潰す時ならいいけど。芸大美大潰す時でも俺の手間がかかるだけだから勝手に潰れてほしい。昔は芸術家志望者をふりおとし、美術を腰掛けにしたいだけの馬鹿を合格させまくっている、害悪でしかない芸大を潰す約束を同志をもつ学友としてたけど、そんな価値もないのが今になってわかる。馬鹿の集まりに時間を使うべきでない。
 子供は素直だから悪者がいたら倒そうと単純に思うけど、大人になると知恵がついていかに手を汚さず相手の面目を潰すか考えるし、もっと成長したら更に老獪な手も思いつくに違いない。
 ま、俺を敵にした東京圏の芸大美大は18歳の俺がどういう気持ちで落とされたかを全世界全人類全未来に、俺が証明するよ。芸大美大が100%間違っていることは間違いない。誰にせよ敵は完全に殲滅するか全面降伏し武装解除してくるまでは敵のままだから、いずれかの目的を遂げるまで生き延び、全知能を用い全世界を利用し全力で戦うべきだ。俺が世界史で最も重要な芸術家になり、未来永劫、全人類の中で最も傑出した聖なる画家として神と同等に扱わる事が確定してから、芸大美大は完全に害悪しかないからなくなった方がいい、今すぐなくさなければならない、と全世界の国々の世界史に俺がきっかり載せますよ。
 もっといい知恵がついたらそっちを採用するけどな。
 勝つ可能性以外まったくない俺を落とし、負ける可能性しかない馬鹿(しかも画家志望者でない)を合格させる。笑えてくる。俺は最後まで続ける以外の選択肢をとる人間じゃないのに。俺がやめるとしたら寿命で死ぬ時だけだが、それ以前に残した作品がある以上、負ける可能性がない。常に全力しか使ってねえしな。それを落とすってなに。
考えてみると既に勝利済みだから後は消化試合だった。それでも全員殲滅しきるところまでやるけどね。仕事師だから。勝利済みはいいすぎか。少なくとも自分を敵にした者と戦いをやめる可能性がない(最初から画家になるべく絵を描くつもりでいたのに自分の自由を妨害する者は天敵でしかない)し、最後まで仕事を続けるから確実に勝つ、それ以外は全くないということだ。死の瞬間まで完全試合しかしません。
 考えてみると18歳の時に俺が絵を描く自由を妨害してきた芸大美大って、何がしたかったのか全くわからない。自分より絵が描けない人達を合格させ、自分を落として何がしたかったのか。その上最初から画家として大成する以外の選択肢をとる可能性がひとかけらもない人物を。言い訳しても遅いと思うけど。普通に優等生の僕が絵を描くのって、誰からも制限されるいわれってないと思う。学業成績が悪かったためしがない。A判定だったし早慶すら。それを妨害し、絵を描く場を与えなかったって何なの? 何が目的? 20年くらい経つけどまだわからん。素直に普通にルール守って言われたとおりに立派な絵を描いて学科もしっかり正解だしてんだから通せよ? と今でも思うけど。何かの間違いでした、とかいってくるんだろうか?
 芸大美大の教授が俺より遥かに馬鹿だから、何か致命的な間違いを犯して、18歳の俺を落としてしまった、ということなんだろうけど、もう手遅れ過ぎて冷笑すらわかないね。たまたま思い出したけど。実際馬鹿の様な教授と講師しかいなかったしね。芸大美大美術予備校。二度と関わりたくない。
 そもそも他人に教えられる筈もない美術とかいう分野の大学なんて、単に履修時間の間絵を描かせて、教授ぶってる連中が偉そうに印象論をいうことしかできないのに、あんな大金を生徒の親から搾取してんだから、勿論行かない方がよかったし自分でそう判断していかなかったので、落とされて正解だったが。最終的に、私が天才だから落とされたという形式にして、持ち上げてくる以外の敵側の対応はとりようがないと思う。本当に馬鹿げてるよ。芸大美大受験で苦しんでいる数多の作家志望者達は搾取の構造に気づきなさい。腰掛連中がろくなこといわない教授側にカネ貢ぐ為に芸大美大はあるんだよ。
 やっぱり芸大美大の全体が愚者の楽園に過ぎないから、自分が賢明すぎてその風土にあわなかった、とみるのが自然の様だな。関わらないべくして関わらないよう神に指定されている。某作家志望者の商人化後の卑俗ぶりにげんなりしたのも似た様なもので、関わりえないほど頭のネゲントロピーが違うわけだ。そもそも教授や講師が美術史すら頭に入っていないのに、偉そうに馬鹿でも言える印象論を唱えて、一流大くらいには知恵回る子供の親を搾取しようとしても、それはムリな話だ。ただの搾取ですよねって見抜かれてるんだから馬鹿なのに偉そうにするつもりなだけのエセ教授講師に従うはずもない。
 確かにもう一度生まれなおしても、独学するんだろう。自分よりおろかな教授に、親の大金払ってまで意味のない4年を過ごすなんてありえない。

美大芸大卒女性の殆どは結婚に逃げ込み食えない芸術家道から自ら離脱する

女性が無能なんじゃなくて途中で自分からやめるんだよ。食えない芸術家してるより家庭に入った方が楽だから。男性アーティストは食えない場合、結婚してもらえないことが殆どだから自動的に継続になる(大成する確率は極小)。芸術家続ける以外道が塞がれるからだ。男性優位なんじゃなくて(画学生の顔ぶれみたら寧ろ全く逆だと思うし実際、女性の方が沢山いたし芸大合格もしていた)女が性を利用して、家庭に逃げ込んで、食えない仕事で死に追い詰められずに済んでいる、というだけなんだな。アーティストの世界という意味では。或る意味、恵まれているのだ。芸術活動を続けてない女性を招聘するわけにいかないし、食うに困りながら浮浪者やってるよりはましだからぎりぎりの生活で作品つくってる男性ばかりが国際展の候補に残ってしまうんだろうな。
 他の分野と違って芸術は実力社会。作品の集客力とか販売力でしか展覧会評価が成り立たないから(閑古鳥の男性作家の展覧会と、大人気の女性作家の展覧会なら後者の方が必然に選好される)、男女差別なんてあるはずもないよ。そんなことしてたら画商も国際展も美術館もすぐ潰れる。女性だからとひいきして下らない作品の展覧会開いてたら商業的にも興行的にも即死するんだから、単に専業で制作活動している現役作家のうち、最も実力のある人が残るだけの話だ。
 はっきりいうと、女は若い内なら性をちらつかせればどこぞのバカが寄ってきて結婚できてしまう、可能性が高い。が、男はそういうことは全くない。金もってないのがデフォのアーティスト活動を永続している男性は、普通にそれ以外の道が鎖されている場合が殆どだからグリット面で生き残る確率があがる。オキーフとかいわさきちひろの展覧会のが、そこらの芸大卒の男性作家より遥かに興行収入もあがるんだからジェンダーギャップとかないよ。素人はちゃんと実態を調べて欲しい。数字だけじゃ、食えないアーティストの道から離脱していく、芸大美大を花嫁修業ブランド代わりにしてる奴らの生態はわからんよ。
 芸大美大と美術予備校に戯けてる女らはわんさかいたけど、芸術家になりたくていた人なんてみたことがなかったよ。ほぼ例外なく美術が好きだから就職結婚までの腰掛にしてる人達だった。本気で芸術家になろう、それ以外はないと初めから決心してたのは俺だけだったよ。男性の間ですらそうなんだから。

皇族は日本政府に寄生する神官としてその性欲が国民から共感されるものでなければならない

アダム・スミスが『道徳感情論』でいうよう、或る人の性欲が嫌悪を感じさせるのはそれに共感的に入り込めない時である。下衆に公然と発情している高貴たることを我々が期待している人物を見ると、嘔吐感を覚えさえする。これはその人の末路が悲惨なのをみてとって、また当人の卑しさに失望するのだ。
 眞子が国民に愛されないのは彼女の選んだ配偶者候補があまりに世俗的で、神聖政治の神官階級としては論外すぎたからだ。この点で佳子も完全に事を見誤っており、皇族は外国の王族と違い、神道で神格化される教祖の家系でもある。彼女らの性欲は民間人と異なり国民が共感できるものでなければならない。

女が取るに足りない下衆男に発情してるのをみると血の気が引くほど興ざめすることを書いた文章

『枕草子』に男の性欲に興ざめするって書いてあったと思うけど、女が取るに足りない下衆男に発情してるのをみるとその5億倍くらい興ざめするな。二八段 人はなほ、暁の有様こそ、をかしうもあるべけれ。のところだった。この興ざめの52京倍くらいは興ざめするな、女が下衆男に発情してるのをみるのは。人生でここまで興ざめしたことがない。なんでここまで興ざめするかというと、自分が女の気持ちをある程度分かる方だからかもしれない。下衆男に媚売ってる女って明らかに人間として醜すぎるでしょ。なぜそんなことをするかといえばどうも金欲しさにしてる様だし(実際には元々その女が下衆だから世俗的で下衆な相手を選ぶだけ)、そこも酷すぎる。心が醜い女というのは救い様がないでござる。
 吐き気がして関連文章を全部読めなかった。
 人生で一番醜いものをみた。一生忘れるまい。
 昔、東京で関わった女性が「蛙の子は蛙」といった。今その諺の意味が完全に分かった。下衆は下衆だ。どんなに教育しても変わらない。
 女はよく内面を観察しないと中身が分からない。表向き嘘をついている場合がある。人生ではじめてこんなに醜い心の持ち主を見た。まさか某女作家以下がいたとは。危うく騙される所だった。人生で一番醜い心の女を見た。吐き気がとまらない。人生で初めて100%地獄に堕ちることが間違いない人物をみた。同情の余地が全くなく、慈悲をもつことができない。
 一二八段  男の心のうち。これかな。
 自分は生まれつき上品な人間らしく、下衆の心が世界一よく分からない。今回、下衆中の下衆の言行を実際に目撃し、女の中の下衆中の下衆というのがどういう生態なのかを理解できた。なにが自分の血の気を引いて青ざめて吐き気まで止まらなくさせているかといえば、こんな下衆中の下衆に、一週間くらいとはいえ慈悲をもっていたことだ。
 枕草子は定本によって記述が違うのか。はづかしきもの 色好む男の心の内。とかいてあるのもある。自分が記憶してたのはこれかもしれない。
 下衆の心魂の醜悪さって、吐き気が止まらなくなるほど酷いんだね。
 女は発情期に見苦しい馬脚を現すことが多いけど、その時の言動でその人の全資質までほぼ完全に把握できるね。自分がみた中ではこのひとより醜悪な心をもった女はみたことがない。何度も書くけど、余りの衝撃でずっと吐き気が止まらない。
 神様はなんであんな下衆中の下衆をこの世に生んだんだ。
 カントが言っていたことは真理だった様だ。幸福に値する人が善く生きた人なのだ。
 あの下衆女は悪業を無限に積み重ねてきたので、その醜悪な行状によって不幸になるべくして生きているのだろう。地獄に堕ちるべくして生まれてきた人間がいる。自分より遥かに愚かな女を、当然のごとく対等の人間として扱おうとしてたから、余りの相手の心魂の醜悪さに面食らってた様だ。最初から同等の人間と思わなければなんとも感じないのだった。実際、僕より遥かに愚かで、遥かに醜悪で、遥かに品性下劣、遥かに低俗。虚栄心の高さだけ自分以上だった。反面教師でしかない相手に侮辱されたところで、却って自分の名誉だと思えばよかったのか。
 美しい心の持ち主も、醜悪な心の持ち主もいるものだ。

賢女

私はある賢明な女性とつきあっていて、その人は私が危機的な目にあうとすぐ的確な忠告を一言でいってくれる。その点でその女性を私は非常に尊敬しているし、いつもありがたいと思っている。賢女は絶対に味方にしなければならない。その人は万能ではないが、人生の進路を選び取るという面でとても賢い。
 男性の賢者が大勢いるのはみな知っていることだが、女性にも当然いるのだ。自分より賢い面のある女性を見出そうとすれば容易に見つかる筈だ。その様な人物を選んでつきあえば、人は男女差別などするべくもない。男尊女卑は愚かな女性をわざと選んでつきあっている人の中にできあがる偏見である。

驕れる商人久しからず

或る意味、死んだ方がいい様な人間が商人や政治家として驕り散らしている平成時代に、彼らの子供がどんどん増えていたらそれはそれは最悪の未来が待っていたことだろう。神の意図という意味で、商人全盛の平成期に超少子化と国の衰退がはじまったのは必然だ。

成熟した国は人型でなく抽象概念に象徴されている

なぜ愛国者にとって日本の幸福度が高いと思うか、の理由をこの返信欄からみてとると、「隣国よりまし」「外国よりまし」と比較に根拠を求めているのと、「とにかく日本が大好き」「日本を嫌う人間は大嫌い」という信仰に根拠を求めているのがある。後者はただの確証バイアスだが、前者も先進国と途上国を比べていたり(例:水道が飲める)、価値観が違うと自己正当化したり(例:租税負担率を出して上位の北欧と比べる)するから公平な比較でない。
 結局、愛国心というのは確証バイアスの元に有利な証拠を集める脳の働きを指している様だ。もし右翼や差別的な考えと低IQに正相関がある、という研究結果が事実なら、偏見を強化しやすい脳の働きと愛国心の間には有意な相関がみいだせるかもしれない。自集団ひいきの妄想を共有しようとするのが、愛国者の考え方の基本ルールなら、その信仰的な側面に、皇室が寄生しているのは不思議ではない。
 福沢諭吉が、皇室は愛国心を具体的な形でしか理解できない愚民を洗脳する方便だといっていたが、確かに精神的に幼稚な子供は抽象概念を理解できず、物語や絵本でのたとえ話しかわからない。象徴という抽象概念を理念におきかえているのが成熟した国、具体的な名目君主の人型にしているのが未熟な国。

下衆の考えは再現できず学を修められるに過ぎない

下衆の考えは永久にわからないしわかる必要もない。
 自分は全知を目指していたので、海千山千と、貴賎いずれの人々についても完全に理解しようと努力していたが、少なくとも卑しい側の考えは永久に把握しきれないことがわかった。正解は少ないが誤解は千差万別で体系だっていないので学習できない。孔子が己の人を知らざるを憂う、と言う時の人とは、貴い人のことだ。ここでいう尊さは道徳性の意味で、世俗の身分の意味ではない。
 私は或る作家志望者が芸事そっちのけで発情している相手がどういう人物なのか見極める為、その男に質問してみた所、「俺のスペックの方が上だから発情したんだろ」と言った。この言葉の意味は、半年くらい経った今でも全く意味がわからない。恐らく機械か何かと人間を取り違えているのだろう。下衆の考えはこの様に、当人に特有のなんらかの誤解が積み重なったもので、外部の人には全くうかがい知れないものなのである。私は下衆が無数にこの様な偏見をもっているのを見たが、そのどれも、分析すればするほど意味不明なものだった。つまり、彼らはでたらめ、アトランダムに誤解をしているのだ。
 一方、なんらかの学が論理的に体系だっている場合、我々はその一々の経路について詳細まで問いつつ既習できる。ユークリッド『原論』が最も起源的な公理系の模範といわれているが、確かに幾何学の証明の様な体系性があれば、誰でもその知識を再習得できる。つまり、最も単純な数字や文字から、知識の最高段階としての道徳、わけても最高善に至るまで、我々が全世界の情報から学び取るべきものは、この種の体系的な知識である。特に再習得できる論理的構造をもっていればその再現性も確保できるので、学として後生が辿れる。
 芸術はしばしば非再現的なものだが、美術史は論理的体系性をもっている。したがって歴史化された重要な芸術は、必然の論理的進歩の元にある。我々が学習できるのはこの文脈と呼ばれる秩序だ。再現的に芸事自体を倣うより、文脈について熟知するのが芸術を学として修める手段である。

2019年3月28日

作家志望者応援トラウマ

私は昨日と今日で或る人のツイッターを全部読み直して、それからずっと吐き気が止まらない。なぜなのか。これから自分で分析する。(誰も興味ないと思うが)
 私は或る人が芸術家になりたい、といっているので応援しようとしていた。当然、私はアートファンだからどんな作品でも面白ければ全部好むので、その人の作品も見てみたいと思った。これが第一の自分の動機だ。或る作家志望者を純粋に、素直に応援したいという親心というか戦友心というか。それ以後、その人物を見守り、励まし、応援し、時に忠告し、頼みごとを手伝い、助言し、問題が起きたら助けに行き、尊重し、相手の人生の諸課題に自分にできるだけのことは試みようとしたし、実際にしてきていた。勿論これらは自分の勝手なので、相手が迷惑だと思うならしていない。中庸さの範囲でだ。
 しかし、その人物は商人になるや次第に変化していき、やがて元々もっていた通俗的な性格を強めていって、最後には私に名誉毀損をするまでになった。ここまでは作家志望者が挫折する過程としてよくあることかもしれない。実は私の身近にこういうのがいて、反省させるべく説教してやったこともある。
 才能のない作家志望者は目先の金だか世間体だかのため一般労働者になり、やがて芸術家の道を辿っている嘗ての同志を合理化のため侮辱しはじめたりするのがいる。美大卒の同級生とかいる人で、ろくでもないのがいたら、少しわかるのではないか。或いは当人がそうかもしれない。挫折の正当化は見苦しい。目先の金だか世間体だか、通俗的な家庭だか普通の人生だか、そういう商人社会の通念を芸術界にも無理やりあてはめて、カネにならない作品を必死に作ってるなんて無職と一緒だからギャハハとか、あんなの犯罪者の前座じゃんとか言い出す。昔は険しい山道を目前に登頂するぜ、私が神よといっていたのに。
 別に自分は挫折した人を蔑んでいない。あ、そうですか、というだけだ。なぜなら自分は他人の為に山登りしてんじゃなく、自分が頂点の景色をみたいのだ。他人など気にしている場合ではない。もっとカネ貯めるだか精神を鍛えてから登りなおせば他人が天辺とることもあるし、それもうらまない。自由だ。それどころか、芸術に限っては成果が作品以外によっては全くはかれないから、ゴミみたいな作品を量産して商業的には大成功したはいいが死の瞬間忘れられ一生を無駄にすることもあれば、誰からも精神病者と思われていたのに今は美術館の一等席に鎮座している後世のいう巨匠の作品がたくさんあるわけだ。結局、芸術界が高尚だ、と思われているのなら根源的には、ゴッホとか宮沢賢治みたいな、生前に利益を得ず死後の全人類の為に素晴らしい作品を残していた巨匠と呼ばれる人々がいたからかもしれないほどだ。ゴッホは偽者だ、発狂で過剰評価みたいに村上隆も言っていたけど、それはまあ置いておく。(この点は議論の余地があるので後で詳しく分析し直す。確かに作家の生き方を作品に還元評価する、というのは、作品自体を評価する、という芸術至上主義的な考えからみると邪道だろう。私もゴッホの全作品がそんなに素晴らしいとは思ってない。『夜のカフェテラス』とか少数の作品しかいいと思わない)
 要するに、同時代に理解されない、しかし飛躍的進歩という意味で筋が通ってはいるから後世の目にはその時代に生み出された全精神の中でも最高級の達成だった、と思われる例が歴史上に一杯あったのだ。それが高尚な分野なんですね? といわれる可能性が残っている唯一の根拠ではないか。前衛性。ここからいうと、挫折した人、最初は高尚な芸術を志していたのに途中で俗世に拘泥し、その理解されなさとかカネにならなさとか世間からの迫害とか、色々な不条理諸共俺が進歩の先端だぜ、といえる勇気も胆力もないわけだ。うん。そうだと思う。要するに勇気が足りないのに、死を恐れ世俗化してしまう。芸術的勇気、という意味でいえば、自分は世界一を取る自信があったからこの道を歩んできた。この自信がただの無謀な若者の誇大妄想だったわけではないのはきっと後世がわかってくれると信じ、全力で最先端の先を一人で嵐や猛吹雪や泥沼や毒草の林の中でさまよい、とにかく今日も前に進もうとしている。もう後ろを振り返っても誰もいないから、世俗に拘泥するとかいう感覚自体が全くないのだが、その大都会というかソドムみたいな場所にいつまでも戯け、やれ私は3Kイケメンとオフ会だの温泉旅行で交尾予定だのシングルマザーなるとかいわれても、「作家志望って嘘だったの?」となるに決まっている。
 それで私は物凄く傷ついて、ああ私がこれまで懇切丁寧にこの遥かな大地を自由に渉猟しようと言っていたあの同志というのは全くの勘違いで、自分が俗物の本性を見抜けなかったバカだったのだな、と気づきはしたが、それでも体の方がいうことを聞かずずっと吐き気が止まらないわけだ。裏切られただけで。
 私は高校の時から村上春樹の小説は全部読んだ中で(文体は読みやすいかもしれないが内容殆どが下品だから勧めないが)、『スプートニクの恋人』という作品が一番好きだった。2chで色々あって、春樹は僕にはいわくつきだから今も吐き気せず読めるかはわからないけど。なぜなら、そこにはプラトニックラブが描かれていたからだ。春樹小説は全体として下衆だが、そしてこの作品もその低俗な下品さは変わらないのだが、唯一、ヒロインのレズビアンの女性(名前忘れた)がずっと処女で主人公とも安直に交尾しないところが違っている。それは貞操の為ではないのだが。ドリー『村上春樹いじり』はこれまで出た批評の中は唯一、春樹小説のチャラ男性、エセ都会人ぶり、軽薄さを叩き潰そうという試みが行われた記念碑的なものだと思うけど、この『スプートニクの恋人』も主人公の下賎な遊び人ぶりは健在で、ただヒロインをプラトニックに扱う点だけが「まだまし」なのだ。で、何がいいたいかというと、この小説のヒロインも作家志望だが小説が書けない。で主人公はその子が好きだが、ヒロインは失踪する。この間、別の女と不倫する下衆だが不倫がばれ自滅する。でその沈鬱の中で本当はヒロインを好きなのを思い出す。まどろみの中ヒロインから電話がかかってきて月を見る。主人公は自分と同じ様にこの作家志望者の大学の同期だかを励まそうとしている。で相手はレズなので性関係にならない。精神的な交流で終わっている。今流行のLGBT絡みの恋愛話なわけだ。自分は貞操を重んじるという嘗ての美徳と偶然、レズへの主人公の片思いが一致してるのが面白いと思ったわけだ。
 私がこの作家志望者に対して単なる純粋な芸術への励まし以外に、幾らかの好意をもっていたからこそ、これほど傷つくのかもしれない、と自分は今いいたいのだろうか。多分違う。その人が素晴らしい作品を書ければ自分などどうでもいいのだから。芸術作品は個々人を超えたものだ。そのことがいいたい。総じて、自分が大きく間違えていたのは、この作家志望者の資質を見抜けなかったことにある。当人の表面上の言葉と、その人物のサイコパシーを混同し、単に嘘をついている特別ぶりたい俗物なだけ、という本性を最初から洞察しきれなかった。それで数年間も気苦労を重ねた。きのう、完璧に把握できた。
 事は、偽名サイトで相手が素性を明かしていない上であったことだから、恐らく私がどう思ってその人物をみていたか、相手は全く知らないというか気にも留めていないと思う。私に後ろ足で砂をかけ全てを忘れると思うが、私は物凄く傷ついたので作家志望者応援トラウマになった。
 すみれだった。ヒロインの名前。

