ツイッター短文厨は、文の中身(内容)や質に関わらず読書力が低く、短文しか陸に読めない(厨はここでは中坊を意味するネット俗語・厨房の略で、精神年齢の低い固執者の意味)。
一方、村上春樹は比較的長文厨に近く、短詩、箴言や掌編といった簡素化を苦手としている。
彼らはどちらも誤っており、文はその表面的な量にあたる長短ではなく、伝達される内容を含む伝達様式の質のみで判定されるべきだ。
内容量が多ければどれほど抽象化しても一定以上の長さになるし、だからといって様式の質次第で長さに中身が伴うわけではなくなる。
文の形式の冗長さはある内容の伝達を補うものでしかなく、過度に冗長であれば通常悪文といえるものの、思考の深度や事柄の複雑さに伴って情報伝達のミスを減らす必要性から或る文が一定以上の冗長さを要求していれば、そこで簡素さを求めるのはただのお門違いな愚かさの一種である。
短文厨は単に愚かなので中身の薄い短文しか読み取れない。よってその種の愚者に向け何かを伝えるには幼児に語る様にしなければならない。尤も愚者に好かれるのは賢者を遠ざけるに等しく、相手が失読症気味とか、何か用件伝達の必要など特別事情がなければ極力、相手に理解し難い量や様式でこちらを隠密化し愚かと思い込ませておいた方が得策だ。
また長文厨は基本的に活字中毒で、内容に関わらず文章の絶対量が多い方が望ましいとみなし、単なる煩瑣な冗長さも修辞、構文や言い回しに伴う言語流暢性の一種として好評し易い。そういった人へはとかく冗語を送りつけておけば概ね満足しているだろう。大抵の小説関係者はここに該当する。
短文厨や長文厨は伝達内容やその様式的質に注意を向けていないのだから真の文芸愛好家ではないし、少なくとも文を通じた哲学の糸口にも立てていない。
2020年12月31日
文の基本目的は適度な冗長さに伴う内容の伝達で、長短いづれかではない
集団のノリについて
僕ははてな村というのが京都の一部の陰湿な裏社会みたいで凄く嫌いで、一度、アノニマスダイアリーというのに何か書いてみたらかなりすぐ陰険極まりない誹謗、典型的イケズがきたのでこれダメな場じゃん、と感じ生理的に無理で離れた。以後一切近づいていないが正解だった。
2chが東京人ひろゆきの赤羽スラム的最悪さであれば、はてな村は京都人的イケズ共同体の最悪の面を引き継いでいると思う。それらどちらも大変閉鎖的で排外的な衆愚が全体結束主義で仕切っているのは一緒なのだが(なお日本語ウィキペディアとかもそう)、はてな村の方は色として俗物主義まで加わっており、なおかつより底意地が悪いのが事実だろう。例えばアスタリスクと番号振って*1、無意味に学術論文の体裁をとるはてな村特有の文体とかそれであり、ファボというのか返信みたいな形でいわれてる事は2chねらーと何の違いもない。
*1 意味あるか?
どこでも多分そうだが、性の悪い集団というのは潰れる以外では根本的問題が解決されない。構造が悪いのだから、いじめっ子グループ、不良集団は、働き自体がダメ。いわゆる悪貨が良貨を駆逐している状態になったらそれは集団の死に至る病である。今の東京都もそれ。彼らは原発公害を反省する余地が全くなく、驕りまくって全国蔑視を続けるしかできない。集団犯罪装置状態になっている。
狂ったセクトから助かるにはその集団から一刻でも早く外に出て、正義の軍に彼らが一網打尽にされる前にとばっちりをうけないよう難を逃れるしかないのだろう。しかもできるだけ早く、李下に冠を正したとすら認知されない英断力で。たとえ不良集団内部で改革しようとしても仲間に足をひっぱられるばかりで余計な時間を食って、その場で優等生集団に即加わるよりはるかに大した成果が得られないばかりか、結局無駄になる事が殆どだろう。所詮、働き自体がおかしいのだから、巨神兵みたいなもので。
すばらしい文化を生み出しうる集団ってのは、最初からこれは凄い事になるぞ、という流れにある筈だ。そんなのがどこかにあって、そして偉大な学術を残し、例えばフランス啓蒙思想家らの百科全書派サロンとかきっとそうだったんだろうが、当時まわりがみててもこれはすげーな、中でもわれらは偉い、人類全体を善美に導く尊く高尚なる使命を背負っている! みたいな感じは集団内外で、アンチ以外には共通してあったんじゃないかと思う。今の国連人権擁護委員会的な。
僕が参加し、体験したSANAA、特にその専門性の核になっていた妹島和世建築設計事務所は完全にそれだった。働き自体が偉大すぎるのでだれの目にも偉業の完成は疑えない。嘘抜きで参加者全員が昼夜問わず全力で一つの目標、設計作業に全身全霊で向かっているのだった。ああいうのはある種の高校文化祭以外でまずみられない。体育会系の文化系的な青春でしかありえないのだろう、きっと。事務所の中で学生っぽい所員が余りに作業しすぎ、寝泊りするレベルに建築設計という価値ある、と信じうる仕事に心底熱中している。なぜ熱血安藤忠雄以後に妹島和世が斯くも世界の頂点とったかって、大抵の建築事務所ってもっと適当に違いない。間違いなく天才系ワーカホリックのある種系の典型であろう妹島氏の個性に由来しているのだろう、独特の寛容な雰囲気と――何せこの僕は今から15年ほど前、事前連絡なくいきなり自力で住所非公開の事務所を著書等の断片情報から探し出し、恐らくここであろうとのその入り口前で妹島氏が出てくるのを或る昼下がり頃待ち構え、当時運転できなかった妹島氏と運転役の某所員さんが2人連れで出てきて某アルファロメオみてーな車に乗る前に颯爽と馳せ参じ、弟子入りのつもりで「せじまさんですか?」、妹島氏「はい」、僕「働かせてください」と頼み、1度「あー、とびこみはやってないんですよぉ」と断られても「え(とても意外そうにがっかりした顔)、お願いします」と引き下がらなかったのに、妹島さんは3、4秒くらいそれをみるやなぜか憐れみなのか微妙に複雑な表情で「吉田君に聴いて!」といい、「やった、ありがとうございます」と言う自分が、妹島氏らの出てきたでかい入り口から、あの上がるたびに鋼鉄階段カンカン音がする倉庫2階まで入るのを許可してくれたのである。このやりとりに使われた総時間は計10秒くらいだったかもしれんが、今考えると妹島氏はさすがに判断力がすさまじく、もしかすると急いでた可能性を考慮しても、異様に仕事が早い。これは後世にかきのこす意義があるだろう。僕にいえた義理じゃないだろうが、自分が仕えるにこの人しかいないと見込んだ確証バイアスとか超えて今世紀に傑出した人物である。隣の所員さんは一瞬で希な(のだろう)出来事が済んだのでなんか呆気に取られたみたいな感じで眺めていた。ペリーなんて吉田松陰と金子重輔が小舟で黒船のりつけ、お願いだ世界旅行に連れて行ってくれと必死で頼んだら、ペリーのあたまがかたすぎ、松陰らがしゅんとしても断固断りやがったのにである(『ペリー提督日本遠征記』)。今から考えると我々(自分は単に妹島氏の仕事を手伝う事で建築を学びたいだけ、文脈は異なるものの、ほぼ同年齢で、深謀遠慮の末、かつ同時に血気に逸って勢いで行動しているという意味で僕と松陰と金子)いづれも若気の勢いでしかないのと、妹島氏の心の広さはこれは問題のあるたとえであるが皇居で浮浪者へ炊き出しやった事がないのに国民の慈母面の平成上皇后以上というべき(妹島氏の水戸一高卒水戸学尊王論がもしあれば、それに最大限配慮しても最低でも日本国ならびに国民統合象徴の奥さんにとっても主権者一国民として模範以上たるべし)であるが、当時の自分は断られる可能性とか何一つ想像せず、さも当たり前の宿命の如く直接弟子入りに行くしかないと信じきっていたのが孫正義の藤田田特攻みたいでなんとなく不思議でもあり、しばしば脳の幼さ、無鉄砲な若さってそういうもんなんだろう――ある求道精神的な根性の中で、夜8時とか9時とかに海外の現場だかから帰ってくるやそこで即仕事開始する妹島氏を筆頭にSANAAなる建築集団は時間切れまで毎回、徹底的にできる事を全て関係者全員でやりきっているんじゃないのかな、的文化は、みた感じわかった。僕はその本の下っ端のはしくれで、ルーブルランスのプロトタイプだったと思う模型づくりを、上司っぽい先輩所員に指示されるままちょっと手伝っただけであるが。あれは夏で、窓を開けても風など入らず風鈴がほしいなぁと田舎人の僕がいっていたら、その場にいなかったからそれを聞いてたとは思えんが途中で妹島さんがなぜか学生の模型お手伝いスペースの真上にクーラー設置してくれた(ほか大量のおにぎりを差し入れしてくれたことがあった)慈愛風の事跡などから推測し、多分僕がいたのはおおよそ夏の間中であり、1ヶ月から最長でも2ヶ月以内くらいだった気がする。人という人、21、2才の僕・私らという僕・私らがうもれるばかりの、というか埋もれていた試行錯誤模型の山の中で。
完全な自己犠牲と自己実現の一体化が仮にあり、それが一人の美術家という存在の中に顕現され得、現代のダビンチ(かヴェロッキオ)がいて工房があれば、それは妹島氏の今も生きている筈わが国あの空間(当時は天王州アイルにありました)であり、芸術創造現場について少々見る目さえあれば、それはそれは圧倒され心から「うーん、なんか当たり前に学園祭のとある日の裏舞台みたいな適当っぽい集まりくさいここがか」感をいやましに深くせざるをえないであろう。その目しかない僕以外には、同時代になめられてんだろうか、という扱いであった。それは実際にそこにいてみないことにはわからない感覚に違いなく、やっぱ後世からみたら教科書の偉人扱いでも、当時の人らってこういうろくに理解されず蓮っ葉みてーに半ば見下された様なもんなんだったろうね、特に無名時代。毎日一緒にいるから所員が適当に扱ってくるってウォーホルが『ぼくの哲学』でいってたけど、僕も日々、ツイッター等で人類全員に小馬鹿にされ無視されきっているばかりか名誉毀損罪や侮辱罪、心を傷つけまくってくる悪意ある誹謗中傷しか受けていない、日本人一般から。ま、当時の妹島事務所もすでに無名時代ではなかったんだけど。しかしやってる作業からしたら実はすごい筈な訳で、実際、なんかしらんけど僕も実は、フランス国立美術館の新しい別館というあの世界の全建築家連が嘗て一度も担った事がない偉大な歴史的建造物の模型案を入ってきて即日とかで、いきなり手伝わされていたのであろう気づいてなかったけど今の今まで。なんかきてた外国クライアントぽい人とかもそういう「これはー、見た目ごちゃごちゃしてるが目的が1つに、実は宇宙のよう背後で緻密に統一されているゥ」的な。Universe的な、フランス人とかイタリア人とかインド人ぽい人も謎の上から目線のアメリカンも色んな種族がめがねかけた白いシャツの若い東洋人学生(私です)を目前にぐちゃぐちゃ動く、これで仕事してんのか? と好奇の場を見る目だった気がするしね勘違いでなければ。今はどうかしらんけど当時は実際そうであったろう。或る朝いったらフランス男がなぜか、わけのわからん椅子の模型みたいなのを一人でせっせと作っていた。手でそこらのカッターでシュッシュってスタイロフォームをお椅子さんに座ってお椅子さんに削って。勝手に君の作品か? なんかの案なのか、あれは。いわなかったけど。適当に作ったにしては自然には生まれないだろう何かの断片みたいな、模型用の白いあのスチレンボードが不定形な形状になっているなにかとかおそらく建設資材メーカーから取り寄せた巨大な素材サンプルとか、多分スプレーとかで背景にし謎の抽象的模様と色がついたダンボール片なんだか板なんだかじみたなにかとか落ちてるもの全てがアートにしかみえん。まぁやたら謎レベルの高い美術部がもしあれば的神がかりさで、全部なんか美? というか変な洗練度に近い、その場のごみ全てが一定より高度に美術性を帯びている。但し西沢立衛さんのサンダルつっかけ姿から発される情けない音を除けば、素で。当たり前といえばあたりまえか。一応サンダル氏除けば、もともと最高精度で所員が全力投球で考えた設計案のなれのはての姿があれらなのであるから。余りに空振りの数が多いから夢の残骸が無限にでてくる。そこで私は毎日自主的に掃除したので、妹島事務所の某古参所員さんに感謝された。いつもありがとうって。変な話、僕しか掃除してなかった。
よくあんな感じで、夏でだらけてたとかでなく、なんとなく組織になってない組織で世界文化史必携級の仕事を完成させてた、完成させていくだろうもんであろう。奇跡の組織。いわゆるTHE会社ではどこまでもない。自由を呼吸と信じている僕は、参加するならそういうベンチャー企業状態のところにしか行きたくなかったし今後も行きたくないし、つくりたくもない。但し妹島氏の喫煙習慣の存在を除けば。当人の前で説教するまでの身分じゃなかったからいちオープンデスク生扱いだったから目の前で副流煙吸ったけど言ってないけど!
