2024年2月7日

京都府京都市に於ける自公立相乗り松井僭主政治の出現とその歴史的反省

「京都人のプライド」で、前原誠司は京都が生み出した誇るべき政界フィクサーみたく𝕏で言っていた人が、2024京都市長選挙の直前にいた。大勢が京都ブランドに負けて、その通り! みたくイイネ連発、大同調しまくっていた。
 僕が直感でおかしいと気づき、一人で警告した。前原はそんな奴じゃないと。僕は国政で前原がやってきた事を並べ立て、今の野党分裂をもたらしたのは前原が旧民主党首の時代に、自分から小池百合子に党首権移譲しだした、その結果だときちんと日本戦後思想史の最悪の場面の一つを啓蒙した。
 実際、前原には泉健太も古なじみの手先みたいなもので、今回も野党を機能不全にした。

 そしたら「延いちゃん」という色々な人達に侮辱して回っている、京都勢らしき荒らしアカウントが、
やばい人で草
などと、誹謗中傷をしてきた。当然、相手の全言動を調べ通報しまくったし、記録もとり法的・倫理的制裁目的に監視し続けているが、やはり京都市政は自滅した。

 また「るんるん」という荒らしアカウントも、様々な誹謗をしてきた。
https://twitter.com/runrun_114114/status/1746311620450787611
https://twitter.com/runrun_114114/status/1746352951189491757
https://twitter.com/runrun_114114/status/1746353690787921998
https://twitter.com/runrun_114114/status/1746356563441553778
https://twitter.com/runrun_114114/status/1746357122034782492
https://twitter.com/runrun_114114/status/1746357335264821554
https://twitter.com/runrun_114114/status/1746357766120411542
https://twitter.com/runrun_114114/status/1746365388093620316
https://twitter.com/runrun_114114/status/1746378993816015071

 何故「るんるん」がいきなり誹謗しに絡んできたのかとよく観察してみると、「京都府宇治市」と当人がプロフィールに書いてある通り、「京都府」単位で京都プライドを持っており、次期衆院選の前哨戦な京都市政選挙の公的議論だと理解できていない。
https://twitter.com/runrun_114114/status/1746362117786366097
https://twitter.com/runrun_114114/status/1746357122034782492

「延いちゃん」の方は、全投稿みたかぎり山口県から出てきている学生崩れかもしれず、恐らく京都市政に客分としての立場しかもっておらず、ネット匿名アカウントで誹謗ゲームをやっているだけの人物みたいであり、元々、国政になど興味がないのだろう。だから中央政界側の前原への警戒感が理解できない。
「るんるん」の方は、やはり全投稿みたかぎり、色々な人々に2ch式匿名誹謗ゲームやっているだけという意味では関西の山奥にいて、侮辱罪の法定刑引き上げの潮流に取り残されているいつもの悪質ネット民残党の一人なのだろうが、読解力が致命的にないので、「京都」のワードに過剰反応して墓穴を掘った。

 これらを顧みて思うのは、京都市政選挙で自公立相乗りの松井僭主政治を自ら招き、京都人が内政失敗で自滅した結果は、直接的には、京都市やその周囲の、宇治市まで含む、京都府一般の政治民度の問題で、特にその中央政界との距離感からくる、又は平安期から続く政治音痴ぶりと密接な関係がありそうだ。

 僕は善意で一言教えてあげたのだ。前原に気をつけろと。だって書いた通り、鬼怒川決壊をもたらす遠因になったり、旧民主党分裂の原因になったのは彼なのである。しかも執行部弱体化にも寄与していた。菅直人政権にちゃっかりいたのに、後になって非難した。「君子は交わりを絶つとも悪声を出さず」の逆。もし僕が事前に警告してあげた中央政界の経験的真理をきちんと京都勢が深刻に受け取り、「前原マーク」をしておけば、松井陣営からあれほど翻弄される事には必ずやならなかったであろう。
 所が府単位の政治民度が低すぎた為、2名にすぎないが、忠告を理解できず、逆に悪戯な誹謗の具にしてきたのだ。

 僕には全く同情の余地が持てない。京都市は自分で僭主政治を択んだ。勿論、まともな人は安倍派の金権政治を正さない限り、公共の諸問題が一部の利権に専横されてしまい、大勢が損害するのに気づいている。だからこそ福山和人氏にあれだけ票が入っていた。だが一帯の政治民度の低さは如何ともし難かった。
 単に「イケズ」だったり陰湿だったりする風習が、天皇一味や公家の定着していた時代から特に市域にあるという事は全国的に有名なので知っているし、実経験も色々ある。だが、単に山間の京都市一つに収まらず、国政にとっては自民政権打倒のため地方選で雪崩式に勝ち進めていく重要な序盤戦だったのだ。