幸福に値する人

幸福に値する人が善く生きた人だ。

超高層ビルは住宅とは言い難い

超高層ビルに住んでる人達って魚類みたい。超高層ビルの卒業設計やったけど、大人になるとなぜ講師がアルヴァ・アールトを褒めてたかが分かった。

知性の存在意義

知性に存在意義があると証明した者はいない。

イギリスと関西のユーモアは全然違う

イギリス人もユーモアを好む人が多いみたいだが、自分が会話した範囲ではブラックユーモアとかが多く、大阪や関西の人のいきなり侮辱的なこといってくる吉本興業文化と違うな。吉本芸人はただの下品を面白いと思ってるし、庶民の喜劇だからだろうな。イギリスのユーモアは紳士階級の文化なんだろうな。

自分の絵について

後から見返すと(特に自分のめがねを度が高いのに代えると)自分の絵にびっくりする時はあるんだけど、描きたい絵がかけない。なんかかけそうではあるんだが。

他人の金儲けにたかる人の気持ちがわからない

他人が金儲けてるかなんてそいつ以外にとって基本完全にどうでもいいことなんだから、そんな情報をネットにばらまくやつらにたかる一般大衆って一体なに考えて生きてんだ?
俺には日本人の一般大衆の考えることが世界一わからないわ。子供の頃はドラクエとかドラゴンボールとかに共感できてたからかなり分かったような気がするけど、大人になったら完全にわからなくなった。ヒカキンもすぐ飽きたしアニメ見てもなにこれ幼稚すぎて馬鹿みたいとしか思わないし。
 わたしの恋人が「普通の人(一般大衆)は何も考えてない」といってたけど、それが本当ならなんでそんなことができるんだろう? 一日中何も考えずに生きてて楽しいのか。

腐った自民党を支持する旧日本人に生存価値があるのか

「繁殖率が低くなった旧日本人にかわって移民達が新たな国を作る道筋を作ったんだからもっと評価してくれよ」
「どうせ社蓄になりたかったんだろ? 奴隷をふやすなら、もっと安価でよく働く連中の方がいいに決まってる。どうせ自分の頭で考えられない馬鹿ばかりなんだから、自民党を支持するなんて」
日本人でまともな人なんて一人も見たことないし、絶滅したところで何の痛痒も感じない。動物みたいな連中なんてどんどん淘汰していいと思う。なんで旧日本人に同情するのかがわからない。繁殖率が高い人達は猿みたいなもんだし、低くてもろくなのがいないし、結局人類の生存価値があるとは思えない。
 自分が人生の中で見た一番まともな人は或る黒人女性で、アメーバピグの政治広場という所に来て、「朝鮮語を学んでるの。将来、北朝鮮を助けたいから(英語で)」といっていた。本当に驚いた。その女性はブログに顔写真を載せていて、その場にいたダルマという群馬の引きこもりの男に「君はなぜそんなに醜いんだ!(英語で)」といわれていて本当に可哀想だった。日本人ってそんな人間ばかりなんだから本当に死滅しても同情心がわかない。
 新宿駅の京王線を待つ地下のホームで、隣に立って電車を待っていた一人の黒人女性が日本語の単語帖を開いて待ち時間に勉強していた。ほかの日本人達はぼーっと突っ立ってる人達ばかりだった。なぜあの黒人女性が日本に来て日本語を学んでいたのか知らないが、こんな国に何を学ぶというのだろう。恐らく沢山の酷い経験をして故郷に帰るのではないだろうか。その故郷とやらも白人達に散々収奪された歴史だから、同情すべき人類がいるとしたら善良な黒人だと思う。
 先住日本人も似た様な目にあってきたから、黒人の気持ちは部分的には想像できる。弥生人侵略者の蛮行ばかり日本史に記録されているこの国で、混血した自称日本人らが差別を振りまいて永続したい、なんて意味不明。あなたは先住日本人達の主権を2000年近く奪いましたよね? 人の国で何をしているの?
 今日この瞬間、全人類が絶滅しても全くどうでもいいことだ。なぜ生きながらえたいのか。これまで人類が善行をつみかさねてきたとでも思っているのか? 毎日、人類の様子を観察していてそれと正反対の現象が余りに多すぎ、同情などできよう筈もない。愚か過ぎるのだ人類は。現実の文明は徐々に犯罪率が低下しましになっている、という統計的事実があるとして、自分のしるかぎりそんな日本人がインターネット上の匿名偽名で行ってきた悪業の山は、一体神がみていなかったとでもいうのだろうか? 犯罪の種類が変わっているだけではないのか。逮捕されない範囲で大蛮行の愚民。
「イケメン」とかいう渋谷あたりの馬鹿の俗語を使った場面を1度でも見たことがある女は、その時点で人間にみえない。脳のできは猿と同等の部類ではないだろうか。人権があったとしても下品なだけの二足歩行の哺乳類がひととして尊重されるはずもない。
 同情に値する人類とそうでないのがいる。
 きのう日本のビルゲイツと書いたけど、やっぱり金儲けのため下らない連中に奉仕する仕事はしたくないな。そんな連中は滅びた方がいい。この世は高貴で立派な人達がますます高尚で上品な世界を演じる為にあるべきだ。成金が下品ならその人達に生存価値は全くない。

知性の最重要な要素

知性の最重要な要素は、自身のあらゆる信念を否定できる能力の度合いにある。一瞬で別人になる程、よりよい考え方を見つけたら豹変できるのが知性の証だ(君子豹変、小人革面の意味で)。信念が不動な人でかしこいのはみたことがない。そしてその信念は先ず全ての場合にただの偏見だ。

海について

子供の頃から海の近くに住んでるから、潮の香りがすると元気が出る。故郷の駅に夜おりると、微かに潮の香りがする。夜、窓を開けるとたまに遠くで海鳴りがする。
 海は全ての生命を産み出した。全生物の母体だ。
 津波を恐れ海に飲まれて死んだのを発狂している人は何を恐れているのか分からない。海は人間を超えたもので、母が全生物を羽含んだのと同じく、我々の生殺与奪の権利をもっている。土に還るより海に飲まれて死んだ方が本来の自然の姿に近いと思う。そうなりたいとは言っていないが。海で泳いだり、遊んだことがあれば、海が人間より遥かに大きな力をもっていると体験しているはずだ。
 自分が見た限り、津波で人が死んだことをあげるだけで発狂していたのは殆どが東京の人だった。都市で生まれ育つと自然が理解できなくなるのだろう。海は自然の一つの象徴だから、人間より遥かに寛大でひたすら甘えることもできれば、時に猛威をふるって陸上生物を飲み込み散りぢりに分解してしまう。
 女性の月経が月が地球を一回りする周期になっているのは、月の引力(と公転自転する地球の遠心力の合力)で起きる潮の満ち干と何か関係があるかもしれない。母なる海に適応していた先祖は干満に合わせ行動していたはずだから、陸にあがってからもその当時の周期が人の胎内細胞に残されたのだろうか?

女性全員が無能なのではなく日本女一般が楽して遊ぶため男に寄生したがるだけ

俺が女として生まれてても恐らく絶対に自分の美術の道を諦めなかったろうから、女が無能というのは嘘だね。妹島氏を身近にみて偉人級なら当然、女性の方が優秀な場合があると分かったし。世の中の女一般が出世を拒むのは、途中で女を種に男に媚売って生きたら楽だと思って安易に結婚するからだよ。
 結婚後も仕事を続ける人もいるのだろうけど、楽する為に主婦になり適当に子育てさぼってネットゲーム上で不倫ごっこや不倫自体、集団いじめして遊んでるのをアメーバピグでわんさか見た。専業主婦がいかに邪悪な人達が多いか、みな知らないし自分も知らなかった。無教養な女が暇だと先ず不貞を始める。

人のいないそらに浮かんでいる夜の雲が
わたしをのせて無限の宇宙を旅し
やがては退屈なこの世をすぎさり
静かにただ静かに生きているつもりだったのに
これほど得体の知れない混沌の中
誰もいないまちにたたずむバス停の看板
夜行バスがあなたをのせて一人まちぼうけ
いつかは退屈なこの世で会いたい
わかってる
もしあなたがいなければ意味がない
もしあなたが死んでしまっても
時は元どおりにならず
もしあなたが生まれ変わっても
静かにただ静かに死んでいくつもりだったのに

かぐや姫のツイート

宇宙に帰りたい
もうこの世に用はない
人などいない世界へもどり
二度と地球にこないから

2019年3月27日

皇室民間化で大統領制の共和政府を樹立するのが本来の日本の伝統

政教分離できていないこと、政治と宗教を混同していることを、一部の日本人が誇るのはどうしてなのだろう? 中世的な考え方をそのまま持ち続けるのが、近代以後の文明に参加するより優れてると思い込めるのは本当に不思議だ。ここの返信欄の人達(日本の統治形式が、古代から一様に続く天皇統治であるかの様に各国と比較してある、歴史学的に間違った世界史年表、すなわち縄文・弥生時代以前の共和政、古墳王権、摂関政治、戦国大名統治、将軍統治、戦後民主主義などを万世一系論で改竄してある年表に対して、「日本を誇りに思う」「天皇弥栄」等と述べている)の脳は、ほぼ徳川光圀公(以下義公)と同じ考えへ彼の『大日本史』執筆開始から374年後に到達し、今になって水戸学の基本理念の改竄版(義公の万代一系論でなく薩長によって改竄された万世一系論)を思いっきり礼賛することになってるのだが、知識人は一般大衆から最低でも400年は先を行くんだね。
 義公のほぼ同時代人だったジョン・ロックは『統治二論』で政教分離の起源の一つといえる王権神授説の否定をしてるが、義公の万代一系論(女帝がいた歴史から男系血統でなく代に一系の王朝の根拠を認める考え)は逆に政教一致の象徴天皇が永続することを易姓革命のなかった日本国政の独自形式と考えた。政教分離が行われた英米で王と教皇の権威は分けられ、結果、日本の政教一致による天皇制ファシズムに陥り様がなかった。戦後、GHQは日本人統治の便宜に政教分離原則を象徴天皇制と同居させた憲法を許可したが、国民側は神道教祖が象徴な矛盾を指摘し、皇室を民間人化するだけの知恵がなかった。
 さしずめ徳川慶喜公が大政奉還しなかったら日本国王として現存し、皇室は教皇として、将軍は王として西洋風の象徴君主国になっていたかもしれない。薩長の政権簒奪の悪意が見抜かれ、欧米列強が日本の植民地化のため傀儡戦争を企んでいた幕末の緊迫した状況下で、自己犠牲による将軍職返上を選んだ慶喜公の判断が日帝の天皇大権、戦後の象徴天皇制確立に繋がっている。慶喜公が父・徳川斉昭公(烈公)による庭訓や水戸弘道館での尊王教育を否定し、皇軍と戦っていたら東西の主要都市が壊滅し、主要な藩が弱った所で日本全土は欧米列強の分割植民地になっていたろう。
 昭和・平成日本がこれまで通り象徴君主国の体面と政教一致の宗教支配を兼ねている、という義公の枠組みは、右翼や一般日本国民の中で全く否定されていない。自分は常陸国水戸藩(現茨城県)の一末裔として旧水戸学をのりこえるべく皇室民間化で政教分離した共和政府を樹立すべき、と考えたが、いつ実現されるだろう?
 鳩山由紀夫氏は新共和主義研究会という集会に参加している様だが、参加者の小林正弥氏は形式的王権の一種としてイギリス王室と日本の皇室を同値に扱い、皇室民間化を含む共和政府を目指しているのでないことが分かる。つまり公共善を政党に優越しよう、というに過ぎない。
 真の共和政(善き多数政治)は構成員が全員等しい政治参加権をもつ、象徴王権・象徴天皇制と分離されたものでなければならない。世界の名目君主国は真に共和政の国とはいえない。また三権分立の点から国民選挙による大統領制をとり、行政府と立法府を分離しなければならない。弥生時代に天皇が(恐らく中国から)渡来してくる以前、或いは古墳時代に各地に王権があったとしても、日本は12万年の殆どの間、共和政をとっていたと考えられるのだから、単独支配(天皇・将軍統治)や少数支配(摂関・大名統治)は寧ろ全体の例外的な時期に該当した、と考えるべきだろう。

廃仏毀釈の仏像破壊は合憲かつ仏教原理的なので美術品保護の面でしか否定できない

日本仏教自体が偶像崇拝という初期仏教にない異端なのだから、開祖ガウタマ・シッダールタ(仏陀)の無我の思想からみたら仏像を崇めたりありがたがるのは蛮行となる。神仏習合の否定、神道と仏教の分離という明治政府の国家神道的な目的とは異なる点で、仏像破壊運動は仏教の本質に照らせば正しいよ。
 思うに、仏像が仏教寺院の持ち物である、という意味で、明治政府天皇権力が個人・宗教法人の持ち物を破壊したのが、今日の目からみて私有財産を否定しているという意味で権利上の問題になるのであって、仏教本来の哲理からすると仏像を捨てるなり壊して偶像崇拝を否定するのは原理主義的に正しい。また明治憲法時点で天皇が全権をもっていて、臣民(当時の国民)はその権力が許す範囲内でしか私有財産を認められていなかったとすると、戦後の日本国憲法が国民主権なので当時の政府の廃仏毀釈運動を否定できるにすぎず、遡及処罰の禁止という意味で、法的には当時の仏像破壊を全否定し難いな。その上、日本仏教が他国で派生した一部の部派仏教の末裔同様、偶像崇拝という異端・邪教的要素を持っているという意味で、無我の本質に背く仏像礼拝を行っているのだから、偶然とはいえ倫理的に仏像破壊が間違っているとは言い難い。結局、岡倉天心が述べる様な美術的観点だけが仏像を擁護できる点だ。
 この記事(現代ビジネス「天皇も「一生の心残り」と悔やんだ、明治政府のある蛮行の記録」2017/11/5、ページ1。次の該当部分はページ3)の真鍋厚氏は「多神教的な日本の風土」というけど、文化風土は様々な思想の混成で常に変化してきたのであり、天皇渡来以前の日本は12万年間ほど自然崇拝だったろう。つまり日本の多神教はもともと中国・朝鮮から飛鳥時代頃に輸入され、天皇によって国民の一部におしつけられたものである。それどころか土着の自然崇拝を否定し、あるいは多神教の物語で部分的にとりこむ新興宗教である神道が天皇によって作られたのは、仏教を中国から輸入した奈良時代のことに過ぎず、もともと仏陀を便宜的な教祖とする仏教の国家支配を恐れた天皇が自身の権威を確立する目的で創始したのである。今日、一神教的な風土だったとされているイスラム教圏も中世以前には別の思想や宗教が支配していた。西洋圏もキリスト教登場以前から今に至るまでヘレニズム(ギリシア思想)やケルトや北欧など民族神話を含む多神教が続いている場合もある。いいかえれば日本の信仰風土も常に変化し得るのである。

法で管理される社蓄は無法な皇室の家畜扱いされている

(日本ではペットショップで売られる愛玩動物だけでなく)日本国民なり労働者も法で管理され、法の制限を受けない皇室から大量繁殖・大量処分前提の動物扱いされてるな。繁殖率下がって使えなくなったから移民で賄おうと安倍内閣がしてるけど、その奥で国民を家畜化してるのは飛鳥時代以来、ずっと天皇だからね。
 なぜ日本国民の繁殖率が下がったかといえば、非正規雇用法を小泉内閣が通し労働者の半数ほどの生活状況が悪化したからでしょう。竹中平蔵氏が人材派遣会社のパソナグループを興し、政商としてこの裏で手を引いていたのは皆が知っていることだ。自民党員が皇室の藩屏として移民労働者を新社畜にすると。

なぜオタクは性表現に固執するか?

オタクの人達って皆が性依存症なんだろうか? 生存条件が致死的だから生殖行為の模倣に執着しているのだろうか? なぜオタク、特に同人誌系マンガや同人ゲーム、同人アニメの人達は幼いか若い女性の痴態ばかりを再現しようとするんだろう?
 江戸時代の江戸の町人も、平成時代の東京のアキバ系オタクとほぼ似た様に、戯作や春画といった商業作品で卑猥な性的表現を行っていた。単に東京都民の大部分を構成する労働者らの趣味が酷く低俗だから、性売買文化と混成し性の直接表現が好まれるんだろうか?
 京都アニメーションという会社があったり、京都造形大の副学長が秋元康氏だったり、京都も東京のオタク文化に倣って低俗な商業美術・応用芸術に奔ってるから関西地方も東京地方と基本傾向は変わらないのではないか。それ以外の国内大都市はどうか知らないが。

