君の美は紛い物だし、それに君が気づく時にはもう手遅れだろう。失われず、永遠に美しい様なものは君の手元にあったこともないし、未来永劫こないのだ。本来、美とはこの様なものである。人はあれが美しいとかこれは醜いといったり考えたりもしようが、情報量の違いを性的な隠喩としてうけとっているにすぎないし、痕跡にみいだした性愛なり慈悲のかけらが美自体であったりもしない。
美しいものを求めている人達はその本質的な欠落に悩み、自らにないものとして美を手元に置きたがる。これは偶像崇拝であり、物質主義だ。丁度俗物達の悪趣味さを眺めているとき我々が感じる嫌な感情は、フェティシズムにおける悪徳の部分にすぎない。むしろ人々が学ぶべきだったのは、性愛それ自体もただの細胞の自己増殖への渇望にすぎないことだ。生命は空疎な反応で、人々が美を求める時、さらにこの反応は空転的となる。
美を求めようとした人達のうち、私は直感的な好みを求めようとしているが、この好みそのものが空転した時、美はただの永遠への間となるだけだろう。尤も我々のなしうる美の限度もそれだが。性愛、恋、エロス、どのいい方でもいいが、美の蘊奥は今日も、過去にあっても、空転した性欲の昇華でしかなかったのだろう。
美が極まる時、我々はその反応を善と呼ぶ。単に聖の部分であったり、よい趣味の一部であったりするこの集合では、美は比喩の仕方だ。美を追求する人は、上記の理を知るべきだ。要するに、美は善の形式だ。合目的性といういい方は指し示す内容を勘違いさせやすい。美は手段であるというべきだ。勿論、斯くして美が道徳、もしくは善意に付属した優れた手段だとなれば、あしき美といったものがもどき、或いは似せ物のにせものにしか感じられず、不愉快でもある理由が解説されるからだ。