詳しくしらべてきた限り、天心に進んで就いた五浦派とかもそういう感じがする。ある高貴なる清浄なる理想に奉職している、プロテスタントや隠れキリシタン的な結社性だ。
実際いまから見返しても彼らの画風は黒田らの洋画、と呼ばれる擬似西洋古典主義もどきより、相対的に独創性を帯びていた、といわざるをえない(例えば同じ画題について様式、物の見方、構成法、技法、精神の差がみられる、横山大観『群青富士』と黒田清輝『富士之図』の対比)。
絹本着色、六曲一双屏風
各176.0×384.0cm
1917-18(大正6-7)年頃
板、油彩
25.0×33.0cm
1898(明治31)年
逆のコミュニティ、悪事でもなんでもやっちゃえやっちゃえ的な、勝てば官軍わるノリ連中なんて全部、近づかないに限る。しかも一切。ユダヤ人をそうやって皆殺しにしていったナチスも大概、戦犯とかとしてサイモン・ウィーゼンタールらナチハンターに徹底追跡され処刑され終わっている。
業はどれほど遠くまで逃げようとも最後まで追ってくる。
ノリでわかるというか僕なら松下村塾は、例え当時の山口人でも絶対行かなかったろうと思う。明らかにサイコパスの教師に就いたらどうなるかなんてわかりそうなもんだ。実際あの松陰カルトは教師も弟子も全員死んだし、その153年後の今まで侵略国家のテロリスト集団として国際的悪評ならびに消えない侵略罪業の原因になっているし、信者どももひたすら醜い自画自賛しかしていない。
馬鹿や悪人、悪党に不道徳系狂人は同士を集めてしまうのだ。
2020年12月30日
南関東衆愚の日々の野蛮ぶりについて
2020年12月29日
2020年12月28日
悪魔達の闊歩
短文厨一般は新興愚民層
原稿用紙一枚以内から数枚以内ほどのある文章を「長い」と不躾に言う人は、現代日本人のうち特にツイッターで頻繁に見かけるが、この人達は大抵、本を読むという経験を凡そ全くした事がないほど読書力や基礎読解力が低い、とみなしていいだろう。失読症の人を除き、それだけでも言語知性の極端な低さを意味し、少なくとも後天的学習不足面では決して誇れる傾向ではなくとも、それら低読書力者達はダニング・クルーガー効果宜しく、低知性に驕っている。
たとえば140文字以内の短文で何かを語る人を特に中身を問わず賢者と無理やりみなしたがったり(実際には彼らは高度な中身を理解できない為、全短文が対象ではなく、彼らの知性にあわせた短文を書いた人を、利己的ご都合主義で、相手の実態にかかわらず主観的に賢者とみなしたがる)、ごく手短に説明しきれないほど複雑な事柄あるいはその重要かつ不可欠な細部へ進んで、思考停止してしまったりしている。
彼らは一言政治の様な詐欺の形で大衆を騙す扇動政治屋出現の兆しになっている、新たに目立つ様になった愚民層である。
休息
2020年12月27日
2020年12月26日
自由のともし火
ある脳博士の嘘
自分はどうも生まれつき性格がいいらしく
その脳博士は自分が性悪なので
あるいは聖人君子
2020年12月25日
心の声
真実の世界
この芽が育てばできあがるはず
抜け殻
空っぽの抜け殻
ひろゆき一味と極悪匿名衆愚が我が物顔で大量殺害しながら群れつどう日本語ツイッター界の素描
「安倍政権以後、日本人一般の知性とか教養の量ががくんと落ちている」
と、古谷経衡氏がいっていたのであるが、これはツイッターで少し絡んでくる人とやりとりしてみると一瞬でわかる。ほぼ確実に、荒らしでしかない人格毀損の陰湿な誹謗がくるにすぎないので、ツイッターで未発信者は余程の事情がなければ、通常やらない方がいいと私は思うが。
大概いきなり「短く!」と、どうみても馬鹿の癖に上から目線で命令してくる。ツイート数個連ねただけで読解できなくなってしまうらしい、その1個ずつのツイート140文字以内もろくに読めていないやつが、である。小学校低学年でも、言語発達に特別な事情がなければ最長でも5分以内に読み書きできるだろう、400字詰め原稿用紙3分の1以下の量、ですらである。
基礎読解力が既にないんだから、国語の現代文テストも満遍なく赤点だったろうし、それでも読書の習慣なんて持っておらず漫画アニメ漬けに開き直ってるんだから、知性や教養どころの話ではない。偏差値主義の受験秀才って批判的思考力がないわね、とか、そんな次元を遥かに下回ってきてる端的な馬鹿。馬鹿が我が物顔でつけあがっているのだ。
大きくみれば失読症の人が少数まぎれており、文は読めないが別の知性や教養が発達してるかもしれない。だがそういう人じゃないっぽい者どもが、ネット中で、匿名で、全力で威張り散らし、犯罪三昧していらせられる。木村花さんは犠牲確定だが、ツイッターで確認できるかぎりたぶん三浦春馬さんらへも集団虐殺をやったのは正に、その匿名犯罪者モブだ。
日本人匿名卑怯者といえば2ちゃんねらーが起源といってもいい。匿名掲示板で人権侵害ダブスタ全身ナイキどやって着まくり、犯罪教唆の炎上商法で金儲け、あらゆる裁判から逃げ続けフランス亡命中ひろゆき一味の残党たちといっていい。
ここで彼らによるウェブ業界での過去のカルマを知らないキッズに前回のあらすじを語れば、かの悪名高きひろゆき一味といえばソフィスト風詭弁を弄し、東京人マスコミと根っからグル、匿名集団犯罪で飽くまで責任のがれつつ、人の人たる心を傷つけまくる陰険な人道犯罪が何より大好物の純然たるダークトライアド。拝金主義での違法行為を、社会正義面(飽くまで自分達が無謬の正義という面がまえ)の東京地検に狙い撃ちされたモヒカンの隣で目立ちたがってにやつき、調子のってきた最たる社会悪(純然なサイコパシーがかっこいいと勘違いしてる東京赤羽ヤンキー崩れ的なもの)の典型例である。数多の人々がひろゆき一味の犯罪被害を受け民事裁判に訴えたが匿名卑怯者原理主義者ひろゆきは全ての裁判から欠席し続け、わが国司法のお裁きによる賠償金の支払い命令もことごとく無視。知徳どん底次元な東京衆愚をだまし、なぜかネットヤクザなのに急に有識者面するつもりで、日本法の一部及ばないパリへ国外逃亡中。それが今だ。
この世には悪人がいる、だがその中でも悪人中の悪人というのがいる。天下第一の大悪党、ひろゆき一味が、犯罪三昧の安倍晋三一味ともどもひっ捕らえられなければ日本国の法秩序なんて未成立といってもいい。江戸時代ですら悪質な無法者は幕吏に御用だったのだ。
国際成人力試験(PIAAC)だと2013年ので、日本人の約3分の1、約28%があまり日本語を読めない(識字はできても、文脈や文意をとりづらい)。読解力全体を5段階に分け、100点満点で1レベル未満を0点とすると、3割くらいは40点未満。
つまり大体3人に1人は日本語の文章が殆ど読めていないのだから、ツイッターみたく誰でも参加できる条件下では、日本語で発信する限り、3分の1の確率で基本的に誤読されるわけである。これぞ誤配。
その文章ろくに読めない人達が匿名卑怯者として平気で誤解に基づき、善良な特定人物――例えばひるむことなく日韓友好の矢面に立ちつつ、日本中のよいところを取材し、陰険な偏見まみれ東京人に貶められ続けてきた故郷茨城ふくめた郷土愛を語り、母子家庭から出自し孝行、なおかつ恵まれない子供へ慈善活動で寄付するなど賢明に生きていた三浦春馬氏を集団虐殺しまくって散る、その代わり、人権侵害度で世界最悪級犯罪教唆(表現・言論の自由権の無際限な乱用)の場を作り猥褻広告貼って金儲けしまくってきた大悪党ひろゆき一味を文化英雄化して極悪モブやってるくらい自称愛国日本人なるものがわんさか群れているのだから、そりゃー地獄みたいなもんであろう。
2020年12月23日
ある高校生女子の猥褻同人誌風漫画を公募展で受賞させた東京都のサブカル思潮についての総合美術批評
高校生同人誌作家の猥褻漫画絵が東京都の高校文化の合同展みたいなの(31回中央展なるもの)で受賞した事で、色々、オタクカルチャー特有の「(女)性の物化」への批評が出ており、特に当然予想される事としてフェミニズム観点からのそれがかなりあるのだが、一番面白かったのは「そもそも漫画絵自体がダメだろ」というのだった。
そもそも漫画絵自体だめだろ。他の表現が相応しい場に漫画絵が入り込むことによって、漫画絵ばかりが増殖し侵犯し、どんどんこの社会の絵画表現が貧相なものになってゆく。広がるんじゃなくて、狭まってるんだよ。
――志木❄@silokane7
これは本当に笑えるし、しかもこれへ「頽廃芸術視かよ」というつっこみまで入っていて余計うけた。
確かに僕も、村上隆や奈良美智の活動や絵自体に、ずっといいと感じた事が基本1度もなく、欧米、外人や都民らの偏った東京サブカルの扱い方――現代日本美術代表ほぼ同然の扱い方にも疑問しかないので、漫画絵のアンチに近い。というか子供の頃から身近に漫画と親しんできて、小学生の頃は漫画イラストクラブで、自分でもドラえもんとかあまた描いてた上でそうなっているわけだから、あるいはまた青年期に東京で育った一日本人の現代美術家として、心から誠実なまなざしで、現代東京文化なるものへ総合批評的にそうなっているわけであるが、だからといって、同人誌を「頽廃芸術」扱いか? ってのはそりゃー頽廃芸術だろ、としかいえないのが凄い。
そういう意味では会田誠も隆も頽廃芸術であろうし、大きく見ればナラミチもそうなのかもしれない。何せ会田と隆作品は大抵が愚にもつかないエログロナンセンスでみちあふれており、両者とも適当な美術理論でそれらを正当化してきているだけである。別に彼らをわるくいっているわけではないのだ、これは。単に冗談抜きでそういう作風なんだからしょうがない。
ナラミチの場合はシンプルに幼児退行じみた絵ともいえようし(これまた別にわるくいうわけではなく、ただただそうなのでしょうがない)、さすがに会田や隆に比べれば下品ではないかもしれないにしても、わが国の代表みたいな扱われ方にはどうかなぁ、っていう。オールオーヴァー・アートぶってない、いわさきちひろとかいるわけで。抽象表現主義のバリエーションに比べても、よかれあしかれ幼稚だよなぁって代物としかいえないのであって。僕の父親とか子供の頃から『のらくろ軍曹』とかに親しんでいるにもかかわらず、「はっきりいって漫画を(美術としては)馬鹿にしてるよ」といっており、青森の十和田市現代美術館でも外壁にあるナラミチの落書きをみて、死んだ様な目で全く感心せずそういう風にいっていたとおもう。大体、謎の少女衆がなにかロリータコンプレックスか幼児性愛もどきの群像にみえなくもないし、実際僕の目にはだが特別かわいくもなく冷静にみればどっちかといえば不気味ですらあり、褒めてる人たちも自分にはさっぱり意味わからない。同業者の競合性とかぬきに素で、私はあの漫画少女1人が描かれてるタイプの絵は、一度もいいねとおもったことがない。レゾネとか美術手帳とかでみたけど、やっぱ初期の『雲の上のみんな』だけは、立体感をなかば無視しつつ、線描のキャラと背景の色面の間でパッサージュ(はみ出し)技法つかった独特の構成で面白いとおもったけど。私はいいと思うものはいかなる枷も外し、全力で褒める人だ。ナラミチツイッターみてると、幼稚園の先生でもないのになぜかリアルで当人の子供ではないっぽい小さな女の子の可愛い方のとふれあいばっかりしており、そこからみても、作者のある種の子供好きの一種かなにかの、Mr.(ミスター)と或る程度似た面のある幼女愛の、おそらく一種抑圧された複合観念の絵と解釈されるのが筋なんじゃないだろうか? と思う。それでなにかおどろおどろしい、無意識からわきでてきた亡霊みたいなおっかない雰囲気になってんのである。うーん、幽霊みたい、と。キャラとみても物語とみても、絵本のノンタンの方が余程すなおに、3歳からすでに僕が共感できまくっていたくらい可愛いのである。
他人は騙せても僕は騙せない。だって僕は素直に心の目で絵を見てるのだ。直感で。曇りなきまなこで。外人は騙せても僕は騙せない。素人は騙せても、プロは騙せても、僕は騙せない。これが本当の話。
で、これら3者がアートとしての漫画を堂々と扱ってる現代ジャパニーズアート系ご老人達であるが、彼らの跡継ぎだった世代のカオスラは、そのリーダーがゲンロンスクール不倫暴淫不当解雇事件で大炎上、みてた感じ、出世売名レースからコースアウト脱落した様であった。目立つ残党は、隆の弟子であるミスターくらいである。
ミスターの絵は、最初かなりいかがわしい幼児性愛系の変態性欲同人誌もどきから延長し、やがて少女性そのものを純粋化する様な絵も描いていた。アンフォルメルっぽく漫画的要素を断片化し、再配置するのはカオスラの梅ラボと相似だったが、それと違うのが、作品全体の一部にみられる少女の心を描き出そうとする様な内面表現的、私小説的な部分だった、と思う。最近は断片再配置系が多くそういう絵でもないが。しかしミスターの作品一般はどっちかといえばエロスまじりっぽい艶っぽいティーン少女を美化した表現であり、いわゆるロリコン傾向で、もともと純情系は多くない。
――だから何って話だが、村上春樹がついぞ清潔派から嫌われたまんまなのは、神奈川県大磯へ流れ着いた下司な紫式部的に京都生まれ神戸人が勘違いアメリカンお下劣性描写から一切逃れ切れてないからで、純情系ばっかで子供にもまだ安心して勧められる方なイギリス田舎者化したカズオ・イシグロに、小説家の地位として公的に大差つけられたのは絶対、そこに主因があると思う。幾ら売れたい、金ほしいからって、あるいは当人の私徳の資質が低いからって、都会かぶれで不倫淫行をかっこつけ猥褻物まきちらしてりゃー偉い! とならないのが、芸術の品位というものだからだ。これは本居宣長もののあわれへの批判でもあれば、女権なかった時代の山城界隈での天皇やくざ一味による一夫多妻にまつわる乱倫の有様を美化してるだけだなぁってだけで、僕的には大していい作品とは思えない『源氏物語』を至宝扱いしてる日本文学研究者へのそれでもあるが。実際ひどいな、これは、と感じるだけで、流麗な言葉遣いとは別に、ひどく悪趣味という印象で、全編読んで一度も感激できないのであるから。巧言令色鮮し仁。毎度も書いてるが、同時期の古典なら『平家物語』は涙なしに読めないほど立派な道徳、その中でもいわゆる戦国武士道が格調高く描かれてる、と思うけど。
(なおミスターも兵庫県出身で埼玉に来た人である)
まぁいづれにしてもナチスのいっていた「頽廃芸術」は、近代芸術の前衛傾向の物を指していたわけで、ヒトラーが古典主義者、特にイタリア・ルネサンスあたりが好きだったのと関係している。ムッソリーニにそれらを案内され大感激していたらしい。いうまでもないが、ヒトラーは軍人から政治家になる前は小卒の画家志望で、いわゆる古典的な写実画が画風だったが、一般的な貧乏画家と違ってそれなりに売れていたっぽい話もある。
近代美術の中でも、猥褻性の扱い方はマネ『草上の昼食』『オランピア』あたりから散々議論されてきた部分であるが、漫画の二次創作として性行為や変態性欲を描く同人誌――特に東京で盛んにコミックマーケットなる所で取引され、2019年だと動員数が75万人いる――は、文脈上まだ立派な美術視、ファインアート視されていないし、実際、国際的に一般社会の人達があれらをみて、表で認める可能性は殆どありえない様なしろものばかりである。外人でもそれらを好むオタクがいて、しかもウェブで観察できるかぎり潜在的に相当いるのではあるが、単に未成年を描いたエロマンガもってただけで逮捕されることもある欧米社会で、表向き威張れる状態ではないだろう。特に同人誌は、幼児性愛とか、性犯罪を美化する中身が凄く多い。日本人の一部に、性的少数者として、そういった性に関する国際的定義での不道徳や、性犯罪を合理化する目的で、同人誌取引の場で群れて、自己表現や相互承認での慰みしている人々が相当いる証拠であろう。
つまり、東京都議会ではゾーニング問題で既にとりあげられたことがあるにしても、日本の国会とかで同人誌の有償取引が「猥褻物頒布罪」として禁じられるべきか? について議論の俎上にのぼった際には、実物を児童保護者とか、フェミニスト含む国会議員がその場で見る必要がおそらくあるだろうし、それは甚だ一般人に衝撃をもたらすことになるであろう。いくら幼児性愛も思想表現の自由とはいえ、あからさまな児童姦淫の描写などで満ち溢れた実に不埒なる同人誌なるものを放任してきているわが国の頽廃性は正義だったのか? となる。国連でもいづれ同様の議論になる筈だ。
一足先に、未成年者として18禁のゾーニングが事実上成立していないネット経由で同人誌になれしたしんだ少女が、同様の猥褻表現のいくらか軽い版を、東京都高校文化祭の総合美術展でまかりまちがって受賞してしまったばかりに、変態性欲のオタクたちは遂に自分達の性的少数者として置かれてきた日陰の地位が改善するかと見越しツイッターでは大歓喜していたが、同時に、これまでもフェミニストとオタクの間でたびたびくすぶってきた戦いの火蓋がきられた、といってもいいかもしれない。宇崎ちゃんポスター炎上とかが前哨戦。それは人類の良識と、頽廃主義を是とするありとあらゆる姦淫妄想まみれの東京人オタク達(なお女性オタク軍、いわゆる腐女子軍も大勢いる)の最終決戦の様相を呈し、どちらかが勝利を収めるまで続く。
私はなるだけ係わり合いになりたくないので、全くそれら第一次オタク・フェミ最終戦争の、甚大な被害が予想される戦禍の外に出るしかない。かなり以前からそれらサブカル対アート世界大戦開戦を予想し、純粋抽象画(理想画)の安全圏へ先んじて退避していた――既に再現芸術の模倣にまつわる諸問題を最大限克服し、安全地帯まで前衛の歩みを進めていたともいえるのだから。
漫画やアニメ、ゲームはすばらしいアートだぜ! と、うそぶくジャパニーズ・サブカルファンの、とあるオタッキーなイギリス人に、かつて私が同人誌作家たちの絵を
「こんなのが漫画の一部としてあるんだぜ? 本当にこんなの褒められた文化だと思う?」
とみせてやったら、そのイギリス人は大発狂した。そして別の或るノルウェー人と一緒になって、寧ろそれら東京ゲス文化に外部批評的な僕まで「日本」カテゴリーで同類視してきて、僕が描いたわけでもないのに、なぜか僕が散々侮辱された。のも、いってみれば、東京人の相当数はじめオタクたちのせいなので、オタクたちへ或る種の怨恨はある。もとよりこの国で立派な芸術や、まじめな前衛美術が全然売れないのは、下衆どもが東京や京都を中心に、凄まじい下品さ、稚気、反知性主義の低俗なサブカル空間に夢中で大金を注ぎ込んでいるからだといってもいいだろうから、或る意味では自分の天敵たちでもある。
だからといって私は単純にオタクアートを殲滅しようとは思っておらず、どう料理し始末してやろうかな、と、もっと戦略的に彼らサブカルファンどもへ徹底復讐または、彼らの醜態ごと灰燼に帰しうる状況を作ろうと思っているが。また彼らを擁護していた老害とか若害とかもまとめて、文化闘争の中で二度と美術面できなくなるまで、至高至美なる美の女神ミューズの下す大義の前で、一匹残らず退治しなければならないだろう!