学歴差別を生み出す社会の構造

長い学習歴が必要な好みを発達させている生物(凡そK戦略(Kapazitätsgrenze strategy、環境収容力戦略)をとる)は、明らかに生まれつきの能力を選好する生物より生育条件が不利だから数が少ない。実際、後天的学習歴自体が長期にわたるほど晩婚化し、新生児の健康を損ねている。後天的学習歴を嫌悪するという価値観、いわゆるがり勉の嫌悪は世襲貴族や低学歴(日本で俗にヤンキーともいわれる)の世界に存在するが、この意味で彼らの価値観は世の学歴主義者と対極にある。
 他方、商人や官僚の世界では促成栽培的に受験競争を勝ち抜いた現役合格の印が人事考査の信号化(signaling)として機能するのを利用しよう、という学習歴の世俗的援用が行われている。本来の学問が真理探究の活動とすると、これらの通俗的学習歴はK戦略的信号の短縮なのではないか。世襲貴族や低学歴の世界では、わざわざ生殖活動や享楽的遊びを捨てた非本能的という面で不自然な勉学を長期継続する意味がない。世襲貴族は相続財産や血統によって良い配偶者が確約されているし、低学歴の世界で能力の信号化は生得的な才能に向けられているからだ。
 ではなぜわざわざ一見不条理な学習歴を信号化の目的で使う者がいるのだろうか。第一に生得的能力の低い者が、後天的な模倣によって優秀さを偽装する為だ。こちらが前述の通俗的学習歴を信号にしている、学歴主義者の実態である。第二に真理探究を志す本来の学者だが、こちらは生得知能の誇示であろう。我々人類が知識という要素を巡って持つ大まかに2種類の人達は、偽者と本物に分かれる。偽者はマイケル・スペンスの意味で促成栽培的な学歴を披瀝し、本物の高知能者に偽装した人々。商人や官僚はその職業の実践的側面をみても真理探究の徒とは言い難くこの部類である。本物は純粋理論に生きる学者だ。
 ところで低学歴の世界で生得的才能として選好されている諸能力は、学者の純粋理論と質が違う。が知能の多岐性を鑑みると非理論的能力も高知能の一種である。学歴主義者(商人・官僚の部分を典型とする)は相対的に生得無能な偽装者なので低学歴者に能力面でしばしば劣る。これが典型的な学歴・学習歴と実務能力に厳密な相関がない理由である。労働者として必要十分な能力が典型的学習歴で補える物なら、促成栽培的学歴を得る学習歴上の苦労のなさ(ここでは学歴ロンダリング(laundering)を除く。ここで学歴ロンダリングとは世間的な地位の高いとされる学位・学歴を典型的経路を経ず得ることを指す。英語圏のdiploma millやdegree millは定義次第で部分的に該当するが、ここでは正規(認定校)の学位・学歴を非典型的な経緯で得ることを指す)が特に一部の人に選好されているのは、この歯車の合格型を目指しているからなのである。学習歴費用を節減しながら学歴(入学歴や学位)だけを得る、という学歴ロンダリングの手法は、商人・官僚の世界が人事考査時でしかその有無を問わない形骸化した点、或いは学歴主義者一般が偽者を本物と見分け得ない差別的偏見をもっている点を突いた抜け道であり、今日的な処世術の一種だといえる。元々、典型的学習歴は生得知能の高い人が純粋理論によって達成した成果を模倣する課程なので、それを形式化した学校教育で、有用な非典型的知能であるところの天才は育み得ない。したがって純粋理論の点であれそれ以外の能力であれ天才は典型的な学歴・学習歴に相関性が全くないといえる。また学習歴の履歴を第三者評価した物というべき学歴(学位、入学・卒業歴、免許等)は様々な経路で取得可能な場合があるため生得的知能の証明にならない。しかも同一学習歴に費やす効率差は生育条件や家庭・社会環境に差があり一律評価できず、動機や根気(grit)など総合面で学習能力全体をも意味しない。
 純粋理論の最終能力値は学習効率に比例して得られるものではないのだ。この為、一流以上の学者のIQ(肉体年齢分の精神年齢の百分率として)が低いこともある。しかし知識の有無という意味でこの人は確かに本物の学者であり、当知識の属する分野での高知能さの一種を示しているといえる。一方で偽者の誇示する、学歴ロンダリングを除く促成栽培的学歴で評価されている能力とは、端的に言えば学習効率であり、より単純化すればIQ自体だといえるだろう。この選好を能力の一般指標に使う人達は、特に学校教育で主要科目とされる諸論理課題に関する典型的学習能率を知能一般の目安にしているのだ。
 既にみてきたようIQ自体は全ての高知能さの目安ではない。又IQ試験で評価される殆どの部分は計算機械に代替できるので、AIの方が高いという結果になる。したがって科学を主とした論理課題で学習効率の高い脳が、社会的有用性を持つ一般指標という偏見は、労働者の能力が一般事務だった時代のものだ。それどころか、社会で行われている諸活動は多様で、経験の必要な高年齢者の方が有利だったり、低IQの方が有利な場合すらある。つまりIQを根幹とした同年代の人達の脳より論理課題の高学習効率がみられる、という典型的学歴の威光が通用する場合は、人事考査で形式的差別が行われる風習のほか多くない。
これらの事実にも関わらず、この形式的差別を潜り抜けて生活したがる労働者社会で学歴を知能の一般指標とする偏見は、一部の人に残っている。しかし実務面で有能な低学歴者を無能な高学歴者より選好する企業は業績を悪化させるだろうから、この学歴差別は実に大雑把な大量就職時代の慣行なのである。
 冒頭のK戦略という面で分析すると、信号の軍拡競争で典型的学歴を得る期間が長引く程、晩婚に伴う少子化が進むだろうことは予想できよう。生得的IQ等に由来した学習効率は幾らかこの期間を短縮するかもしれないが、よりr戦略(内的自然増加率戦略、rate strategy)的な低学歴者に数の面で圧倒される。結局、実務に無用な教養を誇示する、という俗物根性の面からK戦略の高学歴競争をみると、その行き着く果ては少子化が進みきって集団を維持できなくなり、社会、家計、個人が学習費を負担できる或る限界に達する地点、いわば寺院的社会である。日韓両国、特に韓国が寺院化を最も進み、共に高度情報化に伴う少子化の競争を続けている(合計特殊出生率、韓国203国中202位、日本184位。世銀(World Bank)、2016)のは、近現代文明の模範的な生き方としてK戦略的な高学歴を是とする社会規範が両国に属する過半の企業・政府間で共有されているからだ。この規範を共有せずr戦略をとる低学歴移民の子孫が人口比で圧倒するだろう。より平準化してみると、高所得世帯は子供に高い学歴を与えようとする傾向があるとされている(「世帯所得と子どもの学歴」平沢和司、2015、2015年SSM調査研究会)。つまり18歳から数え出産年齢が5年から20年ほど遅れる、という人口再生産の遅さと学費負担が、高学歴者の人口比を減らす誘因である。一方、一般化した労働者の学歴と生涯賃金が正相関するといわれることがある(「平成29年賃金構造基本統計調査」、厚労省、2017)。これは日本の大企業が新卒一括採用の慣行で人事考査時に学歴差別を用いていて、かつ、会社員として一般事務の能力と典型的学校教育歴の間に一定の相関関係がある可能性があるのが根拠なのかもしれない。
 結局の所、学歴主義者一般の基本的実態は、この労働者のうち生涯賃金の高い相手を選好しよう、という目的に適うかどうかで確証偏見が作られているのだろう。よってこの偏見の第一目的は配偶者の賃金に寄生しようとする人間(主に相対的に低賃金な女性)が自身の繁殖に有利なK戦略をとることにある。既に述べた様、高学歴を選好する集団は寺院化が進むので、高賃金者に寄生し相対的に裕福な繁殖環境を確保しよう、という戦略は結果としてその個人の子孫の人口比数(人口全体に比べた数)を減らす。つまり高学歴選好と子孫数はトレードオフ(trade-off。両立不能)の関係にある。この矛盾をのりこえているのは、生育数がほぼ制限されないほど圧倒的に裕福な個人に寄生した女性か、労働者という学歴差別が前提の社会の外で大金を得ている経営者、資本家、個人事業主、自営業者などである。
 ――私がなぜここでこれらの分析を書いたかといえば、某氏の過去ツイートを読み返していたら学歴差別の信条が書いてあって、その後某氏は典型的学歴をもつ(但し私の目には低俗で愚かな)男に発情していて、某氏はその発情をはじめた頃から私を名誉毀損しはじめたからである。この小論は学歴差別が或る人の中で生み出され正当化されている社会構造をある程度詳しく分析し、某氏の意図をも知ると共に、自分を含む全ての人々がいかなる学歴・学習歴をもっていようと差別されるいわれがないことを自分自身や周りの人達に立証する企図もあった。また私自身も某氏がどういう仕組みで学歴差別という確証偏見をもつ様になったか知りたかったし、その根底にある目的が何かも曖昧にしか認識できなかったので、より完璧に把握したかった。結果わかったのは、某氏は単なる典型的な労働者風の繁殖欲で高賃金者に寄生したがっている女だということである。一女性の繁殖欲如きで、全くその女とは別の目的や意図で生きている或る個人(今回は私)が差別的に名誉毀損されるとは、本当に不条理な話だといえるだろう。
 この女以外にもはっきりした差別主義者を1名私は知っていて、その男はアメーバピグ上にいて色々な人達を学歴で侮辱三昧してきている。この男は国家公務員で、某官庁の最近各方面で問題になっている或る末端組織に勤めているとされる。この男の場合、人事考査時の差別が実務能力はほぼ問われないが大量の人員を捌く必要がある官公庁で公然と行われていて、当慣行が成立しない他分野の人達に無理やりその差別をあてはめているとわかる。この男にせよ某氏にせよ、典型的学習歴を少ない労力でこなす学習効率をIQ的な同年齢の人々に比べた論理知能差の目安にしているとしても、それ自体が知能全体の中では実に卑小な部分で、学業自体、または実務能力にとって大した意味をもっていない、という明らかな事実を認識するほどかしこくないのだ。
 この小論でより詳しく認識できた事実の内、学業自体が動機や根気といったIQ以外の要素を含む、最終的な達成値を目的とする純粋な知的営為だと改めて論証できたのは後世の為によい結果を生むだろう。たとえ他人より学習するのが遅くとも亀の歩みでこつこつと進んでいけばやがて学者として大成できる。また非典型的知能が必須または有益なあらゆる分野にとっても、単に型にはまっていない学習歴をもつがゆえ低学歴とされる者が典型的な学歴差別をしている集団より優れた成果をあげる十分な根拠がある。より優れた組織を作りたければ、学習歴の多様化を進める方が創造的な組み合わせを生み出せるのだ。
 最後に私自身のことを書く。某氏に私がいかに下らない侮辱や誹謗、名誉毀損を受けようと私自身の能力値も天性も何一つ変更される訳もないので某氏の行っている差別的言動は彼女自身の知性に関する、他人に無意味な優劣感しか表現しない。もし自身の学問的知性を誇りたくば学業上の成果を出せば十分だ。そもそも自身の学業上の成果を誇ること自体が俗物根性の一種でしかなく、単に下品なことだといえようが、その中でも既往の学士号程度の典型的学習歴を自慢し、もしくは他人の学業だかIQだかを羨みねたむ暇があるなら自分がより深く、より広く学ぶよう努めるべきではないだろうか。それが知性の印だ。

ダークエネルギー宇宙外引力子塊説

ダークエネルギーは引力子の塊。但し別の宇宙からのもの。従って一つの宇宙系では宇宙外からの引力が斥力として働く。

予定調和

あなたがもし消えてしまったら
わたしの存在意義はないでしょう
だからあなたはわたしのたづな
あなたがもし愚か者でも
わたしはそれをゆるすでしょう
人っ子ひとりいない街で
あなただけが絶望していても
わたしはそれを見守っています
あなたがただの嘘つきで
だれも信じられなくとも
あなたの頭がおかしくて
だれかを傷つけずにはおけなくとも
予定調和を超えこの星は巡り
やがてわたしたちを消してしまうのです

雅桜

わが庭に桜咲きけり雅子妃の

性の奥には何もない
そこは空っぽだ
人は空虚から生まれやがて無に還る
土や灰になり
この世をさすらう
僕らの目的は何
虚ろな点を見つめながら
やがて新たな愛の名の元に
夜を超え旅に出る
あなたのいう言葉だけが
宙ぶらりんの今を形作る
あなたの見たこの夢だけが
永遠の愛というまことの言葉

皇室民間化で無数の善が果たし得る

尊王の最後の将軍を天皇家が冤罪かけて追いやったんだから(そして先日、慶喜家の御末裔が亡くなって断絶した)、最後の天皇も然るべき悪業の結果をその身に必ず受けるべきだと思う。江戸城・現皇居も徳川の家なのに、関西やくざ天皇家が強盗団に入って150年間も日本含む東亜一帯を荒らしまわったわけで、もともと天皇の先祖は弥生人の状況証拠からも中国移民だし、関西地方を植民地化し全国の先住日本人を奴隷化してきたに過ぎない殺人邪教祖なのだから、存続の理由は何もないよ。
 我々国民はアジア人を大量虐殺したいなんて一度も思ったこともないし、そんな野蛮なこと考えたのは西郷隆盛だの板垣退助だの伊藤博文だの、薩長土(鹿児島・山口・高知)の一部の蛮人だけだし、明治、大正、昭和の各天皇が100%悪い。当時、天皇が全権もってたんだから国民には抵抗しようがなかった。
 最後の寄生階級にして邪教祖の皇室を政府から叩き出し、政教分離憲法にとりかえ、民間人化したら、次は戊辰戦争の被害者らを靖国神社に合祀したらどうなんだ? 同国民を差別し、敗者を辱めるとかいう武士道に反する悪しき天皇公家の風儀は耐え難い。
 薩長土肥の蛮族をもちあげて皇室に都合が悪い歴史を抹消してきたのが明治から平成までだったのだから、皇室民間化が果たされればきちんとした歴史が回復されるはずだ。慶喜公は尊王の為に禅譲したのだし、西郷・大久保・岩倉らは10代の明治天皇を担ぎ上げ、彼に冤罪をかけたのだ。正しい歴史を教えろ。皇室民間化が果たされれば、飛鳥時代以前のヤマト以外の各王朝の歴史、縄文時代以前の日本人達の12万年の歴史もきちんと日本中で語りうる様になるだろう。信仰の自由や両性の尊厳も担保され、弥生人が侵略してくる以前の本来の共和政がもどってくる。日本の全国民が人権において等しく尊重される。
 京都や東京が皇室中華思想で、華夷秩序用語を使って全国差別するという蛮風も、皇室が民間人になれば、単に神道信者の中でしか通用しなくなり、京都や東京以外に住む9割の全国民は救われるはずだ。東京も京都も単なる一都市になり、皇族の権威を笠に着て地方蔑視できなくなるだろう。

成長は自分の間違いを完全に悟った時に起きる

決定的なことを発見した。ビルゲイツが何者かわかった。どうやったらそうなれるかも。ビルゲイツやジョブズやジェフベソスが模範なのだ。今まで何で彼らが商売してるか全然気づかなかった。
 自分が成長する時って自分の間違いを完璧に把握した時だな。

組織に頼る人間は一様に雑魚で淘汰すべき

会社員志望者ってなんなの? 俺は生まれてから1度も会社員になりたい、とおもったことがないぞ。奴隷みたいな仕事なんて考えただけでもやりたくない。組織も最悪の経験しかないし、組織といえば自分より馬鹿ばかりだったし、嫌な思い出しかないんだから会社だの学校だのにできるだけ属したくない、というのが当たり前と思うけど。
 自分より賢い人がいた組織って、父親とか祖母がいた自分の家くらいだよ。学校教師とかほぼ例外なく馬鹿でいじめ放置とか、当人がいじめとかしてきてたしね。辛うじて高校の美術教師だけが自由を尊重する点でましだったから、その影響で美術家になったけど、俺は。大学教授でも尊敬できる人いないぞ。
 バフェットが尊敬できる人の下で働きなさい、といってたけど、俺もその言葉を知る前に、一番尊敬できる建築家の所に直接弟子入りを願い出にいったから、本当にその通りだと思うよ。それ以外のところで働いても、人生の無駄だよ。組織自体がくそみたいなもんなんだから。その建築家(妹島和世さん)の所にいた人達も、組織だから、一定よりは賢いのかもしれないけど或る程度馬鹿そうなのも混じっていたしね。組織に混じる、というのは自分より愚かな人達と折り合いをつける技術でしょ。賢い人に全面的に従うのは簡単だけど、愚かな方は想定外の行動とるから対処が難しい。
 会社とか学校とかの組織名を出して、属性で自分の馬鹿さをごまかそう、というタイプの人間は例外なく頭が悪いよ。或る人の賢愚は属性ではかれないのだから、組織名で自分の中身のなさを糊塗するつもりなら、そんなのに騙される人間も同等以下に愚かだ、というにすぎない。
「私は宇宙開発がしたいから、スペースXに入るんだ!」とかNASAかJAXAに入りたいんだ、といってるなら少しはわかるけど、本気でやりたいなら自力で組織作れよ、って話でもあるな。他人に頼ろうとしてる時点で本気でやろうとはしてないといえるからな。
 ピガー(pigger、ピグ民)はとんでもないアホが多いから、ほんと訳の分からん低俗な発想だらけで、或る意味世間勉強になったけど、いまだになんて愚かな人達だったんだろうっていう感想以外何もない。いかにも下衆が考えそうなパターンはかなり暗記したけどな。知らない方がよかった。
 組織が大好きな人もいるのかもね。自分には想像もつかないけど、多分いるんだろう。
自然界でもそうだけど、群れるのは単体で弱い動物だから、基本的に当人が雑魚の時に組織名でごまかそうとするんだよ。
 大企業だか一流企業だかといわれている大組織に入って、一生そこにしがみつく、という高度成長期の枠組みをいまだにまねてる連中がいるんだよな、ゆとり世代には。僕の世代にそういう奴は目立たなかった様に見えたけど、ゆとりはなぜかそんなのばっか。IT起業ブームが終わったからか安倍政権のせいか。組織人として自分の雑魚加減をごまかすとか、学歴で他人を見下すとか、そういうゆとり世代の連中の一昔前の考え方をそのまま無批判に模倣してる態度みると、虫唾が走る。それで失敗したから今の日本がある、という反省点が何もないんだよね。自力で革新を起こす覚悟がない。独立心が皆無。知性も皆無。
 安倍政権潰れたら、ゆとり世代を大規模リストラして目に物言わせてやるわ。
 ま、俺がなにもしなくても大企業で安穏と馬鹿な機械のふりしてたら生き延びられると思い上がってた連中は、最初に潰されるはずだよ。そういう企業が日本のがんなんだから。我々が新興企業を作ってそういう腐った企業を全部駆逐するしかないんだ、この国を再生するにはな。社会の進歩に対して「保守」に回った人間は全員、滅びてきたんだ。この世界は。今までみてきたかぎり日本人って大部分が救われるべきでない人達だと思うん。2chとかツイッターとかピグとか、ヤフーコメントとかで、匿名偽名ですさまじい悪業を積み重ねてきただろう。そんな陰湿で性悪な奴らが、大組織で差別を広めようとしてるんだから国全体が悪の組織みたいなもんだよ。邪教祖ごと。
 移民をガンガン入れまくって既存の「保守」は全部淘汰した方がいいな。明らかに倫理観念がないし、あったとしても世間体を考えて「叱られるから」「罰されるから」とかいう外的制裁を恐れてるだけで、少しも当人達に良心はないんだよ。だから差別をばらまきまくっても平気でいるんだから彼らは。

悪女と俗物

悪女は結婚生活で幸福になれない。悪友しか得られないので孤独に陥り、惨めに死ぬ。
 悪女が美貌をもっていると男を騙すので、余計多くの不幸を生み出す。さらに都会ずれしている時、その悪質さは完全になる。
 悪女にふさわしく対処するには世知に長ける必要があり、結局は見捨てるしかない。
 俗物は最初からそうなるべくして生きている。

労働者は単身では先ず何もできない雑魚なので個性を迫害する

労働者が下らないのはその人達が我々になんの具体的な快楽も与えないのに、自分が蓄財しただの自分は学歴が高いだの一流企業に勤めているだの、或いは自分を棚に上げ無職差別だの誹謗中傷だの、当人の利己心だか虚栄心の満足以外にとって100%どうでもいいことしかいわないからだ。
 労働者の職能は当人達の職業内でしか発揮されないし、それを超えては平凡な能力の範囲内にあることが先ず殆どなので(代わりがいる職業に就くくらいだから典型的な能力の持ち主という意味で凡愚なので)、彼らは他人に、単身では殆ど何も貢献できない。これが彼らの無能さや下らなさの根源的理由だ。
 労働者が個性的な人物をみるや、(多くの場合、現実に被害が及ばないよう匿名・偽名の陰に隠れ)全力で差別や誹謗をしまくる訳は、自分達が他人に何の快楽も与えられない無能な雑魚だという自己認識から目を背ける為の合理化だ。自己実現への道から目を背け、嫉妬をごまかす為に有能な個人を迫害する。

日本のビルゲイツ

俺のビッグファイブはほぼ完全にIT起業家向きらしいから、日本のビルゲイツみたいななんかになるかもしれないな。2年前くらいからゲーム作ってそれっぽいことはじめたけど、全然かねにならないんだけど、そのうちできる様になるんだろうか?

芸術は作品が全評価

まえ、アメーバピグに常駐してる某人がひたすら自分(私)を差別的に誹謗しまくりながら、成功をその者が出している駄本だとか学会誌に載せた下らない論文のことだとか、某大の学士号を仮面浪人でとったことだと豪語し、ひたすら自慢していた。当然、この人物はただの自己愛に耽る愚物(寧ろダークトライアド)なので自分は最初から相手にしていなかった。その人は芸術については何一つ知らなかった。それで芸術上の成功を当人の妄想、全くの勘違いで定義していて、権威主義が全てだといっていた。
 それで自分は改めて思うのだが、芸術における成功は受賞歴だとか人気だとかでは全然ないし、勿論、売上でも利益でもない。学位だか学歴だかが無意味なのは毎年大量の芸大生が生涯ろくな作品を残せずに終わるので分かる。我々が絵を見るとき、そんなものは誰も気にしていない。絵自体が全てなのだ。我々は古代洞窟壁画をみたり、ダビンチの『白貂を抱く貴婦人』をみたり、宮崎アニメを見たりするわけだが、作品以外の要素は作品自体が駄作なら完全にどうでもいいことになるだろう。逆に作品が素晴らしければ感動し、カラヴァッジオの様な殺人犯だったりのロスコよう自殺した者でもそれは脇にのける。
 芸術上の成功、特に絵での成功は、自分の探求してきたかぎり自分自身の中にしかありえない。周りから称賛された場合、あっそうですか、とは思うかもしれないが、自分が「なんか違うな」と思ったらそれは成功にならない。実際そういう絵しか残せていないから次の作品に向かうのである。
 自分のある友人は、芸大に入ろうとして多浪していた。よくある話だ。が自分は彼がそうしていた理由についてまで知らなかった。芸大受験1年目で自分はその権威づけの虚構や欺瞞、偽善、不合理性に気づいてさっさと独力独行にきりかえたのだが、彼はのちに「芸大の箔が重要だと気づいていた」といった。結局彼は途中で絵をやめてしまった様だった。今後やるかはわからないが。なぜ彼が絵をやめたのか? 芸大の箔がつけられなかったからなのか。他人がどれだけ自分の絵を貶そうが、無視しようが、自分自身の中に成功の確かな感覚があれば、達成したい絵の展望があれば、完全にどうでもいいことなのに。
 権威という当時のサロン芸術的な枠組みは、学界でいえば査読つき学会誌に掲載された論文数だか引用回数だか、有名な賞の履歴だか、現役で正教授まで辿る学内政治だかの成果になるのだろうが、これらは真理という目的に比して完全に無意味だ。芸術界でいえばそれが学位、受賞歴、売上高、動員数などになる。世俗面に過ぎない。
 絵自体が偉大かどうか。それが全てであり、他に一切の評価軸はない。このことは絶対的な評価基準であり、ある意味では普遍的な完全平等な世界だ。そして自分が絵を志した理由の一つが、この理想郷性にある。僕の高校の美術教師(磯上先生)が自分に言ったのだ。「絵は自由だ。何をやってもいい」と。
 ほかに、小説家を目指しているといっていた或る人物がアメーバピグ上にいた。この人は非常識なことを言う傾向があり、いってみれば倫理観がぶっ壊れた内容でその点は中々面白く、自分はこの人を励ましていた。のちに分かったがその人はどうもサイコパスで、自分にも色々攻撃的なふるまいをしてきた。ところがその人物は一般企業に就業すると次第に低俗な本性をあらわしはじめ、他の一般企業の別人物と恋愛沙汰なんかをしていて、一向に小説を書こうとしない。自分は遠巻きに見守りつつまだかな、まだかな、作品はまだできてこないのかなと思っていた。なぜ仕事をやめて小説に集中しないのかなと。するとアメーバピグ上で或る別の男が、「あいつはムリだよ」と自分に言った。
「あんなの幾らでもいる。社会に出て現実を知って、実力のなさに不安になって異性に媚びているだけ。小説なんてかけるはずない。見てたらいい」
小説も絵と同じで、作品が全評価だと自分は思うし実際そうだが、その人物の頼むままに自分はホームページ制作までただで手伝ったりしたのだが、確かにその人は一作も作ったことがなかった。『スプートニクの恋人』のヒロインみたいに。それで自分はこの人はなぜあんなことを言っていたのかなと思った。
 自分の経験上、芸術家になる人はそれでしか生きられない人達だった。そして食えずに苦しんだり、世の中から迫害を受け早死にしたりしているが、彼らは何かを必死に作っていた。挫折して商人になる人達も大勢いたみたいだったがその後は知らないので見ていない。何も作らず芸術家になどなれないのだ。
 ここからは自分の推察だが、その人の実家は商家らしく資産はあるはずなのだが、親の世話になれないらしく小説を書く暇がない。それで或る会社員と婚姻し無理やりその時間を作ろうと考えたが、失敗した。もしくはしつつある。もしそうなら辻褄があう。が、この人は暇があったらゲームしているのである。それで自分はそのゲーム(荒野行動です)まで出向いて、どんなことをしているのか見てみた。一言でいうとストレス解消の為だかサイコパシーの発揮だかのため特攻隊を結成し日々レイテ島みたいなことをしていた。暇ができてもこれじゃ身にならないんじゃないかと疑うべきか。猶予期間なのだろうか。なにがいいたいかというと、芸術家と呼ばれる人達は、はっきりいえばそれ以外になれない特殊な人々なのである。この仕事は全然割が良くない。商売界のピラミッドを剣山にしたみたいな感じでトップ1人か2人以外は全員(数百万人とか数千万人とか)まったく食えないのである。それでも毎日作るのだ。
 絵を描くのが一番好きだからそれ以外やりたくない、小説書くことしか頭にないからいつも綿入れ半纏着てる(私です)とか、そうならないと基本的に石田衣良アトリエなんて手に入らないのだ。そうなっても、漱石みたく雨漏りする貸家に住んでいたのだ。私も自分で壊した雪見障子のガラスを直していない。インスタ蝿っぽく温泉いきました~とか、恋人と海外旅行ドタキャンとか言っている、その人物。また浪費しちゃった、とか月100万のカード破産みたいな使い方して親のカードだからま、いっか、東京に住んでるから自分はセレビだし(セレブではない)とかいっているその人物。小説がなかったら無評価だ。

