2024年5月9日

一次資料による『痩我慢の説』の一正統解釈

福沢諭吉は大分の下士として水戸学の少しも分かっていなかった。そのため、『痩我慢の説』でわかるとおり勝海舟が和睦を講じたと勘違いしたままで生きていたし、『徳川慶喜公伝』でわかるとおり、徳川慶喜が日頃の教えを含め、はたちころ烈公から直々に水戸徳川邸で忘れるなと告げられた父祖の遺訓である尊王の大義に殉じた事を、理解できないでいた。寧ろ慶喜に天皇へ恭順と説得された勝は主戦派だったのだ。
 福沢に限らず、西日本の人々はおよそ例外なく水戸学とは何たるかを理解できないのであり、例えば内田樹の『痩我慢の説』の解釈古書)がそうである様に、令和時代の今もその点は変わっていない。西軍の人々はうまれもっての性悪さのために天皇を建前に利用した暴力で統治する暴政が理の当然と考えており、そこには徳治的要素は根底に何もないのである。そしてそうであればこそ、吉田松陰や西郷隆盛らはじめ、儒学に実を伴う忠孝・愛民などの諸徳と神道の祭祀形式を一致させないとうまく運用できない水戸学の教えを表面だけ勘違いして捉え、悪用し、結局台無しにして今に至るのだ。

 勝は福沢を相手にしなかったが、『昔夢会筆記』『氷川清話』でわかるとおり、明治天皇が慶喜公へ朝敵冤罪からの和解を申し出て、その帰りに勝のところに寄った折り、勝は慶喜公を「水戸で教育された人だけあると改めて感心した。嬉しさのあまり感激して涙がこぼれた」云々と語ったよう、慶喜公が敢えて天皇と争わなかった事、その御心に忠義な侍としてこたえた事に武士の職分を立派に果たした満足を覚えていた。
 この事は、不忠不義の西軍の人々には終ぞ理解できなかった事だし、福沢もそうだったのである。

 以上の事は、仕える上司の心が尊ければ、その部下の職分も尊くなる事の一証である。また、使える上司を間違えた人々には、それにふさわしい末路がやってくる。
 福沢は天皇に仕える将軍の部下の立場でいたのに、どちらへの忠義も果たさず、寧ろ天皇にも将軍にも逆らう行動をとった榎本武揚や西郷隆盛を同文で称揚した。その上、松陰や西郷、板垣退助らが主張した征韓論と同一歩調を彼の「時事新報」新聞紙面の論説『脱亜論』でとったために、思想史の局面では、飽くまで対外的侵略主義者の西軍やその西軍が担ぎ上げた明治天皇と同じ汚名を国際的にまぎれなく、自ら進んで着る事になったのだ。