――と、思うともなく感じなくもなかったのだが、上記の「そもそも漫画絵自体がダメだろ」のつっこみをみて、少し、自分の考え方を疑いだした。えっ、自分以外にもそう思ってる人がいたのか! 括弧笑い、括弧閉じると軽く驚き、飽くまで全人類でただ一人の勇士が自分なり、億万人といえども吾往かんと信じていたのが、別人も同じ歩みを進めているぽいのを目撃し反サブカル観念論そのものを客観可能になったのだ。
確かに東京発の漫画絵は江戸発の浮世絵レベルに下らない通俗性があるにしても、絵としては高が線描手法で、そこまで手法自体が悪いのではない。幼稚にみえる絵かもしれないが、週刊少年雑誌内で子供に毎週手際よく紙芝居を物語る為ああいう速描形式に収斂してきたものだ。だとすれば、悪いのは漫画形式じゃなくて、それを悪用している漫画作家なのだろう。また、究極ではどれだけ醜悪な頽廃表現も一応、表現の自由であるからして、犯罪的内容だろうが、誰か個人とか集団とかを具体的に危害なす目的で攻撃しているのでなければ、それ自体が犯罪なわけではないかもしれない。
漫画絵、同人誌を描いている人達の、思想内容の方に問題があって、表現手法が邪悪なのではないのかもしれないわけだ?
実際、非常に善なる内容を、例えばヒューマニズム的な内容を語りえている代物もあるだろう。『ブラックジャック』とか、大長編ドラえもんのシリーズとか。つまり、へぼ作家しかいないのが問題なわけであるし、そもそも、性愛の表現だって別に大人が見る分には、一種の官能性の追求にすぎないかもしれない。有性生物の哺乳類(又は、創造説内部では神の被造物)から性欲のもたらす諸現象を完全除去できないからには、性表現とか性描写とかを表向き隠す方が一般に上品だとはいえ、その内情を全く表現不可とするのも人間性への抑圧ではないか、寧ろ美化されうる限りすべきではないか、というシャルル・ラロ的な性愛の諸要素を肯定する芸術論の立場もある。
中央展炎上の戦端は
「未成年者が公然と猥褻物展示する自由、並びにそれを大人が美術館で許可、なかんづく奨励する必要はあるべきか?」
だが、某高校生の親とか保護者、学校の教育が、性道徳面で堕落してるだけだろうし、実際マネだって私生活では性病(梅毒)こじれて亡くなったといわれるくらいそうだったのだ。江戸時代から遊郭社会が有名な東京とか、全地球でも最大頽廃都市のひとつで、今でいう性風俗業界(性産業)に未成年者が近接しててもおかしくない。
あれの展示責任は、当の未成年者と、彼女をとりかこむ東京都民の性風紀・教育環境や、東京都の教育委員会にあって直接、私にはない。
私見としては、表現の自由として描いてもまぁいいけど、わざわざ描く必要もなければ猥褻物陳列罪になる可能性しかないから公共展示する必要もない絵だし、あまつさえそれを保護者とか学校教員とか、中央展の審査委員とかが褒めてしまう時点で東京都民ってプライドばっかり高く、中身さっぱり、いつものごとく人類最底辺級に悪趣味ではなはだ軽蔑すべき衆愚だな、未成年者らしきやつに違法な酒のませ下着チラリズムメイドじゃねぇわ、このアキバ風俗の同人誌作家めが、という感想くらいである。さほどうつくしいともおもわんし。寧ろただの猥褻物とみてもエロスなのかなぁこれがって感じで中途半端だし、美術品とみても微妙に人物の立体感がゆがんでて人体がなんとなく平坦にみえるだけでそれ自体もセザンヌ的な前キュビズムっぽい意図してる様ではなくうまくかけてないだけっぽくことさら新鮮さも面白みも、伝統的風格もない。ツイッターのオタクたちは作家自体が卑猥な妄想をうけいれてくれるはず風俗作家に違いないというあからさまな性欲を直接作者にぶつけており、相手が18歳未満なら条例違反ではないのかな? という文脈で妄想大発情していたみたいだが――そしてその高校生女子自体がそういうゲスな返信ツイートを進んで消したり、迷惑がって回ってるわけでもない上に、元来がネット18禁スペースにおそらく18歳未満なのにもかかわらず猥褻漫画を展示していた人なわけで、そういう性的に堕落した精神といおうか、もともと当人が好むと好まざるとにかかわらず、あるいは多かれ少なかれ高校生時点で遊女性を好む性格になってきている人なんだろうけども――専門的に見て、それ以外どんな感想がでてくる絵なのだろうか?
自分に予想できるのは、あたまのわるい東京の美術予備校講師級・高校美術教師とか、「背景まで良く描き込まれてる」とかいって褒めそうと思ったが。時間かければそうなるだろうけど、だからなにってだけなのに、である。フラスコ画時代の細密描写だかがあまねく正義でもあるまいし、くだらん根性論である。
上記の私怨こえれば漫画アーティストとかどうでもいいともいえ、私としては相手にしないのが最善ではないかと思う。そして自分に彼らを利用できる機会がくれば、利用すればいい。なにせ、僕へ集団認知の誤認でぬれぎぬきせた、あのイギリス人とあのノルウェー人が悪いだけである。
イギリス人=動物虐待のダミアンハースト=器物破損罪のバンクシーという公式くらい阿呆臭い。悪いのはダミアンとバンクシーなのであって、それをほめてるイギリス人も同罪ではあるが、やめてよ~といっている人達に限っては良識が認められるのと一緒。同人誌とか漫画とか下品なのはちょっとねぇ、とか、子供が読んでも中身が立派ならいいけど下らないのが多いし大抵、つまんない東京人や京都人らのただの金儲けだな、といっている常識人は、日本人でも過半であろうけれども、鑑賞力が低落してもいないし、ひとたる良心をもっているのだ。
西日本人一般は小御所会議以後の己どもによる侵略罪を全く反省していない
西日本の人々は、薩長土肥(鹿児島県、山口県、高知県、佐賀県)や小御所会議で西軍に就いた京都府や広島県の人々を中心に、総じて幕末以後に東日本・沖縄や周辺諸国を侵略しつつ数多の蛮行を繰り返した歴史的人道犯罪について、全く無反省なばかりか、逆に驕り高ぶって自らの侵略罪を正当化している。この意味でこれらの人々は野蛮な自民族中心主義者であり、今後も民族虐殺を含む政治犯罪・戦争犯罪を何度でもやりかねない心理状態にあるといっていい。
小御所会議からここ153年間、これら西日本人らは自分達の犯した無政府テロリズムによる侵略罪を、その後釜にあたる明治、大正、昭和、平成、令和政府ともども根っから自己正当化しており、天皇皇族含め、自らの人道と人類の良心に対する重罪を何の反省もしていない。彼らに猛省促したところで一体、153年間も己の蛮行を自慢していた極悪人達にそれが可能だろうか?
我々東日本人は、東京政府を含め、彼らの重罪を少しもゆるしおくべきではないし、未来永劫語り継ぎ、彼らの卑しく醜い利己性・害他性を述べ伝えねばならないだろう。それは彼らを世界史の中で反面教師とする為であり、それが、天皇並びに西軍による侵略罪での犠牲者に対する唯一の報いなのである。
法治主義は実際的には法律家という独裁官を生み出す
法律の条文が多すぎ、また煩瑣すぎ、専門家しか誰もその全体をみてとれない状況では、法律家が独裁官の代わりになるだろう。
法治国家が何か正当性を帯びているかの様な言説は、それが人治国家に比べ、少なくとも強制力を第三者に振るわれる根拠を事前に知りうる、という点にしか特に正当性がないが、この前提は実際的には有効性が限られている。
旧連合国は旧枢軸国の苦境を生み出した間接的責任者
現日本人一般は旧連合国に洗脳され、英米仏人一般が自明かつ普遍に正義の徒かの様に思い込んでいる。もしそうなら端から日本が欧米植民地化防止の為に東亜諸国へはるばる出向く必要もなかったのだ。
確かにナチスドイツはとんでもないユダヤ人大量虐殺を行った。同時に彼らがあそこまで追い詰められていたのは、英米仏蘭葡西らが殖民侵略を繰り返し領土拡大する一方で、経済的苦境によって国民社会主義が唯一の打開策だ、と考えるドイツ国民が多かったからかもしれない。
2020年12月22日
コロナ鍋に投げ込まれた悪魔
生活保護叩きで公的扶助も与えず人権侵害
社会的弱者を毎日集団虐殺していた極悪日本人一味
特に男をATM扱いで寄生目的だった悪魔の日本女達
コロナ禍ならぬコロナ鍋で次々感染自殺していっているらしい
けがれきった日本
利己的な人
道徳哲学へ説教臭いという人は、倫理を単なる学問的知識より軽視している科学者同様、文明人としては性情がよくない
道徳を「説教臭い」などと嫌悪する人々は――私は道徳と呼ばれるものが単なる暴力を振るう人々による偽装である場合を除けば生まれてから一度もそう感じた事がないのだが――単に性が悪い。それで本能がおおよそ文明人たる理性より優越してしまい、反社会的で獣じみた利己的行動をとりたがるので、道徳に関することを忌避するのである。
単なる科学者、科学学習者の類には、後自然学あるいは社会に関する知識体系でも最も総合的といえる倫理分野を軽侮している人が相当多く、飽くまで経験的にはだが、日本で理系と呼ばれる系統で教育されただけの人々は、ほぼ例外なくそうだといっていいほどの割合である。その意味でわが日本の理科関係者はおそらくほとんど全員が、ある種の狂気を持つ反社会性人格といってもいいのだから、恐ろしい。
もとより倫理学に関心があれば、単なる科学の専門家に収まるはずもなく、全思想史の研究を越えて、哲学そのものを専攻した筈なのだから当然といえばそうなのだが。うらをかえせば脳の特徴差として、一般的な専門科学者はその分野の専門知識に秀でている代わり、多かれ少なかれ総合的な倫理面では、円満な人徳者に比べ劣っているだろう。
科学者倫理の類が叫ばれて久しいが、アインシュタインを一代表者として人道犯罪を犯した科学専門屋に通例求められている研究倫理などいまだ高がしれたもので、論文の書き方、最大でも研究費の横領、不正流用、あるいは研究室内での嫌がらせ禁止くらいのものではないだろうか。学術会議に注意されるまで通常、科学や工学の悪用は各科学者もしくは教授と学生らに公然と行われてきている。利己心だけが発達した獣類同然の社会性しか持ち合わせない博士がいかに、人類全体を不幸のどん底に陥れてきたことだろう。大量破壊兵器、生化学兵器、遠隔操作系の武器、スパイウェア開発や、それらを用いた暗殺、私権侵害、大量虐殺の正当化は今も各国科学界で続いている。己どものもたらした致命的な原発公害を反省している科学者がいたら、なぜ集まって廃炉の声を挙げないのか?
単なる優生学、人体実験だけでなく、資本主義や自由主義を正当化する人も、独裁傾向をもつ社会主義者や、政府の為の思想統制を行う共産主義者と同様にまた、多くの人類を犠牲にしつつ己の信じる新興宗教を頒布しているだけだ。民主主義という考え方も、多数派が常に単独または少数の賢者より暗愚であるかぎり、集団の横暴をさも正しいかのごとく言い繕う理屈に過ぎない。
白人至上主義と旧連合国中心主義の欺瞞
コーカソイドなる種族集団が万事優れていれば、とうに西洋社会の犯罪率が極東の日本より低くなっていたろうに。
もし米英仏ら旧連合国民が高徳であったなら、植民地侵略も行われず、第二次大戦でミサ中のキリスト教徒へ原爆投下もしなかったろうに。
権力の起源
他人へ憎悪混じりの悪意を向ける事が悪なのだ、という考え方を、人類の殆どの部類は持っていない。それで適当な理由をつけ、時に立派な大義名分を立て、赤の他人を攻撃する。その公然たる加害行為の最たる組織が政府であり、皇室であり、国連だ。
公的英語教育の失敗に伴う一部日本人の異様な外国語劣等感について
現代日本人に、外国語が少々できる人へ、やりとりの中身に関わらずそれだけで敬仰のまなざしを向ける場合があるのは、確かに意味が全然わからない事実である。
彼らがいかに語学を苦手にしているか、その原因は公的英語教育の不満足さにあるのだろうが、通常、語族が近い外国語から学ぶ傾向にある国々ではしばしば一般人も複数外国語ができるのが、彼ら日本人一般より低知能指数の集団でも常態的にある。
少なくとも私が接した諸外国の人々で、英語が少しできる人を尊敬のまなざしで見ていた人というのはまだひとりも見た事がない。
西洋だけでなく、近隣の韓国人でも中国人でもそうだった。
日本国の民衆だけ特に、異様な外国語劣等感を持っているのではないか。
先日ツイッターで私がスマートフォンが縦書きのまま返信するのに日本語キーボードを出すのが面倒だったので、英語で返信したら、相手が
「英語できるのを自慢してるのか?」
など難癖をつけてきた。相手がチンピラ同然の人格だったというのを抜きにしても、意味がわからなかった。
その相手が日本の学校教育を受けていれば、通常最初に学ぶ外国語は英語の筈で、しかも最低でも6年以上かけ学んだ筈である。それだけ時間をかけ、基礎的英語ができない、又は使えないのは卒業者としては問題がある。
相手が全く語学を苦手としているだけだったとしても、小学校高学年程度で理解できる言い回しへ発狂してくるとは、相手が異様に外国語へ劣等感を持ち、要は自分の劣等感を理由に、私へ反動形成のあてつけをしてきたと考えていい事は間違いなかった。反知性主義の一種として、彼の中に英語劣等感があるのだろう。実際その場でその様に言い、そのチンピラ男にあてた学校教育費が無駄に使われた事、それへの反省のなさを前提に、実質的に国際共有語の類ならばこれからでも学習すべきだろう、とわたしは暗に疑念を表明したが、もとより相手の心魂の卑しさを思えば彼の醜い合理化――「語学が苦手だった俺ではなく、少々英語できるこいつが悪い!」を彼自身、反省などするまい。
そういった言語圏の自己閉鎖性が、ますますそのチンピラ男の世間を狭め、知性を劣化させていく原因の一端になっているのだが。尤も、英語圏も、言語帝国主義の様相で通常、その他の言語圏に閉じている点では同じだが。
嘘百科事典ウィキペディア
嘘ばかり書いてあるウィキペディア。
特定のファシストが内部で少しでもまともな記述を即削除、優れた書き手を悪意で集団虐待においつめアカウントごと粛清。
浅ましく狂信的な被害妄想で、自分の陰険な害他心次第で、或る書き手や歴史上の人物、法人、地域や文化などへ濡れぎぬを着せ、編集権の剥奪あるいは名誉毀損。
引用文献の適当さ加減といったらなく、出版物に書いてあったらその時点で真実扱い。嘘で塗り固められた嘘つきの為の嘘百科事典。
歴史的反省力のない愚民愚官たちに再び繰り返される最悪級の過ち
