2023年3月14日

なぜ人は神格になれないか

今日あった事を書く。そして今日から生き方を変えたいと思う。
 先ず自分はこれまで色んな人達に散々妥協してきた。なるだけそうしない様にしていてもだ。というのも、自分はこの世で9割9分ダメ人間しか見た事がないからだ。だから自分にとって他人と関わる事は基本的にダメ人間の世話する事だった
 自分はMさんという人と十年くらい前にしりあった。アメーバピグで精神薬を飲んで動けなくなっていた人で、いじめられたと言っていた。それで助けようとして実際毎日世話して十年ほどたつが、はっきりいって間違っていた。というのは、彼女は元々遺伝がおかしい人だったらしく助けても助けても治らない。
 結局分かった事は、例えば太宰治っていたが、あの人とMさんは死ぬほど似ている。毎日愚痴りまくるし、大抵はしぬほどネガティブな愚痴で、解決不能な事ばかりいうし、はっきりいってダメ人間そのもので、勉強もろくにせず、娯楽といえば自傷かODか自殺願望の話という有様で、救済もへったくれもない。

 自分はそれでも諦めず、とにかく引っ張り上げようとし続けた。恐らくいい人過ぎるのだ。自分が彼女としりあったのもまだ28歳だったので、人間というものへの理解度が不十分だったのだと思う。だが今となっては確信を持って分かる。この世にはダメ人間がいて、そういう人は救う事はできない相談である。

 彼女の事を母にも父にも姉にも相談したが、基本的に母は関わるなとの意見だった。父は割と同情的ではあったがいづれ息子が悟ると思っていた様に思う。姉の場合は中立的に見ていた様な気がした。
 そして今日僕は悟った。Mさんは救えないのだ。
 もともとおかしい人はいる。基本、後天的に治らない。

 治すとかそういう問題ではなく、遺伝子が変異しており、その変異は死に向かいたがる変異の時がある。Mさんは完全にそれだった。放置しておくとずっとしにたいしにたいとばかりいっていて、ODしながら狂った様な状態になって自傷とかしだし、いじめられたからだと当人は言うがどうもそれは言い訳だった。
 
 遺伝子が狂っている状態の時、我々は現時点の医学では治療方法がない。だから精神科医は薬をだして、その「しにたがり」の様な負の状態を一時的に緩和させようとしている。だが、同時にIQなどが低かったりもし、事態を理解できていないのか自分で副作用のある薬を買い込んでODしたりとかとにかく酷い。
 僕は10年以上もかけ、いわば救世主の様にMさんに寄り添って励まし続けた。毎日毎日。気の遠くなる時間だった。だが、10年以上かけても殆ど少しも事態はよくならなかった。というか、少しよくなったと思えば又すぐ元の状態にもどってしまい結局はODや自傷や希死念慮を語りだし、全く治らない。遺伝子だ。

 恐らく、将来の医学の進歩によって、自閉の人に普段から自傷癖があったり希死念慮があったりする現象の解明が進み、その解決の方法も見つかるに違いない。だが現時点では通常の精神薬しかないらしい。
 一般の健常者が使うストレス解消法などは根本的に役に立たないらしく、自動で発狂しだしてしまう。

 Mさんの世話を10年以上買って出て実際にしてきて完璧に悟ったのは、彼女のタイプの自閉に伴う「しにたがり」症状は、そもそも治らないという事である。それは症状ですらなく、ある種の救えない性格で、最早周りに迷惑をかけ続けるしかないダメ人間パターンといえる。太宰治も実際そういう人だったのだ。

 太宰治型のダメ人間の厄介な所は、その半面に弱さに伴う同苦の感情などが発達してる様なよい面もあるので、自分みたくとても優しい性格の人や、同情深い人がつい世話してしまう点にある。だが、そうすると世話する側が無間地獄にひきずりこまれる。だって相手はやっぱりダメ人間だからだ。これが怖い。
 自分は記憶にある限り、毎日毎日、Mさんに勉強や仕事の邪魔をされ続けてきた。それをすべて我慢し続けてきた。なぜなら自分しか頼れない様子の人を放置できるほど自分が冷たくないからだ。
 だが、結局、どれほど我慢し続けても、最後まで相手は治らないのである。そもそも治る類のダメさではないから。
 結局こういう事だ。我々はダメ人間というのが現実に存在する事に自覚的でなければならない。そういう人と関わるというのは自分が破滅するのと等しく、また、ダメ人間を救う事は決してできない。遺伝子は基本、後天的に変わらないからである(後成学や遺伝子治療も未発達)。できるのは関わらない事だ。
 