愚者は手間がかかる

自分より愚かな人とつきあうと、その相手の人生観に含まれる偏見の大部分を一々訂正していく必要が生じて、大変な手間と労力がかかる。愚か者(不道徳さという意味では卑しい者)と関わるな、とブッダがいっていた理由の一つは、この矯正費用が膨大になりすぎるからだと思われる。

絵は現物を一瞬で評価できるのが最もよい点

芸術界は学界とも財界とも違う秩序で、知識・学業・学位・学歴・資産・地位・肩書き・利益・商品・顧客サービスとか世俗的な価値一切が無効化され、「で、作品は?」で何も出せない人は無価値だし、作品があっても「うわ、つまんねえ」「すげー」と一瞬で全評価が終わるからな。そこがすきなんだ俺は。
 俺が絵が一番好きなのは、全評価が最短の時間、一見、ほぼ一瞬で終わるからだ。小説とかくどくどしくて長い上に全部呼んでもくそつまらんことが多いし、映画にいたっては長い間、死ぬほど下らん駄作をみせられ耐えられないから嫌いだ。音楽ならちょっと聴けばすぐ分かるからまだいいけど。彫刻や建築も、一定時間、周りをぐるぐる回ったり、実際に中で体験すればどの程度のものか分かるのがいい。建築は長い間その中でくらさないと本当の価値がわからないところはあるけど。なんにせよ下らないものほど冗長だと思う。
 カントは詩が最高の芸術といっていたけど、絵の方が一瞬でわかる。

日本女一般は米中韓に比べ圧倒的に貞操観念がない特殊な集団

日本女全般は、明治政府の脱亜入欧イデオロギー以後、白人系の男系遺伝子の方が、アジア男性のそれより優れていて、故に配偶・繁殖対象としてふさわしいという文化的偏見があるのではないだろうか? そのうえ貞操観念が他国(米中韓)に比べてないらしいから、余計、見苦しく白人に媚売る様に見える。
「高校生の生活と意識に関する調査」(日本青少年研究所、2004年2月。集計結果)によると、結婚前に純潔を守るべきという質問に全くそう思うと答えた日本女子は6%しかおらず、米国22%、中国44%、韓国43%に比べ唯一、圧倒的に低い。しかも唯一日本だけが男より女の貞操観念の方が低いことがわかる。
 高校生に関する限り、日本女は米中韓に比べ貞操観念が圧倒的にない、というのは当該調査で一応わかっていること(上記調査のサンプル数は各国で1000ほど)。つまり日本女の身持ちが軽いのは気のせいではなく、貞操観念をもっていない人が非常に多い(日本だけ男以下)という事実がある。マンガ、アニメ、ドラマ、ポルノなど、日本女が幼児の頃から触れる低俗な媒体の殆どが、貞操観念の完全に崩壊したあばずれ的な女性像を描いている(殆どが遊郭・性売買文化の伝統がある東京発の情報)。恐らくこの影響を受け、学校・家庭・宗教教育内で貞操を教えられたことがないので貞操観念がない。
 日本女の他国に比べた貞操のなさは正真正銘の本物なんだろうけど、それを国内から正そうと思うとあばずれ的日本女の方が発狂し、集団虐待し、迫害してくるわけで、日本女の自業自得で世界中で散々男に騙され、どうしようもない奈落に堕とされるべきだと思うよ。

日本人一般は労働生産性を忙殺と間違えている

他人が労働していないことを攻撃する人達は、その労働を望んでいない人達なのだろう。もし自分が何か楽しくやっていて、他人がそれをしていないと分かったとしても「なぜこんな楽しいことをしないのだろう?」と疑問に思いこそすれ、攻撃の理由になどする筈もない。親切の押し売りはまれにしかない。
 労働は欧米圏ではしばしば奴隷が行うものだった。産業革命以後、新興市民中に商工業者として自らの勤労を恥としない人達が現れた。アメリカ合衆国はカルヴィニズムによる清教徒が労働者による労働者の為の国を作ろうと本国イギリスから独立した。日帝を潰した米軍は、日本に勤労道徳を上書きした。
 もともと、日本は奴隷階級がおらず、天皇が中国から入ってきてからは全国民の奴隷化を試みてきた。士農工商といわれ、一次、二次、三次生産者らが天皇以下の公務員の奴隷として扱われ、現状でもその官尊民卑の風儀は変化がない。労働者全般に勤労と納税の生涯を狂信するよう天皇政府が洗脳している。結局、平成の労働者(産業別就業者数で商人が7割になっている(平成22年国勢調査))の大部分が、天皇政府と米国の両方に影響され、より辛く苦しい労働をせず、みながより楽して生きられる様にとは考えられず、互いに苦労をおしつけあうという奴隷根性に染まりきっている。
 日本の国連幸福度で「自由」と「寛大さ」が極端に低い2019年度で、自由(Freedom)64位、寛大さ(Generosity)92位)理由の一つとして、この国の労働者全般が苦労を押しつけあうのを教義にする奴隷教を完全に狂信しきっていることがあげられるだろう。彼ら自身はこの邪教の外に立つ者を徹底的に迫害さえする。それがニート(NEET)や無職という語を差別用語にしている訳だ。少なくとも天皇政府は奴隷教信者の日本人労働者一般とグルだから、より楽して生きていると見なした相手(たとえより生産性が高く偉大な人達であっても)を徹底的に邪魔し、冤罪にかけ、社会的に抹殺しようとする。それは嫉妬を用いた実に陰湿な悪意なのだが、彼らは自らの狂態を正義と疑わない。この様な不条理な悪意に基づいて勤労道徳を教義にしている衆愚が、天皇政府と平成労働者一般なので、彼らの一人あたり生産性が先進国最下位級(一人当たりGDPで日本が25位、イタリアが28位(2017、IMF)なので、主要先進国のうち最下位級)のまま一向にあがらないのもむべなるかな、というべきだ。合理性はより楽して生きることだし、革新とは全く違った考えで飛躍的に生産性をあげることだからだ。
 もし日本国内で合理性や革新的な生産性をもつ個人や集団が現れても、皇室を中心に広められる勤労教義という悪意が蔓延しているうちはひたすら迫害を受けるに違いない。そこでは納税奴隷として過労死寸前まで安価に働くことが最上とされ、永遠に皇族と差別された国民という立場に留まるよう要求される。勤労教義が致命的に間違えているのは、人間が労働から解放されることが本来の文明の進歩だ、という観点をもっていないところだ。皇族の奴隷になって忙殺されることが唯一の目的だと思いつめるよう文科省は全国民を憲法教育で洗脳している。これは文明の本質に逆らう教義だ。

凡人が天才に混じることは永久に不可能

自分が天才じゃないとわずかなりとも思う人は、できるだけ早く芸術界から足を洗った方がいいな。天才側はどうがんばっても凡人になれないから、無意味な常識をおしつけてくる下らない凡愚から色んな迫害にあって散々苦労してるのに、その天才側に何の才能もない人が混じろうとしても絶対に無理だよ。

学歴主義は人の知能の多様性を評価できない愚者の証

今、ある人の過去のツイートを見てて、「学歴は人間の品質保証だと考えている」と書いてあり、この様な単純化が低IQの証明になるのは明らかだな、とわかった。現実に自称高学歴の馬鹿とか悪性者は無数にいる。現実の学歴は殆ど何も保証しない。特定分野の知識の有無程度しか受験入試ですらわからない。なんらかの差別を持っている人間は無数にいるが、その差別が単純なものであればあるほど、当人の地頭の悪さを証明してしまう。その種の過度の単純化を無意識にしがちな脳を遺伝していると、当人が気づかないところで現実を歪めて捉え、結果、不都合な真実の前で損害をこうむり失敗することになる。
 学歴差別は日本では科挙に遡れる。官吏登用の競争試験という中国文化を明治期に捏造した帝大の入試にあてはめ、のちに受験戦争と呼ばれた時代を作った。出自が科挙だから欧米流儀の大学と質が異なっていて、実際的に役に立たない受験専用の知識を詰め込んだパズルを受験生に解かせている。自分は高校に入る前からこの科挙的制度の愚を知っていた。進学校に入ったが、東大に行って官僚等になっても世の中は変えられないと知っていたので美術の道に進んだ。芸大入試が運を試す試験でしかなく、内部は愚者の楽園だと知ってからは、それ以前もしてきたがほぼ独学で学ぶ様になった。大学云々といい学問を大学教授に一通り習う程度で終わっている人は、最初から学問をしたとはいえない。それは学問を宗教としてみている浅はかな態度だ。より深い知識、或いは真理はいずれの教授が持っているものでもない。一流以上の知識に達したければ、教授に関わらず自分の研究を続けねばならない。企業が新卒一括採用という日本独特の慣行の際、人事差別の一つに学歴を使っているのは、実際には大企業病の一種であり、仕事に使う能力と一般的学歴に相関性がない時、本来の実務検査を過度に省力化しているに過ぎない。又これらは労働者中での差別だから、他の職業や立場の人に何の関係もない。
 久しぶりに(というかはじめて)、機会があって某人物の言動や過去ログを全部みかえしてみたんだけど、余りに低俗で吐き気がしてきた。やっぱり低俗な人間は最初の頃から低俗なんだなとわかった。
「学歴主義者に賢者なし」
自分はアメーバピグというので計4人の学歴主義者(それぞれ、京大、東北大、東大、関大の出身者で、自分の学歴を鼻にかけ周りを見下し優越感に耽っていた馬鹿だった)を見るまで、この世に学歴差別があるのを知らなかった。僕の家族は祖父母まで全員大卒だが、誰もそんなこと言ってる人いなかった。何のわけもなしに周りを見下すことで無意味な虚栄心に耽って差別的言動をとりまくるばかりか、自分の知る筈もない分野についてまで全知ぶり、それどころか自分より高いと見た学歴の相手にはヘコヘコと見苦しくこびへつらう。そういう4人を見て、自分は学歴主義者を心から軽蔑する様になった。その4人、乃至もう一人、東工大出身者の人も、人格的には最悪級の人達で、しかもその5人のうち4人までは明らかにサイコパスだった。ピグ上で良心のない蛮行三昧をし、残る1人(或る自称東大卒の男)はより陰険で表向きはいい人ぶり女を前にすると平気で人を裏切る、人の風上に置けない悪党だった。自分は漱石ファンだったので全作品も読んで三四郎池だの漱石の墓までわざわざ行ったのだが、現代の東大(しかもその男は博士号をもっているといっていた)卒の人は、リアル『こころ』みたいな裏切り行為を平気でやるのである。いずれこのことは何かに書き残そうと思う。きっと後生の役に立つ筈だ。
 学歴差別をしている人で賢いのはただの1人も見たことがない。どこかにはいるのかもしれないが。何しろそれはただの差別なのだ。学校の外にも賢者がいるのは当然だと思う。逆説的に、学歴主義が当人の思考原理の単純さ、世の中の複雑さに対する浅はかな見方を実証しているといえるのではないだろうか。
 ただ機械的に所定作業をこなすだけの人達が、型にはまった機械として要求されているのが一流企業のあり方なら、その様な企業が一流であり続けられることは今後なくなる筈だ。AIの普及はその種の論理機械を最も先に代替できるからだ。逆に、一流企業の姿になるのは、多様性を最も内包した組織だろう。馬鹿が型にはまった労働機械に仕立て上げられ、下らない奴隷的作業を資本家や経営者から死ぬまでさせられているのに、地頭が悪いほど自分が利用されていることに気づかず、従順な社畜として組織の外にいる人を差別し、暇を軽蔑し、目先の給与に踊らされニンジンを目前にぶら下げられた馬みたいに働く。労働者になることを宿命かのよういいながら、労働者の仲間内で採用時のみ通用する学歴差別を公然と主張し、考える力と自由を最大限奪い去る社畜暮らしを全力で保守する奴隷根性が、俗人を構成するほぼ全要素だ。そしてそれは当人の頭脳が生まれつき怠惰で、自ら自由教養を放棄したせいで堕ちた道だ。労働は罰だ、という西洋的観念は、日本型資本主義の中では一定程度正しい様だ。確かに自ら考えるという主人の第一条件を持たない人達が、貴族や資本家、経営者といった狡知ある人々の従者になるのは仕方がない。自ら考えても間違える一方だから他人の命令に従っている方がましな人達が、労働者になる。労働者一般が善徳に満ちた哀れな人達なら同情の余地があるが、現実に彼らの一部を抽出し観察してみると往々にしてただの下衆だし、当人達が愚物でお仕着せの就職切符を得る為に、という風にろくに学問もしていない肩書きロンダリングの不良共だから、自業自得で社畜(自称勝ち組)だとわかってくる。社民主義は労働者を善良な存在と仮定しているので、或る意味では現実を知らない考え方だといえる。むしろ日本で幸福に値しない人達が忙殺されているのは、彼らに自由を与えない為だ。調度船員に碇を磨かせる船長のよう小人に閑居させないことが、労働者の愚物ぶりを知る経営者からみた正しい管理術だ。
 実際わずかでも暇があったら、自分がみてきた労働者らはアメーバピグやら2chを使い荒らしだの不倫だのといった犯罪行為を始めていた。彼らの大部分は元々学部以下で学業を挫折した根性なしの不良学生だし、学校に行かなかったら勉強する筈もないほど向学心がない。だから目先の金欲しさに労働する。貴族になる人はなるべくしてなる。また労働者になる人も同様だ。生まれつきの階級が皇族を除きない日本で、労働者を敢えて選ぶ人達はどういう人達だろう。暇や自由を得る方法は無数にあったのに最初からそれを放棄し、或いは軽蔑し、自ら衆愚に混じって生涯の忙殺を良しとした人達はどんな人達だろう。労働者の生活向上の為いる筈の労働組合を、労働者自ら侮蔑し、自分達を過労死においつめても代わりの移民を導入している自民党を崇拝する様子を、日本人はみたことがあるだろう。そんな本物の馬鹿達が、一体、本当に救われるべきだろうか。最低賃金の底が抜けたら彼らは喜んで非正規差別を始める筈だ。愚民の上に辛き政治あり、どころか、愚かな労働者の上に賃金切捨てがある。それは必然だし、日本企業や政府が実質賃金を減らせばへらすほど、労働者側は喜んで自民党に投票し、彼らに搾取した分を献金する経団連大企業にすがってくれる。それは労働者側が正真正銘の愚物に他ならないからだ。自業自得。立憲民主党や社民党が政権与党になりもせず、生産性の低い大企業が自民党政府や皇室と癒着しながらいつまでも居座り、資本の流動性が死に新興企業が育てず沈没していく島国。労働者達は勝ち組と自己正当化しながら取るに足りない学校名を誇りより貯金額だか所得の少ない人を差別し威張り散らしている。日本国に愛国心を持っているという人達は、例外なく馬鹿だろう。なぜなら日本人の7割は下らない現状維持の保守主義に媚びを売る、堕落した労働者であって、彼らの主要な生活動機はもろもろの差別によって虚栄心に耽るという見るも無残で惨めったらしい卑屈な奴隷根性なのだ。私の目には労働者達が不幸になって死んだとしても、それは当人達が選んできた最悪級の堕落した進路の故に見える。寧ろ彼らは浪費したり、平凡な家庭を築く(奴隷の生を維持する)のを喜びと思うよう、凡愚の中で家畜的な自己満足に耽るよう脳を駄目にされているから、勝ち組社員は幸福と驕り死ぬのだ。
 経営の合理化のため人件費を圧縮しようという株主資本主義の浸透は、今後もやむことなく進み、日本企業の人員削減もAIによる自動化設備の導入と共に大幅に行われ続けるだろう。それはよいことだ。下らない保守主義者が更に増えても、ネットや現実のあちこちで無数に差別を繰り返すだけだろうから。
 教授や教師は神ではない。単に自分以外の少数の教授に書いた論文を認められた人(その論文が正しいという意味ではない)か、ある分野で一応の常識とされている知識習得を一通りした人(並のIQでゆっくりやって4年+2年ほどで終わるので大した量ではない)という部類だ。これらは学問的真理を全く保証していない。要するに教授や教師のいっていることは彼らがそう考えていること、というに過ぎず、それを鵜呑みにし自分は賢く、周りは愚かだと思い込むのはただの確証バイアスに過ぎない。真理は自ら探求しなければならない。自分より愚かな人が説得で賢くなったりしない。ある人がもっている差別や偏見を他人がわざわざ正してあげようという善意は、ほぼ確実に裏切られる。はじめからその様な愚物に接しないことが人生を正しく生きる上で重要だ。時間が無駄にとられるだけで、元々愚かな人は少しも向上しないものだからだ。

2019年3月25日

喧嘩民と呼ばれるインターネット上の荒らし・犯罪集団について

一般人は誰も知らないだろうけど、アメーバピグという匿名(偽名)SNSサイトの中や、匿名掲示板などで「喧嘩(口論)」を進んでする、という一連の集団がいて、アメーバピグ界では通称「喧嘩イベント民(喧嘩民)」などといわれている。これはいわゆる詭弁を目的とするソフィスト集団の幼稚版である。なぜ幼稚版といえるかといえばその参加者の殆どが中学生程度の精神年齢で、現実に中学生とか、何かしら発達障害、特にパーソナリティ障害をもっていそうな大学生くらいまでが参加者の殆どになっているからだ。
 殆どと書いたが、全構成員は大体、50人以内ではないかと思う。この喧嘩民はきいただけで異常者だとわかるだろうけど、実際にサイコパス度が異様に高い人(つまり荒らし)が集まっている集団、といっていいだろう。彼らの中では規約違反とか違法行為とかは当然あっていいものだと考えられている。
 アメーバピグというSNSはサイバーエージェント社側は基本的に内部での違法行為・規約違反行為を全然とりしまっていなかった。だから自分はそこで数多の犯罪や規約違反行為を目撃し、被害者の救済がどうしても必要なら仕方なく彼らの救済措置を自力で行うしかなかった。放置でますます悪化したからだ。
 2ch(5ch)とアメーバピグは日本の二大腐敗サイトだったといえると思う。どちらも犯罪の温床になっていた。そして喧嘩民と呼ばれる人達はその中でも、犯罪行為を含む荒らし集団として最も典型的な暴徒達の一つだったといえる。2chでいえば有名なハセカラ民と呼ばれる人達のアメーバピグ版である。自分はアメーバピグ上の色々な事情、要するに取締り調査の必要があって、喧嘩イベントと呼ばれる、その暴徒らが日夜、個人情報晒しだとか誹謗ゲームを行っている現場に忍び込んで、様子を観察したことがあった(詳しくはアメーバピグ史の中でいずれ書くかもしれない)。そこは本当に酷い場所だった。最近というか現時点でも、喧嘩民は日夜、犯罪や規約違反の荒らし行為を行っているのだが、彼ら喧嘩民の被害者の人達は個人情報を徹底的に晒されながら具体的現実に危害を及ぼされている。しかもその不良集団、犯罪集団の中では調度やくざや暴走族の中でそうなよう泥沼の色恋沙汰をしていたりなどする。端的にいえば「馬鹿の集まり」なので、少したりともまともな者は一人も喧嘩民の中にはいなくて、全員が全員気が狂った様な人達で、単にいいようもなく卑俗なばかりか良心や道徳を相対主義の観点から完全に侮蔑しているので、悪意を悪意とも思わず他人を(しばしば集団で)傷つけ遊んでいるのである(いずれ書きたいが、全員とち狂っているといっても度合いはあった。つまり通常の意味の倫理観があるのに近い部類の人から、完全にたがが外れきっている人までいた。ほぼ全員は後者だったが)。
 アメーバピグは今年で潰れるからいいものの、喧嘩民の残党らは他の匿名掲示板に逃れ、そこで日夜同様の誹謗ゲームを行っている。彼らの一部は明らかなサイコパスだからそもそも彼らがやっていることが狂っているとの自覚がない。他人を傷つけて誹謗しまくることを趣味にしているので手に負えない。古代ギリシアのソフィストらは詭弁術によって既存の社会規範に批判精神を持ち込んだという肯定的な側面があるともいわれるが、結果的には民主主義を腐敗させギリシア滅亡の原因となった。喧嘩民は50人以下だろうからそこまでの影響はないかもしれないが、内部で行われていることはもっと酷い。
 安倍内閣の構成員らは、自民党議員らと共に、国会の場で低次元な詭弁術とも呼べない虚偽答弁などを繰り返している。恐らく、喧嘩民の存在は民主主義の腐敗、衆愚化として、安倍内閣と同じ起源があるのではないか。彼らは相対主義(全価値の等値化)を乱用し、民衆を混乱させ、嘘をつく技術を評価する。ポスト真実(虚偽報道)は報道界で同時並行的に現れた嘘の技術だといえよう。カントは小説や物語を嘘をつき人を騙すわざだとして、真情を語る詩に劣る芸術だと考えていた(『判断力批判』)。漫画やアニメ、ゲームの虚構は、この意味でいえば真実そのものでない以上、やはり劣った芸術といえるだろう。
 真実を直接語ることが、全てが嘘だらけで占められた腐敗の中にあるこの国で、唯一必要な態度だ。紫式部が『源氏物語』中で光源氏に語らせた、真実を表す技術としての物語、という虚構の象徴化理論は、たとえを使った子供騙しに過ぎない。カントの意見の方が正しい。道徳は正論で直接表明されるべきだ。
 喧嘩民と呼ばれる人達はゆとり世代(凡そ現時点の20代)のごく一部に広がりつつあった誹謗ゲームの蛮風を示していたが、実は少なくとも自分がレコナーというアバターを使ってその内部崩壊を狙い、殴りこみをかけてからは衰退の一途を辿り、虫の息になっていた。が最近は数人の残党が蠢きはじめている。結局この1年でアメーバピグ側の喧嘩民は散りぢりになるだろう。次に注意を払うべきは匿名掲示板に逃れた喧嘩民残党らの誹謗ゲームや諸犯罪による荒らし行為(それは彼らの中では嗜虐快楽の趣味なので反省等しない)である。
 ここに一体彼らは何者で何を行い何が目的か書いておいたのは、この為だ。