三浦瑠麗がもし高卒だったなら、国民皆兵令の主張はスガ内閣どころかだれの目にもネトウヨのざれごととしか受け取られず、一顧だにされなかったであろう。偏差値主義による学歴差別がここでも、全日本人を民兵として再び最悪の戦火に陥れる準備段階になっている。
真の歴史的反省について
民族虐殺をはかったナチスドイツが悪い、故に、ヒトラーが悪い、という「ヒトラーに訴える論証」の最大の欠点は、そもそもそのヒトラー率いるナチスを民主的選挙で選んでいたのが現役のドイツ国民達だったという真実だ。
ヒトラーは近代ドイツ国民の要請によって、雇われた公僕だ。ドイツ国民一般が彼の反セム主義や種族主義を含むアーリア人優越論そして国民社会主義を拒絶していれば、端からナチスドイツが出現していなかった。
実際同時期の諸国でも、旧枢軸国の中に類似の結束主義的現象がみられるだけで、飽くまで程度の問題ではあるが、連合国側のうち少なくとも英米仏の3国ではより自由度の高い社会を作りえていた。特にフランスは、日本の第一次大戦後に提案した国連人種差別撤廃条約にも賛成票を投じていたなど当時としても最も寛容だった事が疑いない。
だが現代ドイツ人はヒトラー個人へ責任を帰し、その手伝いをさせられていた戦犯と、当時の制度たるナチズムに全過ちを単純化し還元してしまい、いわばドイツ人自身の自民族中心主義性に真の問題があるのを通常、反省していない。ミュンヘンで育って日本に来ているサンドラ・ヘフェリン氏の言説などにはまさにそういった面がまざまざと見られる。彼女は大抵の事柄についてドイツ民族を中心に置き、それに劣るものとみなした日本国民やドイツ文化との差を非難する論説を東京マスメディアや自身のツイッター・サイト・著書等で発表し、明治時代の薩長土肥による藩閥政治以来、脱亜入欧の欲望がある一般日本人に受けを取っている。
これが比較文化論の悪用または誤解なのはいうまでもない。通常、文化差は優劣ではない、というのが構造主義以後の文化人類学や、民俗学の常識だからである。学問的に定義せずとも、己の母国の単一文化が凡そあらゆる場面で正当と考えている人は、素朴に見ても世界旅行その他で異国情緒を好んで喜ぶ人が多い以上、非常に珍しい。サンドラ氏自身がこの点にいかに無知で無教養あるいは多文化への包摂性に無感覚であれ、根底にある自民族中心主義を否定できていない以上、ナチの根本にある問題は、ドイツ人一般の考え方の癖にあるのである。
ドイツ人一般にみられるその種の自民族中心主義にとって思想的源泉を辿れば、同国のヘーゲル(1770年 - 1831年)は既にそういった自民族中心主義を、世界精神として神話化してもいたし(『歴史哲学講義』)、通常、国際平和論者とみられるカント(1724年 - 1804年)にも、西洋中心主義の中でも自らを含むドイツ人が、諸国の人種に比べ代表的な人間像だといった自己中心性を免れていない論考が残っている(『美と崇高との感情性に関する観察』)。
大体似た様な事が、例えば東京人、京都人一般にも見られるが、彼らの場合、天皇と称する一族が遣隋使などを経由し、中国から持ち込んだ中華思想に感染しているのが大きいだろう。単に大都市になった東京については、群れる事で気が大きくなっているチンピラ的雑魚さもあるだろうが、京都の都市規模は随分小さいにもかかわらず、また『世界文化自由都市宣言』を京都市が定めてから久しく、そこでも京都を文化の中心と定め自民族・自文化中心性にはまず何の反省の色もない。明治150周年のイベントで彼らが奥羽越列藩同盟軍側とか、アイヌ、琉球、或いは最後の将軍のお国元にあたる水戸などを無視していたのはこれを示している――禁裏御守衛総督の水戸人・徳川慶喜と京都守護職の会津人・松平容保らが、共に天皇及び御所と京都を命がけで守っていたのに、彼らが小御所会議以後、薩長土肥や岩倉具視をはじめとする京都人、会議で同席し西軍に加担した広島人・浅野茂勲らから濡れぎぬを着せられ犠牲になった事に、西軍の末裔たちは何の謝罪の念も、感謝も、歴史的反省すらも全くない。飽くまで自分達京都人が主役で、自分達以下の国内諸都道府県民を暗に見下す、といった京都中心主義は、平安京以来の彼らの文化基底になっており、これがドイツ民族、あるいは元祖華人や、今や天皇のおひざ元たる東京人の単位になっていようが、構造は一緒で、古代奈良から行われた天皇一味の日本侵略を正当化していた頃と何の差もない。
そして日帝こと大日本帝国あるいは日本帝国主義の歴史的反省もおよそ中途半端なまま、皇室なるものが米国製民主主義に妥協しつつも戦後天皇制として日本右派の中でなかば理想化され、そっくりそのまま生き残ってしまっている事は、ナチスドイツと現代ドイツ人一般の相応の関係に照らせば、深刻に考えるに値する重大な点――日本国民一般にとっての、人道国家たる資格の欠如だというしかない。この点で国連憲章の敵国条項(国連憲章第53条、第77条1項b、第107条)が打った釘に、全く意味がないわけではないのである。尤も、旧連合国が植民地侵略のさなかやってきた人種差別や人権侵害にあたる不当裁判、慰安所の設置、その他の蛮行とか、諜報活動、原爆投下なども免責されうるものではないとはいえ、先ず隗より始めよ、が真実ならば(現・米英仏独伊中露ら第二次大戦参戦の主要他国にそれが期待できるとはいえない)、日本が最初に、戦争犯罪とはなんだったのか、それを歴史的反省ぬきになかった事にしようとしている右派らは戦犯の一部なのではないか、と倫理、法の両面から再検証していく必要があるのは疑いない。
同じく薩長土肥、広島・京都の軍が、小御所会議での裏切り以後、戊辰戦争の中でどんな残虐な行いを繰り返し行っていたかについても、史家は後世の為きちんと書き留めておく必要がある。これらは現実に、明治政府側が悪意で抹消しようとしたのであり(山県有朋による孝明天皇宸翰買取の陰謀など)、今も抹消され続けているといっていいだろう(新撰組初代筆頭局長・芹沢鴨による有栖川宮への仕官の史実、西軍による徳川慶喜・松平容保及び奥羽越列藩同盟への朝敵の濡れぎぬなど)。薩長土肥ら西軍の末裔達は過去の行いをむなしい虚栄心を補完する目的でなかった事していて、開き直って侵略や内乱罪に驕りつつ、反省するつもりも一切ないのだから(母方を薩長土肥の一端である佐賀県に持つ茂木健一郎氏による、実在しない「船中八策」など嘘混じりの、度重なる西軍英雄譚など)。
山口県の三浦梧楼が閔妃暗殺を企ててから、朝鮮や満州、台湾、中国や東南アジア、ロシア、ビルマで起きた同県・吉田松陰の侵略思想にのっとった日帝の行いの数々も、戊辰戦争の詳細記録と共に明治から平成の各政府は、薩長藩閥の残党勢がおもになって握りつぶしてきた。そして長州閥の末裔である安倍晋三も、私の見ている同時代で、公文書改竄に公然と手を染めていた。だがこういった自民族中心主義による不正な歴史改竄は日本では今に始まった話ではなく、天皇が古墳時代に実在した卑弥呼や各地豪族の国々の歴史、縄文時代以前の日本史を完全に抹消し、自分達奈良への移民一派が中心の偽史にすべてを書き換えてしまったのでも証拠だてられている。単なる歴史学に限らず、ことさら天皇が全権を持った明治から昭和前期の間、学術全般に及ぼした迫害的な影響(特に天皇機関説や大正民主主義、共産主義などへの言論弾圧、並びに進歩主義者への特高など憲兵を使った逮捕・軟禁・虐待・処刑など)――また戦後でも富山県立美術館での展示拒否事件を端緒に、果てはあいちトリエンナーレ2019での天皇踏み絵作品などを理由にした脅迫事件に象徴される「天皇タブー(天皇禁忌、天皇関係自主検閲)」の存在をかんがみ、学問の自由を権力乱用で侵害しうる中央政府から、祭政一致・政教一致の皇室が完全に排除されない限り、天皇にとって根本的に不都合な真実が、何者かのなんらかの意図で国史から消去されうるのは疑いない。
2020年12月21日
死ぬ事以外の道が塞がれた世界最悪国
なにをする事もままならず
遅かれ早かれ死にゆくだろう
それではなぜこの悲惨な国にうまれきた
邪悪で底なしの衆愚さに驕る
無数の悪魔たち
奴らが宇宙にまきちらす悪意は
今も私たちを傷つけ
日々苦しみをうみだしている
それでお前は黙って死ぬ事しかできず
連中の悪に負け
東京の公害
関西人の卑しい中華思想と利己性
薩長土肥の野蛮な裏切り殺戮自慢にだんまり
中部の金儲けしか能がない俗人どもと
永遠にこの腐った邪教祖天皇の命令に従い
極悪の愛国者だの自称リベラルの馬鹿に
この国を乗っ取られお終いなのか
ユダヤ人一般ととある日本人・とある会津人末裔の対比
数日前、約2名の人々にツイッターで絡まれてから、一時食事も満足に喉を通らなかったほど酷く憔悴しているのだが、そのうち1人は経済学の歴史や構造に凡そ全く無知なのに、当人が極度の傲慢で、全くこちらによる相手の知的水準にあわせ噛み砕いた懇切丁寧な説明を理解しようともせず、開き直って逆上、私を様々に名誉毀損してきた。またもう1人は、私がある人へ返信していた幕末・明治維新史の一部にどうみても事実誤認または非科学的な難癖をつけてきて、その後も恐ろしい無知さを自己正当化しながら、酷く悪意がある濡れぎぬを私へ着せてくるばかりで、一体当人がそこでどんな悪業をしているのか自覚していなかった。いわばその人は過去の大量虐殺史を、巧妙な偽善で、社会正義面で、歴史の証言者へ無道な攻撃をしかけつつ抹消しようとしていたのだ!
これら2人の極悪人だけでも私を絶望させるに十分すぎた。そんな悪魔じみた極道者達が同時代に同じ言語を喋って、しかも私へ頼んでもいないのに一方的に絡んでくるや、様々な犯罪をしかけてくるなど、到底耐えられるストレスではない。
だがもっと失望したのは、そもそもこの経済や歴史への無知をひきおこしている直接原因は、私が返信していた相手の方にあったのだ。その相手は或る分野の博士なのだが、異分野については私の目にも疎漏が甚だあって、しかも当人が自覚的かどうかとは別に、無知と悪意が混じっている様な感じを受ける言動もあるので、オッカムのかみそり式にそれを無知と仮定し、私は一種の啓蒙あるいは説教の類を返信してきた。
それらに相手が反省しているかそれとも一切読み取られていないか、私側に判断する事はできないのだが、普段のその相手は、自己礼賛の返信ばかり自慰的に進んで再掲したり(恐らく自己愛が極度に甚だしいのだろう、としか大概推測できない行動)、現実のしりあいへ返信したりしており、私の様な第三者の客観的目には、俗物根性に染まったインフルエンサー稼業と見分けがつかない。しかし当人の口舌ではそういった人々を軽蔑しているかのごとくに語る。詐術同然。したがって彼がここでも悪意で二重基準を使っているのか、ただ愚かで自分がその一員であるのと変わらない言動をしているのに気づいていないかどちらかなのだが、私側はここも、相手の内面を知る余地がない限り判定する方法がない。
いづれにしても三重のストレスが私に襲いかかる事になる。
それですっかり私は呆れて、というより疲れきって、元々、一向に相手の無知・悪意混じりの言動に反省がみられない以上、幾ら公益の為で義務的な場合に限るとはいえ、焼け石に水的な返信に疲れていたのだが、それに加え、猛烈な恐怖を感じる事になった。
これら3人の人物をそれぞれ抽象化しA、B、Cと置く。経済学の無知をA性、歴史学の無知をB性、俗物根性の無知をC性とする。これらどれも私にはうんざりする性質であるのだが、更に、AとBについては明白な悪意があり、私が彼らに彼らの公害防止のため必須知識を与えようとすれば、彼らは逆上して私へ名誉毀損罪してきたのだ。これはAとBが、愚か者であるばかりか悪性者である事も示している。さらにいえば、私には想像もつかないだけ禍々しい何かであり、永久に類人猿へと退化していこうとする、一種の衆愚主義者らだったと思う。AとBは口をそろえ「短く!」と言っていた。全く私には意味がわからず、相手の意味不明な言動を分析するのだが、何か相手の知能が随分低い様だ、論理的でない言動をしている、無知や無学に驕って、わけのわからない考え方でこちらを貶めようとしてきているらしい、手のつけようもない不良なのだろう、といった感じしか受けないのだ。
私はこのAの言動のうちに、国民社会主義労働党、ナチ的な考え方が自明の正義と主張されているのをみいだした。新自由主義経済論の皮をかぶっていたが、その下にいるのはまぎれないネオナチであった。A曰く、政府が国民皆労働を達成すれば、それが最高最上の経済性でほか一切はその為の手段。「強制労働が理想なのか?」と問い返した所、Aは道理の通らない言い方で、私をひどく中傷してきた。
これで私は恐ろしくなって、ナチとは一体なんだったのかを詳しく調べだした。今も強制収容所で一体、彼らがなにをしていたか次々掘り起こしているのだが、Aは間違いなく、ある種のゾンダーコマンド的存在である――私はゾンダーコマンド自体をここで責めているのではない。寧ろ、同胞を強制で葬った末に自らも殺処分される立場は、ナチスドイツ軍によるユダヤ人大量虐殺史の中でも、最大の犠牲の一団だった様に思われなくもない。小泉父と竹中平蔵は、非正規雇用法の元で、一種の強制労働を正当化した。生活保護という公的扶助は、日本の役所が通常、水際作戦という怠業の嫌がらせを常習的に行うので原則、一般人が受けることができない。なんらかの重病者とかで診断書があり、親族全てがある人を見捨てた又は事情があって世話できない様な、非常に特殊な状況でしか、国民として当然の権利を侵害され、必要な福祉を受けられないのがこの国行政の堕落しきった実態である。それでこういった公的扶助の不完全さを悪用し、小泉政権は、パソナグループという竹中氏の人材派遣会社へ金を流し込む施策をした。その絶滅労働の末路といえるのがAで、頭を使わず、次々死体処理式に非正規労働者を回していけばAに金が入るしくみがあるのだろう。それで続く自民党系の安倍政権でも、同路線を執っていたのをいい事に、何度でもその種の奴隷売買業をやってくれ! と公言しているのだ。そしてAも歯車として消尽され消える。次のA'が登場する。その無限ループ。幾ら頭が悪いとはいえ、真のゾンダーコマンド式に強要されているわけでもない以上、そして私の様な第三者が「それは過ちである」と指摘し当の忠告からいつでも反省しうる条件にあったのに、Aに罪がない、と本当にいえるのか?
