2021年9月29日

西日本側では単なる政権簒奪の建前で、皇族政治私用主義となっている天皇カルトの分析

1.日本の国事で最近起きている事

 いま日本という単位で起きている事は、結構な複雑度を伴っている現象だが、自分が分析してきてみて次の様な事がいえるのは確かに思う。

 第一に、この国は倫理崩壊が決定的に起きている。
 みなも知っての通りこれは最近では安倍晋三という人物が起こした日本政府での悪政によっていた。具体的には違憲立法を最低でも戦争法、秘密法、共謀罪、或いは国権権能を持たない天皇の命令による退位法と4つ以上通していた事、ならびに、森友加計問題などでの安倍夫妻ぐるみでの贈賄罪隠し、および国会での118回偽証罪などがそれにあたるわけです。国事の範囲で。そして検察人事権や自民党閥内の院政ポジションを握る事で、それらの犯罪行為を検察に起訴させないよう党内に脅しを利かせているわけです。
 しかし間接的にはこの人を国政の場におしあげた勢力というのがいるからこそ、そんな公的な犯罪者が最高権力を戦後最長8年も持ってしまったわけです。

 じゃあ誰がその悪い勢力なのかといえば第一には山口県4区、特に安倍支持の人達でしょう。この地区の人達が安倍氏を落としてさえいれば、これほど禍々しい国にならなかったわけですね。間違いなく。

 次に、全国各地で自民党に投票した人達がその次に悪い。この人達は間接的に、党員票を通じた自民総裁選で安倍氏を押し上げていたからである。その次に悪いといえば、選挙権を持ちながら反自民勢力に進んで投票しなかった人達である。

 だからよくネット右翼らがレッテル貼りに使う「反日」「国賊」がどこかにいるとすれば、なるほどこれらの順である。
1.安倍晋三
2.自民党閥
3.山口県4区の多数派
4.自民党支持者
5.反自民党ではなかった人達

 全体としてみていくと、全然悪くなかった人達というのは、「反自民党で、反自民党勢力に投票し続けていた人達」という事になる。具体的にいうと旧民主党系とか、社民党とか、共産党とかに投票してきている人達である。ちなみにおおさか維新系と公明党系は自民の補佐勢力なわけですから、5に入るから悪さの順序としては下ですが、それなりに、もしくはかなり悪い。あと途中で出てきた泡沫政党で石原慎太郎がやってた立ち上がれ日本とかも反自民ではなかったわけだから5に入る。それと都民ファーストの会も、一見すると都議会で対立するように見せかけつつ実際には小池百合子都知事が自民党幹事長・二階俊博氏らと内通しつつ自民と共謀していた面があった様なので、ぎりで5に入ると思われる。

 したがって日本全体で、比較的、公の良識をもっているといえる人達が数として足りない、最低でも政治的無関心になっているわけです。上記5勢力以外のノンポリ系の雑魚みたいな人らですら、「野党はだらしない」とかお前が野党に投票しねえからだろう、としかいえない頭の悪い発言を連発していた。それっていうのは、結局、戦後日本人のいわゆる民主主義なるものが失敗してしまったのだといえるでしょう。政治教育、殊に法治主義にまつわる政治道徳に関する教育の失敗があった。それが決定的に現れたのが安倍独裁政権だったといえる。なにしろこの人は法学部卒の癖に、当時の担当教授どころか後輩に叱責されるほど、学生時代にエスカレーターに甘えて勉強していなかった事は明らかなわけです。憲法学を基本、全く理解できていない事はだれの目にも明らかだった。

 しかし、1から5以外の一般国民が多数派であるからには、1から5の勢力、まとめると、「安倍信者」層ってのにその多数派をふくむ国全体を操られてしまっている。だからこれは独裁政治、僭主政治である。しかしまた、同時に2から5ってのは安倍を総裁に推して上皇状態で匿っている自民党閥の寡頭政治勢力である。かつ、特に3から5ってのは無法者を間接的にであれ公然と支持してるんだから、法倫理を崩壊させた衆愚政治勢力といえるだろう。

 よって、今現在、少なくとも第二次安倍政権の2012年から9年後の2021年のいままで、日本の国事で起きている全現象というのは、まとめると、「安倍信者」による最悪政治だったのだといえると思う。