低俗な芸術は衆愚化への迎合にすぎない

末期ローマがゲルマン人という移民で滅びたのと帰一な流れが、日本人側がゲーム、アニメ、ポルノ等の大衆娯楽に耽って享楽的となり、勤勉で有能な移民に国が支配されていく、というある種のウィンブルドン現象だろう。無教養な芸術が高尚な市場規模を圧倒している日本人作家は、衆愚化に迎合している。

自由を貶める悪意は単なる荒らしの嗜虐快楽

やっとわかった。某人物が「無職」を差別しているのは、その人の広めたい常識の中では、人は24時間なんらかの組織に縛られていないと悪さをするものだ、という妄想なり偏見があるからなのだろう。自由業者・自営業者を、無職と誤認させられると踏んで、自分が労働者なことを合理化したかったのだ。思うに、当人の中でも本音のごまかしがはじまっていて、本心では自由に生きたいのにその真逆の方へ(周りの人に流されて)自分が進んでしまっていて、そこから離脱する勇気がないのではないか?
 無職を差別する、という労働者的な考え方には、当人達が自分の生き方を合理化する目的と、背後に皇室政府が国民を納税奴隷化する悪意がある。「勤労・納税の義務」という憲法の文言は、建前では経済成長を謳っているが日本のそれは長年、最下位級である(2017年度は、191か国中157位。IMF)。派遣法以後は更に労働者が搾取される一方だ。結局、労働者が資本主義と組み合わされた天皇制下では納税奴隷に過ぎないという現実から目を背け、無職や自由・自営業者、その他の被雇用者でない人達のうち経済弱者とみなした人間を匿名で差別することで、自分達の惨めさをごまかそう、というのが当該人物のしようとしていたことだったのだろう。
 世界史の中で自由人はなんらかの資産の裏づけがあって、商業活動等の生産労働から解放されていた。私有財産か公共財産かの違いはあっても、貴族と呼ばれる人達の殆どは、その種の自由時間、つまり暇を、換金できる価値の生産と無関係な活動に費やしていた。それが顕示的消費の一類型にもなっていた。現代日本でも同じことは程あれ言える。労働者は資産の裏づけがない人達で、私有・公共財産で生活費を賄えないので望むと望まざるとに関わらず、くらしを維持するため被雇用者になるしかない。
 むしろ社会主義でないからこそ自由度が高い個人と、そうでない個人がますます二極化するのではないか?
 ところで現代の自由は資産の多寡と、暇の多さという2つの面に大別できる。両者の場合わけをすると
1.金持ちで暇
2.貧しくて暇
3.金持ちで忙殺
4.貧しくて忙殺
この4つのうち、某氏は1と2を意図的に差別していたといえるのではないだろうか。そして3と4の忙しさを合理化していた。資本主義の中で私有財産の蓄財に成功した人のうち(相続財産も含む)、営利追求を外部委託した程度に応じて金持ちで暇になる。一方、金持ちだが忙殺されている人達は営利活動を自ら行っている。ロバート・キヨサキの分類に倣うと、1は資本家(権利収入者)、3は商人(労働収入者)となるだろう。
 一方、2の貧しくて暇、という類型の人達は、金持ちで暇な人より一層、労働者的な考え方をもつ人達の差別の標的になり易い。生活保護を受けて暮らしているとか、親等に養われているなど経済的には弱者なことが多いので、3や4の忙殺が本音では不満な人達が手軽な社会的迫害の対象にしているわけだ。インターネット上の匿名で経済弱者を迫害し、集団虐待して遊んでいるサイコパス度が高い人物、いわゆる荒らしの人達は、この2の類型に該当する、貧しくて暇な人達を3や4の忙殺状態にいないという点でいじめの標的にしている。なぜそうなのかといえば、恐らく2は3+4より数が少ないのだ。
 しかしながら、この世では経済資本以外にも文化資本とか人的資本とか色々な資本財というのがある。清貧な人物が希代の芸術家だったり偉大な学者だったりも、世界史を省みると当然あることなのだ。むしろ人類を進歩させた偉大な発見は、暇な人が知的なときに生まれている。研究は金儲けではないからだ。過去の学術的発展は金持ちの道楽であったり、暇人の趣味(金儲けという他人に奉仕する拘束から離れた、自由で真剣な遊び)であったりした。今後も恐らくそうではないかと思う。1・2の人達は、3・4の人達から見ればしばしば別の人生を生きている様に見えるだろうが、暇人も巨視的には有益なのだ。日本の伝統では2の人達が貴族階級だった。公家や侍(武士)として、農工商という生産活動や金儲けを外部委託し、自身は学芸とか恋愛ごっことかなんらかの暇つぶしをしていた。よって現代では1は資本家、2は貴族(但しニート・無職等としばしば差別されている)、3は商人、4は労働者となるのかもしれない。
 現代が過去の時代と違うのは、貴族階級である筈の人達(貧しくて暇な人)が、なぜか他の人達から差別や迫害を受けている場合があるところだろう。自分が見てきた限り、これは2ch(5ch)の匿名電子掲示板文化の影響が大きいと思う。そこはサイコパス度の高い荒らしの住処となり、上述の少数派いじめの発祥地だからだ。現状の日本ツイッターも、他YouTubeやYahooニュースのコメント欄等もかなりの程度、匿名を悪用する荒らしの住処となってしまっているが、荒らしはネットユーザー全体の6%程という研究があり("Trolls just want to have fun" Erin E. Buckels etc. 2014参考ブログ)、サイバーカスケードによって世論を捏造している。また彼らの荒らし行為の目的は同研究でただの嗜虐快楽と考えられている。つまり彼らの捏造する世論に倫理的整合性は元々ない。貧しくて暇な貴族が生産労働と離れ文化的活動を担う、という既往の日本の伝統は、現実には社会的迫害・差別でも不動なのだ。
 結論を言うと、貧しさと尊さは別の概念だし、既に日本の伝統内で確立されてきたよう貴族はむしろ清貧を誇る。これは仏教・儒教が昇華された結果だが、営利活動を他階級がするものとして避ける、という生き方の差異化ルールが日本流の貴族精神なのである。結果、利害を離れ政財界を自由に批評できる。荒らしやその中に潜む嗜虐快楽のサイコパス、或いは彼らに扇動された資本家、商人、労働者といった人達が幾ら悪意から貴族を差別していても、全くそれに迎合せず、完全に無視することが有用だ。むしろ金儲けを下に見て、ただひたすら自分の自由に生きるのが、この国の貴族のまっとうなありようなのだ。金儲けでない活動をする人が私有財産で生きるのに限界がくれば生活保護になるだろうという観点から、生活保護者は貴族とは呼べないじゃないか、と荒らし側は臆断しているわけだが、私有財産がなくなりきるまでの期間を意図的に省略しているのが間違っている。生活保護者はある種の没落貴族なのだろう。
 現実的に現代の貴族は、資本家か商人が私有財産の範囲で、金儲けしない人達を養う、という形でありえる。皇族もこの意味では自分で金儲けしていないので、貴族だ。しかし私有財産が少ないほど没落までの期間は短くなる。つまり貴族的自由は部分的に資本主義原理を利用する、顕示的消費の一類型なのだ。
 また「生産的」という概念は、上述のことから、「金儲け」と、そうでない「純粋な生産(金銭価値に換算されない芸術や学問、その他の活動)」が混濁している。資本家・商人・労働者のいう生産は、今日殆どの人達が農工商でいう商に属し、GDPの定義からも「金儲け」に置き換えられているといえる。この為、貴族が何かの文化財やその他の価値あるものごとを生産していても、それが換金されないと金儲けにならないという意味で非生産的ともいえるのだが、虚業という概念を使えば、貴族にとっての生産性はしばしば虚業的なものであって、金儲けに限らない、といえるだろう。

赤坂離宮のツイッター広告費を政府が国税から拠出する意味は?

迎賓館赤坂離宮(政府所有)がツイッター広告打ってるんだけど、なんでなの。国税で宣伝する意味あるの? そんなのに金使うなら都内にわんさかいるホームレスの人達に使いなさい。なぜ生活保護を受給してあげないのですか。

非接触タッチパネルが店舗には必須

今後店舗の注文タッチパネル化が進みそうだけど、とっても汚れてるらしい。パネルに触れずに操作できるのが出てくる前まではどうやって触れたらいいんだ? 我慢して触ってから一々お手洗いで手を洗うの? それとも気にしないふりして不衛生をふりまくの?

人種差別は勘違いした優越感によっている

今後、(おそらく日本を除く)アジアの経済規模が巨大になって欧米をはるかに超えてきたら、今度は白人差別をやりだすアジア人が沢山でてきてお前もか、となるんだろ。現時点で白人や日本人の中に、アジア人や黒人を差別する人がいる様に見えるのは、近代化に先駆けた過去の優越感の名残でしかない。

低俗な芸術は悪例

オタクの下品なマンガ絵を見てたら、若い、又は幼い異性を性的に描くのがいかに下らなく馬鹿げたことか分かってきた。ロウブロウなアートも反面教師としては大いに役立つのか。

京都中華思想は反面教師

京都市が文化庁を政府から抜き取り、次は皇族まで持ってこようとしているのは、彼らが自文化中心主義的な中華思想に退行したいからに過ぎず、全体の奉仕者として他県の知られざる偉大な文化には何の関心もないのである。「政経で東京に匹敵し得ないから、文化首都ぶってプライドを守り他県を見下そう」私が京都市の文化庁誘致政策から学んだこと
1.自文化中心主義は恥ずべき幼稚さだ
2.中華思想はただの卑しい利己的な差別観だ
3.自分の文化を自慢するのはそもそも下品な振る舞いだ
4.皇族の政治利用は政教分離以前の中世的な弊風だ
5.他県を差別する為に文化という概念を使うのは下賎だ

薩長恐怖政治の自慢は野蛮さの吐露

明治を美化する薩長土肥(鹿児島、山口、高知、佐賀)や京都界隈の人達の限界は、彼らが侵略や冤罪行為によって内乱・外乱を起こし政権簒奪したことを幾ら誇ったところで、被害者となった東日本・北海道・沖縄といった日本人の過半数、犠牲になった外国人を侮辱しているのに気づかない恥知らずさだ。侵略犯罪、冤罪行為、裏切りといった恐怖政治を自慢する、という時点で、薩長土肥や京都の明治解釈はただの野蛮でしかない。

世界と違うことをしない限りシリコンバレーに負けて当然

「日本にGAFAやFAANGがない! 日本は駄目だ!」っていってる人は、「じゃあなんであなたが作らないの?」と返答すればいいと思うよ。それができないならその人が無能なせいでできてないんだから。
 そもそもシリコンバレーの企業群って他国の真似をしようとしてああなったというより、自分達が社会をよくしよう、金儲けしようとした結果巨大化しただけで、他国をまねよう、他国に負けない様にしようという訳のわからない小さな発想をもってるナショナリストがそんな規模の会社は永遠に作れないよ。ある会社が他国の大きな会社と競合する時点で、その会社は世界で見てレッドオーシャンにいるのであって、「日本にGAFAが出てこない説」を大上段に唱えてる雑魚って、横並び発想の無能な奴しか絶対いないでしょ。国内の受験一流大学(世界ランクは50位以下とか)出て大企業に勤めて威張る馬鹿の考え。
 日本に二流企業しかないのは横並びの減点教育で型にはめるロボット人間作りをさせる文科省の東大法学部卒の洗脳(通称・学校教育)のせいがかなりの部分を占めるのであって、実際その結果亡国しつつあるわけだ。永遠にロボットやってろといいたい。勿論そんな人達はロボットの方が優秀だから死滅する。もしこの列島で優秀な会社があるとしたら、他国にはない価値を世界の人々に届けてる会社でしょ。その会社はシリコンバレー文化とは全然違った種類の事業をしているだろうし、特にITでなければならないわけでもない。
「世界と違うことをする」という発想がない限りなにやっても無駄だよ。そもそもその種の世界のどこにもない価値を提供できていれば、特に商売である必要もないし。その価値が経済価値である必要すらない。
 或いは世界中の人が自分の仕事を無価値だと思っていたところで、それはどうでもいいことだ。自分ひとりであれなんらかの仕事が何より好きならそれでいいんだから。
 多分あと50年したら今日本で経団連に入ってる企業の9割は消えてるでしょう。それが世界と競争した結果なんだから、横並びのことをしていた人達は最初から存在意義はなかったってことだ。

日本はドイツと違って日帝から続く天皇制ファシズムや薩長侵略主義に無反省

天皇崇めて大量殺人なかったことにする日本国民に反省力はひとかけらもない。それどころか東日本・沖縄・アジア侵略を主張した吉田松陰だの西郷隆盛だの、その為の武器を外国から輸入した大量殺人犯の坂本龍馬を英雄だと思ってる極悪人だらけ。
 まあ日帝版図を意図的に削ろうとして噛みつかれ、自分達の植民地だけは確保していたが戦後こっそり独立させるしかなくなったイギリス・フランス・オランダ・スペインの悪意も似た様なものだったけど。アメリカという植民侵略地が原罪をごまかす偽善をこねて日独伊を悪者に仕立て上げた面も大いにある。旧連合国と五十歩百歩とはいえ日帝の反省は先ず何一つされていない、天皇制ファシズム国家体制のまま。米軍の暴力に負けたという幼稚な悔しさしかなくて、明治以後の侵略犯罪やファシズムに対する倫理的・道徳的反省などは日本国民一般に皆無という点で、ドイツと日本は全く違うね。
 天皇や皇族自身、非常に精神的に幼稚な人達で、封建君主の立場を維持できれば国民や周囲の国々に及ぼした自身の戦争犯罪はなかったことにしようとかという責任感が全くない高ダークトライアド度脳だから、それに洗脳されたままの愚民の方もどうしようもない連中だけど皇室もとんでもない極悪人だ。
 天皇は古墳時代頃から日本中を侵略しまくった中国系移民の人達なんだから、それから以後の侵略犯罪を反省する能力があるかといえば、恐らく永久に無理でしょう。ダークトライアド度が世界で最も高いからこそ皇帝と教祖を兼ねる裏の最高権力者ぶって一般人類を差別して支配者面したいんだから。
 我々国民側がやるべきことは、天皇とかいう極悪人教祖の悪疫をできるだけ最小化するためにできるだけの工夫と思慮を重ねることであって、いわば邪教祖の独裁体制と戦いきるだけだ。洗脳されている衆愚側は雑魚キャラで、必ずや敵対しまくってくるが、そういう愚民とも何とか戦って勝ちまくるしかない。

天才は脳科学的にはメタ認知ともいえる

きのう書いた「神の声」という言い方について、もっとふさわしい表現の仕方みつけた。「メタ認知」といえばよかったんだ。
 芸術家が自己統制する能力は、哲学の伝統的な概念(ソクラテス)だと「神(ダイモニオン)の声」とか「良心」「理性」となり、脳科学の言葉だと「メタ認知」となる。精神分析学だと「超自我」、になるかもしれない。芸術の概念だとそれが「天才」とか「天啓」「直感」と呼ばれている。

衆愚を相手にするのは人生の無駄

考えてみると日本人衆愚を相手にする方がやはりばかげているな。どうせ反省も成長もしないのだから。ひたすら悪意ある行動を集団でしてくるNPCみたいなもんだし。

宝石採掘

自分がやっている作業は宝石採掘と似ている。しかもその宝石は自分が採掘しないと永遠に誰も掘り当てられない。

手紙

月はあかつきの空を静かに点打ち
私は誰もいない海の前で波の音を聴く
この地平線の先になにもなくとも
旅に出た人はいずれ夜に横たわり
涼しい木陰に置いた小さな椅子に座り
頭上に咲いた満天の星空になにをおもうだろう
無限の宇宙の一点として
君が生まれきたことが奇跡なら
なにも伝えられず死んでいくのも
なにも与えられず
ただ君が救われるよう祈るのも奇跡
雨が山から湖にくだり清流から川となり海に注ぐ
どの瞬間にも変わらず僕は君を想い
時の流れゆくまま星屑の上で手紙を書く

気のせい

わずかにあなたはすれ違いつつ
夢にも見なかった寝言を聴く
それすら気のせい
私達にのこされた生の瞬き
青春ドラマは楽しくもない
だってそこになにもないから
ばか騒ぎする子供をたねに
アニメで金儲けする為の嘘だから
もっと夜深くにもぐり
私は夢を見ようとする
でもそれもすぐにさめてしまう
うつつにあるなべてに感謝
ああ確かに偽善だ露悪だ
悟った人とて君を愛するなど気のせいだ

色彩

時は残酷にすぎさり
君は老いぼれ消えていく
だが僕だけはそれをみて嘆きもせず
ただ心の中を見つめ続けるだろう
誰からも知られないところで泣きはらし
生まれきたことさえうらんでいた君が
この世に少しの希望をもてるまで
自分があらゆる努力をするとして
時の変遷は止まらず
人の肉は土に還る
だが僕だけは君の死までを看取り
少しもこの手を離さず
たとえ君が命の意味を楽しめなくとも
この世を色とりどりに染め続けるだろう

光の川

すでに生まれきてしまった以上
君が死にゆくことすら定め
すでにあらゆる夢をみてしまい
のこされた者に戸惑いしかなく
雨に打たれるまま
君の死までのま立ちすくむ
代わりに僕は神に頼み込み
君がとわに生き永らえるよう願う
すでにこの星が巡りゆくかぎり
生き死にはなにびとにも動かせず
のこされた僕らの前に横たわるしじまが
君の生まれきたわけを語ろうとする
ただ誰もいない真っ暗闇の中
君の姿だけ輝いて見える

君が好きだ

君が好きだ
ということ以外なにも伝えたいことはない
それが詩というわざのすべて
ほかになにもない

2019年3月24日

日本人衆愚は偉人の足を引っ張るのが目的の悪しき雑魚キャラでしかありえない

下賎な人間達も当人達なりの下賎な人生観を持って生きているのだが、その価値体系の全てがとんでもない差別や偏見、ただの妄想によっているので結果、愚物を称賛し聖人を侮辱し、偽者に擦り寄って本物を謗って死んで行く。下衆の生態を知ればしるほど人間の醜悪さを見て厭世せざるを得なくなるだろう。この世に聖人がいなければ人間存在自体が醜悪さでうずまってしまうのだから、ダビンチが書いた通り、聖人をこの世で最も神々に近い存在として仰ぐことなしには、人間は人間に何の希望もみいだせなくなるだけだ。
 下品に説得を試みても、それは完全に無益有害である。「中人以上に以て上を語るべきなり」私はこの文言を早い段階で知っていたが、実践してみると完全に真理だった。中人ですら繰り返し説得し、政治的な強制力を働かせない限り悪行を反省などしないのだから、下衆に何を言っても意味はない。
 上品以上の人物はそもそも間違えること自体が少ないし、仮に間違いを指摘してもすぐ反省するので「一を聞いて十を知る」という言葉が完全に当てはまる人達だ。だから成人後に何事か不品行を他人から指摘され、軽蔑される時点で、その人物は上品ではない。私は上品な人物を日本で見たことが1度もない。しかし他国の人々の中には、確かにその種の人物をしばしば見かけた。少なくとも自分が学ぶに足る考え方を持っていた人々だった。自国中に模範的な人物がみいだせないとしても、外国語を学び、諸外国の人達と関わることで、その絶望的な状況から少しは抜け出せる。
 念の為書いておくが、下衆は下衆故に「根も葉もない噂」を立てるのを好み、上品な人物を辱めようとあらゆる悪意ある虚偽を混ぜつつ、彼らの下品さと異なる人を陥れる画策をする。その種の下衆の生態を観察し、ある程度以上に知っている者として、下衆(世間)の風評と当人物自体は異なると言っておく。この世では「なぜこんなに卑しい人間が生きているのだろう」と思う経験が非常に多い筈だ。少なくとも日本では、自分は対人関係中でその様に思った経験しかない。結局なぜそういう下衆が生まれてきているかといえば、彼らの脳は全生育中、諸々の道徳性が低いまま、下衆同士繁殖しているからなのだ。下衆に繁殖して欲しくないと思った所で彼らの性欲が制限できる筈もないから、今後も下衆は生き残ってくる。実際、ネット右翼的な愚物さえ平気でお国の為云々と言い訳しながら子供を生み、しかも日々差別的言動や不道徳な蛮行を繰り返している。
 彼らの全生態は、天皇からそう見えるようただの奴隷だ。世界史の中にしか奴隷という存在を確認したことがない人は、現実に、「労働者」と呼ばれる立場の人達を見直してみるがいい。天皇制や資本主義の下で奴隷に該当するのは労働者(会社員)達である。彼らが差別的な言動で、経済弱者を虐げているのはその卑屈な精神の為であり、奴隷根性の故なのだ。資本主義、そして皇室という国民・会社員奴隷制度は、下衆の無知と悪徳を搾取の触媒にしている。資本家や天皇皇族にとって世人が無知のまま、彼らを崇めながら互いに労役をおしつけあい、納税しない者を感情的に攻撃してくれれば安泰である。この経済上の資本主義、政治上の皇室が続く限り贅沢できる。
 労働階級(奴隷階級)に知恵がついた国では、資本家(金持ち)や天皇皇族(王族)に世襲で搾取され続ける不条理に悟って国民が市民革命や独立戦争を起こし、共和国を建設した。しかし日本は一度もそれが起きたことはなく、逆に皇族に擦り寄って権力を寡占した薩長藩閥がテロ政府を作っただけだった。日本国内で最大の暴力団である日本政府は、明治から150年間、薩長藩閥(鹿児島・山口両県出身の政治家)、特に長州閥(山口県出身の政治家)が天皇権力を担ぎあげることで平成末まで国民奴隷化を進めてきた。だが労働階級側は無知のまま奴隷根性で彼らより貧しいと見なした人達を差別・虐待している。資本主義と皇室の癒着は、皇族が当時の財閥の娘を嫁にとったり、逆に嫁がせたりする婚姻政略でますます強固となってきている。つまり、皇室は実質的に日本最大の財閥として全権を独裁し、それを表向き隠す手立てとして憲法という建前を国民におしつけている。退位法にみられたよう天皇自身は法を破る。
 結論を言うと、資本主義と皇室の癒着は天皇財閥による国政独裁と、表向きの法治という建前をとっているが、現実には奴隷階級側(会社員側、労働者側)の無知と自己洗脳によって維持されている。国内の金持ちの殆どは経団連等を通じ自民党の神道勢力と癒着しているので、労働者側の奴隷根性を強化する。右翼と呼ばれる人達はある種の知能が低い人達(Gordon Hodsonの2012年の論文)と考えられるが、これらの人々を神道イデオロギーで洗脳し奴隷化するのが皇室・自民党員と彼らに献金しつつ便宜を図ってもらっている経団連の常套手段となっている。
 日本国の全体制はこの様な仕組みになっているわけだが、その最下等の存在というべき雑魚キャラが奴隷としての労働階級だから、彼らが悪質で下らない下衆だとしても何の疑問もないといえよう。逆に、その中で立派で良心をもつ人がいたら到底その悪しき邪教集団に属する筈もない。
 賢明な国民は、世襲の差別階級を撤廃しつつ政教分離し(日本なら皇室を民間化することになる)、共和国の元で社民党を与党にし、市場は自由にすると共に福祉事業をできるだけ民間委託(民営化ではなく税金で民間事業者を選択すること)しながら国民一般の幸福度をあげる様に国を作るだろう。なぜ日本では自民党とかその代行政党に経済至上主義の政党しかいないかといえば、国民一般が政府の調整的役割を、企業の配分的役割と誤認しているからとしかいえない。また皇室が政府に寄生し続けているのは国民全般が政教分離できない(政治と宗教の違いを認知できない)ほど知能が低いからだ。日本国民一般の社会的知能が他の先進国より低いのだから、IQの6~7割は遺伝するという知見もあるし(『遺伝子の不都合な真実』)、それ自体は教育で余り変わらないかもしれない。つまり一部の貴族的な知識人が全体にとって幸福度が最大化する施策を、指導者として政界・財界で実現するしかない。
 日本が同調圧力の地獄、すなわち皇室・自民党・経団連大企業をお上としている衆愚的奴隷階級(労働者)が差別をおしつけあう拝金地獄だというのはその中で生きている限り事実だから、大事なのはその様な社会を自らの知恵のあらん限りの力で出し抜き、徹底的に馬鹿にしながら完全にのりこえることだ。
 租税回避地に逃げこの国から遠く離れ、蓄財と贅沢の中でこの島民達を忘れて暮らすのも一つの道だが、自分はこの島民が完全に自分に負けたというしかない所まで徹底的にその中で知恵を試す方が楽しそうだと思っている。何しろこの国は洗脳された猿みたいなものなのだから、戦って勝てないとは思えない。
 個性的な個人をみると、衆愚が洗脳や遺伝子などの脳の問題で無意味に攻撃し続けてくる、というのが日本の雑魚キャラの基本ルールなのだから、先ずその衆愚への対処の仕方を覚える所からゲームを始めるべきだろう。適切に戦える場を見分け、衆愚を出し抜き、相手を確実に倒せる場面で実力を試すべきだ。いいかえれば衆愚側、労働階級側、多数派側に自分が入った時点で、日本猿山ゲームの中では雑魚キャラの一員になって「邪教団に属する敵」になる、という鬼ごっこ的仕組みになっている。単純化しすぎてると思うかもしれないが、これが本当のことだ。保守化した若者は巨視的に見れば自由の敵だからだ。

