2023年2月12日

古典的正格について

西洋古典音楽は貴族の為に作られていた。この為その暇つぶしとしての典型化の要素は耐え難いほどで、今日の芸術からみれば余りに一様性が高い、と私は考えていた。要は技術上の変化が少なく退屈な様式だという事だ。他方、そこで試みられてきた純粋化には見るべきものがある、と私は最近考えなおした。
 芸術としての西洋古典音楽には調性、及び音階の整理による純粋音楽としての様式的単純化が試みられた時期があった。自分が聴いてきた限り、バッハがその一つの極点にあった様に思われる。まだ完璧に彼の楽典上の工夫のすべてを把握しているとは言えないので、理論的には将来より詳しく語るかもしれない。
 自分も音楽創作はやってきた。絵の隣接分野で、応用的に考えれば、新造形主義の理論がそうであった様に音楽へも適用できる造形美術との共通理論がある、と考えていた。10代後半に実験作を作って高校以後の友達の小野君や田中君に聞かせた事があったが、本格的に記録しだしてからの作は一応残してある。

 自分は音楽を理論的興味の対象にしている。主には。勿論それ以外にも音楽という分野自体がもたらす心理的救いの効果は著しくすばらしいものなので、他の音楽聴者と同じよう、端的に心から愛している事もある。
 無調性以後の実験を自分もしてきたがこの方角には限界がある、と自分は極点で気づいた。

 絵でそうであったよう印象派かその原始的萌芽であったターナーを先駆けとして抽象美術以後の純粋化は、モンドリアンさもなくばイヴ・クラインで一極点を達し、以後は後近代の乱雑な様式へ転化していってしまう。自分はそれでも純粋化には意味があったと感じていた。今も思う。音楽も類似かもしれない。

 自分は妹島和世さんの事務所に弟子入りに行った。21歳の頃だ。暫くSANAAで模型製作などを手伝っていたが、あの場から学べた事は無意識への影響含めとても多い。彼らは確かにこの時代の最高の建築家集団なのだろう。創造性を集団で追求する一模範がそこにはあったと思う。終わらない学芸会みたいだった。

 重要なのは妹島氏の使う建築様式だと自分は感じていた。それはモンドリアンやドゥースブルフらデ・ステイルに近接した所から生まれたミース様式以後の純粋化を、彼女ほど明白に続けている設計者はいないと感じていたからだ。五十嵐太郎はモダニストとSANAAを呼んでいたが、新モダニストと呼ぶべきだ。
 新近代主義、ネオ・モダニズムははっきりとした理論を作っていないので、なんとなく行われ始めているだけでミニマリズムと恐らく混同されている。だが両者は違うものだ。
 妹島さんがやっていたのは純粋化なのだと思う。模型を余りに膨大な数試作し、それらの中に、よりよい秩序をみいだす様だった。

 自分は音楽創作にあたっても似た様式が応用できると感じている。だからバッハに遡って純粋化の尊さ、意義を改めて感じだしているのだろう。グレン・グールドが弾いているのは恐らくは本来練習曲であり、そこに音階の万遍ない既習ができる配置がある事に、純粋音楽の古典的格式が生じているのだろう。

 なぜ純粋化に意味があるかなら、元々、芸術表現には様式的格式というものがあり、その正格、基準、カノンをつくりあげるところにある種の醍醐味がある。そのうちより古典的とみなされうるものには優れた正格が達されているとみなしてよい。そうだからこそくりかえし再現され、まねされ、模範曲とされる。
 従って作曲に関するかぎり理論的な正格を把握する事が何より重大だと自分は改めて思う。バッハに重要さを認めるのはこの為だ。建築家ではミース以後最も重要なのが妹島さんなのは絶対だと自分は確信し、彼女の事務所の門を叩いた。正解だった。
 自分が後世の模範たる為には、研究を続けねばならない。