2.岸田文雄氏の勝利による安倍信者総崩れ

 ではその安倍信者の最悪政治をどう国政から除去するか?
 さっき岸田文雄氏が新総裁になったという速報が出ていた。ということは、彼は森友問題とか安倍氏のこれまでの犯罪を再調査する方向を最初のべていたからには、すでに権力を握ったので、安倍氏がこれまでみたく院政の形で高市早苗氏とか麻生太郎氏とかを動かして犯罪隠しし続けるのも困難になっていくのではないかと思う。というかそうならないかぎり自民党閥そのものが反国家的犯罪集団でありつづけることは疑いなく、安倍信者らも「真正・反日国賊」なのは変わらない。

3.長州閥カルト――岸信介と安倍晋三の系譜

 こういう構図があるというのがもっぱらの国事であるが、自民党閥に完全な自浄作用が望めるとまで思いこむのは、期待しすぎだと思うわけです。第一、岸田氏だって選挙のときは方便をつかって安倍氏に忖度する様に言動を変えていた。自民ってそういうやくざ政治的な、人治主義者の集まりである。よくいえば現実主義なのかもしれないが、わるくいえば単なる勝てば官軍・権術主義の海賊団である。

 じゃあそういう風に自民党がなっている理由は何かである。

 この政党自体が保守合同――麻生太郎の祖父にあたる吉田茂(母系で反政府クーデターを起こし暗殺された大久保利通の子孫)らの自由党と、鳩山由紀夫の祖父で天皇機関説弾圧の張本人・鳩山一郎らの日本民主党の野合――で産まれた政党だというのが政党史である。CIAスパイをしながらA級戦犯逃れをした真正売国奴というべき長州閥・岸信介は日本民主党に属しており、自民党をのっとると安保法制と呼ばれる米軍間接統治を継続させる軍事属国化を敢行した。

 安倍晋三はこの母方の祖父に対するシュプレヒコールの中で育った。水戸藩の支藩・常陸国ひたちのくに宍戸藩主ししどはんしゅの系譜を血統上ひいている、いわゆる純粋尊王派の傾向が多少ともあれあった三島由紀夫とかが当時の反安保、要は自衛隊単独で国を守るんだ論者の代表例である。
 晋三は、祖父を虐めている様に見える人達、すなわち自国の自治権を主張する真正愛国者を恐らく敵と認識していたのだろう――実際、晋三は総理になって後、祖父と同じ路線で、集団自衛権の乱用で平和法制を逸脱する戦争法、すなわち米軍が都合よく自由に使える駒に自衛隊員をする新安保法制の強行などあまたの悪政によって、さらなる米軍属国化を進めていた彼を批判する東京・秋葉原の人達を、演説中「こんな人たちに負けるわけにはいかないんです」とのち呼ばわることになったわけです。ここには岸家と安倍家が、米軍側の犬、傀儡となって死刑逃れからトランプ大統領の盟友状態まで個人的に米国政府側から便宜を図ってもらい、国内最高権力を握って日本全体を宗主国に都合よく操ろうとする傀儡君主としての姿勢がある。よく知られた話ですね。巷の安倍本って大体この文脈で分析されているし、端的に事実だけを羅列するだけでも何の政治学的な矛盾も起きない。というか、表をみても裏をみても、衆目が一致していて、単にそうなんだろうなとしかいえない。

 ちなみにこの傀儡君主ぶりって、安倍信者が盛んに攻撃しつづける朝鮮半島の伝統政治手法なわけですね。当時の中国の強国とかモンゴルの元とか、日帝とかの周辺国で攻めてくる相手に、みずからなかば不可避に傀儡君主となる事で一時の便宜として命永らえる戦法をとり、たまたま宗主国が亡びた場合は手のひら返してお前ら侵略しやがってーとなる。これを恨(ハン、うらみ)の文化とかいっているわけですね。

4.天皇カルト――宗主国の傀儡君主を演じるその正体

 さらにいうと、天皇家自体がこういう傀儡君主ぶりの第一の例でもある。
 太平洋敗戦当時の米国世論では、多数派に日帝憲法上の元首にして全権主導者である天皇の死刑が当然とされていた。がマッカーサーら連合国軍総司令部・GHQが、臣民の神道狂信ぶりを分析し、天皇を統治円滑化のでく扱いする方が合理的とみなしたために、昭和天皇・裕仁はS級戦犯たる処刑を逃れた。
 戦後日本で裕仁ら天皇一家が国民の慈父ぶって、米軍側と一緒になって赤狩りに協力したりして、今の皇室に至っているのも見逃してはならない歴史的事実です。