日本人一般は無能だから優れた個人や外人に頼るしかない

日本の一人あたり生産性が主要先進国最低(25位、IMF、2017)なのは、有能な個人の足を衆愚が引っ張って駄目にしようとする集団圧力があるせいだろう。この点で未熟な日本は、成長率の高い韓国(29位、同調査)に間もなく抜かれる。
 この国で高い成果を上げたければ、自ら大組織を離れるしかない。インフルエンサーらが「圧倒的個人の時代」といっている理由は、ネット事業のうちコンテンツ稼業の生産性(資本または売上高利益率という点で)は大組織を不要とするからだ。革新はこの点に能力を集中した人が独占することになるだろうし、実際そうなる度合いに応じてのみ全体平均の生産性もあがる。
 なぜ日本にはGAFAとかFAANGが出現しないかという意見を言っている財界人をたまに見るけど、楽天やドワンゴ、GREE、DeNA、mixi、サイバーエージェント、ZOZO、メルカリなどがそれなのだ。規模が小さいのは日本市場が米国市場より小さいからだし、世界展開できないのは日本人が無能だからに過ぎない。無能な人に向けて「なぜもっとできないんだ!」と怒ってみた所で、そんなのできるわけないというのが当然のことである。そもそも日本人一般が有能だったら一人あたり生産性が25位(2017、IMF)のわけないではないか? 無能な民族に過度に期待してるのがおかしい。できるのは有能な外人を雇うことだ。

肩書きは無能をごまかす

肩書きで能力をごまかしている人間は例外なく無能だった。例外がありうる可能性がそもそもない。有能なら常に能力自体を自己証明すればいいのだから。
 授賞(学位、入学歴や免許も広義の賞である)はそれを与える側にとって都合がいい人や業績へのひいきであり、なんらかの賞を受ける、ということは権威で世人を相対的に貶め、差別する目的しかない。だから賞を利用している人物がいたら、その人の実力は疑わしく、差別的な権威主義者と考えるべきだ。

世知は身を守る

自分の人生をふりかえってみると、自分にとって不幸の原因になったことは、一度の例外もなく、卑しい他人(不道徳な他人、悪意のある他人、利己的・サイコパス・マキャベリスト等)との接点から生じていると思う。逆に、自分にとって幸福だった経験は、利他的なごく少数の他人とのまれな接点を除けば、自分ひとりで何か興味のあるしごとをしているか、休憩している時だった。この意味で、自分にとって社交というのはほぼ完全に有害なことだといえると思う。特に、労働者一般との私的接触は自分にはほぼ完全に害悪でしかなかった。自分の場合、労働者中に有徳な人物を見つけた試しがなく、したがって接する限りなんらかの迷惑か、差別や誹謗などの犯罪行為を仕掛けられた。
 自分は20代前半の頃、アルバイトで生計を立てていた親友から「できるなら労働しない方が良い」と忠告され、それに従っていた。またその後できた恋人と呼べるだろう人からもほぼ同じことを言われた。親からも似た様に言われていたので、親身になってくれる人達がほぼ同じ意見な以上、労働を避けてきた。それで自分が感じた範囲では、自分は社交性がない訳ではなくて、寧ろ物凄く気が利く方であり(自分より心遣いが細やかな人はみたことがない)、確かに気疲れはするものの、会社等の組織中でうまくやっていく能力はあるような気がする。実際どこもドロップアウトした試しがなくきちんと卒業している。
 では、私の親しい人達が一体何を私に忠告しようとしていたのか? なぜ労働を避ける様に助言したのだろう。このことはいまだに完全にはわからないのだが、労働者一般の悪徳ぶりを知って、自分がそれと真逆の、高潔な人格を守ろうとしている人物であるから、俗に染まるのを危惧したのではないだろうか?
 ある時、私の父親が私に「世間知らず」になるのは望ましくない、といった発言をした。父親は再三似たような事をいってきており、それで私はできるだけ所属する人間の多様性がある組織を経験しようとして、専門学校の夜間部という場所にいってみて、実際そこには色んな人がいた。妹島さんの事務所には色々な外国人の人がいた。また他にも世間を見る目的で、2chやアメーバピグというかなり多様性が高いだろう場所を観察したりもした(これは衆愚と呼べる連中の考え方や行動規則まで詳細まで知れたが、特に酷い目にあった)。それで自分はもう十分世間を知った、と今は感じているのだが、実際に世間を知ってみて思うのは、はっきりいってそこはろくでもない場所であり、知らない方がよかったのではないか、ということだ。世知は処世には役立つかもしれない。しかし知らなくてよいことの方が遥かに多く、人間の現実に絶望する。
 私が知った世間の人々の中で最も衝撃的だったのは、サイコパスやダークトライアドと呼ばれる脳の持ち主達がいることだった。その人達はインターネット上では現実と違う顔を持ち、想像を遥かに超えた悪行三昧をしていて、しかもそれをただの嗜虐快楽の為にやっているのだった。このサイコパス・ダークトライアドの度合いが高い人達の中でも、理科系の大学を出ている人については更に酷くて、倫理道徳という人間社会の利他的な規則を完全にばかにしていて、世の中の人間を自分の為に利用しよう、そして役立たなければ(逮捕されねば)殺して構わないとしか思っていないのである。確かに温室育ちで世間知らずの人の中には、この種のサイコパス・ダークトライアド的な脳をうまれもっている人が現実にいるのだ、とその実態を知らない人がいると思う。その人は世人はみな信用でき、善意を根底にもっているから悪事をしてもただ勘違いでしているだけで、説得すれば分かると思っている。サイコパス・ダークトライアド度が高い脳の持ち主達は、善悪の思弁が生まれつきできず、その点が盲点になっている。しかも仮に善悪の思慮を世間の人がもっている、と把握したとしても、鳥かごの中で恐怖に震えるニワトリの親子を見る様な目で眺め、人間を取り出し屠殺しても当人の利害しか感じない。
 自分が間近に見て観察した限り、世間的に立派な学歴だと思われている旧帝国大学だの一応は一流から二流くらいだと思われている大卒者とかで、ネット上で荒らしをしている人達の中には、サイコパス・ダークトライアド度が極めて高い人々が数人以上いた。出現確率的には高学歴者の荒らしの中に多い程だ。ここからいえるのは、学校の一般的な試験によって、ただのIQテストに近い論理的知能を使うに過ぎない脳検査では、サイコパス・ダークトライアドは無論、人間の人格的知能を調査は全然できない(しかも入試を全員が平等な条件下で受けるでもないし、IQと一般的学歴も殆ど相関はない様だった)。だが世人は、ある程度の世知や通俗的な意味での常識があると思われる位の平凡な経歴の人達であっても、上述の事実をほぼ全く知らないであろう。それは彼らの世知が不足しているからなのだが、自分は無数の対立する経験をしつつその背景にある制度の状況を知っている。
 世知を得れば騙され辛くなる。
 自分の父親が自分にいおうとしていたのは、世間に騙されるな、ということだったのだろうか? そして自分へ親身になってくれた人達が労働忌避の忠告で伝えたかったのは、その種の悪質な者が混じっている俗世間に染まらず生きた方が幸福だ、というある種の希望的な期待だったのだろうか?

資本主義は善用も悪用もできる道具だが、清貧な者の慈善の尊さには永久に及ばない

資本主義は使い方によっては幾らかの善になる。悪徳商人を善徳商人が駆逐する場合、そして蓄財したお金を浪費せず、隣人愛に使う場合だ。
 但し、そもそも利益の為に奉仕する、という条件つきの善行(相利性。仮言命法)しか資本主義では駆動しえないので、 その中での善も、いわば究極の偽善としての相利性の追求に留まるだろう。真の善は無条件な善行のみ(利他性。定言命法)に求まるので、資本主義の中での善は、巨視的な意味では偽善でしかありえない。金持ちが慈善活動をしても所詮それは節税や罪滅ぼしの為の偽善の一部であって、清貧な人が貧者の一灯を以て慈善活動をした時の重みには及ばない。前者の結果の方が後者より金銭面で豊富であったとしても、慈善のありがたみはそれを行う人の善意に対するものなので、決してより深く感謝されないだろう。

イチローの政治思想と競技業績は違う

イチローがナショナリストなのは色々な言動からほぼ確かと思うけど(そして反韓的な思想も持っているのが事実の様にみえる)、だからといって彼の野球での偉大な業績を貶める理由にはなりえないでしょう。
 個人の政治的思想と、ある分野での業績を混同してる人の方が間違っているよ。

日本国民一般は地域差別主義者で同国民に群れるのを脳遺伝子レベルで好むので強制力で集団いじめを罰するしかない

日本人の大部分の人は私の生まれ育って暮らしている県を「魅力度が最低」といって差別してくるのだけど(特に京都の人や、東京都民、その他の大都市居住者により一層その傾向がある)、もし「差別主義者は社会的体面が必要ない人」が真実なら、日本人の大部分はその様だ。関わる価値がない国民なのか。
「日本人一般(特に大都市居住者)は、差別主義者ゆえ、関わる価値のない国民である」という命題が真実なら、日本語で読み書きしても無駄だということになりそうだ。はじめから英語か中国語で教育されていれば、日本語という母語に縛られて、関わる価値のない国民と情報のやりとりなどしなくて済んだのだが。今からでも日本語を使わない様に再び自己改造するしかないのだろうか。英語で読み書きするのは日本語でそうするより脳の負担が大きいのだが。
 ごく少数は日本語圏でも、差別主義に染まっていない人がいる可能性がある、と考えて日本語を使ってきたのだが、確かに自分の人生ではたった1人しかそういう人は見つけられなかった。その人ですら、自分がその人にかけられていた洗脳を解こうとして、はじめて、当人が差別に気づいた様だった。藤原正彦はとんだ間違った方向に啓蒙的な書物を著したものだ(『祖国とは国語』『国家の品格』等)。「日本人の大部分は、単なる差別主義者であるから、関わる価値のない国民である」「母語である日本語をはじめから捨て、英語や中国語で関わる価値のある国民とやりとりすべきである」と言えば正しかったのに。
 日本人の大部分はこの種の「恥」「世間体」から予想される制裁措置でしか悪行をやめないのは全くの事実の様に思う。そしてそれをやめる時も制裁されないよう具体的脅威の恐怖からやめるのであって、罪悪感というものは全くもっていない。いってみれば根っからの性悪で犯罪者気質だといえると思う。勿論、自分のようその種の日本人気質と殆ど正反対の個人(内面の良心に基づいてのみ行動し、恥や世間体といったものを顧慮しない傾向にある)もいるので、全員が性悪でないのも明らかだが。
 日本国民は群れて少数者を叩き潰すことを正義と勘違いしている集団いじめ主義者がほぼ全員で、しかもその悪行を制度化している自民党一党支配体制もあるので、救いがないし、この大学の判断(秋田公立美術大学が2019年3月21日の卒業式で、謝辞中で学生が陸上自衛隊新屋演習場への地上イージス配備計画に触れ、「平和な生活を過ごせるよう願う」と述べようとしたが、大学側の要請で取りやめた判断)も無理はないと思う。この島国で「個性的少数派」を選んだ途端、衆愚から権力乱用で死に追い詰められるので。一学生が声をあげて集団いじめ(政治的にはファシズム)に抗おうとしたところで、日本国民全体はその集団いじめ原理を正義と固く信じきっているし、反省するほど賢くない。
 しかも、日本国民全般がなぜそういう集団いじめ・ファシズムに走るかといえば脳の遺伝子にセロトニン・トランスポーター数が不足して生まれついていて、不安になり易いから群れて安心感を得たがる、というのが主な原因の一つの様なので、一種の民族病・風土病・遺伝病で直り様がない。
 最善なのは「日本国民を相手にしない」ことだ。直らない人達を相手にしている時間は無駄だ。脳遺伝子をとりかえられない以上、教育によって変化する範囲は超えていると思うので、半永久的に衆愚的集団いじめやファシズムを繰り返す集団と見なし、その種の犯罪衆愚を扱う仕方でのみ接するべきだろう。実際に、自力で日本人らが集団いじめをしている現場でそれを強制的にとめようとしたことがある人はわかると思うが、現実的には警察や自衛隊の様な具体的暴力を使わない限り絶対にやめようとしない。群れの大きな側に入っている方が安全だ、という鰯の様な行動規則で日本人一般は動くのである。
 或る一般人の主婦の人(静岡県民)が、国連で日本が注意を受けたと聴いたら「国連なんて無視していいよね!」と大真面目にいっていて、自分は大層びっくりしたことがある。しかし日本人一般の見ている群れつつ集団犯罪する準拠集団というのは、島国根性というべきか人類ではなく日本国民だけの様だ。

2019年3月23日

集団と自己を切り分けるべし

自分の所属集団、準拠集団と自分を同一視しないこと、それどころか相関や関連性も基本的にないと考えること。

尊敬できるゆとり世代の人もいるかもしれない

賢く尊敬すべき20代(ゆとり世代)を何とか見つけ出すしかないな。その世代への大いなる失望は、ただの確証バイアスに過ぎないかもしれないのだから。

芸術家は生まれつき天性がある人しか大成しない

或る芸術家ワナビー(芸術家になりたがる人)に、自分は親切心から色々手助けをし、精神的にも見守って行こうとした。実際に物心両面でできるだけの世話をした。ところがその人物はサイコパスな上に世俗的な人物で、一般企業に就職してから手の平を返し私をそしりだす様になった。自分は芸術家になりたいといっている人を助けるのはやめることにした。
 似た様なことは親友や友人らからも経験した。なんとしても芸術家、それも最初に目指した道を貫けない人は努力を途中で諦めて勝手に消えていくし、果てには制作活動をしなくなり一般人のよう世俗化した末に、合理化(自己正当化、いいわけ)の為に裏切り行為をしてくるものだ。私は少なくとも数度、似た様な経験をしたので、「またか」と芸術家志望ぶっている人間の挫折後の醜態を眺めてもさほど傷つかなくなった。はじめは余りのショックに一ヶ月ほど寝込んでいたのだが。
 芸術家は天才でなければ、決して成れる者ではない。このことは私が15歳の時から絵を描き始め今に至るまで無数の志望者らの葛藤劇中でつぶさに見てきた、一つの真実だ。だから芸術家になりたい、といっている人物は先ず永遠になれないと言っておく。そうではなく、制作以外できない人が必然になるのだ。単に制作以外できないだけではなく、絶えず制作していないと少しも生きた心地がしない、寧ろ制作活動しないといつ死ぬかわからないほど不安でたまらないという種類の資質が、天才性と呼ばれるだろう精神の実態だ。自分もほぼそれに等しい性質にできているから、逆に制作しないと生きられないのだ。
 この世には偽者の芸術家というのがいる。その人達は商業作家であり、何らかのプロデューサーに操られる人形であり、実際には制作しなくても別の仕方で生きていける。だから偽者の芸術家達は自動的に市場から消えていく。彼らはその方が幸せだったのだ。プロデューサーに搾取されているだけなのだから。
 次の点について誤解している人がいたから書いておくが、真に天才性を生まれもった芸術家にとってスランプというものは全くありえない。なぜなら常に創作していないと我慢ならない人が天才であって、それは泉や滝の様な物で、寧ろ当人が作品にしとめられている部分はその想像の奔流の部分でしかない。自分の場合は、絵に仕上げられるのは想像の全体のうち極めて小さな部分でしかないから、絵だけでは自分のあらわすべきものが視覚的・二次元的にしか表現できなかった。この点についても誤解している人がいた。その人は芸術家は一つの表現手段だけで十分だといっていたが、これは全く素人の誤解である。
人によっても違うだろうが、自分の場合、先ず表現すべき或る直感的印象というのが知覚されていて、それは自分の脳内にしかないものなので、世間にはこれまで存在しない。そしてそれが必要だという或る神の様な自分の中の命令に従って、私の肉体は何事かを作らせられる。だがそれは絵だけで表現できる物ではない。自分の肉体はいずれ死ぬが、少なくとも自分はその神としかいえない様なある強い霊感によって動かされて、様々な手立てで世界にあるべきものを作らされているのだ。しかも元々その神の力は自分を超えたものだから、自分の死後も別の誰かの中で私のみている計画図の制作は続いていく。絵に限らずだ。自分は、その直感的に知覚される見取り図は、殆どあらゆる分野にわたってみてとれるから、「この建築はこうあるべきなのに」とか、「音楽は本来こうあるべきなのだが」とか、印象として常に浮かびつつ、自分が書き留めないとそれは誰にもこの世にあらわされない。だからしょうがなくやるのである。
 今書いたことの範囲でも、芸術家になる人と、商人になる人では全然その資質が違う、ということがわかるのではないだろうか。我々は何かが売れるかどうかとか、それで儲けがあがるかとか、世人に好まれるかなどということとは全く違う思考原理で動いている。単に、自分の霊感に作らされているのである。当然、我々は何らかの展覧会とかで賞をもらっても、その人が俗物でもなければそんなことはどうでもいいのである。少なくとも自分は受賞式に出るのが面倒だし恥ずかしいだけだから、成人後は一度も出てない。今後も出ない。そんな時間があるなら自分の作るべき物を作るほうが優先だから、これは正しい。自分は30代になるまでは、単に展覧会に出さなかっただけでなく、自分の作品を作っていても世間のどこにも出していなかった。実家に帰ってきて制作を続けていたら、親が展覧会に出してみろというので出したり、或る人達が見せてとか売ってみろというのでウェブページや画廊を作ってみただけでしかない。実際、世間の人がどういってこようが、その意見の中に、自分の今後の制作にとってかえりみるべき慧眼がない限り、100%どうでもいいことなのだ。これまで世間の人が言ったことに合わせてよい結果になった試しも1度もない。逆に100%自分の中の神の声に従って良い結果になったし、自分でも満足できた。経営学の概念ではプロダクトアウトというやつで、単に100%我々作家側がよい、と判断した物を作り続ける以外、我々の職能はありえないといっていいだろう。これはこの文章を読む芸術家の人達は本当に考えた方がいいことだ。スティーブ・ジョブズの様な商人ではないのだ、我々は。間違えない方がいい。私の絵も殆ど売れていないけど、それは商業的な面でのことで、幾ら経営学だの商店主、画商として販売面での工夫をしても、自分が職人・作家として満足できない製品を世間に出してしまうと大いに後悔しかない。現に自分はそうであって、売らなければよかったという思いしかない。だから自分が清貧さの末に死のぎりぎりまで漸近していても、絶対に自分の信じる理想の作品から離れず、その極限までの洗練に全神経を集中すべきであり、それを邪魔するいかなる者とも縁を断ち、ひたすら最高の作品を実現することだけに全身全霊を注ぎ込むべきである。自分は16歳から17歳の頃、『Process』という名前をつけた100号サイズの絵を高校美術部で描いたのだけど、その時は朝から晩までその絵のことしか頭になく土日すら美術部室に忍び込んで1秒の隙間もなく全精神をそこに注ぎ込んで、展覧会期日の直前まで描いて乾いていないまま出した。そういうことだ。実際自分はその後も全作品についてそれと同等の精神で作品に向かおうとしてきたが、或る世人の下らない助言で売り絵を描こうとした時期が1年間ほどあった(3年くらい前?)。この1年間は人生を無駄にしたと思っている。生涯で制作に使える時間は有限だから、読者は似た失敗を繰り返さないで欲しい。
 正直な所、世人は芸術に関して全くの素人同然であるから、彼らにはどんな助言のしようもないのである。それらは全て素人がいっている単なる印象論だの適当などうでもいい様な戯言で当人達もすぐ忘れてしまう。そうではなく、自分の中に私の場合と似た神的な存在がいる者は、その声だけに従うべきだ。ゴッホとか宮沢賢治のよう一生涯、作品が売れなかったりそもそも換金せずに、清貧の中で死ぬことを想定してみよう。しかしもしそうなったとしても自分が納得できる最高の作品を残したのなら、それは芸術家としては正しい生き方だったといえるのではないか。逆の例を想定し、自分の良心に従うべきだ。
下らない作品ばかりを世間に出して、それらはどれもこれも二流以下の産物であるが世人がばか騒ぎしている、そういう偽作家なら無数に実例が見つかると思う。下らないな、と少しでも思える作品があれば、正にそれが取るに足りない生き方をしている人の似姿である。本当にそれが模範の生か鑑みてほしい。
 自分の中の霊感みたいなものはありませんとか、あなたのいう神的な声だかそんなの精神病者でもなければいるわけないでしょ、という人もいると思う。そういう人がgeniusと呼べるかは疑問だけど、私の経験から何も言えることはない。実際、美大とか芸大とかいって見れば殆どそういう凡才もどきだと思う。自分を超えた者から命令されることなしに、困難な道のりを最後まで辿り着けるとは自分には思えないから、霊感の様なものを感じない人が芸術家として長い間仕事をしても、最後には天才達の神々の決戦の場には遥か届かず、歴史の舞台にも永遠に現れないかもしれないけど、それは自分の責任ではない。