Aは自分が対話したかぎり思考力が優秀な中学生以下ほどで、恐らくIQ面では日本人全体の平均値のそのまた半分くらいのものだろう。私の知らないアニメキャラクターのファンだと自己紹介欄に書いてあった。Aにとって奴隷売買業の一員として労働を繰り返すのが唯一の仕事で、唯一の正義で、経済的で、ほかはそうではない、という教義が絶対のもので、つまり全員労働ナチズムなのだが、これをどの方面から経済学の理論を使って矛盾していると指摘されようが、全ては馬耳東風であった。
Bの言動はもっと邪悪で、過去を掘り起こすなとか、部外者が語るのはよくないなど適当な言い訳をしつつ、会津戦争の記述を弾圧しようとするのである。一体この世であれほど恐るべき筆禍があるだろうか? 永久に民族虐殺史をこの世から抹殺しようとする者は、何度でも同じ大量虐殺を許可しているに等しいのだ。私は気が遠くなるほどBの忌まわしい不吉さに厭世観を感じた。同時期に、ユダヤ人がどれほどの死と悲嘆と甚大な労力をかけ、身を切るほどつらい同胞の犠牲を歴史記録にとどめながら、世の啓蒙をはかってきたというのか? 彼らが語れば「部外者が語るのはよくない」「過去を掘り起こすな」などと文句をつける、そんなユダヤ同胞がどこかにいたのか?――もしかしたらいたのかもしれない。だが圧倒的多数のユダヤ人はそうせず、先祖の犠牲を無にしない様、人道への貢献を願った。会津人の祖父母がいると語るBは、ユダヤ人の末裔たちと、いかに隔たっていることか! 今も福島県は原発公害を毎日受けている。東電筆頭株主の東京都庁の集団的共謀の元で、東京都民が、暴利を貪る目的で原発設置も東京までの送電線の設置も大事故もやったのである。そしてその証拠は東電と自民党政府の癒着の中で巧妙に握りつぶされているし、福島いわき人ら総勢のお人よしな楽観性のせいで、大部分が歴史の闇に今も葬られ続けている。ナチスドイツ人が絶滅収容所の証拠隠滅を謀った様に、東電関係者と東京都民の真の人道犯罪は、犠牲者の全生命と共に日々世界から消され、なかった事にされている。だがそれは因果応報、自業自得でもあるのだ。Bをみよ。彼の同胞への冷酷無慈悲さと無責任。
Cについては、今までも多少あれ同じだったので今更失望するでもないのだが、これらAとBの一切望みのない底の抜けきった暗愚さと同時にCの俗物主義的な言動にみられる連日の俗悪さが襲ってきたので、私は今も大変気分悪く、同氏の発信を見ない事しかできない。
自由を憎む国民、自由を乱用する国民
自由を憎む国民は、遂に自他へ奴隷たる振る舞いを強要する。
日本人一般の信じる理想的奴隷は口答えせず、自ら考えず、他人を傷つける事をなんとも思わず、上官上司の命令に従って、地位や学歴通りに服従し、自殺攻撃や同類の殺処分に唯々諾々と従い、天皇陛下万歳と叫んで終生納税し続けねばならない。そして日本人右派一般は、この様な国民をなんとしてでも明治政府的天皇制結束の下にある国家社会主義ドイツ労働党的義務教育で作ろうとし、その長州閥初代総理・伊藤博文的専制に敵対する者を左翼と名づけ、無益に蔑視しながら迫害しているのだ。
だがもっとたちの悪い反自由主義者は、自由を無際限な放恣に置き換え、ネット犯罪の匿名掲示板を作って金儲けしたり、不道徳礼賛したり、大公害を利己心で合理化したりし、深刻な迷惑行為や致命的な人道犯罪に全く反省しないまま自由を求め続ける。彼らのいう自由とは、害他をかえりみない無際限な利己主義のいいかえなのだ。
第二京都
東京人全般は誠実で善良な役者から次々自殺するしかない様な、浮浪者を慰みに撲殺する様な、日々特定都道府県へ勝手な擬似統計で最低との濡れぎぬを着せる様な、或いは原発公害で多数の国民を犠牲にしながら儲けた金で嘘をつきながら賄賂五輪を招致する様な、酷く不幸で反面教師としかいえない大量死の疫病都市しか作れなかったのだから、中華思想で自己礼賛しつつ、傲慢な無知と悪意からくる偏見に満ちた全国差別を幾ら繰り返そうと、その絶望的な頽廃社会ごと、第二京都として滅び行くだけだろう。
偏差値エリートの人道犯罪
原発公害やコロナ禍の過小評価で
人類と接すべきではない理由
私は、大抵どんな他人とも接しない事で最も幸福でいられる。これは確かである。
私の過去の人生で、一番幸せだった時期を思い出しても、都内の京王多摩川沿い、調布市にあった下宿で、誰とも会話せず一人で勉強できていた時期、20代半ば頃であったと思う。
当時考えた事は大量の手記として残っていて、その本の一部をこのブログに記述してあるが、私は自分の集中した思索を煩わされる事が最も不快で、特にソーシャルメディアとかSNS、掲示板などは思い出してみるだけでも総じて甚だ有害でしかない。
もっといえば、社会的存在としての人類が私には医療など例外的な場合を除けば有害な存在でしかないのだろう。それは彼らが私より遥かに悪意に満ちた、利己的、害他的生命体だからだ。
現日本国民一般の既往の冷酷無慈悲さと彼らとの接触を最大限絶つ徳
我々は悪徳まみれの俗物の一員となって生きるより、孤立していた方が遥かに優れている。
日本国とか、特にそこで最も犯罪率の高い大阪府あるいは犯罪数の多い東京都とかは、他所に比べまるで少しも善意を持った人々が居ない社会と相対的に等しい状態であり、世界寄付指数で世界一知らない他人に冷酷と出ているのも決して嘘ではない。私が知らない他人の日本人に進んで助けられた、といった経験は36年間殆ど思い出せず、たった1度だけあったのが栃木県の茂木町を歩いていた時、そちらには行けないよ、と行き止まりの知らせをかなり遠くの家から声をかけてくれた人がいた、のが唯一である。その逆の例、ひたすら悪意で傷害や濡れぎぬされた事なら無数にある。
東京都ではそういった悪意ある行動がもはや常態なので、マスコミや有名人達は、連日その様な蛮行で誰かを不当に貶め、一方的に傷つけて金を儲け、正義面で名誉ぶる事しかやっていないが、結果、頽廃しきった都民および彼らに追従する衆愚的な相当数の日本国民達から、賞賛・礼賛されているのだ。
冷酷さは現日本国民一般の既往の性質なのである。
そうであれば、日本人の間で日本人として生きるにあたって、最善なのは、同国民一般と努めて接さない事に違いない。コロナ禍云々と全く別の意味で、無慈悲で邪悪な心魂を持つ人々との接触は最悪の経験になるばかりだろうし、現実にそれに加え、死に至りうる病まで伝染させられてしまうのだから。
なおソーシャルメディア、SNS上でも事情は全く同じで、彼らはさもそれが利用の前提かの如く匿名犯罪を喜んでやるので、関わればかかわるほど不幸になってしまう。それらに日本語で、対日本人で触れなければ遥かに幸せでいられる。
第二次大戦で日本国が敗れて然るべきだった理由
なぜ第二次大戦で日本国が敗れたのか。これは一つの確信を持ちいえるが、この集団は甚だ性が悪い。極めつけの性悪集団なので何かを善意で行う事が先ずできない。その様な人物を私は、実人生で何千人も関わって、まだ日本では2、3人かそこらしか見た事がないのだ。
1人は私が無償で与えたゲームのプレゼントに、寄付という形で進んで返礼をした女。
1人は私が都内で関わった建築構造設計の講師で、私を自宅に招待し食事をご馳走してくれたり、彼の設計していた或る建築を案内してくれたりした。
もう1人は、非常に些細な事に思えるだろうが、私の高校時代の親友で、レディオヘッドの『RAINBOWS』というCDアルバムを私に貸した際、そのまま持っていっていいよ、と言って私はその後彼に会っていないので今もそれを返していない。私の方も代わりに、ミース・ファン・デル・ローエの伝記風の本を貸したまま、あげた様なものだからおあいこではあるが。
ほかにも少し(思い出せるだけで約2、3人)はいるが、特筆すべき程ではない。私のゲーム作品に2千円相当ほどポイントという対価を払った東京男1人。そして100円程払った、大阪女1人と当時はオランダに住んでいた女1人らだ。経済のルールとみれば、人としてその位できても当然ではないだろうか、といった水準で、その他圧倒的多数は私がみていても、この人達は悪意で生きていてなんともないのだろうか? と感じるだけ心の底から、邪悪だった。総じて、思い出すだけで吐き気が止まらなくなる、魂の腐りきった連中が甚だいた。
統計で見れば幾ら大部分の他国より犯罪率が少なかろうと、内情は堕落しきっている。そんな国民団体が、何か立派な事を成し遂げられる筈がないのだ。彼らが何かをやったとしても、すべからく邪悪な公害に落ち着く。福島県、茨城県、青森県や新潟県は今も東京都1千万人超の原発公害で犠牲になっているが、東京都民一般には何の反省の色も見られないし、今後も決して反省せず、強欲に拝金主義的生活を続けるであろう――彼らの教祖天皇はこうしている今も彼らカルト暴力団の頂点から、全国民を差別し、政府権力に寄生し富を収奪し続けている。
南京その他で日本軍がやった事。これは今も続けて起こりうる。彼ら日本人一般に何の反省の念もない。その少し前に戊辰戦争で西軍がやった大量虐殺もほぼ同じで、明治150周年式典などといい、その西軍の人道犯罪を心から自慢し、褒めちぎっている薩長土肥あるいは彼らに加担した京都人・広島人の末裔しか、それらの集団内部に私はただのひとりも見た事がない程だ。
全く同様に、彼ら日本人一般は、少なくとも遺跡でわかっているかぎり弥生民族の流入後、各地で人種差別を含む殺戮など人道犯罪を繰り返してきているが、今もそれらについて本格的な反省をした事がないのだ。ユダヤ人虐殺をナチス・ドイツの罪だとして猛省させようとした旧連合国およびユダヤ民族は、少なくとも彼ら日本人一般へは天皇の傀儡政権をGHQ経由で操る事で済ませ、何の人道的反省も行わせなかった。原爆投下もとりかえしのつかない罪なのはいうまでもないが。
日本人及び人類一般への感想
私は日本人と呼ばれる人々の間で生まれた。家系図で分かっている限り、先祖には関東・東北の人々が並んでいて、その一員として。
だが私は日本国民なるものの殆どの部類が、根っから邪悪だという印象を合計36年間かれら日本人の一人として生きて感じた。無論程度の問題ではあるが、私自身に比べそれと同じ程に親切だとか誠実だとか善良だといった日本人は、本当に片手5本指のそのまた半分以下に数える数くらいしかいなかった。それ以外、恐らく直接目撃しただけで数千人以上を下らない数の人々、また抽象的に計測できる1億人以上の人々に、よい性質というのは先ず感じなかった。
逆に私が感じたのは、彼らの凄まじい悪徳ぶりと、著しく禍々しい悪意、そして愚かさだ。
或るイギリス人が私に言った。君は日本の外に出るべきではないよ、と。それは私に比べ世界人類一般が遥かに悪辣だから、君はきっと人類社会に失望するだろう、との含意があった。だがこれは真実ではない。私はその、他国に比べればまだ犯罪率が甚だ低い方に属する、或いは平均IQが甚だ高い方に属する種族集団へ、絶望的な感想を抱いてきたのだ。
私は彼にいわれるまでもなく、日本人並びに人類一般に絶望していた。
都会の衆愚と全国の良識
ろくに意味を知りもしない和製英語でもちあげ
「倒幕」や「鎖国」、「船中八策」は明治元勲および小説家・司馬遼太郎の捏造による喧伝文句を国定教科書採用会社が騙されさも史実かの如く記述してきた事のあった虚偽事項で、歴史上実在せず、「徳川慶喜による天皇への禅譲」と、「西軍の東日本侵略」、「出島貿易」があったのみ
倒幕という現象は幕末から明治にかけ全く存在しなかった。あったのは最後の将軍・徳川慶喜による天皇への「禅譲」と、西軍による東日本への侵略だけだ。
1) 吉田武弘『幕末期水戸藩における海外情報─「新聞」にみるアメリカ南北戦争─』「立命館言語文化研究」23巻3号、2012年2月、pp.119 - 131
2020年12月20日
負けてよかった馬鹿集団
私は今から大変恐ろしい事を書く。日本人一般は議論ができない。もう一度書くが、日本人一般は議論をする事ができない。これは非常に恐ろしい文章だ。
哲学が必修の国に、そんな衆愚一般が喧嘩を挑み負けた。寧ろそこで負けなかったらどうなっていた事か? 漫画アニメをまきちらす馬鹿が覇者だとはそれ自体が喜劇でしかない。議論ができない、即ち、日本人一般は自ら考える能力が殆どないだけ愚かなのだ。
彼らは天皇の奴隷で、その教祖といえば道徳性のかけらもない大量殺人カルト。類人猿の先祖を神と言っている頭が大分いかれているとしか解釈できない、徹底した利己主義の税収奪・浪費サイコパスときている。愚民の洗脳が唯一の職能。そんな世襲の関西人独裁者一門を象徴と名づけ――なんの中身もない言葉なわけだが――崇めている幼稚な連中が、侵略戦争などおこがましい限りと言うべきだろう。
この世で最もしてはならない事
この世で最もやってはならないのは、自分より愚かな人に場を譲る事で、その中でも、特に最悪なのは自分より卑しい、不道徳な人、悪人に権力の座を譲ってしまう事だ。前者がもたらすのは文明の退化、後者がもたらすのは常に甚大な災厄だけである。
理想的人権機関について
サイモン・ウィーゼンタール・センターは、少なくともユダヤ人の権利を守る為には非常に有益な働きをしている。だがその公益性は、私の短い観察期間ではだが、飽くまでユダヤ教の選民思想の延長上にあって、常に人類普遍の人権擁護をしているわけではない。現時点では、しばしばユダヤ人に関連し派生的に擁護する場面もあるのだろう(例えばホロコースト記念碑前でのポーズ、ナチマークのファッション、ライブなどに関連した、BTSの原爆シャツ・ブルゾンへの指摘)。
国連人権委員会も、細かな人権侵害に一々対応してくれるわけではない。あいちトリエンナーレ2019年の時、その芸術監督が社会的弱者たる男性芸術家差別を公言していたので、私が居てもたまらず訴えたものの返事はなかった。当然といえば当然だが、国際機関が個々人の被害に構っていられないのである。
これらを前例に、理想の人権擁護組織というものは、先ず普遍的で、かつ、細かな人権侵害に最大限の助け舟を出せるものであるべきだ。
国家主義者の過ち
ツイッター民はじめ、日本国民一般は私にとっては天敵の様なものだ。彼らは常々悪意で、様々な嫌がらせや濡れぎぬを着せてくるだけで、何か私の為になる事を進んでやってくれた試しがない。一方、私は彼らへ自己犠牲をはかった原則無償の慈善活動や奉仕しかしてこなかった。
日本国民一般が正真正銘の極悪人達の集まりだとこれで認識できなければ、余程のお人よしなのではないだろうか。私にとって彼らは常態的に害なのだ。
彼らの中でも特段、悪質な人々は、経験的に、東京・横浜・仙台とか、京都(の女)とかに多かった――ほかの地域に悪質な連中がいない、もしくは少ないとも、統計的に固定的だともここでは言ってない。要するに自分を都会人だと自認している人々の高濃度さは通常悪辣な傾向があり、全く例外がないとはいわないものの、総じてそれらの人々は私とは一から十まで違っており、ひどい差別的言動を初対面で不躾にしてきたり――勿論彼らが群れることでつけあがっているチンピラ気質だからそんな無礼な悪行を恥知らずにもしてくるにすぎず、根っから暗愚で邪悪な中華主義者どもなのだが――総じてだが、傲慢で強欲で下品極まりなかった。今も彼らは原発公害で我々を苦しめているが反省の色は全くないほどだ。
結局、それなら彼らは犯罪集団の様なもので、私にとって天敵中の天敵といっていいのではないか? 何か彼らが私の為になる事を常々してきているなら分かるが、やってくる事が日本史全体を見返しても、全く例外がないとはいえないものの、大概絶えず愚にもつかない蔑視だの、偏見に満ちた名誉毀損罪だの、挙句の果てに暴利を貪る搾取とか、犯罪行為の山なのだから始末に負えない。
国家主義者は完全な馬鹿だ。何しろ外敵が攻め込んでこない限り、同じ日本国民の中でも悪質な連中こそ現に最大の天敵であるに違いなく、特に、南関東や関西地方といった都会には悪魔の様な連中がことさら集まっており、日々、同じ国民を頭ごなしに差別しながら暴虐を繰り返し、貪ってきているのがこの国の飛鳥時代以降の変わらぬ有様だから。単純に、犯罪率・犯罪数が全くそれを示しているではないか。
そこで同国民への収奪・差別、奴隷化、そして大量虐殺史など悪業の権化が、天皇家なのはいうまでもないが。
先天的賢さや賢さ自体と公的な学歴及び学習歴は特に関係がない
学歴の高さは、生まれつきの賢さ、或いは賢さ自体と凡そ何の関係もない。後天的に学習した分は幾らでもごまかしが効くのだから。
その上、公的学歴と学習歴も通例、大幅に異なる。
これゆえ学歴で人の賢愚を測ろうとしている人は、全員が確実に事の真相を見誤る。
学歴は賢さの擬態であり、ある種の愚かさである。
なぜこの国、この社会が死ぬほど住みづらいか
想像もつかないほど愚かな人、卑しい人というのは、我々の予想を超えた圧倒的に悪辣な、もしくは下卑た行動をしてくるものだ。そういった人々は無数にいて、社会の全面で傲慢極まりない悪業三昧しているのだが。そしてそれゆえこの国、この社会は最悪の不幸で満ち溢れている。
都会の悪質情報は同類相集まっているから
性格の悪い人の日常をみていると、確かに、その人と同調的意見を好んで発信したり、見ている事が分かるだろう。これは或る性悪は周りに同類を引き寄せているという事、即ち、性悪とつきあう者はその人と似る理由である。
東京発情報のたちが通例ひどく悪いのは、こういった性悪集団に馴れ親しんでおり、彼らが悪徳まみれだと気づかなくなっているからだ。
旧ナチス国民がのど元すぎて熱さ忘れ帝政ドイツ式の日本義務教育批判
山口県の誇る初代総理・伊藤博文が帝政ドイツを模範に導入した軍隊式義務教育が当の或るドイツ国民に「ああ嫌だ嫌だ、こういう独裁国家みたいな日本の学校」とナチスの過去を棚に上げながらディスられてる三重基準はもはや旧枢軸国日帝の憐れな片想いの惨めさに笑うしかない
学術自体は読解難易度ではなく質が基準
みるからに一般知能が低そうな人は、よく、自分を分かってくれる人を賢いとみたがるが為に、相手が詐欺的手法で自分の知的程度に合わせた言動をしてくると喜んでお墨付きを与えてしまいがちである。
彼らがある種の反知性主義的扇動政治屋に大いに心酔するのはこの為で、彼らの態度が分かり易く庶民的である所だけで全幅の信頼を寄せてしまうのだ。政治屋でなくとも俗受けが得意な扇動屋の類にも容易に心服し帰依してしまうのも、全く同じ心理作用である。
そして彼らと全く対極にある、純粋に知性主義的な言説をとる人、決して一般人に分かり易い言説をしたとはいえない学者らしい学者を、現実で低一般知能の人々はある種の合理化の為に腐す傾向にある。「学者」「知識人」を現実を知らない机上の空論を操る者、といった軽蔑的文脈に置き扇動政治屋の間接擁護を図るソフィストじみた人は、どの時代にも潜在的にいるのだが、そういう人々の期待を一身に受けたのが、演説の名手だったヒトラーその人であるのを世界史は忘れるべきではないだろう。ナチス政権当時のドイツ人はその殆どが、現に、そのヒトラーが説得力を与えた状況打開論風の反セム主義に心酔し、人種差別を含む政治を多かれ少なかれ公的に容認していたのだ。
我々の知的社会が大衆迎合とかかわらずに存続すれば、ある国の中の知識・道徳、趣味(鑑賞力)の次元が、大衆の最も質の低い者へ最適化する、下へ向けての競争に陥る事はない筈だ。純粋な学術的言説について必ずしも、通俗科学の様に噛み砕いて語る必要がないのはこの為である。その言説の質そのものが高ければわざわざ難渋にすべきでもないが、だからといって、分かり易さが全てに優越し質を下げるよりは、少々難読でも十分に立派な内容である方が学術自体としては優れているのだから。
2020年12月19日
なぜ日本では聖徳太子による和の独自定義が天皇制結束主義につながって、現役で邪悪な集団圧力として生き延びてきているか
日本人達の最悪の特徴は、全体結束主義性の中にある同調圧力を正当化する「和」の癖で、特にこの面を象徴化しているのが天皇の自己崇拝カルトである神道だ。
奈良時代に奈良県で創始されたこの宗教は、天皇の独裁を確立する為に「和」を聖徳太子『十七条の憲法』以来、国是の如く流布してきた。本来『礼記』『論語』では「礼儀は和やかに行うのが要だ」と定義されているのだが、聖徳太子は「喧嘩せず、議論の際も大人しく、天皇を頂点にする上官に逆らうな」と人々の対立関係を官僚が抑圧する目的に使った。こうして日本人民衆は、中古代の奈良人を中心に、神道化によって和に洗脳され、対話術的なあらゆる対立を拒絶する様になっていった。その最終形態が甚大な悲惨を国内外にもたらした、明治政府の天皇制結束主義だったのである。
現時点でも、日本人民衆はこの天皇制結束主義や、その流布の為の和をほぼ全員が絶対的で議論の余地がない自明の社会秩序原理の如く狂信しており、そこでは福沢諭吉が『文明論之概略』5章で「無議の習慣」と指摘した様、議論の習慣が基本的に一切みられない。それで日本人民衆は一定より対立関係が際立った議論を見ると喧嘩だと勘違いし、なぜか止めに入ったり、謎の正義面で強引に妨害したり、怒りながらいきり立って議論の中でより目立つ側へなるだけ集団で濡れぎぬを着せ必死で潰そうとしたりする。最悪のとき、集団権力を使って議論している人々を暴力的に抹殺してしまう。これら彼らの不可思議な行動に現れている内部原理が「集団圧力」と呼ばれる働きで、日本人民衆の間ではいつでもどこでも、この原理が全てに優越しているといっても過言ではない。
その様な社会は恐らく全人類の間でも、最も個性に対し抑圧的で、その面では世界最悪のものだろう。そこでは多様性、多文化性は全否定され、とかく彼らが普通とみなす最も平均的な愚かさに正当性が与えられる。そしてこの平均が、世界からみれば完全に的外れな事が殆どなのは、日本人民衆の個性が他国の集団に比べ、孤立した列島で隔離されているがゆえ奇形的なほど違っているからだ。日本人民衆の視野は通常、絶えず自分達自身とその評価に注がれ、彼らの保守性は猛烈な自己愛の中にあって、他集団を参照など先ずしない。何か外部から指摘されても逆上し、却って反抗する民衆も多く、島国根性の負の面がはっきり現れているのが、この集団圧力の本質だ。
ソドム、ゴモラ、東京
恐ろしく頭も性格も悪い人々は、なぜツイッターで色々と赤の他人に害をまきちらし威張っているのか?