 つまりは岸信介と安倍晋三ってのは、天皇裕仁と天皇明仁、天皇徳仁らの属国でくぶりをまねているともいえる。

 しかしこの手法って天皇家からすると歴代武家政権に対して、明白に反抗した後醍醐天皇と明治天皇以外はことごとくといっていいほど共通してふるまってきたでく仕草でもあるから、今更始まった話ではないわけです。自分の都合次第で手先をつぎつぎ犠牲にしていって、お家大事で、自分の天皇家だけ残そうとするのが天皇家の伝統である。いくら卑怯であろうとそうやって126代つづけました自慢をしている家柄なのである。
 見方によってはとんでもない関西ヤクザだが、関西人はこういうヤクザを囲って、ずーっと生きながらえさせてきたんである。天子様がーとかいって。こないだもいってましたもん、ツイッターで悪意ある冤罪だの名誉毀損罪だのを進んでしてきたヤクザな滝口とかいう京都人みたいやつが。西洋でいう名目君主政みたいな、水戸学大義名分論の君主無答責理論ならまだしもですよ、漢学の文脈でいって単なる悪徳君主が天子もないもんだが、そういうつっこみは、関西人全般の中華皇帝もどきで飛鳥期から採用してきている天皇カルト体系には全く通じない。寧ろ岩倉具視とか大久保利通とか木戸孝允とか、京都市長・門川大作や元京都市議会議員・村山祥栄みたく、天皇を将棋の駒「玉」あつかいして、関西人だか鹿児島・山口人だか自分達自身に都合よく操るのが当たり前という風土なんですね、西日本って。全般が。そういう明治維新解釈をしているのが西日本で、しかもそれを成功だと信じている西国郷土史の一般通念があります。

 だからして関西人が幾度となく武家だの国連だのに大敗戦しようが、また宗主国のでく扱いに天皇をするかぎり、実は面従腹背で、あいかわらず葵祭がー朝敵がーとか裏でひそかにいいつづけるわけなんですね。潜在的に属国状態で生き延びて、いづれは宗主国をひっくり返す手段として「恨」を採用するか、それとも「玉」こと天皇カルト神道を採用するか、その微差があるにすぎず、本質的に、朝鮮半島の人達と西日本の人達とは、思想信条の構造自体は変わらない。
 もともと関西地方って、中世の時点で新羅とか百済とか、任那とか高麗とか、そのあたりから入ってきた渡来人の集住区であり、血統的には同根で、帰化人として日本側に定着した人達はこっちにあわせて母語が変わっただけの事である。それらの朝鮮半島の国々とほぼ同時期に、朝鮮半島の移民が奈良に入ってきて大和(漢の金印によれば委奴国)として枝分かれしたにすぎず、結果として、今に至るまで政治手法そのものはほぼ同じと言ってもいいと思う。

5.東日本や首都圏での実力本位の政体

 しかし、東日本側はこの意味では、今から154年前・1867年大政奉還まで天皇制を採用していなかったので、違う文化圏といっていいだろう。東日本の場合は将軍に代表される武家が高度自治していた。当の鎌倉将軍がそうであるよう建前の上では関西の天皇政体側に何らかの職名とか得ていた人達もいたけれど、あれって関西政界を間接統治する為のものだったといえるだろう。要するに武家って実力主義の序列で、いつでも政治力が不足したら打破されていたわけです。
 この点では天皇みたいに無能だろうと虚構で、建前で創業家系の名誉会長を続けようとするみたいな、なんというのかぶら下がり老舗的発想がないわけですね。見方によっては足手まといでしかない。そういう家系が無用と判断したらさっさと切り捨てる、あるいは最後の将軍・慶喜公がやったよう自分達で無理だと思ったら潔く政権を禅譲するのが、首都圏でやってきた実力主義政体である。

 ちなみに東北の先住日本人の系譜も、アテルイとモレがその様な実力主義の政体をとっていたといえるでしょう。 以後も武家政体だから基本は関東・首都圏と同じである。

 アイヌも長老政治の面を除けば共和政だったといえようし、総じて、東日本側に、関西人が中華皇帝をまねしてもってきた上に、神道カルトと混ぜて神格化した、教祖至上主義の虚構の政体って存在しないわけです。

 琉球は豪族支配が次第に王政にまとまり、最終的に尚氏一系が支配した王政になっていた。この王政は日本側の薩摩藩などと歴代中国王朝側にはさまれて両交貿易をしなければならなかったとはいえ、天皇政体や武家政体、アイヌ政体とは違う系譜なので、本州・四国・九州と同列に並べて語るのは困難と思う。
 結局は149年前・1872年に鹿児島の島津家が侵略し尚王を誘拐した上で、天皇が琉球藩を置き、1879年沖縄県と改称して日帝側に編入されてしまうが、ここでも、いわゆる天皇制をとってきた伝統ってないわけです。