聖人は俗物天皇を反面教師に田舎で質素にくらすべし

我々が心から称賛を惜しまない人は、その人徳の高さにおいて我々の模範になるから敬われる。ところがこの称賛の表面だけ見ている俗物は、外形だけ真似れば自分も名誉を得られると勘違いしている。
 都市は社会的比較による嫉妬をいだき易い環境であり、惨めに感じない為には普段から顕示的消費(贅沢の誇示)による馬乗りをし合わざるを得ない。周囲の羨望を受けたいという名誉感情の動機に基づく俗物根性を極めると、皇族のよう世襲階級による制度的差別の上位者になりたがる。東京都千代田区や京都市のよう、自文化中心主義に基づく中華思想が俗物根性に加わると、華夷秩序に基づく地方差別と、夜郎自大な自己崇拝を行い始める。天皇家の自己崇拝を目的とする神道は、この様な理由で奈良時代に、土着の自然崇拝の抱き込みと混成を狙い興された、皇帝制度の宗教化である。顕示的消費は社会的比較により、より貧しい人に羨望させることが目的なので、神道による自己崇拝の宗教で政府と呼ばれる暴力団を指揮し、全国民を洗脳するという世襲独裁の構築、そして制度的なその隠蔽は、究極のところ、歴代天皇個人の俗物根性が動機になっているといえる。東京千代田区や京都市上京区など、ただでさえ俗物根性を満たす需要がある高人口密度の都市環境で、皇室という最大の俗物が住み着いてきた経緯を持つ地域では、周囲の人々も皇室に匹敵する浪費合戦に望むと望まざるとに関わらず参加せざるを得ない。その規模が拡大すると華夷的に諸々の差別をもたらす。東京や京都、その他の大都市部で、商業、学術文化、政治はこの自画自賛の差別を目的にした俗物競争として行われている。結局、皇室に馬乗りすることこそそこでの最終勝利になるのだが、歴代将軍(マッカーサー元帥を含む)は部分的にしかそれに成功しなかったのである。
 世襲の差別が制度的に排除された米国をはじめとする共和国でも、俗物根性は程あれあるが、少なくともそこで最も敬われる特性は、身分の同じ共和国民同士への社会貢献の度合いになっている点で、封建制の名残を留めた名目君主のいる国より、功利主義的(国民全体の幸福を目的にしている意味)である。
 我々が人徳においてのみ真に尊敬すべき人物になりうるのが事実だから、聖者は羨望や嫉妬を目的に人口集積された大都市部を避けて生きるべきことになるし、利他的な社会貢献の度合いが救いという聖なる行動の質でもあるから、賢明な個人はくらしの質素さに付随した隣人愛の実践をえり好みする筈である。

社交は利他的な人と接する場合しか望ましくない

人は利他的な人とのみつきあうべきだ。
 人を不幸にする第一原因は利己的な人との関わりだ。この意味での社交は完全に害悪でしかない。もし(SNSを含め)社交するなら完全に限定しきった利他性の高い人達のみとのやりとりに留めるか、利己的な下衆の言質が全く見聞きされない状態でなければならない。
 営利企業のよう相利的な相手の時、必要を超えて広告や事業者と接しないことだ。

SNSは社会的比較を餌にした営利企業の宣伝媒体に過ぎず不幸の原因になる

SNSを全く使わず過ごしていた時と、それを利用し始めた時とを比べると、明らかに使い始めた後の方が幸福度が低い(参考研究 "Facebook’s emotional consequences: Why Facebook causes a decrease in mood and why people still use it" Christina Sagioglou, Tobias Greitemeyer. 2014)。社会的比較も、それを理由にした社交自体も時間の浪費に他ならない。だからSNSを流行させているIT企業が馬乗りによって虚栄心に耽りたがる俗悪な人々を広告媒体に利用しているだけで、それを使う利点は万に一つもない。
 また金儲けの宣伝媒体としてSNSを使う人達は、単に他人を搾取対象としか見ていないのだ。一刻も早くこの種の悪意の巣であるSNSを逃れるに越したことはない。

意気

義烈両公の魂伝えける梅がわれをも励まして咲く
卑俗なる世々を超え来てわれ迎ふ梅が今にも意気を伝ふる

梅の花

梅の花われを迎えて咲きにけり

2019年3月22日

天皇已亡

天皇已亡 吾民当立

ネット投票の実装を急ぐべき

ネット投票できるようにしてください。ばかげた自民党のために投票場まで出向くのは一苦労で、報いが安倍晋三の退治だけだというなら、「誰か勝手にやってくれよ」って思うのが自然だと思う。スマホかPCで1秒で退治できるなら誰でもやると思う。

つきあっている相手は己の格式にふさわしくなる

人は自分の格にふさわしい相手とつきあうことになる。その人物がつきあっている相手を見ると、どういう人物なのかは間接的に分かる。

SNSは有害

日本語が通じない人と会話させられて、とっても疲れた。
 ゆとり教育が「偏見」だと思ってる人は多いだろうけど、本を1度も読んだことがない、とかいうゆとり世代の短大卒の人と会話してみるといい。文盲に近い国語力の相手と文章でやりとりすると、相手が誤解しかしないのがよくわかる。文盲なだけならまだしも(しかも教育を受けられなかったのではなく寧ろ贅沢に育てられエスカレーターで短大卒になっているので、怠けてきただけ)、その相手が性悪だった場合、会話する限り悪解釈しかしてこない。
 ゆとり教育世代の読書率は致命的なくらい下がっているわけだけど、本当にやばい。
これまでの常識ではありえないくらい文章が読めない、日本語が読めない、文脈や文意が読み取れないという人が20代以下、とっても増えている。それは教育の失敗もあるし、インターネット動画や漫画アニメゲームの普及で文字を読まなくなり、読解力や科学的思考力が低下していく前提になっている。
 では文学オタクとか理系馬鹿の様な部類の人がどうかというと、匿名サイト中で育ってきただけあって荒らしの様な連中ばかり。こっちはこっちで必須科目で倫理という教科を学んでいないし、とかく言語や知識を悪用する一方だ。
 文盲も不道徳もどちらも致命的にまずいが、ゆとりはそんなのばかりだ。日本の将来は、このゆとり世代という文盲・不道徳の衆愚的な集団が、恐ろしく悪質なものにしていくと予見できる。だって普段から想像を遥かに下回って最悪級のこと、具体的には人種差別をまきちらしたりネット右翼的な暴挙を当たり前かの様におしつけあっているのだ。しかも拝金主義しか信念がない。余りに知能が低いと、学歴差別とか大企業差別、所得差別、資産差別、地域差別の様な、不躾で単純な階級差別に陥り易い。このこともゆとり世代の人達を一般的に観察しているとよくわかる。封建時代級の知能、中世程度の知能しかもっていないのである。子供はばかだ、というのはどの時代でも一緒だったろう。若者は世間知らずだから仕方ない、と解釈するのは楽だ。けど自分が現実に体験してきた「酷さ」は、そういう部類を遥かに下回っている。できが悪すぎる、というのは、若さからきた無謀さとか、世間知のなさとかとは全然違うものだ。教育の失敗が主要な原因だとは思うが、それに複合要素として、インターネットやサブカルチャーといった愚者の娯楽がくみあわさって、巨大なネット右翼的衆愚を生み出してしまっている。そしてまとめサイトが規範のネットネイティブとしてぴったりこの人達が20代から10代後半の世代にあてはまっている。世代論自体の有効性が成り立つかどうかとは別に、自分が接した20代の人達のほぼ全員にあたる「ネット右翼的」「差別的」「不道徳的」「拝金主義的」「国語が読めない」「科学的・批判的思考力がない」、特有の性質は誠に確かなもので、自分にこの国民の将来を果てしなく悲観させている。
 自分の一個下の世代について詳しく知らなければよかった。
 当人の不勉強(失読症でもないのに一冊も本を読んだことがないとか)で国語が読めない人、日本語が満足に使えない日本人に、何かを説明したり教えることもできないし、恐らく一生の間、あらゆる文字・口語の情報に誤解を積み重ねて死ぬのだろう。何とか情報を伝えようとしても、限りなく無駄だった。自分より遥かに愚かな人と接することで、人間関係で不幸な目にあう、というのが自分の人生に暗い影をおとしている全類型だから、確かに自分もなるだけこの国民達一般と接さないのが最善らしい。自由至上主義者になって、なるだけ自分に悪影響な日本国民一般と接さずにくらすしかない、というのが現実なのだから、SNSも自分より遥かに愚かな人との接触可能性が高いほど有害なのだろう。これは自分が15年以上インターネットを使い続けてきて、経験的な真実だ。ネットでの接点が不幸の原因だった。SNSで自分より賢く、尊敬に足る人を見つけられた試しがない。逆は無数にある。賢者や人徳者がもしいたとしても、SNS内で発見するのはほぼ不可能にみえる。
 これが自分の驕りではないかと疑ってネットを渉猟して15年経過したが、先ず尊敬すべき人物をみいだせなかった。自分にはSNSは害なのだ。今日から自分はSNSをなるだけやめて、他の賢人らと同じく孤独な哲学的生活を続けるつもりだ。今から4ヶ月ほど前に実験としてツイッターを本格的に使用してみようとしたが、結局、ここで取るに足りない人の無思慮に忠告を重ねても時間を無駄にするばかりだった。そもそも賢者は忠告されるまでもない。

平和

平和
2019年
PNG画像
7680 × 4320 px

ダウンロード

復讐と恩賞は精密かつ必然でなければならない

ひとたび自分の名誉を傷つけてきた者は閻魔帳に永世記録し、相手が謝罪や講和をもちかけてきてもはじめの罪を決して揺らがせにせず、また相手が敵対し続けてくる様ならどんな手を使っても相手の一族郎党を滅亡させ以後もひたすら自分の名誉回復に努めることが重要だ。
 この世に生まれきて何者かに自分の名誉を汚されるいわれなどどこにもないのだから、それを行う者と表面的に講和した場合でも、根底では最初の閻魔帳の記録を常に参照し、相手へ十分に復讐しきるべきである。
 我々の一命が消えても名誉は永遠に残る以上、どちらが重要か語るまでもない。命より重い価値を汚した相手について記録した閻魔帳は、何度でも参照し、相手に十分な報いを与えるまではひたすらその記録にしたがって行動するがいい。
 復讐は永世にわたるべきで、相手の子孫末裔が完全に消滅するまで続けられる。
 復讐は単に法秩序や政治権力によるものだけではなく、ありとあらゆる方法を駆使して行われるべきだし、その復讐が表だってのものであれなかれ、重要なのは閻魔帳に記録してある己の名誉に対する罪と誉れに基づいて、世界を作り直していくことだ。裏を返せば、己の名誉を高めた者については、その末裔まで功績の度合いへ精密に応じた恩賞を与えるべきだし、恩義に報いることは完全に必然でなければならない。

都会っ子の平均体力が低く軟弱なのは統計的事実

都会人は駅まで平気で10分以上歩くので都会っ子は軟弱というのは嘘と断定的に述べているツイートへ宛てて)
全国体力テスト(小中学生)の成績を見る限り、田舎の平均体力が高く、大都市圏(東京、関西、福岡)の平均体力が低い。
 都市部は子供が運動できる場所が少なく、田舎は広い。北海道の平均体力が低いのは都市部への人口集中度が高い為だろう。
 車使用の慣れ方と、子供の平均体力に相関関係はない。
女子小中学生体力テスト、文科省、全国体力・運動能力、運動習慣等調査結果、2010年
男子小中学生体力テスト、文科省、全国体力・運動能力、運動習慣等調査結果、2010年
人口集中度、国勢調査
子供の体力に限って、都会っ子が軟弱なのは、統計的な事実。車移動に慣れているかどうかとは関係がない。
「田舎は広いので車移動」「都会は車庫費用から自家用車をもてる人が少ないので電車移動」が多い、としても、ここから都会在住者・田舎在住者の一般的体力差は類推できない。更に駅から遠い場所に住んでいる個人的事情を組み入れ、俗受けする逆説風に論理がすりかえられている。
 なおこれらの文科省統計に表れた体力差は「平均」であり、個々人の体力を意味しない。したがって都会っ子でも強壮な者はまれにいるし、田舎の子でも軟弱な者もまれにいる。
(冒頭のツイートが「地方勤務の結果」、上述の断定を導いたと述べていることについて)
東京も東京地方、関東地方なので、東京地方勤務、という言い方もできる。筆者は地方と中央、という中華思想的な意味で「地方」を使っているのだろうが、全国から見れば東京もただの一地方である。
 結局、駅までの10分~15分足らずの徒歩移動は、それ以外の遊びに使う運動比率に比べて運動量として明らかに足りないから、単に電車移動が主な都会っ子の体力を増加させえていない、といえるだろう。

問い

私は眠りつついう
あなたはなぜ生きているのか
なぜ生まれてきたのか
答えのない問いに沈みつつ
全てが誤解に過ぎないとしても
なお私は問い続ける

人の意味

世界は徐々に壊れ
宇宙全体が無意味になっても
人は全員不必要なままだろう
人は全員邪悪なままだろう

資本王政を執る善なる新興国は衆愚化した旧先進国を超えた力を持つだろう

Relentlessというジェフ・ベゾスの好きな言葉。
 自分は以前、某匿名YouTuber関連で議論した時、擁護者の女らしきのが「(そのYouTuberが)相手を追い詰めないところが好きです」と書いていたのを聴いて思い出したのだが、確かに自分は或る場合、relentlessが発揮されることを大変な快楽だと感じる。その快楽に類した容赦なさは神の怒りの様なもので、人間界の愚物や悪しき群れを完全に殲滅する様な場合だ。この意味で自分は人間というより神に近い精神をもっている。自分のrelentlessはまれな場合にしか知覚されないし、基本的に自分は恐らく全人類でも最も寛容な人間の一人だと思うが、確かに、その容赦なさを発揮すべき場面(神の如き正義や善に関する場面)では自分は神として振舞う。その至善と呼ぶべき地点では、少なくとも完全な無私がある。
 ベゾスはアマゾン帝国を築き上げた偉大な起業家だといえると思うが、その根底には小売業の絶対権力を巡るあるrelentlessが潜んでいる。自分もこの点でベゾスの精神にかなりの共感を覚える。イチローは立派な記録を打ち立てた偉大な選手だ。しかしrelentlessの点で傑出しきる前に引退している。
 全人類を絶滅させる様な力があった時、自分はそれを正しく使える自信がある。同時に、全人類を繁栄させる力も、世界で最もそれを正しく使えると思う。自分に興味があるのはこの力だ。その絶対的な力は容赦のない力であり、自然の根底にあり、全人類の利己的な悪意を完全に超えている。全人類がなんと言おうが、その一員が下らない人間を利己心で擁護していようが、神の圧倒的な力の容赦のなさの前では全く無意味に等しい。自分が欲しいし、また実際に現実に可能な限りで手に入れようと努力しているのは、この至高の力な気がする。
 芸術作品の中では仮想の生物界でこの力を揮える。いいかえれば自分が創造主として、或る世界の秩序を完全に支配できる。自分の容赦ない世界、全人類の卑小さを完全に超えたまったき善なる世界(故に寛容さも最大になる)は、この意味で虚構としてはいつでも実現できる。現実でこの力を発揮すべきかどうか? 自分の国を作るか帝王として可能の筈だ。
 資本主義は蓄財の頂点を実質的な無限にしているから、そのしくみを完璧にのりこなせれば地球の帝王として、全人類のほぼ全ての富を独占できる筈だ。それを実現できれば、現実でも容赦なき力を全人類に向けられる。
 哲学は利他性(善一般)を思想の面で高度化する唯一無二の道のりだが、同時に力をもった場合しか善き社会は現実化されない。人類一般は道徳的な個人より無思慮で相対的に悪質だから、強制力なしにはより良い秩序に従い得ない。プラトンの哲人王の理想は資本主義下では、容赦ない富の独占で実現される。
 金と権力の癒着による絶対政治の腐敗を防ぐ為に、首相・大統領の資産要件を定め、国民の資産中央値額以下の場合しか最高権力をもてなくする、というのが旧先進国で独裁者出現への対策になるだろう。一方で、世界一級の富豪らは自力で土地や軍隊、会社を買占め、新たな国々で王政を執るだろう。より容赦のない絶対善が実現されるのは、富豪が王政を執る様になった新興国だから、妥協的な旧先進国の多数政治では太刀打ちできず、覇権は王国にきりかわる筈だ。したがって1世紀(100年)単位以上の長い目で見れば、資本主義の原理を純粋に追求すること、旧先進国を捨て去ることが正道と思う。資産増大とその独占に有利な国々へ移民し、そこで何れかの国で王政を執るまで蓄財と買収を進め、旧先進国の腐敗した民主主義界、衆愚社会を遥かに超えた善い社会を単独支配で実現する。これが容赦ない力を実現した場合だ。自分にそれができるなら、実行していく。無理なら芸術作品で仮想的に実現する。

名誉毀損民事裁判に特化したネット上で完結する賠償ビジネスは社会正義を兼ねる

日本人は匿名・偽名で犯罪するのを趣味にしている荒らしが非常に多いので、特定の弁護士と組んで、名誉毀損裁判で金儲けする、という企図は大いに繁盛すると思う。一度以上、実際に名誉毀損の民事裁判で勝訴した証拠を作る、というのがサイコパス忌避剤として有効だから、自分も何れやってみるかもしれない。確実に勝訴していく、確実に賠償金を儲けていく、というタイプで、ネットの荒らし・サイコパスその他からの名誉毀損事件の実情を熟知した弁護士が一人以上見つかればいいのだが。
 荒らしやサイコパスは「自分と違う人」、「異質な個性」を(しばしば匿名暴徒に群れて)攻撃する性質があるから、芸術家の様なはじめから個性的な人物は、ただネット空間にいるだけで被害にあう。我々が名誉毀損民事裁判での金儲け手法を確立できれば、日本ではほぼ半永久的に安泰だと思う。まだ誰も気づいてないだろうけど、5ch・2chに実名であたりさわりないことを書き込むだけで、ウヨウヨと犯罪者が釣れるのだから、本当に大きなビジネスチャンスが眠っている状態だ。
 ネットの名誉毀損民事裁判に特化した弁護士事務所を開いて、手続きを最大限簡素化・合理化し、被害者側は書き込まれた証拠と身分証等での本人確認を済ませれば一連の賠償収益がネット上でほぼ完結するシステムを作り、流行させれば、ビジネスとしても巨大になるし、社会正義も果たせるはずだ。
 追記。先日、復讐と恩賞について書いたけど、聖書に「復讐は神がする、自らするな」と書いてあるのだが、これが悪人は悪徳で自滅する可能性が高いから一々訴訟費用を払うまでもない、という意味なら、民事訴訟もそこに入るのかもしれない。つまりなるだけ訴訟せずに済ました方が総費用が安いのかもしれない。

安倍首相は嘘を断定的な口調でつく傾向にあるので4期目を狙っている可能性が極高い

安倍首相が断定的な口調で4期は考えていない、という内容の発言をしたらしいから、彼のダークトライアド的な先例通り、4期目を狙ってるんだろうね。多分、「自分の半永久的な独裁を堅固にするため衆参ダブル選挙のタイミングを狙う」という意味だろう。
安倍首相「記者会見で三村会頭は「マックスであと1期」と仰ったと伺った。さすがに4期目は考えていないということかと思うが、私もまったく同じ心境だ。連続3期9年までというのが自民党の明確なルールなので、正真正銘3期目が最後の任期となる。(都内、日商通常会員総会で)」19/3/20

2019年3月21日

脳は専門化できても汎用化されない

勉強しかできない馬鹿というのは、脳の性質上、容易にありうる。その人は学校教育で行う何らかの知識の暗記や思考型に習熟したかもしれないが、それ以外の領域では全く役に立たない脳のままの人だ。
 脳は専門化できても決して汎用化されない。
 高い学位・学歴保持者が一般的な知能や人格に劣っていても何も不思議はない。彼らは専門性の中でも限られた領域の知識しか試験されていないし、またその学習課程が一般教養的でない限り博学さの証明にさえならず、万能の知能がないのは当然のことだからだ。
 政府や企業の人事考査が経歴書の中にある学位・学歴を差別の手段にしてきた文化慣習は、独学や教育課程の外にある学習を無視しているし、特定の専門知を他の知能と後光効果で誤認しているだけだった。だから一般人が賢さの目安にしている学位・学歴は基本的に誤った信念であり、ただの差別的妄想だ。
 或る領域での能力はその分野自体で試されねばならない。実地以前に何らかの別分野での成績を能力の類推にあてがうのは、能力間の共通部分が隣接性などで必然に因果づけられない殆どの場合、間違った判断をもたらす。