ひろゆき一味の生み出した魔物が2chねらーやニコ動民なら、ジャック・ドーシーらは日本語ツイッター民をうみだした。そしてどちらも少なくとも結果として程あれ邪悪な面――言論の自由の、人権たる分を超えた反社会的で、非人道的な無責任化――を含んでいたとすれば、もとより邪悪なのは彼ら匿名犯罪の場を作って金を儲けようとした犯罪教唆者らだけでなく、匿名犯罪を群れながら好んで行う日本国民一般もなのではないか?
もっとたちが悪いのは、実名でも彼らはやはり、信じ難い悪行ばかりするのである、そしてその悪行の肩を進んで持つ。余りに愚かで、心の底がねじけているからだ。
日本国が南京大虐殺をした。或いは天皇と共に大量虐殺を繰り返してきた。これらは彼らが邪悪な集団だと示していて、他ではない。現役でこの公害は実行中で、原発事故によって大量死に繋がる悪夢をもたらしていようと、加害当事者である東京都民一般は、全く無反省のまま己の強欲さ、傲慢ぶりを自己正当化し、適当な偏見をひっぱってきて田舎差別ばかりしている。その一人に、あるドイツハーフの女が含まれていたのを見て私は衝撃を受けた。
それまで自分は、その種の都民の悪業が、彼らの固有な特徴ではないかと推測していたのだが、そうではなく、外人にも知らずしらず伝染したり、その外人の中にあった差別観と共鳴させる文化的素因もあるのかもしれなかった。そのドイツハーフは、さも東京人一般と同じ様に、みるもけがれる猛烈な田舎差別の言動をツイッターのリツイートその他でくりかえしながら、三浦春馬氏の自殺時に彼の両親を途上国扱いのあらぬ偏見で罵りまくっていた。これに私は甚だ義憤を感じ、その人のアカウントへ日本ではそれらは名誉毀損罪にあたり違法で、特定の個人への攻撃を禁じるツイッタールールにも反すると直接注意をしたのだが、そのドイツハーフは私をブロックして、その後も相変わらず類似の差別的言説をあれこれまきちらしつづけるのだった。
東京人一般が悪い、だけでなく、そこに混じるとある外人も、同類相集まるというよう相似の人物で、彼らの悪事をさらに増幅させてしまっていた。ソドムやゴモラは現実にあるのだ。しかもすぐ近隣に。
歴史から教訓を学ばず、現世の一生内での経験のみで神格に達しているかの如く思い上がった人々の本体
自分が接しえた東京・神奈川、西日本、そして静岡や富山などの人達は、歴史を軽視し、彼らやその前世代がやってきた過去の業を少しも反省している素振りがなかった。逆に自分達が現代に生きる神の如く絶対無謬で、歴史を語る者を彼らの神格――と彼ら自身で信じている極度の無知と、恥知らずの傲慢さを損なう存在とみて、方々で陰に陽に弾圧してきていた。これが私が実人生の範囲内でそれらの地域で接しえた人々について確かな実感だ。統計的に一般化できるかとは別に、私の経験中ではまだ例外がない。
彼らは一体どう形容すればいいだろう? 勿論愚か者で遠からず彼ら自身が祖先と同じ悲惨な目にあって後悔するだろうが、その後も、彼らの将来世代が同じ過ちを避けるよすがとなる様、史書の類を残し、次世代を啓蒙しようとは決して計画できないだろうと思われた。
もっとたちが悪いのは、彼らの一部、特に自分が接した或る愛媛人や、或る東京人らは、小説を史実と思い込み、或いは一部の作家・語り手の主観的で偏った口舌を実証的史実と完全に取り違え、うのみにしたまま、堂々と虚偽に満ちた愚かしい偏見をさもとわに不動の事実かの如く語るのだった(端から誤った認識による民族差別など)。これも実証的な歴史考証の知恵のない彼らの甚だしく、信じ難いほどの暗愚さからきているのだが、どれも自分には想像もつかないくらい低い次元に位置する知性のあり方なので、余りに呆れ記すかいもないと感じ今までどこにも書いていなかった。
だがつい先日、先ほどまでその種の別の東京人に再び接する機会があって、今まで上述の様な連中の頭と性の悪さに、心底絶望してきたのを思い出しここに書き留めた。
彼らは歴史に全然学べない。そうするつもりもない。そして彼らの一部がやっているのは、嘘を嘘とも感じず、平気で信じ、他人にも堂々と吹聴して回る本物の馬鹿者の行動である。
無論、彼らは反面教師に違いない。その上、反省力も皆無の為、或る場面で生きているだけ公害でもあるだろう。例えば彼らのうのみにした嘘による偏見は彼らの処世の際の判断を常々誤らせるだろうし、それは他人にも禍をなす。また過去世代と同等より悪い致命的過ちを何度も繰り返し恥じもしないだろう。
「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」
確かにこれはそれなりに趣のある格言で、他者の集合体が歴史であれば、人間性について膨大な実験結果なので、そこで他者達がどんな目にあったかは、よきにつけあしきにつけ今から未来にわたっても本来なんらかの教訓になりうる。だがその種の蓄えなしに直接、実人生に直面する人々は、凡そ確実に類似現象に際し類似反応をし、類似の実例をうみだしていく。人類同士いくさを繰り返したり、永続した試しがない大都市へ刹那的に集まって、甚だ驕れる頽廃生活で自滅する人達が大勢いるのはこの為だ。
何度文明が興亡してきた事か。現東京・関西文明も、そこでいばりちらしている連中が何の歴史的反省もみられないまま原発植民地主義や中華思想による華夷秩序の謀略その他大公害を正当化する人々である限り、自他の不幸の原因として遠からず消え去っていく。そして私たち冷徹な客観者の記録した史実だけが、彼らの唯一残された本体になる。
ツイッター地獄説
恐怖感で何も手につかない。ツイッターで2名の犯罪者みたいな人達が、こちらから話しかけてもいないのにひどく誹謗してきたのだ。
具体的に彼らは私が茂木健一郎氏のツイッターアカウントへ、私の公的意見を返信していた部分を見るや、その一部の箇所に難癖をつけるつもりで返信してきた。だがその難癖はどの方位からみても彼らの誤認だったのは明らかだったので、「無知で説明できることを悪意のせいにすべきでない」とハンロンのかみそりで解釈し、丁寧に彼らがなにを誤読・誤解しているか私は説明してあげた。
ここからが大変恐ろしい。今も手が震えるくらい怖くて食欲が失われ、何も食事できていない。
彼らは私の返信をみるや、わけのわからない悪意で返信してきて、私にあらぬ濡れぎぬを複数着せだした。彼らはどちらも匿名または実名が特定されないアカウントらしく、少なくともいつでも逃げ出し易い条件にいた。その上で、個人と一対一で紐づけられる私へ、多方面から論拠の破綻した言説で、いろいろ誹謗中傷してきた。
これらに対処しなければいけないので丸3日から4日が潰されてしまったのだ。それだけでも私を大いに失望させるのに十分すぎるが――何しろその間に進められた仕事の絶対量を思えば二度とやってはいけない親切だったのだが、彼らの無知によると思われた誤読を、少しこちらの身を切る犠牲による善意の説明で解いてあげれば彼らとすれば彼らの大幅に誤った文章読解の過ちを反省でき、結果、そこで元々語られていた内容(経済学や歴史学上の多少なりとも学術的な議論)にも少々及びがつき、彼らの人生も改善するのではないか、と、国語教師的感覚だったのである。だがこれは全くの間違いだった!