 要するに天皇政体ってのは関西のカルトな政体だったわけだ。そしてもともと彼らが中国大陸から渡来してくる前から数万年以上ずっと平和にくらしてきていた東日本側からすると。たった1347年前の674年ころ飛鳥期の奈良地方で、『史記』増補版から中二ネームぱくって名乗りだしてはじまった幼稚な天皇政体というものは、侵略帝国主義の上から目線でくりかえし攻め込んでくる、暴力至上の野蛮、かつ権謀術数傾向の邪悪な政体だけに、はなはだ迷惑千万。すなわち天皇一味とは巣伏の戦いや将門の戦いを典型例として普通に絶え間なくあの手この手で自治権を侵害してくる非常に厄介な外敵にあたる政治犯罪集団であった。

6.水戸学派による公武調和と列島連邦統一構想

 しかし飛鳥期以来この最低でも千年以上続いていた本州東西での二大政権状態ってのは、幕末・対外危機が迫った状況ではいつまでも続けているのは不合理でもある。なにしろどちらかがいづれかの外国勢力と組んで別の政体を攻撃しだすと、いわゆる代理戦争が起きて、どっちの政体も大した国力があったでもないので植民地化をこうむるのは理の当然だったからだ。

 東西でくりかえされる政権交代を長期安定化に結んだ徳川政体の主要な王家であるところの御三家、その水戸の徳川家の治める水戸藩では、のち水戸学と呼ばれる歴史哲学が発達していた。その内容といえば、いわゆるのち公武合体といわれる様になっていく武家政体と公家政体の調和を目的にした体制論だったわけである。漢学の概念を応用してつくった大義名分論というのがそれで、祭主天皇を建て前として奉りつつ、実権は政府が握って現実政治を行えば、安定して東西分裂政体が同時に運用できる、と前期水戸学では考えられていた。
 後期水戸学ではさらにこの立場を発展させ、律令制のもとで令制国の連邦状態だった国々がさらに、諸大名の藩政として分割統治されていた状態の上に、公武合体の新政体を設けようとした。会沢安『新論』とか、烈公がそれまで蝦夷地と呼ばれ松前藩が置かれていたアイヌモシリを五畿七道になぞらえ北海道と名づけたのがそれである。

 一方の徳川宗家・将軍家の政体の方では水戸徳川家の慶喜公が宗家・将軍職を継ぐまで必ずしもそういった考えをもっておらず、大政委任論と呼ばれる考え方、すなわち全政治は徳川宗家ならびにその代理人・大老らが専制できるとする覇道主義だった。このことは、幕末の大老・井伊直弼が、上述の水戸の徳川家側で、公家政体との調和を求める大義名分論者を大量粛清した事からも理解できる。

 結局、慶喜公が将軍職を継ぎ大政奉還、天皇政体の元での議会制へ道筋を開くことで、後期水戸学の列島統一構想が、紆余曲折を経て、いくらかの変更はありつつ実現されたのが日帝以後の日本国政体である。いわゆる版籍奉還と廃藩置県という形で、主要大名は華族になり、令制国は都道府県とされた。
 その中途では上述のよう島津家と天皇家の行動による琉球王国の沖縄県への編入もあった。

 水戸学派は徳川家の一端にあった学派なので平和外交主義だったが、日帝は天皇家はじめ西軍に支配されており、 山口県の吉田松陰、鹿児島県の西郷隆盛、高知県の板垣退助らなど侵略植民地主義の外交方針をもっていた。このため日帝は領土拡大政策を以後77年とったが、結局、米国領ハワイをめぐって対立した米軍側による原爆投下、ポツダム宣言受諾での無条件降伏をへて大部分の新領土を失い、北海道と沖縄だけ残された。

 こうして主権在民となった戦後日本でも継続されている基本的な日本国の姿ができあがる。

7.天皇家に裏切られた徳川家らの歴代国内政権と裏切られつつある国連

 水戸学派の構想は彼らの公徳がなしえた限界として、徳川家専制政体下での国内平和の恒久化をめざしていた。このため関西人が崇めている天皇家という神道カルト教祖を抱き込む様な政体構想をしたわけだ。