「延いちゃん」「るんるん」両名は、誹謗中傷芸ネット荒らしに過ぎず、いづれ監獄に入る事になるだろう。だが彼らが足軽的に出てきてやっていた事といえば、京都府に住んでいる自分達で、全国でも特に人口集中率の高い、京都市の足を引っ張る事にすぎなかった。京都の事は京都で決める結果が立民自滅だ。大阪維新嫌いで、「京都プライド」ゆえ、府民単位で足を引っ張り合って僭主政治を招いたという驚くべき事案は、国政での重大な試金石となる、特筆すべき暗面だといえるだろう。
 野党分裂が深刻になればなるほど低政治民度の暗面が顔を出し、自民が金権政治目的に動かす暗君に絶対権力を与えてしまう。

 旧三都のうち大阪は維新派に牛耳られてきた。万博強行も府税・市税負担増に繋がり、長期生活難で益々、東京への人口流出が続く可能性がある。万博会場までの交通路整備後の夢洲IRによって一発逆転を狙う維新の会執行部は、東京にいる橋下徹氏の別働部隊とも目され、京都市とは別の意味で暗君政治に近い。
 都民ファーストの会を、前原から謎に譲られた疑似国政政党・緑の党の党首権から再結党した小池都政だが、彼女は五輪を何とか成功させ、長期政権に近づいている。旧三都の勝敗は明らかになっている。
 京阪は自分達で暗君や一党支配を招き、片や保守主義、片や急進主義による不安な獣道へ突入している。
 所が、小池都政にこれといった不安材料はなく、精々あるとすれば事故に巻き込まれ得る原発再稼働問題だけで、これについてはソーラーパネル義務づけ条例によって便宜的に反対派の非難をかわす形で、推進派との調停を図ってきている。
 旧三都の明暗が分かれたのは、結局、民衆側の政治力差だったのだ。
 また、旧三都以外の自治体の人々にとって、2024京都市長選が東京・大阪の政と共に参考に足る面といえば、野党決裂を避け、少なくとも政権交代の可能性を政党政治面で残しておかないと、腐敗した首長の専制や寡頭政治に対し、一般市民が無力化してしまうという事だった。普段から公共問題の啓蒙も必須だ。

 自分がみるに松井孝治氏は担がれた。その御輿を作ったのは主に京都財界だった。名のある旅館の息子は既得権に革新色を感じさせず、門川市政と同じロビー政権維持に好都合だったに違いない。そこに一般市民が入る余地は、今まで通り、殆どない。だからこそ与野党総がかりで共産候補を潰す必要があった。
 松井陣営勝利後の笑顔を汚いと感じる市民が多かった様子なのも必然性がある。彼らを突き動かしたのは市民の為の共和政治ではなく、市財界の為の金権政治だからだ。しかも、深刻なのは国会議員含め、京都市域では余りに既得権が強すぎ、古い権力者を選挙で落とす事ができないのだ。一歩も革新できない。

 安倍派の裏金で揺れている中央政界の煽りを受けて、かつ全地方選挙でも最も左派色が強い京都市政でも勝てない。それなら、と立民支持を離れたくなる人情のもと、政党機能不全の危機に陥っても「塩おむすび」とお世辞に乗って自称、呑気な様子の泉健太氏は、首相の重みがわかっていない。小市民根性で。
 泉健太氏に2024年1月27日段階で引導を渡していた自分の洞察は正しかった。

 結局、彼は自公と相乗りで京都市政を乗っ取られるへまを打って天下人への道を失い、100%党首の座を退かざるを得ない。辞任を急がないと党内外の非難が大きくなりすぎ、野党第一党が自壊しかねない

 辻本清美氏を同年1月26日代表代行に指定する側近選びも、僕に「泉敗北」を確信させた。
 彼女は松井勝利で立民への全国民からの信望を殆ど完全に失わせるジョーカーになった。
 政治感覚なき泉党首権は風前の灯火、あとは故郷で帰農が穏当な引退だ。

 直接の関連はないが、石川県の馳浩知事が、能登半島震災への対応で後手に回り、救える被災者が救えなかった様子なのにもかかわらず、岸田政権の従者としてリコールにあわないのも、政党政治による政権交代か、最低でも共和政治が巧く機能しない自治体では、自民寡頭政治で一般市民が犠牲になる証拠だ。

 我々が市財界の御輿なのだろう松井僭主体制が出現した京都市や、馳知事による自民傀儡政権下の一連の事態から学べるのは、普段から、一般市民の共和政治を担うべき公的義務意識をよびおこしておき、「延いちゃん」「るんるん」風な国事や地方自治に無知な政治的無関心層を、最小化しておく工夫に思える。