得られた教訓は、「愚者には全方位から近づくな」。
彼らは単に通り一遍の文をよみとれないだけ愚かなだけではなく、根底に悪意を持って他人に接するだけの人々だったので、自分は彼らに、私側の親切心を誤解され誹謗されたばかりか、最終的には濡れぎぬや名誉毀損までされた。それはとんでもなく恐ろしい経験で、私は恐怖感のあまり今も、やるべき事が何も手につかない程だ。
ツイッターの通知を切っていた。これは私には必須だ。悪意ある人々、衆愚としかいえない人々が大勢たかってくると経験的に知っていたから。
だが5日ほど前、少しはツイッター民らが改心しただろうか? と、そして自分の側が戦う覚悟さえ決めれば、彼らに対処できるのではないか? と仮定し、再び通知をつけてしまったらその1、2日後これらに巻きこまれた。自分には無理だ。ツイッターは地獄なので、少しも関わる事ができない。そこに溢れかえっている人々は自分とは何から何まで違っている。それも遥か悪い方に。
自分にできる唯一のツイッターの使い方は、全く何もそこで知らない他人からの返信を読まないよう最大限の注意を払い、そのためあらゆる対策を講じ、なおかつ、なるだけそこで発信しない事でしかありえないだろう。それというのも、愚者や悪人達はそこで彼らよりましな人々を害して、責任を取る事もできない。取るつもりも一切ない。そして傲慢に、彼らの方が正しいと思い上がっている。
かかわらないのが最善の人々がツイッター民一般、その中で荒らし以外の最もましな部類の人さえ、私の目には暗愚な部類なのだから、そこから学べる事は人間性なるものへの失望感だけだ。
本当に悪い人達は悪意を完全に自己正当化しており、その悪さについて自覚していない
ツイッターにいる人々の一定部分は、他人に絡んできて、容易に濡れぎぬを着せてきたり、愚にもつかない考えを押しつけようと悪意や無知で言動している。
彼らが単に愚かなばかりか悪人だという事は絶対に確かだが、彼ら自身は自分が相対的に悪い人々の一員なのだと、決して気づかない筈だ。そしてそれが本当に悪い人達の心魂のあり方だ。
140文字制限を悪用した反知性主義に驕るツイッター衆愚や彼らに付き従う日本俗人との鉢合わせ
この1週間、2回連続でツイッターで明らかに知性・徳性が低い人達――2人ともはっきりと反知性主義的で、たった140文字の制限にこだわって、それを超えた思慮や議論を封殺しようとしていた――に絡まれ、極めて憔悴した。彼らが彼ら自身をも騙し騙し、悪意を目的に言動しているのも、詳細に相手側の言動を辿って分析していくとこれまたはっきり理解できた。つまり彼らは衆愚で、彼らにとって他人、しかも目立つ個性を持つ人格は、彼らの中で彼ら特有の最悪さを合理化する為の道具とみなされている。
彼らは恐らく何かコンピューター戦争ゲームのつもりで言動しているらしく、相手側を巧妙な言い方で辱め、貶め、囲い込んで嫌がらせする事が、その言動の唯一無二の究極目的らしかった。その結果、相手がひどく傷つき自殺でもすれば万々歳といった感じで、これは決して冗談ではないのだが、彼らはまんまと逃げおおせるつもりなのだ。法律と警察さえ追ってこなければ。
勿論彼らは極悪人だ。だが彼らを裁くだけ、わが国平均の倫理も法の水準も高まっていない。はなからそういった法律ができた所で、暗愚な彼らに正しく順行できる筈もない。
傍観者らは、日本ではほぼ例外なくいつもの事だが、自分が有利か不利か損得勘定で動くので、先ず確実に衆愚側に進んで、または受動的に入ってしまう。現代日本の一般的凡人、日本俗人は、集団で少数派を叩き潰すのが正義だと誤認しており、これぞ民主主義と妄信している。このため日本中で凡そ例外なく常に悪意が勝利してしまい、なにか社会で利害対立が生じると、それがなかった前より悪い結果が出る。和だ、和だ、といって議論という議論を140文字制限の誹謗中傷で無数の日本俗人が囲い込み、あらゆる良識を圧殺、最悪のとき警察や内閣ぐるみで言論の自由自体を叩き潰そうとするのはこの為だ。こうして日本俗人はますます自分達の悪意に驕り、文明という名で美化した野蛮極まる謝肉祭を、おのれどもの救い難い悪徳を礼賛しつつ、こよなく愛している始末なのだ。
無論彼らは真の文明人などではない。堕落しきったサル目ヒト科の一群だ。
遠からず真の文明が興り彼らを世界史から駆逐するだろう。
もし東京の有様を深く知っている者がいれば、私もそれを知っている一人だが、頽廃都市がひたすら低落し続ける傲慢な自堕落さなるものは救いようがないと悟っている筈だ。その人に良識があれば。
私の知的営為が、真の文明の一起動力になる事を当然望んでいる。そしてその為に奉仕する以外、なにがあるだろう。
2020年12月18日
2020年12月17日
衆愚が賢いとみなす軽薄な短文・一言政治
衆愚は一様に短文または一言政治を好む。そしてそれらの中身が薄いと賢さとみなす。これは彼らの言語知能が著しく低く思考力もろくにないせいだ。そういった人々は簡単にカリスマ的指導者に洗脳され帰依してしまうし、普段から認識を過度に単純化しすぎで詐欺に遭いやすい。
より精確には、衆愚は一定以上の長さの文が読み取れない。また演説が少々長くなると途中で短期記憶容量がおいつかなくなり、馬耳東風状態になるか、混乱してしまう。
こういった特徴の人々は、望むと望まざるとにかかわらず隷従的境遇に置かれがちである。そしてそれ以外の枢要な地位をあてがわれても、進退を正しく判断できず、必然に身を誤ってしまうだろう。
衆愚をそうと見抜けば、その様な集団からは努めて速やかに遠ざかるがいい。彼らは自滅的末路を経るまで、より愚かな方へとあなたの足をひっぱり続けるだけだ。最悪の時、結束主義に陥って彼らの中の賢者を異物とみて攻撃しだし、その集団全体を致死的に迷走させる。
真の愚者
本当に愚かな人たちは、自らの愚かさに驕っている。そして自分より賢い人達が自分とは違うがゆえ貶め、自分の程度に合わさせようとするが、当然相手にそんな事はできないので、逆上し、愚かさを自己正当化してしまう。これでますます傲慢になっていき、何も学び取る事がない。
サンドラ・ヘフェリン氏の借金踏み倒し婚応援による国体毀損では残念ながら絶滅収容所の骨も拾えない
母子家庭だった三浦春馬氏の家庭を勝手な憶測で名誉毀損罪しまくっていたサンドラ・ヘフェリン氏が手のひら返し皇室解体を腹の内に「母子家庭たる小室家親子と彼らの私事を尊重してあげよう」と相変わらず謎の上から目線なのは唯でさえ救い難く傲慢な上に凄まじく恣意的な二重基準で絶滅収容所の骨も拾えない
2020年12月16日
眞子内親王殿下・小室圭氏に見られるゆとりの象徴問題
「ゆとり問題」というのは、僕はそのゆとり教育世代(ゆとり世代)と近接している最後の詰め込み教育世代あたりで、色々な人達と関わった実感として、前から凄く致命的なものだと感じていたが、小室圭氏と眞子内親王殿下の借金踏み倒しで、世間の広くがその実態の一部を知るところとなった様に思う。
世代論として分類が雑すぎると感じられるかもしれないが、あれはあの世代の象徴といえる振る舞いだろう、と、色んな世代のいろいろな日本人達をみてきて感じる。眞子殿下も小室氏も、自分達の一体何が間違っていて、秋篠宮文仁皇嗣殿下の「多くの人が納得し、慶んでくれる状況にならなければ、納采の儀は行えない」発言で、一体何を指摘されているのかすら、気づいていない事と予想する。
つめこみ時代と格段に異なる面のあるらしい教育を総じて受けたとされる人達(いうまでもなく例外もあるに違いないし、PISAの一部成績除けば確証バイアスでない証拠もない)が同じ国民の中にいて、彼らに教育からの特殊な影響が全くなかったとて、自分が20代と接してきてこれは……と失望する場面しかなかったのは事実で、「なんて賢くなんて立派なのだろう! こんな人達がいれば日本の将来は安泰だ」と思った事がまだ20代を主とするゆとり世代に対し、残念ながら一度もない。
いや、この意味では現役の全日本人に対して感じた事がないから、なにも責任をゆとり教育なるものだけに帰する事は決してできないが。上の世代も確かに大馬鹿者だらけであった。彼らが総じて、マスコミや京大総長・教授ぐるみで殆ど一つの批評的例外なく夢中でほめちぎる村上春樹小説のどこが偉いのか、読み易い文体ではあるがおよそ次世代の為に率先して唾棄すべき品性下劣かつ頽廃的な通俗小説だという事しか、高校の頃に当時までに出ていた全作品を網羅して読んだ自分には、寸分もわからない。
唯一つ真実といえそうなのは、僕はそのゆとり世代に属する色々な人達とのやりとりの中で、驚くほどの知性の低さ、道徳性のなさ、自堕落さ、そしていかにも安倍ナチズム的な卑しい拝金主義加減に、果てしなく絶望的な思いをしてきたという事だ。そしてそういう人々が日本の主な権力を持つ様になった時代、100%確実に日本国が先進国でなくなる、途上国の中でも相当下の部類になるだろう、と、ある種の確信を持っている。
眞子殿下・小室氏の不誠実さは、彼らが世間並以上の良識、或いはそういった類の常識を持っていない事を示している。それは彼らが受けた教育の中で、全く啓発されなかった。だから持っていない。それを彼らの責任にするのは簡単である。実際彼らは成人なので、完全に彼らの責任なのだが。あるいはまたそれを教育の側の責任に帰する事も、世代論という、いかにも社会学的な実証面の曖昧なミームで試みられなくもない。だがこれも彼らに国民の相当部分が覚えている反感を、何も解決しないだろう。世代間の摩擦で片付けてしまえば、彼らのがめつい非人道性が当たり前になり、勝てば官軍、法で裁かれねば何をしてもいいのだ、と薩長藩閥級の図々しい無神経さ、もしくは覇道ぶりで、彼らがゆとり全開の象徴になってしまう。
だがもう手遅れなのだと私は思う。あと、残されている時間はさして長くない。彼らが40代となり、50代となった時、わたしが一体何を見抜いていたのか、もはや全世界の目に明らかになるであろう。日本はその時、名誉ある地位をながきにわたり失うであろう。
他人は学校教育や政治運動などで自分の勉強を邪魔しないでほしい
僕と世間の人達がまるで違う事は色々とあるが、特に学校教育について一番思うのは、僕が学校を地獄だと感じたのは特に「勉強を教師や同級生に邪魔されるから(進度の遅れや、教え方のまずさや、教科と学習内容の選択や、学習順序や、授業時間外での振舞いも含む)」である。これは今行ってる(籍を置いてある)大学まで、小学校から基本的に全く変わる事がなかった。
逆に、誰も勉強を邪魔してこなかったのは中3の一時期行ってた進学塾だけだ。だから僕は私塾以外、有害なものだと信じる様になった。実体験で。
私塾の中でも、いわゆる受験予備校みたいなのは水戸にあるやつに19で理転して最初の半年くらい行った事があったが、独学してる方がましで授業とか当時、物理学を学び始めたばかりの自分の進度と合っていない講義を勝手にやってるだけでなんの指導にもなってなかったし、結局、自習室使ってただけで全く意味がなかった。それなら家でやってても同じである。意味があるのは、生徒へ個人的に一人一人、又は進度別で教える体制がある場所だけだ。それだと具体的に正誤箇所の何が正しく何が誤りかを、教師や同級生と相互に学習しあう利便性が得られるからだ。
しかし周りの人類というか、日本人達一般をみていると、なぜか学歴がどうとか、謎の言動ばかりしていて全く意味がわからない。彼らは何も学んでいないのだ――単位や学位を取る為に行動していて、勉強自体、知識自体、哲学自体には何も関心がないのだろう、と、全く別の惑星にきた感じになる。だから僕は日本では誰一人として仲間がいないし、今後も見つからないだろうと思う。まぁ別に必要ともしていないし、求めてもないんだが。
もしかすると海外の大学とかに、僕の同類が少しはいるのかもしれないし大勢いるのかもしれない。僕が多少なりとも学術的な内容を語り合う友達になれたのは、高校の時の親友な福島人1人、美術予備校(専修学校)にいた福井人1人を除けば、英仏の人達であった。といってもそれぞれイギリス人1人とフランス人1人で非常に少ないが。それとノルウェー人1人とも仲良くなったがこの人は、学問的な事にはそこまで関心がなく、自分とその種の議論を多少なりともできたのは、成人後に知り合った範囲では英仏の2人だけであった。基本的に英語でやりとりしていたのだが、そこで得られた知見は自分には、世界を広げるのに非常に役に立った。
フランス人(女性)の方は、全てが完璧とはいわないが――尊敬すべき点の方が多いものの、私徳とか、物事に向かうまじめさに限っては微妙な点が感じられた。尤も向こうからみると私がきまじめすぎるのだが――あの国の、知的であるばかりか寛容で、愛や快楽を肯定する文化自体を含め、自分に総じて大いに好印象を与えた。また大抵の人類は、素直であれば、彼らと接するにそう感じる様に思う。一般的な社交性とか、女性を或る自由さへ向け教育する面で、フランスに優った場所を自分はまだみた事がない。一番カルチャーショックを受けたのは、彼女が複数愛者で、自分の想像を遥かに超えた(といっても、数え切れる数の情人らと同時に関係をもっていて、それは全て関係者全員に筒抜けという)パリジェンヌならやりかねない恋愛生活を送っているらしい事だ。そしてそういう根本的な習慣の差は、日本側もしくは次にいうイギリス側の感覚では、到底うけいれられないだろうほど違っていた。いうまでもなく彼女は決して娼婦ではなく、法学博士を持ち教師をやっていた、といっていた――それは自分も国際政治や法学の高度な知見(米国がおしつけている共謀罪がフランスで内心自由の旨で拒絶された経緯や、イスラム教に関する政教分離の理論的な扱いなど)を色々教えてもらい、自分がもっている法学部・院程度以上の知識は確実にもっていたろうし、英語の細かな文法事項(三単元のsの適切な扱いなど)も確かに大学の語学以上で精確かつ即座に出てきたし、事実らしかった。
イギリス人(男性)の方は、全ての面が酷いとはいえないものの――いわゆる中世らしい古きよき封建道徳の公私両面に渡る良識、嘗ての田園詩人同然に穏やかな田舎暮らしを愛する善良さ、それらに伴う独特の知性主義を除けば――あの国独特の酷い差別心を含んだ保守性、陰険な嫌味まじりの冗談の習慣(まったく面白くないともいえないものの、笑いの感覚が向こうの方が我々よりひねくれており、かつ、関西人級に大層おしつけがましく、なににつけ頻度が多すぎる)、そしてブレグジットにみられる経済音痴と心の狭い利己主義加減に、おまけに彼個人の陰鬱で粗暴な気質にもうんざりさせられる事になった。彼は僕の恋人に惚れている様な事をいうのだが(これだけ見ればシェークスピア劇じみている)、「じゃあ話せば?」といって日本語に自動翻訳できるツールとか教えてあげたら大層喜んで自分から翻訳日本語であれこれ話してたのだが、結局、彼は僕の恋人を地下室で強姦したいとか誰にとっても冗談にならない言動をしだした。それは強姦率が世界随一低い上に、略奪愛へ特に寛容でもない我々、先進国でも間違いなく最も性的・暴力面で大人しい部類だろう日本人一同を、野蛮すぎると驚愕させた。そして彼は単にそれだけでなく、日本でいうオタク風のおどおどした言動をとっており、彼女を漫画の中の理想的日本人美少女と勝手に色々重ねているみたいだったし、これもイギリスの田舎紳士なら誰だろうとやりかねないと思うが、直接いいたい事をもじもじして言えず自分に「(お前からいってくれ、わかるだろう?)」的な空気を読ませた言動をさせようとするのであった。
そしてこれらの経験は、漱石が一体何をいっていたのか自分に納得させた。イギリスじゃなくフランスに留学すればよかったと。確かに、わざわざイギリスをめざす特定の目的がなければ、文明・文化の大幅な違いの或る面で、そうに違いない。
最終的にそのイギリス人の方は、同調したそのノルウェー人(女性)と共にやたら偏見に満ちた東京文化(同人誌こと猥褻漫画)への「変態」扱いでの侮辱をしてきて、自分もその種の江戸・東京文化に当然の如く絶えず批判的なのにも関わらず、日本全体或いは自分の趣味に違いない! と彼らの悪意で誤認され、迷惑極まりなかった。そして私の側はそのイギリス人にもそのノルウェー人にも、というか誰に対しても一切の敵意も害意も持っていなかったが、彼らは凄まじく濡れぎぬを着せてきた。
これで西洋の人々と関わったとしても、所詮は国境で分け隔てられており、地球の単位を除けばやむを得ずつきあっていく必要もないだけに、日本は日本なのだと思い知らされる事になった。日本の最たる不良である東京人達の悪趣味や悪徳加減は、我々都内外の一般日本人が処理しなければならない、という事らしい。それはそうなのだろう。イギリス人やノルウェー人が、単なる国連業務や、BBCでのおもしろおかしく東洋を見下す自文化中心的オリエンタリズム取材を越え、わざわざ東京の猥褻漫画をゾーニングにくるわけもないのだから。
その他に香港人1人とも少し話し合った事があったけど、この人はどうも抽象的思考が余り得意ではないのか、殆ど議論に参加せず、しかもあの周庭らの政治運動に巻き込まれている最中だったらしかったし、すぐいなくなってしまった。
僕は周庭が(大抵の日本人達が混同しているだろう一個の女性たる個人的魅力を超えれば)、政治活動家としてそんなに好ましいとも思っていない。香港の肩も中国の肩も特にもっていないが。
軍事技術を除き一般に学術が最も発展するのは平和的な条件の下であり、確かに以前にも増して一層の民主化が香港で必要と考えられるのは分かるし、運動の趨勢のさなかでは自由を切望する尊い志の故に応援したくもなったし、『香港に栄光あれ』も感動的な国歌だが、現実面では政争でかなりの犠牲を出しながら失脚した人物は、学術の保護者としてのみならず、政治的には無能だったといわざるを得ない。そして日本は政道として内政干渉できない立場にある。年齢制限のない東京の猥褻漫画問題より、命がかかっているだけに遥かに深刻な中国・香港の内政として、解決しなければならない目前の課題へ適切に対処できなかったのは、指導者としては評価に値しないのではないか。革命の為には、貴重な時間を費やし中国・香港間に全く立ち入れない日本人の一部の同情買うとか、高々自民党の最悪政治すらろくに退治できない日本左派連中を相手には何の意味もないくらいだ。