 この計画部分は、関が原の戦で西軍の敗軍の将であった毛利家のもとにいた吉田松陰、また同じく敗軍の将だった島津家のもとにいた西郷隆盛らから侵入され、倒幕論にくみかえられてしまった。薩長同盟が、小御所会議クーデター以後に起こした東日本侵略戦争・戊辰戦の際に、水戸学派の最後の将軍・徳川慶喜公を「朝敵」「臆病者」などとどっちにしてもぬれぎぬしながら辱め、江戸城と共に徳川政体の官僚機構ごとのっとる政権簒奪をおこなったのはこの為だ。いわゆる「恨」の文脈である。島津家の先祖は百済の人だったのが公式に確かで、毛利家の出自は不明だが山口県は朝鮮半島の玄関口にあたり、「恨」の文脈が潜在していたといってもいいだろう。
 天皇家はこの「恨」をもつ西軍を手先として利用する形で、虚構の天皇政体に実力で優る武家政権をのっとった。ここには悪意(徳川家への害意か、その慶喜公をめぐる事情通)があったのが確かである。水戸徳川家出身だが一橋徳川家をへて、徳川宗家をついだ慶喜公の母は有栖川宮吉子女王で、皇族である。簒奪クーデターを朝廷で主導していた公家の岩倉具視による画策だとしても、天皇家側はこの慶喜公側の事情を知りつつ、慶喜公の母方の実家である有栖川宮の熾仁親王を新たに西軍の将にたてた。いわば天皇家側は、慶喜公の母方の本家筋で、分家あつかいした徳川宗家へ馬乗りする形で、本拠にあたる江戸城を地位・財産ごとのっとったのである。なるほど、ここにも「恨」の文脈があるといわなければならないだろう。天皇家は確認できるかぎり桓武天皇の母の時点で朝鮮の百済系帰化人・高野新笠の子孫にあたる。そもそも今の京都こと平安京は、朝鮮からの渡来人らを技術者などとして使っての建造である。朝鮮系の色彩が端から色濃い社会で、侵略帝国主義の中華皇帝としてふるまってきた中世天皇にとって、東日本側の武家政権にみずからの奈良から続く帝国政体を不当に妨害されている、と感じていたのに違いない。ちなみに奈良は朝鮮語で「国」の意味であるからして、当時先進国あつかいな朝鮮からの輸入語彙であろう。

 今の目からみても先住権や高度自治権をもっている東日本側に、飽くまで渡来人の末裔と称する天皇家が統治正統性を主張するのは行き過ぎでしかない。しかし中華皇帝を模している彼ら天皇家は、中世の段階でずっと様々な武家へ「恨」をため込んでいて、それを最終的に暴露させたのが、小御所会議クーデター以後の戊辰戦争時の残虐無慈悲なふるまいだったといえるだろう。16歳の明治天皇が、自分たち天皇家に仕えて御所と京都の町を護衛していた前将軍・慶喜公や京都守護職・松平容保公へ、先帝・孝明天皇が崩御すると突如不孝にも父の親幕方針を破って手のひらを返し、「朝敵」の濡れぎぬを着せ始めたのはその実例である。慶喜公は子供の頃から尊王哲学を教えるべく特別に作られた水戸学の藩校・弘道館で育っていて、20歳のころ父たる烈公に直々に「決して朝廷に弓を引くな」としつけられていた(渋沢栄一『徳川慶喜公伝』4巻35章、逸事、父祖の遺訓遵守)。容保公は彼の勤皇の志と功績を誉め、孝明天皇から与えられた『孝明天皇宸翰』を、西軍から朝敵あつかいされ斗南藩へ追放されたなかでも、その後の晩年まで、胸に納めた竹筒に秘めていた。明治天皇は、勤皇の志が特に厚い武士とその部下らへ、武家への「恨」の文脈で、やはり徳川家への「恨」をもつ西軍を使って、ひたすら悪意ある虐待・虐殺行為を働いたのである。特に悲惨を極めたのは会津戦争で、数千人の人々が天皇軍の悪意からきた冤罪による侵略戦争で虐殺され、その中には一般の市民も大勢含まれていた。その上、死体埋葬を禁じるなど天皇軍側の日本人への残虐非道な行いは果てしなかった。
 戊辰戦当時16歳だった明治天皇はこの後、当時31歳だった慶喜公が飽くまで皇室に恭順し続けたのを確認すると、明治帝45歳のとき61歳の慶喜公へ公爵を叙爵し、皇居にしたてた相手のもと居城・江戸城で許しを請うた。慶喜公は「浮き世の事は仕方ない」といい、明治帝は胸をなでおろした(千田稔『華族総覧』中部地方、静岡県、徳川家(公爵/慶喜家)、講談社現代新書、2009)。以後、貴族院議員、麝香間祗候などとして皇室へ飽くまで忠勤した慶喜公は明治帝より長生きし、明治帝の崩御から約1年後に薨去した。

