2021年5月12日

なぜある種の人は美的感覚がないのか

散文的な人は気分が平坦で、美的な感受性も弱い人だ。小説家は嘘つきだけである。

 飽くまで散文体を当たり前と思っている科学者は通常、全てに活きいきとした韻律をみいだす芸術的感覚がない。ある科学者が書体に無関心なばかりか、自分の下手な字を知性の証拠とすら考えているのを見て私は心底驚愕した。身なりに気を使わない人はいるが、かれが自分の書き散らしてきた文の読み手や編集者の工夫に何の注意も払っていなかったと知って、かれのよう思いやりのない人には叙情詩もわからないはずだとわたしは気づくことになった。
 いうまでもなくこの人は立派な芸術作品を見分ける能力、審美眼も、ほとんど皆無であった。それでいつも下らない悪趣味なものを他人の風評をたねに、低俗にも絶賛しているのだった。

 こういった散文的な人達の一生もまた、詩劇の要素を欠いて、一般に何の面白みもないものだろう。かれらは目の前にあるすばらしい風景を見ても無感動、無感覚のまま、ぶつくさとるに足らない論理的文句を垂れて生きている。
 通常、都会には感受性の死んだ人が多い。かれらは周りを醜悪な風景、悪辣な俗衆で囲まれているので、感受性を殺さないと少しも生きていけないのだ。南関東人や京都人、名古屋人などが自然や田園をみて当人達なりに差別的な言い方で「何もない」というのは、そこに生きている滋味豊かな動植物との共生への感受性が、一円一銭を争うこせこせした卑しい都会暮らしで完全に死に絶えてしまっているからだ。