芸術家一切の予備訓練は人文教養の涵養に他ならない――『判断力批判』
いわゆる技法の洗練には多くの選択肢が要されるの必至だが、そこであやまたず、より適切な形相構成条件を導出させて止まぬ源泉こそ、かの勉励により育まれる高い人間性に違いない。我々にとって、芸術アカデミーにおける審美指導という事は全く不可能に属する。というのは、趣味の左右とは体系学のあずかり知らぬ所においてのみ有効だからである。則ち一般に知られる如く芸術それ自体は術であり、全くに学ではない。史学と審美は相異なる観念である。従ってフランス・ボザール式の芸術アカデミーの地球的伝播は多大な過ちを侵している。それは中世ルネッサンスへの潮流的規範意識から端を発する、古典主義への退行に寄与してきたに過ぎない。
我々は、芸術教育とは究極、師弟間でしか十全な姿を取らぬ事を知っている。理念に対する人間的姿勢としてしか審美観の伝承はできない。巨匠が亡くなれば遺された傑作の模倣から、規範となるべき思想の跡を幾分汲みあげる事ができるだけである。我々の社会にとり芸術アカデミーに存続の価値があるとするならば、第一にそこで人文教養の滋養とみなされるべき、文化人類学的なliberal arts教育が行われる限りにおいてである。第二に、時代において最も基本的な方法としての造型技術が、極めて体系的に専門伝授される限りにおいて。そして第三において、又これこそが死活命題ともなろうが、当世第一流の芸術家を教授として招聘しえる限りにおいてである。
だが人々は時代の先鋭に対しては否応なく無理解を以て応えるものであった。感性の先導、それが芸術の意義でもあるのだ。よって究極的に、芸術アカデミーは第二流以下の芸術家を以て仮に、暫時少なからず悪例としての審美学的授業における教授役の歴へ当たらす他には現況、致し方無いのである。大抵の我々がモダニズムのベクトルはanti-academicに発して行くのを史上に観察するなら、それはことごとくみなこの第三の理由に因るものである。即ち、凡そ芸術アカデミーにはたんなる審美観を生かす術においては常に、二流以下の啓発しか行えない仕組みになっている。我々は今後も永らく第一流の芸術家がいつでも芸術アカデミーの影響のない純正無垢な場所から生まれ出すのを幾度とも、歴史実中に観察するだろう。それは彼らが必修の第一、人文教養と第二、専門技術および第三、審美観とを独習で覚えて来たからであり、かねてより神話化され闇に封じられてきた天才による訳とも必ずしも言えないのだ。
そして第三、審美観の養生は一流の師弟間感化、または去りし巨匠の模倣、さもなければ広範深遠な芸術史学によってしか育たぬ以上、いわゆる卒業単位取得がため二流以下の芸術教授とやらがため無理にでもおのれが作風を堕落せねばならなかった悪弊を補うだけの価値は、独習の苦労にはいつでも充分ある訳だ。我々がもし近未来のより素晴らしい、新たな芸術風土を生み出したいと願うならボザール流の既成芸術アカデミーをその権威ともども根本廃絶しなければならない。尤も、この学究的先覚が専ら百年のあいだ大衆一般からの理解を得ることはなかろう。従って我々は漸進的改良、即ち徐々の芸術アカデミー撤廃と新体制の樹立を以て来たるべき現代芸術家養成の環境を整えていかねばなるまい。我々には今でも第一、人文教養は一般大学のいわゆるliberal artsあるいは教養学部で補えることがわかるし、第二、専門技術に関しては、特殊な工芸の専門学校または通信教育のような技術専門の教育制度の意義を再認識し改良、かつ勃興奨励することで養成していけるだろう。そして第三、審美眼については、飽くまで個人の自律に基づく修業法の選択がなければならない。ある人の恩師がある人の反面教師であることは、芸術に限っていえば必然的にある事を思えば。
尚日本の現状に即するため付与していえば、今では芸術アカデミーが少なからず兼ねているいわゆる芸術家サロンの役割を果たすための便宜を図り、我々は一般大学教養学部中に専門技術伝授の機関と相互提携した各芸術専攻の学部を設けるべきである。そうすればボザール式の古典主義的錯誤から起こっている、この様な用語はあり得ないが審美学的授業の単位制度による、多大な弊害、審美観退行の制度的強要を避けることができる。
専ら三大基本芸術、音楽、建築、文学に関して言えば、今は音楽大学で専攻させている音楽部および美術大学での建築学部を、一般大学中のいわゆる文学部と合わせ教養学部・芸術専攻・各科に改造すべきである。因みにここでいう建築、architectureとは絵画と彫刻という部分技能を含む。また、映画やイラストレーション、漫画またはデザインといった応用芸術の類は、教育についてこれらの基本芸術の後にあるべきであろう。即ち、大学自身の財務的方針如何によりけりで事前専攻美術者のため便宜を図り、増設を行うべきものである。