 一連の天皇家の行動をみていると、いわゆる大和(奈良県)帝国主義の傲慢極まりない絶対君主ぶりは果てしなく、到底、水戸学派が想定していたような国家国民に忠実な祭主ではなかったわけです。明治、大正、昭和の各天皇は、薩長土肥ら西軍の武力が手に入ったら平気で、彼ら天皇家自身を祭主兼皇帝として、君主無答責で無敵状態の絶対君主にしたてあげていったのだ。その過程では気に入らない国民へ適当な「朝敵」の難癖をつけ大量虐殺しまくるなんてことも平気でやっていたのである。今に続く右派伝来の「朝敵」レッテル張り天皇カルトしぐさは、天皇家自身がやってきた自己都合な僭主政の模倣なのである。
 一報の水戸学派は、徳川政権の主力部隊から、天皇家を――外敵に囲まれていた周王室を覇者として守る、諸侯の「尊王攘夷」に重ねた――諸大名共通の祭主として、再び政権構想の一角に浮上させる形で、もはやなんの力も持てていなかった関西政界・公家政体との最終和解を申し出ていたわけです。これは善意だったとしか言いようがない。だがその善意を、性悪すぎる天皇家は全て裏切ったことになる。そしてなぜその様な蛮行を天皇家がしたかといえば、すでにのべてきたよう「恨」があったからに違いない。要は西軍を利用して東国武家から実権を奪い去って、再び自分が全権をもとうとする野望と、明白な悪意が天皇家側にあったのである。

 この帝国主義者・天皇家による政権簒奪の悪意は、GHQと以後の米軍の力で一時的に政権の座から後退させられている。それが象徴天皇という形なわけです。さもイギリス王政に似ているので、連合国としては理解し易いから、そのまま大人しくしているだろう、と予想しているとみられる。だが、これは完全に欧米側の勘違いなのですね。リアル天皇家はそんな善良な家柄ではない。そのことは東日本側が痛いほど知っているのだ。
 天皇家は遅かれ早かれ再び野蛮な本性を露わにし、手段を択ばず政権復帰の挙動に出る事は間違いない。その為の手先を探している段階というべきで、自己神格化の神道カルトはこの使い捨ての手先づくりのための諸国民洗脳にして、潜在的種まきなのである。

 今の京都市政界は、端的に自分の京都市の中華都市加減を補完する目的で、皇族の政治利用をしようとしている。京都市政が、鳥取県出身の石破茂氏が地方創生担当相だった隙をつかって、皇族にかぎらず文化庁も一部の利益、京都市の私利を図る目的で国政から盗み取ろうとしてきたのもすべて、京都市中華思想を文化論の体裁で補完するためである。すなわち、関西人達や西日本人達の過去の行動原理をあわせみても、遠からず、彼らが天皇家を「玉」として自分たち、関西や西日本に都合のいい駒として何らかの悪だくみのもとで動かし始め、天皇家もそれと共謀しながら、諸国民に禍をなす絶対政治的な侵略帝国主義者の既往の本性を再び示しだすのも、天皇が国権をもっていない戦後憲法を逸脱する明仁氏の退位法強要などで、すでにきざしがみてとれる事実である。

8.西日本側の天皇カルトは、尊王建前・天皇政治利用主義の蛮政が究極目的で、極めて危険である

 私は、天皇カルトは極めてたちが悪いと思います。そもそも生理的に受けつけない。
 天皇信者、神道カルト信者って、特に奈良期の関西圏ではじまった、特定奈良人(の男系)優越思想だの、近畿・東西京都中華思想だのを帯びた大量殺戮邪教一味にほかならず、たった76年前1億人近くを国内外で大虐殺しているのだから、オウム真理教なんて到底及びもつかない真正の極悪カルトなのである。
 しかも現に、この無法の極悪殺人鬼である天皇の信者ってのは、薩長土肥の藩閥・元勲みたいな単なる天皇政治利用者ともども、日本国内の西日本圏だの東京圏を中心に、この世の一部に著しく片寄って存在している事が確かなわけです。そして岸信介や安倍晋三にいたる長州閥カルトも、その初代総理といえる伊藤博文が皇太子を「操り人形」と宮内省侍医エルヴィン・ベルツや熾仁親王の前で発言したことがあるよう(トク・ベルツ編『ベルツの日記』)、極悪天皇カルト、極悪神道カルトを自分らの寡頭政治なり独裁政治なりに利用する形で抱き込んできている。

