2010年1月19日

科学界と宗教界の等しさ

聖書のなりたちがどうあれ、もし今わかっている自然知識の程でいえばジーザスの考えた神の親衛隊らしき天使共の到来ということは想像できるし、不思議ない。逆の立場でもありうるのが少しでも工業力ある生態ということだ。
 商誘因のみにかぎっても、惑星型の生態には化合できないか入手困難な無際限の那辺は空を見上げればつねにある。それを示唆した才能が芸能人としてみても古代あまりに飛び抜けていたのは悲劇の素だった。しかし、預言のみを評定していけばそこには既存の予知をあわせてできるだけ確かな将来を教えようとした個性があっただけか。
 信仰からみれば科学に答えを出せないのは疑うべくもない。なぜかといえば、それらは付け加えであれ既に集められた聖書の中味より未だ豊富でもないから。要するに、宗教の確かさは流通した知識量の比率にあり、この共有体が安定しているほど信仰はゆるぎなく仲間は互恵の旨を分かち合う話題やその交易継続の動機をもつ。科学の共同体は何れそのしなに応じた信仰を素に、夫々の信教界に返り咲く。だから知識量の現有比率をもとにみればどの科学も知識人やscientistとよばれる部分集合精神も、同様に一宗教への帰依だ。科学教は共同体づくりの、また仲間内の話題づくりの趣味なのであり、それをこえて一切の内容をもたない。