2010年1月19日

社会学

社会関係を好転させ自らの地位をより将来に亘る優位にたもとうとする共生か競争のそれは、社会力学の全場面。資本主義の目あては国際ふくむ最小の摩擦抵抗のなかでこの最上の順序をたもとうとする能力への、既存と建設した文化場土壌づくりに等しい。経済学と政治学を分けると、この種の国際や個性をもつ主体間の運動が説明しきれぬ。ゆえ資本主義社会学のみに限って歩を進めれば地政学という地理学と歴史学の折衝点に存立する諸学識を仲介用に引用しなおすしかない。個々人の利益を求める運動としての経済学と、全体調整のための政治学の中身の違いはこうして、地政学の経由で幾らか緩和できる。それらは一定の社会環境で起こる全福祉制度についての奉仕関係知としてまとめられる。よって単にそれらの包括たる社会学というおおざっぱな巨視観で見直すと、個単位から始まる経済運動と生物学類に及ぶ最大の群単位でそうする政治運動とは相応の逆ベクトルをもつが同時に、同じ社会場で営まれる配分と調整の応報関係とみなせる。
 一般に、商誘因は何らかの物資の偏りなる勿体なさが環境間にあるときそれらの仲介料を担ぐ生態を、人々か生物群が保守するとき起こる。物資の偏り自体は文化対数そのものがこの宇宙に、また現段階の想像を超えない世界に引力からはじまる諸誘導で確実に生まれる既存計画下にあればどこまでも進む。
 Economyという周辺支配を意味させたイングランド語は、この観点から時代精神を体現させた荘園経由の封建制度の敷居より発想で出ない。歴史語か古語としてのそれは今後ものこるかもしれないが。本来的に社交界の最も高く掲げられるべき特質は、他のどの生物よりも趣ある様々な奉仕に仲介業種が別れてあるなる高等動物とかれらが自らの非索居性を称する所にみいだせる。つまり商関係の重複形は社会性を仲介能力について高めた結果で、その内容とは協力関係の暗黙知とされてきた領分を含む規則づけ。只の協力関係としてみたとき商空間の合目的さは、それが最も部分最適の側を鮮やかにうつしだす為みえる。なぜなら利潤の最大化をめざす欲求は、資本の限界効用を組織規模であからさまに象徴か知らずしらずであれ誇示させ易い。逆にいえば徴税商は経済学での負担理論の最大の効用を強く表し易い。そこにはベンサムの定義してきた量的幸福への誘因が入り込みがち。結局、政治行動の訳は大幅に片寄った資本配分への不平等(多くは生得的な)の是正をのぞむ野心からだし、それは選良主義にとっては魂の苦役でも不条理な自己矛盾でもあるうる限り、かれらの群生を指導づけるのは(又それに成功するのは)多くは最も不満のある個人の自己犠牲の転化なので。
 質的幸福は奉仕する個性種を十分主体的にえらべる、一般商誘因であり易い。即ちもし功利主義の論理が精神の快さに及ぶなら、それは現代では第三次産業とよばれる大きな奉仕市場をつくっているわけだが、こちらの側は明らかに資本使用の関数を最大の利己感覚か概念的事業主体できりもりし易い一般商のもちまえとなる。
 資本主義社会の終わりはその全奉仕面の実質無償に及ぶまで個々人の勤労の成果を生産性の最大化に向けて動かす所にある。いいかえれば、福祉国家がめざす虚像は山頂の自己の影と似てあやまって捉えられた国家主義の怪物であり、本当は、資本主義社会をより勤労の習性を高い知的工夫に充たすうちにしか第三次産業を含む全商社交の完成はありえぬのだった。質的幸福の内容はそれが無償のなりわいをかなり高い集中力でこなすという心理の高尚さを各互恵関係の中へ充足させること、もっと日常語に近い形でいえば奉仕習性か歓待癖なるものの、社交界全般にわたる競争と向上の獲得誘因の拡大のみ。ゆえこの商能率は、目にみえるかとは別に小売商を頂点とした一般的な資本主義社会やその会社の業績上昇の努力でしか達成するのが極めて困難だろう。福祉国家自体が第三次産業を完成の域に導くことは決してできない。私はこの逆理の結論を資本社会の実質無償化効用と述べていいと思う。それへの進展はいわゆる徴税の手間をへて再分配の偽装によって恩着せがましい無料の国家基盤を繕うよりはるかに、流動資本運用上効率がいい。そもそも彼らのつかう貨幣は発行された国政の文化素にすぎず、実用価値はない。交換価格にしか世界貨幣本来の効用はない。もともと金融に関連づけられた制度内通貨はどれも商能力の誇示を理由づける勤労誘因の一つにすぎない。
 外部経済の内分泌予算という流動量運営の望ましいはず資本主義の本質は、余分に働いたり余計に作ったりそれを資本家のいわゆる余剰価値搾取の旨味とは別にほとんど只であげたりする頼もしい能力の結果的な擁護と(なぜなら誰しも無用分の資財を完全無為に廃棄処分するよりは、限りなく只でも大盤振る舞いする方を社交の上で自尊心充足の為えらびがち。これは宗教家以外でもかれの社交性に準ずる功利精神があるから)、さらに社会環境にみれば寧ろそれを積極的にえり好んで集積するところの文化場づくりにも目的がある。文化逆数の比例は、余裕量の増大について地帯生産性の間の仲介業種についてもきわめて理にかなった分布の密度を示す。要するに、自助の格言に等しく最も合理的な社会秩序である(社会保障の域をこえた仕事量の)勤労とそれを消化する為の健全や聡明な心身能力の人間淘汰は、確実により他者を助ける能率の高い逸材をえり好むかある程度の機会浮動内配偶の選別期間で人類について限ればある程度の確立済み文化関係にありながら特殊な相互参照を込めてそうもさせがちで又、かくの才能を強化させる地域を次第に完全非階級化社会主義論旨をえらぶ一類より豊かで、いつしか他の怠惰な国柄へ模範づける役目を果たす。
 こうしてふりかえると、社会主義思想はすべて当時代なりの瞬間には特権にみえるが元々は祖先種の努力もろとも蓄えられた資本家の過大な能力への恨みか嫉妬などの負の感情を正当化する方便としてうみだされた錯誤か断章取義の経過であったし、もし人類社会を改良する、という慈善や啓発の才を血統主義なる自然界や有性生物全般と共有する規則で十分に満たしたくば、国家や民族間についても模範や手本の役目を一部の特徴高い選種基調にかけて保ち、維持し、促進か優遇すべき。