 まぁ究極のところ、この意味では永久に国事から天皇家を根絶し、神道という邪教そのものを日本から絶滅しえたならば、彼ら殺人鬼が再び日本国内外で大量殺戮を犯す危険性もなくなるわけである。そしてその日までは、日本人達は、外国人の良識派とがっちりと組みながらも、決して気を緩めず、天皇一味を、彼らを神格化している神道ごと、奈良期の奈良人発の邪悪極まりない野蛮の陋習として徹底監視し続けねばならない。歴代武家がそうされたのと同じく、天皇家の「傀儡君主」風の演技に騙されつつある国連は、すでに危険領域に入っていると思う。
 国連が天皇家の裏表の激しい本性にだまされ、天皇カルトから軍事クーデターでも起こされてみなさい、徳川家の二の舞になるから。

 米軍はさすがにそこまで馬鹿になってはいないかもしれない。トランプ時代に在日米軍撤退しようとしていたが、その方針でいったら、また「傀儡君主」逃れした天皇家が安倍・麻生ら薩長閥の手によって絶対君主に復活して、反米勢力として自己強化していくという流れになったと思う。自分がツイッターで接した京都人らしき滝口は、既にその様な天皇ナチスの言動をとっていたのだった。滝口いわく、原爆投下は単なる民族虐殺で、戊辰戦は「天子様」こと天皇家に迷惑をかけていた内乱にすぎなかったらしい。

 いや、天皇家が馬鹿だったから侵略戦争を起こしたんでしょ。負けたら部下のせいにしつつ勝ったら自分のお手柄とか卑怯な事ばかりして。しかも自分ちは侵略帝国主義のすさまじい極悪暴力団長の癖に、しつこく皇帝づらの天皇とかほざいて。負けた癖にいつまでも政治的地位から降りないせいで、延々と内政干渉してきやがるから、日本の政治が混乱してきたんでしょとしか言いようがなく、どうみても京都中華思想の欺瞞に満ちたこの自称天皇ご都合主義の歴史観をきいて、自分はいまだに信じられないわけだ。
 そんなことなら水戸学派がわざわざ善意で武家政体の一部に天皇家の祭主としての地位を組み込んで調和させてあげようとかせず、天皇カルト政体をもっていた関西地方なんざ排斥しつづけて徹底殲滅しつづけてやればよかったのである。
 そういう意味でいうと、井伊直弼は関西地方に近くて関西地方の平均的な公民度の低さ、あるいは根っからの下衆さを多かれ少なかれ知っていて、飽くまで代々中納言の貴族階級でお人よしのきらいがある水戸学派側による関西人への善意なんて一切無用なんだよ、だって京都の連中なんて皇族であれ公家公卿であれ根っから性悪なんだからね、と悟っていた節があるともいえよう。それはそれで、客観的にみて正しかったのである。
 もし徳川光圀が三木夫妻の手で出産されず、威公のいうとおり堕胎させられていて、この世にいなかったら間違いなく、近代日本史は違った形になっていた。天皇政体なんて再樹立されず、大政奉還も王政復古クーデターも起きず、徳川宗家大統領の元で天皇家なんて関西の無力な元豪族、没落貴族あつかいで、誰もが事実上完全無視していただろうと思う。或いはその方がよかったのかもしれない。だが義公をうみおとしたこの国は、天皇制に至った。

 だがこの自称天皇なるいかがわしい奈良人優越論の宗教祖の制度も、もはや変わりつつある。

 はっきりいって、明治から77年大戦乱ばっかり起こした最悪君主であった天皇家にかぎらず、京都人って今も普通に、平均値でみて政治的に相当無能なんだろうなと思う。だからこそ平安期はじめてすぐ歴史的に実権を失ったのは自然だったのだ。なぜかといえば、彼らは中華思想をもっていて、自己中心的すぎて他人の立場が分からない利己的で性格の悪い人達だからだ。だからこそ滝口はじめ、異様に排他的・害他的で著しく片寄った民族主義思想を持っている人がことさら京都市、特に御所近辺の上京区には多く、凄まじく華夷秩序じみた差別的な言動を市内ですら「部落差別」の形などで平気でする人ばかりが集まってしまっているのだろう――要するに、京都市政ってのは、平安京を作った当初の概念以来伝来している自文化中心性の偏狭さのあまり、いまだに京都中華思想(京都市上京区中華思想)の形で、内外へ政治的に迷惑ばかりまきちらしてきているのだ。しかも平安京つくった794年から今の今まで。1227年間もしつこく。
 その意味では京都市が完全に滅亡するまでは、日本人は必ず彼ら京都市民一般から京都中華思想によったもろもろの差別をされるのだし、外国人は日本語や微妙な非口語表現がわからないので恐らく気づいていない色々な陰険な謀略を日本人はもろに受ける。そのたび、こいつらふざけんな、まじ道徳的に退廃した最悪の思い上がった中世移民地区の残党連中なのだろうな、めんどくせえと暗に思うわけです。門川らの双京づらの陰謀でそこに天皇家でも返しちゃったなら、せっかく地方自治法で行政は競合しないと定められ、国民の間には平等権もあるのに、また中世級の京都からの全国差別封建政治が復活して、とんでもなく全国民を不幸にすることは間違いないだろう。
 尤も今の東京も似た様な中華思想をあいかわらず天皇家中心に発揮しだしているから、京都の方がより都市化されてから長い歴史で、人心の腐敗が街のスラム化のもとで進んでいるだけに、差別の程度や陰湿さがより酷くなるというだけかもしれないが。