自分が彼女の位置にいたら、普通に中国当局側の意図を徹底して読み込み、相手が受け入れざるを得ない提案を議会経由でして、もっと現実味のある着地点を探った様に思う。そしてそれ以外で勝ち目がなかったのだ。香港市民の武装蜂起・暴徒化には、警察と対立し死傷者を出すだけと、進んで反対したろう。
「勉強を邪魔される」のがこの上なく不快な自分からすると、周庭一味もまぁ間接的ではあるが、それに近い役回りだった、といえなくもない事だ。学生が政治運動をする。勘違いしているのではないか。学生は学業を完成させるべき立場にある。政治家になりたいなら、学外でやるべきなのだ。
福沢諭吉は孔子より人間というものが分かっていない
我々は自分がこの上なく賢くなる事に集中すべきで、他人を啓蒙する事は二の次にしなければならない。なぜなら生まれつき愚かな人を、一定限度を超え、賢くする事はできないからだ。その限度は生まれつき賢い人との大差を埋められるほど大きくはない。後天的に変わる部分は生得的な大差に比べれば、僅少なのだ。
孔子はこの事を「上智と下愚とは移らず」と表した。これは人生でも最も役立つ金言の一つだ。
少なくとも自分は、福沢諭吉が海千山千を勧めたり、彼の文明論の中で啓蒙を必要づけたりした所について、人の生まれながらの違いを一定限度で見限っている孔子より遥かに愚かで、事実に反しているばかりか、安直すぎる見解しかみいだせなかった。後天的に幾ら努力しても、ある種の人は賢者にも善人にもなれない。努力で多少なり変わりうる範囲は、飽くまで中人の領域についてだ。
また、高尚さも低俗さも無限である限り、進んで低俗さを知る必要はない。これについても「君子は上達し、小人は下達す」と孔子が言い残している(どちらも『論語』)。
ツイッターの利点と欠点
益者と害者
ツイートから直接得するのはツイッター社だけで、発信者と広告掲載企業は、ツイッター社にひたすら時間と労力、金を取られる。
インフルエンサー商人なんか一人残らずろくなやつらがいないので、そんなのと混同されたら名誉に関わるし、学者とか芸術家でも大抵三流以下みたいなのが殆どで(だって俗受け狙ってるやつらしか公にやる意味ないですからね)、なるだけ早くツイート発信をやめた方が賢明である。
自分に悪意で害を直接くりかえしなしたやつは、どちらかなら益しかないやつと、感情面で等しく扱いがたい。
日本語ツイッターに存在する短文厨の構造的分析と私感
ツイッター民の一部は、自己の言語知能の低さを正当化する為に、思考の短さを賢さと誤認している。なおかつこの為に文法の正しさや、語彙の豊富さ、修辞術も否定している。という事は彼らは深い思索や言語流暢性を否定しているに等しい。――すなわち哲学や、文芸一般を否定しているのである。
少なくとも日本語ツイッターでは猥褻漫画が何十万回もいいね! されているのに、少しなりとも知的な内容は(芸能人、インフルエンサーや有名人のそれを除き)およそ全く無視されていて、全体の話題にも先ず上がらない。
つまり一般化すると、「低(言語)知能の方が賢い」と大幅に誤っているばかりか、人生にとって致命的ですらある認識を、特有の傲慢さのあまり、ツイッター民の一部は自己正当化しているのだが、それは彼ら自身の言語知能の低さに程近い人の言動しか理解できないせいだ。
この層はツイッターでは頻繁に現れるので、短文厨と定義しよう。
言語性IQが一定より高い人は、 ツイッターにはあまりに愚かな人が多い様に感じるだろうが、それは決して間違っているわけではない。トレンド欄(ツイッター内で多く話題になっている事柄についての、ツイッター内での特集)をみれば、そこに集まっているのは大衆全体の中でも決して上等ではない部類の民である。
1ツイート140文字が基本で、400文字詰め原稿用紙半分に満たない(約3分の1)構造のせいで、思考が浅い人に有利な条件づけがされている。
もしそこで立派な言説を一定の長さで語ったとしても、いわゆる短文厨には理解できないので、単なる長さ(といっても短編小説にも満たない)だけをみるや異質なものとして排斥目的に、よってたかって荒らし行為を働き、袋叩きでダメにしてしまう事がよく起きる。
日本ではろくでもない集団虐待を目撃していても、民衆一般が余りに卑怯なので、進んでかばう擁護者は殆どいないものだ。事柄が知的な事なら、東京発の反知性主義サブカル漬けになれきっている上に、五人組的に甚だねたみ深い日本人民衆の事なので、なおさら悪化が良貨を駆逐するのである。
自分は箴言・警句の形式、或いは俳句・短歌の様な短い詩が、一般に長編小説の類より好みなので、ツイッターは自分に向いているのではないか、と感じていた。だがこれは勘違いで、上述の理由で、そこでは簡潔さが知性と一体化しているのではなく、単に重度の愚かさが賞賛されている2ちゃんねるの様な実態であった。
それでなるだけ早くやめたい、やめたいとばかり思って実際、周囲に相談もしているのだが、まだ完全に発信をやめる為の理由、やりきった感じが得られていないので、「もしかすれば、長く続ければ何かが得られるのかもしれない」という淡い期待を元に、色々な実験をしてしまっている。だがそれも全て無駄なのだろう。恐らく。
それというのも、自分と短文厨はまるで違う資質の人々で、相性も極度に悪いからだ。自分は経済的文が好みなのだが、短文厨は自分の愚かさに程近い短さまでしか文章が読めないだけである。『カラマーゾフの兄弟』とか『源氏物語』とかを読み通す事は、彼らに到底期待できる話ではない(私はどちらも読んだが、後者は語られている中身に比べ冗長すぎると感じたものの、10代で読んだ前者は、長さにおおよそふさわしい内容だろうなと感じた)。壮大な構想力を持つ大河的物語、或いは非常に深い思索といったある種の高い言語知能に独特の事を、短文厨は「馬鹿」だと言う。小鳥の歌より短い長さでしか短期記憶を使う事ができない。そんな人々が、ダークトライアド性をこめて誹謗してくる場所。日本語ツイッターは心ある人にとって、ひろゆきが金儲け目的で維持してきた某地獄とさして変わらなくなってしまった。ソーシャルメディアとして失敗したのである。
そして自分は、経済的文を一つの伝達の為の理想として長い間追い求めてきた過去に照らし、彼ら短文厨の言説の卑しさにほとほと呆れてしまった。幾ら簡素で最たる合理的な文体を獲得しようとも、読者の言語知能がそれに比べ余りに低いと、何も読み取れないというわけなのだ。そんな事がありうるなら、有名なだけの連中が適当に書いた何の意味もない一言の方が、聖言より人気を博してしまっても不思議はないし、現に短文厨の世界ではそうなっている。自分が彼らの一員だとみなされるのは耐えがたい苦痛だ。だとすれば、自分が目指そうとした文芸上の理想の境地も、何か勘違いした目的だったのかもしれない、と暗に感じるしかなくなるであろう。
一体それほど軽薄で卑賤な連中が過去どこにいただろう。日本語ツイッターの短文厨は、2ちゃんねらーよりもっと浅ましく、軽蔑すべき人々なのかもしれない。もし彼らが少しなりとも善意を持っていて、或いはまともに文章という営為から学ぶ意欲があるのならば、事情は違ったのだろうが。決してその様な事は期待できないだろうし、ますます彼らは反知性主義に耽って、幼稚な漫画アニメに夢中になって死んでいくのであろう。
自分は彼らと縁を切りたい。
芥川龍之介が谷崎潤一郎と論争した時、芥川は志賀直哉を引用しながら、筋のない小説を弁護した。谷崎の大長編主義はその後、源氏訳や『細雪』へ展開したのだろうが、自分は谷崎のぬめぬめとしていて不経済な文体そのものが気持ち悪くて読めなかった。自分の思考にとって、過度の冗長さはある種の忌避対象なのである。――それにもかかわらず、短文厨は、自分をさも冗長かの如く誤読・誤解する。これには前から辟易し、また或る義憤を感じ彼らの誤解を解こうと説明したのだが、唯の一人も、自分の本心や説明事項を理解できていなかった。彼らは谷崎にも同じ誹謗をするのだろうか? もししたとして、谷崎は何かを感じたろうか? 恐らく彼の何事につけ図太く、鈍い性格では、何も感じなかったと思う。短文厨らは、この意味で、全く間違った人の所へ進んできて、全く間違った誹謗を働いている。
自分にいえるのは、経済的文体は伝達効率のため相変わらず重要であり、それと、伝えるべき内容の豊富さはどれほど抽象化した所で一定より縮約できないという事だ――事実、自分には最も縮約した言語である数理論理学の記号で考えていた時期があった。所が、それでできる事は日常語の持っている機能の一部なのである。
また、特に相手が或る学識について一定より愚かだと分かっている時点では、抽象表現すれば殆ど何も伝わらなくなってしまう。イエスが倫理的主題を伝える際、頻繁に比喩を使ったのは間違いなくこの為で、やむを得ずやっていた筈だ。
結局、短文厨とは接触しないのが最も賢明なのだろう。説明しても何も伝わらない、しかも逆上してしまう以上、彼らは永久に愚かなままでいればよく、深い思索に入ってくる事はできないし、経済的文体と伝達内容の質量に違いを見分けるだけ、彼らの言語知能が高まる日も恐らく永久に来ないのだから。何か複雑な事柄を愚か者に説明するとは、それほど厄介な無理難題はないといえるだけ極めて困難、しかも最もやるかいがない仕事でもあるのだろう。なにしろ果てなく労力を費やしても愚か者は万に一つも理解できないものなのだし、分かった部分もあっという間に忘れてしまい、却って教えてくれた人を逆恨みすらしてくるのが常道的始末なのだから。「愚か者にはどの方面からも近づくな」
ツイッターの返信欄で見つけたMというとある愚者から演繹した、ナチズム・ファシズムの発生原因
2020年12月15日
お国自慢の極悪東京ファースト仲間やんほんにコロナとゴートゥーばらまきご苦労様どした
モギケンひろゆき人権侵害ダブスタお疲れ実名日本人を匿名掲示板から原発公害で集団虐待しつつ今日もウィグル女工哀史奴隷靴ブランド自慢レイシスト18万票獲得いつもの子供騙し漫画アニメゲームやら下らなく下品な上に暴行罪の吉本芸人内輪受けバラエティ番組やら公然猥褻罪・売春防止法違反のセクシー女優さんやら浮浪者撲殺拝金主義やら京都市上京区中華思想みたいな田舎差別の偏見とやらでお国自慢の極悪東京ファースト仲間やんほんにコロナとゴートゥーばらまきご苦労様どした
なぜ人がなるだけ若い内から修身すべきか
始めがどんな仕事でも最重要な部分だ
――プラトン『国家』2巻始めは全体の半ば以上である
――アリストテレス『ニコマコス倫理学』1巻7章、1098b
これら古代ギリシア人師弟の金言が示すのは、当該引用部分の周辺文脈から、人は習慣の動物で、特に人生の始まって間もない頃の癖づけの向きほど、「鉄は熱いうちに打て」式にその後の人生の大部分が決まってしまうといっても過言ではない、との洞察だ。
そしてこの事は、人生の半ば以後、急に習い性が変わった例が実体験として珍しい限り、或いは老年期にかけ長い修練が必要な或る大業を完成させていく求道者がいる限り、脳の可塑性から理論的にはありうる例外を除き、太古からの経験則としておおよそ、確かなのだろう。
通例、愚かな若者ほどこの逆に進み、青年期を悪徳や無為の内に過ごし、結局その延長で大成しない。俗悪な大人が現に大勢いるのはこの為だ。
2020年12月14日
多様性の増大は決して明面だけ持ってくるのではない
2020年12月12日
人間界では「いい子にしていればいいことがある」べきである
ただ大人社会でより複雑なのは、いわゆる道徳相対主義の観点から、別の正義観がありうるという点だけである。だがこれも一つの倫理学上の立場にすぎず、共通の正義は最低限度の規範なら法になるし、最高限度の規範なら名誉または自尊心(いわゆる誇り)になる。
けれども正義には疑い得ないものがあるとする道徳絶対主義、あるいはより上位のものがあるとする道徳段階主義(こちらは今私が造語で定義した)からいえば、「いい子」「いい大人」は必ずしも人それぞれではない。つまり全員一致で善人とみなせる状態か、少なくともよりましな善人とみなせる状態がありうる事になる。
こうして最初の命題は、立場次第では大人にも十分通じるしつけであり、自分の知る限り、善人が不幸になって喜ばれる場面は、余程ひねくれた心の持ち主(性悪)、善悪を見分ける能力が低い人(即ち不道徳で、正義感が弱い人)、或いは精神病質傾向の脳など、大抵の人類社会で普通には先ずありえないほど例外的なのである。
あしき国の内情
あしき国では自他の死が最高の快楽の一つである。実際そういう国では僭主の悪政が賞賛されている。自他を不幸にいざなうほど、互いのねたみが解消されるからだ。悪徳まみれの人にとって、あしき国こそ居心地いい。
外国かぶれの文化盗用
外国かぶれはその国以外では滑稽に見える。その種の人は自他を騙し騙し壟断による直輸入業者をやっているだけなのだ。文化盗用がより深く外国を知っている人に冒涜と感じられるのはこの為である。
俗人のあり方
卑しい人々は不徳のゆえ自存できない。他人へ絶えず精神的に依存し、陰に陽に迷惑をかけても気づかず、仮に気づいても反省せず負い目を踏み倒してしまう。或いは不徳な人々とたかって不幸の連鎖を喜んでいる。
賢い人に愚かな人の考え方は通常、わかりづらい。そして愚かな人は己が既に上位・下位で動かしがたい地位だと自明に思い込み、よきに見習うにせよあしきを退けるにせよ、異なる考えから進んで学ぼうとしない。そして愚かな人は決して度重なる忠告をききいれず、逆上するばかりか、自業自得で失敗を繰り返してもまるで自己反省できない。
愚かな上に卑しい人はそういった自滅のあとで、善意で助けてくれていた人々を、彼らを見下し放置していた人々より逆恨みさえする。卑劣な者の周りでは慈悲をかけてきた恩人がしばしば犠牲になるのはこの為である。大変卑劣な者は飽くまで利己かつ害他的なので、他人を利用価値としか見ないのだ。
愚者への忠告は無駄である
賢者はSNSに近づかず
愚者や卑人と接するソーシャルメディアや匿名掲示板といったSNSは人を地獄にひきずりおろす。それらの悪魔的空間は荒らしと呼ばれる犯罪人格が、精神病質の運営者らと共に、人々の不幸を触媒にカネを貪る為にあり、ほかではない。
悪しきSNSに近づくな。賢明な人は瓜田に履を納れずにいる。
死すべき者、生くべき者
心の卑しい人、悪しき人を助けるのはそれ自体が悪業だ。彼らは助けられた途端、恩知らずにも世界をより悪い場所に変えていくものだからだ。
この世では心の尊い人、善い人のみ助けねばならない。生き残ってもより善い行いを続けようと考えるのは、普段から善業明らかな者だけである。
属性分類による差別心や偏見の色眼鏡をかけている人
卑しい人は年齢、性別、種族、学歴、出身地、住所、国籍、稼ぎ、資産、文化や歴史観などの属性による色眼鏡で物を見ている。そしてそういった差別心や偏見を自らぬぐえない人は、常に判断を誤り、遂に人も自分も裏切る事になる。
知識や技は善い目的にとっての道具に過ぎず、悪用すれば不幸の源になる
下賎の徒は、知識や技をそれら自体で尊ぶ。だが驕れる科学者、そんな技術者や芸術家、そして浅はかな人は倫理を軽視する余り、それらを悪用し以前に想像もされなかったほど不幸を持ってくる。
知識や技を正しく使える人は、それらの道具を善い目的に従えてのみ用いる。
平穏への唯一の道
卑しい人々の間で暮らす事はできない。彼らとの接点を絶て。
不徳な人々の繁栄している所は悪い。その自治体は多くの場面で不幸のみあって、いかなる幸もない。その様な自治体をすぐにでも去れ。
愚かな人は百を説かれても一も理解できない。馬の耳に念仏。
愚か者に絡まれても、ことさら反応するなかれ。彼らの全滅のみが、平穏に至る唯一の道である。
愚者や卑人の一生
2020年12月10日
奴隷達の星
2020年12月9日
通例、都会人が多様性と標榜する内情
大量殺人カルト天皇一味が男尊女卑の権化だろうに
男尊女卑を中国・朝鮮からもってきた悪徳弥生民族のボス天皇
奈良の山奥で威張って東京まで出てきたヤクザの大親分を崇めながら
元々通い婚母系社会の先住日本人系を田舎者と見下す頭も性も悪すぎる東京以西人
水田稲作持ってきたのもお前らだろうにまた手のひら返し
2020年12月8日
2020年12月7日
性悪、自文化・自民族中心主義者、異文化差別論者、中華思想の持ち主らの動機
性格が悪い人々は、他人を思いやる能力が極めて低いか、それがあっても他人を嗜虐する乃至自分が得する目的で悪用している。
異文化をそれが異なるという理由で意図的に辱めている人々は、同様の意味で、分類を誤っているのでなければ他人をその単位で害するのを特に恥じていないのである。
平安京の虚栄心
2020年12月6日
2020年12月5日
分かったつもりで日本上げ
ゲルマン近代史
植民地をとりのがした
代わりに西洋人社会を植民地化しようと考え
皇帝を倒し総統を選んで突撃した
だが余りに自己中心的だった
ゲルマン民族の間で金儲けしていたユダヤ人を狙い打ちしつつ
西洋諸国を次々傘下に入れていった
ドイツ軍の快進撃はさほど長く続かず
日帝に原爆投下を待たず総統は自殺
戦後は一転し総統を悪者にしたてることで
ドイツ人自身が彼を選んだ事実から目を背けてしまった
さも大衆の代理人であった総統が全ての悪の根源であるかの如く
大航海時代に出遅れた己どもの鈍さも
ヘーゲル気取りで自民族を神格化した傲慢さも
あるいは他の白人の海賊行為の悪業も見なかった振りをして