 冒頭にこう書いた。自分は9割9分ダメ人間しか見た事がないと。正直いうと1人も自分よりできる人をまだ現実に見た事がない、うぬぼれで無ければ。最大限自己判断に慎重な必要があるにせよ。しかし、自分よりできる人を探し、その人についていくか、いなければ、現世では孤高でいなければならない。

 恐らく自分以外にも似た経験をしている人がいるかもしれない。優しい性格の人ほど似た罠に陥り易い。自分は芸術家になったほど感情知能が発達しているので、他人が可哀想だとつい無意識に助けてしまったりする。
 自分みたいな優男タイプは、まず安直な人助けを慎み、自分を孤高に保つ事に注力せよ。

 自分が十年以上かけMさんの世話をした事も、自分の人生経験としては上記の学びを得る為だったのだろう。今後もし続けるかは分からない。何しろさすがにこの数日はうんざりした。Mさんは何度やめてといっても大量に精神薬を買い込み、一晩中しにたいなどと愚痴をいい、ODや自傷しながら僕を罵倒してきた。

 自分の勉強や仕事のペースはMさんに終日、愚痴をいわれたり邪魔されたりして、この十年ほど本来のペースより何千倍も遅くなっていたのは絶対にたしかだ。それは負の複利効果でもあるから、恐らくとんでもない人類史の損失だったのかもしれない。
 だがもう悟った。治らないものは治らないのである。

 もし神がいたとして、神ですら、僕がこの十年、誠心誠意、或る心弱い女性を助けようとして必死だったことを完璧に知っている。そしてそれは自己犠牲そのもので、自分は限界までやりきったと。
 どれほど力を尽くしても無理なものは無理なのだ。そのとき潔く諦めた方がいい。太宰治も結局勝手にしんだ。

 なぜ青森にダメ人間が集まっている様子なのか、自分には分からない。Mさんも青森人でずっとダメ人間行為ばかりしていて少しも自己向上しようとしたりせず、反省もしない人物だが、すごい寒さと何か関係があるかもしれない。雪に半年は閉じ込められる事とも関係あるかもしれない。詳細は分からない。

 現代の文明環境で、Mさんは障害年金でぎりぎり生きているが、恐らく元々放置されていたら自動でしんでいたのではないか。何しろ放置すると「しにたがる」というのは自己解体プログラムの様なもので、我々にはいかんともしがたい。誰かが太宰治にひきずりこまれ一緒に死んだとして何になるというのか。
 三島由紀夫は太宰治にあなたの小説が嫌いですと面と向かって言った。因みに自分は三島の小説も嫌いだが、太宰の小説にはなかにはいいものもあるにせよ(『惜別』『走れメロス』『黄金風景』)、三島のは自分が読んだ限り何もなかった。だがダメ人間系『人間失格』とかは基本話にならないのではないか。

 人間は優れた面と劣った面があるのではないか。そのうち優れた面を美徳とみなし、劣った面は悪徳と見なす必要がある。
 人間が不完全なときその両面があるが、Mさんは「しにたがり」という暗面が巨大すぎ、ほかの美質をのみこんでしまっている。自分にはその闇の力を変える事はできなかった。恐ろしい話だ。人生で最も仲良くなった人こそが最大の反面教師だったとは。それは、自分が自分とは正反対の面がある人に、或る意味では惹かれていたのではないか。とんでもないダメ人間の面が異常に巨大なMさんを全力で助ける事で、自分は人間の救えなさを理解した。
 人は優れた人とつきあうべきだ。
 もし或る人が同情深く、共感性が発達していて、可哀想だと思って弱い人を助けたとしても、その弱い人がとんでもないダメ人間だったら、結局、自分までダメ人間の沼にひきずりこまれ「しにたがり」の人に人生の過半を奪われてしまう。その人は別に理由があって「しにたがり」ではなく単にダメな人なのだ。
 同情深い、思いやりがある、優しいという事は一見いい事の様だが、それが極端だとそれはそれで自己犠牲の度合いが高くなって自滅してしまう。だからこの世では程々の優しさを保つしかない。極端な慈悲深さというのは、神々にだけゆるされた性格なのである。
 所詮、肉体を持つ人は神格にはなれない。