文化的であるとは、本来、人生に於いて他人と競争したり、他人を踏みにじったり、敵対したり、差別したり見下げたり、あるいは他人を自分より尊い存在として奉ったり、それらの面倒な社会性をすべて無効化する或る地平をまのあたりに開く事である。ここで言う他人は生物の全てを含んでいる。
われわれは非文化的な存在であればあるほどこの逆の資質をもっていると知っているが、同時に、まさにその種の俗物だけが自分達こそ文化的であると主張し易いのも知っている。だから文化的という言葉は、基本的にすべて紛い物や嘘であると考えていい。
完全に文化的な存在は、もはや誰の事も傷つけないために、ただひたすら人後に落ちて耐え忍んでいるはずだ。われわれは隠居した徳川光圀が一生の間、自身の信じる学問に力を尽くしていたり、禅譲後の徳川慶喜が洋画、写真、書や乗馬に興じていたのを知って、彼らが世俗的な目的を超えた人生を送っていたと認める。いわゆる趣味的生活がそれであり、文化的な存在はその種の純粋な遊びの中で生きているのでなければならない。