ぬるい陽気は脳が死ぬ

暖かい陽気は脳が働かない感じがするから嫌いだ。夏になると昆虫や細菌も活発になる上に暑くて不快だし。
 自分が住んでいる地域は日本では年中涼しい方だけど、できたら年中、秋から冬(関東の冬程度)の肌寒さが続くところがいい。租税回避地は南国ばかりみたいだし、国が潰れたら北欧か英仏に行く。

ネット右翼の本丸は自民党ネットサポーターズクラブに洗脳を受けたゆとり世代

2019年3月19日夜、韓国の金浦空港で日本政府の厚労省労働基準局の課長が泥酔し、「韓国人が嫌いだ」等といいながら空港職員に暴行を加えた事件について)
「ゆとり世代」というネット右翼の本丸が続々と世界中に恥をばらまくのはまだ先だ。自民党ネットサポーターズクラブが税金と企業献金で作り上げた差別主義者の大群が、日本を世界の反面教師にしていくはずだ。

詩はある意味を伝える為に最美の配列

綺麗な言葉を羅列できないというのは、詩才がない、凡愚だということだ。同じことは言葉という道具だけでなく、音の配列や、色の配置についてもあてはまる。
 恐らくこの人(ツイッター上の「ラテン語たん」アカウントの中身の人)が「或る綺麗な言葉の配列」を「お洒落感だけ」と非難しているのは、内容と形式を分けて考えているのだろうが、真に綺麗な言葉の配列というのは、言葉の本質が音や文字だけでなく意味を伴っている以上、内容の配列も含む。即ち、よい詩は意味の美を伴っている。
 意味を伴わない表面的な美辞麗句を修辞的に駆使する傾向の一部は耽美主義と呼ばれるが、これは単なる一形式であり、優れた詩の全体ではない。哲学も記述・筆写される限り散文詩だし、いかなる内容も形式なしに表現できない(どの様な思想も言葉を使う限りその文体・口述の形式を通じて表現される)以上、美辞麗句を道徳的意味より重視する耽美主義者の一部への嫌悪を以て、詩の全体を誹謗するのは間違えている。
「真によい詩は意味を伴う」が、修辞を伴わない詩は言葉の音声・文字面を無視しているから耳目を引くほど美しくない。
「辞は達するのみ(言葉は意味を伝えるだけのもの)」なら、或る意味を伝える為に最善最美の言葉の配置がある、といいかえることもできる。

某偽史書は単なる浅はかな小説

話題の本を手に入れてしまった。自分は幕末については自分の限界まで調べた経験があるからその記述を読めば大体どのくらいの史学水準の人かわかってしまうのだが、この人は作家であって史家ではないね。資料の記述がないのがそれを証明しているし、考証の態度ではない。当人の主観を記述している。一々下らない論争に巻き込まれたくないから具体的書名も挙げないけど、これは完全な俗書です。省みる価値は先ずないし、小説なのに史書の体裁をとるという悪質なものだね。目的は洗脳でしょう。
 案の定、文系学問に弱い某脳科学者が褒めていた。将来の日本人の子供がこれを規範にしたら悪影響だ。特定学位の後光効果と、知性の深さ・広さはまったく別のものだ。或る学問の博士号自体、当該分野について単なる論文執筆時に調べた専門知識の一部しか問われないのに(修士論文も院試も網羅的ではない)、その権威を悪用して万能ぶるから誤解を招く。通俗書を愛国的だとか言って褒めるのは余程馬鹿だ。
 何しろこの俗書、自分が書いたウィキペディア上の記述をそのまま載せてある。勿論、その記述を当人の妄想に都合がいい歪めた観点で、自説の補強の為に無断引用してある。根底にある史実には興味や理解を示さず、執筆者は当人の妄想を優先する、歴史の表面だけなぞる非常に浅はかな人である。

茨城から全世界の美術史を自分が革新する

日本って米英仏と違ってハイアートの市場が恐ろしくない(漫画アニメなどのサブカルか、ガラパゴス化した公募展美術、又は中世的な写実画が殆ど)。村上隆は日本市場での自分の評価はゼロだといっていた。この意味で、ハイアートで生活費を得られないから日本国内で我々は永久に職能を生かしえない。
 日本国民一般は欧米美術史の教育を受けていないから死ぬまで現代美術に追いつけないし、サブカルのよう無教養な商品市場で満足しているからハイアート側に関心すらない。専門家だけはそれができるが、今度は国内市場がないので、Kaikaikikiの人達のよう製造輸出業者になるしかない。前衛の死地だ。
 結局、国内で美術作品で生計を立てるには村上のスーパーフラット理論に則って中教養な中間芸術という中途半端なものに落ち着くしかないのかもしれないが(素人には漫画にしか見えない奈良美智のオールオーバー絵画のよう)、少なくとも自分は自ら馬鹿の演技をするのに耐えられなかった。自分を中心に日本国内にハイアート市場を作り出し、米英に追いつき追い抜くか、さもなければこの国を諦め、高尚な芸術を目指す人は米英仏に移民して欧米美術史の一部になるかだ。村上隆は後者であり、自分は今の所前者を試みている。それが不可能なら日本を捨てよう。
 自分の生前に日本で自分が米英の美術思潮から先に進んでいる芸術家として世界に名を轟かせ、死後は自分の作風を参照した日本人らが米英より進んだ前衛性を国内発で発揮していければ、自分の美術史に対する現代的意義は果たされたといえる。
 この国の美術界の問題点は、先ずハイアートの市場が全くないことに尽きる。なぜなら米英で確立済みの投資・売買対象としての前衛市場がない。クレメント・グリーンバーグの様な重要な前衛主義の批評家が未出現で(美術史学や批評水準が低いか、学問的でなく低俗)、法も作品寄贈や競売に不利すぎる。ただでさえ美術市場規模が巨大な米英仏で、しかも法や政府が前衛を後援さえしており、国民側に芸術への理解もあるのだから、言語の壁さえ乗り越えられれば移民または輸出した方が早い。だが自分は茨城県や北茨城市を中心に、世界美術を革命したいのだ。東京を潰し、米英を乗り越え、世界史を作るのだ。
 自分の地元、すぐ近所で(自分の祖父母の代に)大観ら五浦派の前衛画家らが重要な近代日本画の革新を行っていたのを間近に体験して自分は知っているし、唱道者の天心が日本発の世界美術を志向していたのも確かだから、自分は文化的にその後継者なのだ。彼らの大志は自分が確かに果たすだろう。全盛期の東京文化、サブカルチャー群がどれもこれも下らない偽美術だと知れ渡った未来において、自分の作品だけがこの時代の粋だったと、世界中の人達が知ることになるであろう。

絵画は同時代の全体的抽象でなければならない

古代、洞窟の中で壁画を描いていた人は私の先祖に違いない。私自身も今それと同じことを、YouTube Live上で、あるいはグーグルやアマゾンのサーバーに二進法で蓄積されたデータ上で行っているのだから。現代文明が滅びて後、私のこの仕事だけが現生人類の全記録になるのだ。
 自分が洞窟壁画を描いていた最古の画家の直系子孫だとして、自分が現代文明滅亡後の未来の何者かに、この時代を結晶させた情報を残すなら、それが最純最美の全体的抽象であるべきなことは明白だ。

社会科学は個別社会の分析なので自然科学の普遍性とは違った評価基準がある

「日本の社会科学が国際化できないわけ」渡辺敦子(2016/10/1、Japan In-depth)に寄せて)
論文の同時代までの、または他国での引用率がその論文内容の重要性の唯一の指標ではない(科学ポピュリズムに過ぎない)ことは明らか。また社会科学は自然科学と違い個別社会を分析しているから普遍性が必ずしも重要な価値とは言えないだろう(自然は全地球でかなりが共通)。ここでみられる精神的態度は自然科学の方法を他分野のものさしにしようとする「科学主義」であり、当然それは他分野にふさわしくないとき間違っているから、社会科学の重要な評価基準が引用率だという前提から普遍性への信仰まで、この評論の基本となる部分には科学哲学上の齟齬がある。

統計的手法は何れも真理の担保ではない

(二項対立(適当に決めたp値が有意水準aより大きい、より小さいの二分法)で標本分析を行う統計的有意差を撤廃し、確率として百分率化した信頼区間を使うべし、という2019年3月20日の雑誌「Nature」の評論、"Scientists rise up against statistical significance"について)
既存の統計的手法を信仰の無前提な根拠にしている人の知性はごく疑わしい。母集団や検定といった統計的手法の前提になっている条件が、人為的で、相当程度恣意的なものだと知らない訳でもないだろうに、なぜかそれを真理と意図的に誤認させているのだから。素人を騙す為にそうしているとしかいえない。

内向的な人は既存SNS上に居場所を見つけがたく田舎で孤独な楽しみをもつ方が良い

アメーバピグという匿名・偽名SNS、自分は2011年の大震災の中で、現地の情報を伝える手段として選び、中で色々な啓蒙活動を行っていたのだが、殆どの人達は被災地に興味などなく逆に犯罪行為を日常的に行っていた。中には被災者でありながら他の被災者を誹謗中傷して遊んでいる人物がいて驚いた。2ch(5ch)やアメーバピグという2つのサイト、そしてツイッターを観察してきた限り、日本人一般は、『菊と刀』の恥の文化論で知られている様、罪悪感というものが希薄で、社会から個人特定され集団制裁されない限り、匿名・偽名条件下では容易に群れて犯罪行為をする誘惑に先ず抗えないらしい。
 糸崎公朗 (@itozaki)氏はYouTubeチャンネルやツイッター上で、ソクラテスやラカンの概念を紐解きつつ、実名顔出しの現実的な存在として矢面に立つ覚悟で言論・表現活動をするのが貴族にとって自由に伴う当然の義務だという旨を述べている。「自由権を行使するなら必ず自らその責任を取らねばならない」。インターネットによるコミュニケーションが始まってまだ歴史が浅く、1999年5月に2ch(5ch)が始まり20年程度しか経っていない。その中で匿名・偽名系のサイトが日本国内の犯罪の温床となってきた事実は、日本人の集団制裁的な恥の文化と匿名・偽名系サイトの相性の悪さを実証していると私は思う。
 裏を返せば、個人特定が前提になったSNS上で、日本人特有の匿名・偽名犯罪が不可能なのは、フェイスブックやツイッターで部分的に実証されている。そこで悪意ある振る舞いはそもそも周囲の目があり難しいのみならず、実際行っても容易に個人特定されるので、規約に照らしてBANされるからだ。日本社会・日本人集団に特有の倫理規範の分析。これは社会学の領域なので専門にしている人達が更に研究して欲しいが、ルース・ベネディクトの時点で「(周囲の目による)恥」という集団制裁が彼らの行動規範になっていると考えられていた訳で、このことは現状も変わらないと思う。良心は希薄なのだ。日本国内のBBS(電子掲示板)やSNS等のインターネットコミュニティがこの国民性・民族性の良い点を伸ばし、悪い点を抑える様に作られるべきだとすれば、「恥」を感じさせる監視的な実の個人特定性を持たせるべきだといえる。つまり現状、フェイスブックが最善で、2ch(5ch)が最悪だといえる。
実の個人特定性が高い順(実名顔出しに近い人が多い順)で仮に配列すると、
Facebook>Tiktok>Instagram>YouTube>Twitter>ブログ>Ameba pigg(2019年で終了)>5ch(2ch)
となるのではないか。そして凡そこの順で恥を感じさせるため日本人で悪事する人が少ないのではないか? Facebookグループを利用してサロンコミュニティを作っているインフルエンサーらは、通常のフェイスブックより更に特定の個人接触の頻度が高い条件を作っているので、この論旨によれば極めて合理的で、悪意ある人が介在し辛く、日本人集団の間でさえ日々建設的なやりとりができるのではないだろうか? 「リア充(リアルで充実の略)」と「コミュ障(コミュニケーション障害の略)」、「陽キャ(陽気なキャラクター)」と「陰キャ(陰気なキャラクター)」という単純な対義語で、社交・内向の各々の性向をもつ人々は、SNS・BBSを使い分けてきた。ところが上記の理由でこれらのSNSには基本として社交的な人が有利な条件がある訳だ。現実には内向的な方がIQが高かったり他人の気持ちを読み取る能力も高い傾向があるので、社交的な人より商売に向いていたりリーダーシップの面でもしばしば成績がよかったりする。つまり、現状SNSは社交的な人が個人特定コミュニティで人気になり易い一方、内向的で能力の高い人は偽名・匿名コミュニティで悪意ある人々の生贄にされ易い。内向的な人(故に友達は少ない)が個人特定可能な条件で、善意の人達に囲まれる、という場所は既存のサイトでは先ず存在していないのである。
 サトシ・カナガワとノーマン・リーは2016年の論文(Norman P. Li, Satoshi Kanazawa "Country roads, take me home… to my friends: How intelligence, population density, and friendship affect modern happiness" 2016)で、多くの人々の幸福さは田舎(低人口密度)に住むほど上がり(つまり社交頻度は不幸を生み出し)、知的な人ほど友人といない時の方が人生に満足しているという。これは社交的な人の悪徳がもたらす負の影響によると思う。社交的な人は他人の気持ちを読み取る能力がより低く、それによって他人を傷つけたり空気を読まない傲慢な自己主張をし易く、目立つインフルエンサー(ネット芸人)となってIT企業の客寄せパンダになっている。しかも鈍感なほど高い頻度の社交でも他人の痛みを感じづらいので、東京に集まり易い。
結論を言うと、
1.匿名性が高い日本人コミュニティほど犯罪率が高くなる傾向があるので近づくべきではない(荒らしの嗜虐快楽に使われている)
2.内向的な人はネットでも居場所は見つけがたいので少数の友達とやりとりするか田舎で孤独を楽しむ方が良い
3.将来、内向的な人の為の実名SNSができるかもしれないが、そもそも高い知能(恐らく特別な知能)をもつ人はそれに劣る友達から学ぶこと少なく、他人の気持ちが分からない社交的な人と接する害は大きいので、実現しづらい(私的な連絡や、閉鎖的サロンの様な形になるだろう)

天使と名乗る人物による私への名誉毀損のこと

久しぶりになぜアメーバピグ上で「天使」というニックネームを使っている人が、私を突然、誹謗中傷(侮辱、名誉毀損)しだしたのかを分析してみた。以前からこのことには耐え難く思っているのでサイバーエージェント社に通報もしたのだが全く対応されない。当人に注意しても名誉毀損をやめない。それでこの人を色々観察し、改めて私を誹謗している記述について、記録がてら読み直してみた。そこに書いてあるのは自営業や自由業者を無職と同一視している記述だった。天使は自営業・自由業者を頭ごなしにある偏見で侮辱しているのみならず、無職に対して職業差別の記述をしていることがわかった。
 結論をいうと、この天使(又はデンデロリーナ)というニックネームを使って、ピグやツイッター、荒野行動などで私へ数年間、名誉毀損を繰り返している人物は、職業に関する差別をもっていて、その差別観に基づいて、私を一方的に名誉毀損しているのだった。天使(ツイッター上では@tenshipigu)という人物は当人のアメーバブログ中で、私がしてもいない(する筈もない)犯罪行為を妄想で捏造し、その冤罪の記述と共に職業差別により私(ピグ上のニックネームはレコナー)の名誉を毀損している。これは単にアメーバ利用規約に触れているのみならず刑法に触れるといえる。法的対応をとる為にはアメーバ上の活動が実名の人物とどの程度関連づけられうるか判例を辿るしかないので、これまで深慮の元にこの天使と名乗る人物のその後の犯罪的活動を注視してきた。そしてこの人物は、自分以外の人達に対しても、ピグやツイッターで名誉毀損・侮辱を繰り返しているのが分かった。自分にできる最善の対応はこの天使と名乗る人物の犯罪的な言動の記録をとり、証拠を集めておくことだったので、数年間その為に時間と手間を使ってきたのだが、アメーバピグは今年一杯で終了すると決まり、法的対応までの猶予も切迫してきている。それで今回この様な記述をするに至った。
 判例上、ニックネームでの掲示板・SNSでの活動でも個人特定可能なら名誉毀損罪が成立したことがあるので、天使と名乗る人物のそれも刑法に触れる可能性はあるが、警察は少なくとも規模から役所対応でお茶を濁す筈なので立件に至らないと考えられる。したがって可能性があるのは民事訴訟によるものだ。名誉毀損罪には時効があるので今後も証拠を集めながら当該人物の動向を監視しようと思っていたのだが、自分以外の人々も類似の被害にあっていることもアメーバピグの終了が近づいていることもあるし、自分は当該人物を殊更憎んでいるのでもないので(犯罪行為が迷惑だとは思うが)、今後を思案している。この天使と名乗る人物の職業差別的観念については当人の思想信条の自由の範囲ではあるが誰かの人格に対する名誉毀損として表現されるのは法的に認められない。また私がしていない犯罪行為に関する冤罪的な記述の理由は、当人のただの悪戯かそれ以外であるかを問わず私には窺い知れない。いいかえれば私にできる範囲にあるのは、天使と名乗る人物の名誉毀損の証拠を将来の民事訴訟の為に記録し保管して置くこと、そして専らこの人物の今後の動向を注視し、それ以上の犯罪行為が私に対して行われないかどうか、基本的に当該人物を無視しつつ当人を刺激しない範囲で監視することだと思う。
 以前、このことについてツイッター上で軽く議論が行われていたが、匿名・偽名を犯罪の為に用いる人というのは確かにいて、今回の天使と名乗る人物による私への再三にわたる名誉毀損・侮辱の罪もそれにあたるということは間違いない事実である。裁判所の命令による個人特定がプロバイダ責任法に基づいてひと手間かかる、というだけにせよ、そのひと手間を理由に、表面的に実名の当人が分からない匿名・偽名条件を悪用する悪意の人物というのはこの手の事件でわかる様はっきり存在しているのである。

風景

風景
2019年
PNG画像
7680 × 4320 px

ダウンロード

日本の幸福度は社民党が政権与党にならない限り先ず上昇の見込みがない

日本の国連幸福度の全6要素の順位(2019)
社会的支援(Social support)50位
自由(Freedom)64位
腐敗(Curruption)39位
寛大さ(Generosity)92位
一人当たりGDPの対数(Log of GDP per capita)24位
健康寿命の期待(Healthy life expectancy)2位

順位の高い順
健康>1人当たりGDP>腐敗>支援>自由>寛大さ

国連加入国中、日本の人口は10位だが、92位なくらい極めて不寛容で、自由度も64位とかなり低く、社会的支援も50位とあまり受けられない。また非腐敗度も39位と決して高いものではない。一人あたりGDPも24位と人口の割に低くて決して豊かとはいえず、かろうじて健康寿命だけ2位と非常に長い。
 総じて日本人は国連幸福度が58位と、他国と比べつつ平均してみて決して幸せな国民とはいいがたいが、その割に寿命だけが全体の2位と異常に長いので、簡単に言うと生き地獄の様な国という話だな。実体験としてもそう感じる。
 日本の自殺死亡率(OECD、2015)は7位と、人口が10位なのに比べ十分高い。政府によると、自殺と事故の死亡率で先進7国と比べると日本のみ自殺の死亡率の方が高いらしい(2017年版の自殺対策白書)。生き地獄的な国なのだからこうなるのは当然だと思われる。
 一人当たりGDPが低いのは個々人が無能(結果として教育の質が低い)ゆえどうしようもなく、寛容さや自由度が低いのは日本人特有の不安脳遺伝子(低セロトニン・トランスポーター数の遺伝子型)による同調圧力が関係している筈なので、先ず改善の見込みがないと思われる。
 そうすると、多少なり変えられるのは支援と非腐敗度だけだ。
 政府が社民党を中心にした北欧型になれば、福祉的支援が充実し、政治的腐敗度が改善される可能性がある。しかし日本国民はGHQのWGIPによる洗脳以後、社会主義を悪印象で捉えるのでこれを達成するには相当極端な啓蒙活動が必要だし、恐らく百年単位で見込まないと実現しないのではないか。少なくとも2100年代になる頃に、漸く社民国の美質に少しでも学ぼうとする新世代が米国政府の洗脳から抜け出し、日帝の延長でアメリカ譲りの拝金主義に明け暮れた戦後150年の清算を開始するかもしれない。しかしこれはゆとり世代が全員死亡し、今生まれていない子供が生産人口になる頃だ。
 我々現役世代が生きている間、日本の幸福度が劇的に改善する可能性は万に一つもないので、金持ちになれた者はより社会条件がよい国々へ移民すべきだし、なれなかった者は少なくとも日本人全般が同調圧力の生き地獄集団だと悟ってなるだけその悪影響を受けないよう都塵やSNSを離れてくらすしかないだろう。

沖縄のジュゴンは辺野古米軍基地を作る為の埋立土砂採掘船のスクリューにまきこまれ死亡した可能性がある

以下の4つの資料から、ジュゴンの生息地が沖縄県辺野古沖の米軍基地建設作業時の埋立土砂等の採取場所及び搬入経路に重なっており、2019年3月18日午後沖縄県今帰仁なきじん村の港で見つかった死亡したジュゴンには鋭利な切り傷がついていたことから、土砂運搬船のスクリューにまきこまれ当該ジュゴンが死に至った可能性がある。

資料1:「航空調査によるジュゴン確認位置」(平成20年2月)、(『シュワブ(H18)環境現況調査(その3)報告書』平成20年12月、沖縄防衛局)

資料2:北限のジュゴンを見守る会のチラシ、「沖縄のジュゴンはどこに消えたのか?」、2018年11月21日、WEBRONZA

資料3:「埋立土砂等の採取場所及び搬入経路図(2)」『埋立てに用いる土砂等の採取場所など』、環瀬戸内会議

資料4:newess @newess2h氏による、死亡したジュゴンについた切り傷のツイート画像