2020年7月11日

男性全般または一般を強者と定義するフェミニズムの欺瞞は単なる裏返った男性優越主義の誇示

経済力0に等しい男性の、ほぼ唯一の生き残り方って、経済力が多少ある女性に養われることだと思う。
 もしかすると物凄く例外的にはその人がゲイとかで同性に養われることもあるかもしれないけど、数からいったら殆どは女性パトロンになると思う。例えば思想家ルソーとか、セザンヌもそれだろうし。
 売れ(ら)ないバンドマン的な存在が沢山いると思うが、その人ら、壮年男性でも金儲け以外の何かを追求していたら甚だ長所があるわけで、それも一括りに「さよならおっさん」とか言ってる某学者は大いなる勘違いしてると思う。それでいうと大抵の近代画家って同調圧力で殺されて絵って残ってない。

 先ず次の考え方が偽善だと自分は前から指摘している。
「男女格差を盾に、なんらかの弱者男性を公然と虐げる」
これは裏返った男性優越主義で、自分が経済的か社会的強者なので他の男性も「全員が」そうであるという前提に立って、特に対女性でかっこつけたいだけ。だから弱者男性を見ないことにする。
 この偽善のたちの悪さは何重にもなっていて、女性一般も明らかに悪意で同調する傾向にある。なぜならその女自身が、男性性を暗に強者と同一視しているから、性差に対する差別意識を公然と内在化できる好機と捉えているのだ。いいかえれば
「強い男性に守ってもらえる! ラッキー。弱い男しね」
 この偽善をどんどんと推し進めると、米国で虐げられた弱者男性がジョックに対し反撃の銃乱射事件したみたいな、あるいはナマポ京アニ炎上事件とか非正規アキバトラック突入もそうかもしれないが、社会構造に対する致命的な復讐劇が起きてくる。本来はそのルサンチマンを吸収してたのが宗教だったのだ。

 フェミニズムの裏にある構造は、
「唯でさえ強い俺が、弱い筈(これ自体、偏見)の女性全体を救ってやるんだぜ。他の男どもよ、俺は何重にも強い! なぜなら自分から女をひいきしても俺は平気だからだ! ガッハッハ」
的な、性差を逆用した男根主義の欺瞞である。それを感じて僕はあいトリ批判した。
 津田大介氏は最初から両性別同数にする事を、性差(男らしさ、女らしさなどの社会の役割からくるなんらかの文化的・後天的な特徴)のおしつけ回避と誤認させる論理を、あいトリ2019のコンセプト発表当時から、ポリタス男女構成比同数論の今まで使っている。これって論理的疎漏が当たり前みたいにある。

 ある集団での典型的男性らしさをTypical MasculinityからTM、典型的女性らしさTypical FemininityをTFと置く。
 さらに非典型のそれらをAtypical〃からAM、AF。
 これらの中間(実際には多様だが仮に一まとめ)をNeutral〃からNM、NFと置く。
 よって性差に最低
TM、TF、AM、AF、NM、NF
がある。
 然るにこれら6種の性差に対しヒトの生物的性別はほぼ2種である(詳細には性同一性障害があるが、染色体レベルではほぼ性染色体XYの男、同XXの女に分かれる)。これらをSexual Masculinity、〃FemininityからSM、SFとする。
 考えられる基本組み合わせは次のものだ。

1. SM×TM 典型的男らしい男性
2. SM×TF 典型的女らしい男性
3. SM×AM 非典型的男らしい男性
4. SM×NM 非典型的女らしい男性
5. SM×NF 中性的男性
6. SF×TM 典型的男らしい女性
7. SF×TF 典型的女らしい女性
8. SF×AF 非典型的男らしい女性
9. SF×NM 非典型的女らしい女性
10. SF×NF 中性的女性

最も単純に考えこれら10種の性差・性別間のくみあわせがありうる一方、これらの出現比率は性別等比ではない。かつ性別等比そのものも出生率の点でなりたっていない。という事は、完全に公平を期するには性別等比でなんらかの選考をする事で、逆にこれら10種間になんらかの不均衡な差別をする事になる。
 もし津田氏個人の会社とか彼の方針で性別同数を人事に使っているなら、それは上記論理的には矛盾しているものの、また男女雇用機会均等の本質に逆らうものでもある。なぜなら性差と性別の組み合わせは等比で出現するものではないからだ。
 が、あいトリは公費で、性別による等比差別を正当化できない。