 滝口というやつは東日本だけでなく、東アジア各地でやっていた日帝軍だの西軍だのののおこないを「天子様」のお陰で虐殺してやったとか皇民化してやったとか中世桓武天皇軍意識で、京都人お上顔であいかわらずいってるのかもしれないが、被害側からみたら普通に京都ヤクザによる戦争犯罪、人道犯罪、人権侵害の大公害、大迷惑でしかない。それは日本国内だろうが国外だろうが変わらない。誰も自称天皇家とかいう、縁もゆかりもないヤクザの一味、すなわち関西へ中国大陸から移民してきた大量殺戮カルト教祖になんて、強制で指図なんぞされたくないからだ。
 滝口みたいな天皇カルト狂信者は、なるほど、永久に違う国で閉じこもってりゃいいだろうが、侵略帝国主義カルトだからそれすらできないのだ。という事は、天皇一味って、信者ともども、存在するかぎり公安の永久監視が妥当な、無数の前科しかない極悪恐怖主義団体というだけなのである。

 竹田恒泰氏が滝口と似た様な言動をしているのを、竹田氏による彼の歴史観語った動画で自分は確認し、西日本系天皇利用者の禍々しさは底が抜けていると改めて理解できた。
 竹田氏は孝明天皇の命による七卿落ちで京都政界を排斥され長州に逃げおちていた尊攘過激派・三条実美の子孫だが、五輪強行時に感染拡大を心配する今上帝の叡慮を絶対に無視すべきだとした言動も含め、要するに天皇家を政治利用して自分の野望を遂げようという考え方をしている。滝口もこの類型で、関西伝来の考え方とは、要は「天皇を自分達の為にひたすら政治利用するべきだ。そうやって自分たちの野望を遂げればいいのだ」という尊王建前主義、天皇政治利用主義なのだ。竹田氏が、同様の考え方をしていた岩倉具視を頭がいいなどとやたら褒めちぎったり、やはり蛤御門の変以後皇軍と戦いまくりでそういう考え方としかいえない長州閥をやたら好評するのも、結局、この尊王建前主義、天皇政治利用主義を関西人や西日本人一般が歴史的に自己正当化しているせいである。
 その様な考え方をとらず、飽くまで天皇の忠臣として大義名分論をとる水戸学派を、たとえば奈良県出身のユーチューバーじゅん、京都府出身の原田伊織、池田信夫もしくは京大関係者の関良基らが理解できず、薩長閥と同類の尊王建前・天皇政治利用主義と誤読しかできないのも、関西地方の歴史構造上の問題があるに違いない。
 まよわ王の時点から関西地方では天皇を弑する事は可能だった。足利尊氏による後醍醐天皇放伐であれ、関西人達は、彼を義公に於ける足利尊氏と対比づけての論理のよう、不忠な存在とはみなしていなかった。すなわち、水戸学派でいう主君への忠義としての、武士道的に純粋無雑な尊王精神は、関西地方あるいは西日本には終ぞ存在すらしていない。
 西日本側にあるのは、天皇と称する神道カルト教祖をみずからの私利私欲や野望のために政治利用する、完全な天皇政治利用主義だけなのである。だからこそ、西日本では一般に、薩長土肥京芸(薩摩、長州、土佐、肥前、京、芸州)ら西軍の16歳明治天皇を政治利用しての侵略帝国恐怖主義の数々は、戊辰戦から太平洋戦まで彼ら西軍と天皇一味の蛮行がもたらしてきた凄まじい国内外での被害にもかかわらず、「成功」といわれているのだ。また戦後ですら、京都市長・門川大作も、前京都市議会議員・村山祥栄も、あるいは上皇の離宮をつくり地元に明仁氏を移住させようとした奈良県知事・荒井正吾の様な人物も、西日本では平気で公職に就いて、国権侵害にあたる天皇政治利用をいまだに公言しているのである。