2007年12月8日

漢字のかみくだき

福沢『文字之教』端書に曰く、「日本人にはかなもじありしも借りた漢字が流通する慣習ありてこれは一朝一夕にては廃止できない。なれば未来に漢字を廃する為に準備あるべし。これが「なるだけむづかしい文字を用いない」事、即ち漢字制限なり」、と。

 誠に卓見なれど一方よりみれば必ずしも善ならず。漢字は日本語を要簡にしたる便宜、との一般説あり。例えばハングルに比べてカナモジは優るとも劣らず表音性に特化した文字なり。これらは文字に非ず、むしろ発音記号と呼ぶべきものと解せよ。
 他方、英語にてもラテン語においても人々は「文」を表意により解読す。もし英文を発音記号のみで書けば果たして何人が黙読に便利を感ずるであろう。

 言語は言文交響の理想に向かって進化すべきものなり。『文字之教』の端書に続けて曰く、「ノボルという言葉を昇る・登る・上るetc.様々に書き分けてしまわず、動詞はやまとことばで直書きすべし」と。
 これは一面にては誤りなり。筆画の僅かな違いにて文面にriseとclimbとgo upとを区別可能なのは寧ろ利点なり。口語中心主義のインド・ヨーロッパ言語に対して象形性を保存したる漢字はより文語中心主義的なり。口と書けばmouseとかoralとかより簡易にして利便なのは明らかにて、コウとかくちとか言うのは更に簡単なり。いいかえれば、漢字の表意性は極めて便利な道具なり。これを安易に棄てる民族道理はなし。
 日常にて漢語も用いる日本人はしばしば文字を引き出して意味を確認す。例えば名前を口頭で伝えるとき分かりやすい別の概念を引き合いに出す。諭吉のゆは、ことばに出して言うのヘンで輸入のゆのつくりで、きちは吉野屋のキチです、など。これは日本語において表音と表意の組み換えがalphabetとEnglishのそれより複合的な事を意味するのみ。而して思考にも微積分の便利あるべし。便利と弁理士のベンリは同じbenri内に意味を多重抽象化なり。これらの分別には労を要せず、自然淘汰に委せるべし。ベンリが不便なら理弁士が用いられる。重要なるは繁雑な漢字の更なる人為淘汰なり。
 漢字において最も厄介なのはむしろ複雑すぎる筆画のみ。

 現代中文の簡体字は旧来の利点なる表意性を犠牲にしても表音化を進む結果にて、漢字文明の本質を損なうものとしてなんら尊重に値せず。歩と戊とに分解しうる歳より漢字史的改変ありし國を先に略するべき事、二度手間は却って漢字の改悪なり。現代中文はいずれ淘汰さるべき歪んだ俗字のあつまりにていずれのたみも文明摂取は論外なり。
 筆画省略の良策は、常用漢字に対するさらに便利な「使い方」に求められるべし。近い将来に漢字数は1000を超えずともその枠内で工夫を凝らし、現状より神妙な表現が可能になるべし。その使い方とは、「表意を損わぬ限り簡明な漢字を択ぶ」文化慣習なり。かみくだき、難解を噛み砕きて和らぎの風をもたらすべし。例えば選ぶと択ぶは代替すべし。語彙は語集にても賄うべし。懺悔は慙悔にて、羞恥は恥に恥じるの動詞義あるゆえ羞なる動詞的な語義の重なりを避けて無恥にて通用すべし。無知と弁じる為にムハジと発音し、重箱湯桶音訓も自由に用いるべし。シュウチの代わりにムハジと言えば馬鹿な溺婚夫婦にも一応通じ不徳の自業自得を促すべし。
 これらは和漢の伝統書籍と突如の断絶を防ぐ文化法と考うべし。


 福沢の指南したる文明の太平は遥かに先にて現状にてはあたかもキリストの説きたる神の国、カントの説きたる目的の王国に等しく、たんに当為として個々人かたく信じるしかできず。現代の混沌に等しき醜悪たる地獄沙汰の打開は自身の手にしか不可なり。漢字制限もかみくだきも一段落にしか過ぎず。