2007年8月8日

文芸論

小説は民族史を物語る便覧として役立ったが脱構築思想以後最早その国際定義は無い。語族は国語から解放されたと考えて良い。我々は遊民となる他ない。
 国際文学は近代小説の破格からのみ出発する。現代において私小説すなわち単なる自己中心的現実主義の文化的意義を主張する者がいればお笑い草にしか見えまい。文学的キュビズムは多視点を通じて実存主義的通弊、狭窄な自民族中央史観を悉く排斥する。
 国際遊民は多言語使用者としてしか文芸を創作できないだろう、たとえ翻訳文体を介してさえ。
 現代小説家は多声な物語を折衷する作為を通じてのみ、同時代に献身する筋書きを見つけ得る。振り仮名は詩人の手法であり、文脈の越境は複線的明文化に由る。それらは語句語法や語感の定義のみならず心情を多語族へ伝承する。
 現代文学者の第一声は国際人としての哲学でなければならない。
 だが、無差別博愛や熱狂的自閉がそれ自体特異な様に、或いは如何なる虚構や作り事へもこの個性的友情趣味は各種文化史脈からの要請を万世へ注釈する便覧でありうべき。つまりそれは当代独創的な着眼による文化批判でなければならず、なおかつ審美観点の位置取りは時空普遍的かつその裏付けに多定点なだけ良いのだろう。よって、現代文学の最高峰は碩学的教養と観照の天才なる聖性に於いて測られるだろう。良識に欠けた者の書へ誤った人類内栄冠を与えてはならない。諸文芸賞与論。
 その程度がどの文明を反映するかに関わらず、文明多様観は人類にとって先ず地球史脈型の秩序であるべきだ。脱構築は対流であり、凡そ自傷ではない。
 文学は聖俗の間に風雅を羽含む為に設らえられる特別な祭壇。それは例え何語を通じてすら、最新美観の定義を更新する本となる。