2020年7月18日

立派な芸術(fine art、純粋美術)にとって流行の商業的成功や大衆受け、あるいは世俗的権威は本質ではない

会田誠が自分で「純粋美術」の世界にいる、と先輩面でツイートしてて、今読んで驚いた。
 僕が18の時、最初に池袋ジュンク堂の最上階で、ミュータント花子みて本当にこんなのうみだすとかこの国の芸大って罪作りと思ったわけだが、ネタ作家カテゴリーかと思いきや純粋美術やってるつもりだったとは。
 よく思い返すと、僕が芸大志望一浪人生から、完全に反芸大へ舵をきりはじめる最初のきっかけって、会田の諸作品がとんでもなく下品だったからも大分関係ありそうな気がする位だ。組織としてみて腐ってるとしか判定できないわけで。勿論入学後師事する事になる当時の教授が絹谷幸二だった絶望も大きい。
 油画の卒業生が会田、日本画が村上隆なんだから、どっちをみても「ああなりたい?」って並の18歳に聴いて、純粋に拒絶する対象なのは間違いないとおもう。僕の画学生の仲間らも、一人の例外もなく彼らを尊敬してなかったというより、語るまでもなく軽蔑していた。だって下品すぎるんだもの、作品が。
 しかも、教授に実質的に師事しないと(最低でも根源的な反抗にさとられ憎悪されない状態を維持しないと)卒業も覚束なければ、院なんて到底クリアできないのがわかっていて、そのトップが絹谷。もう当時の自分はなんでこんな組織に高々肩書きのため媚び売って、好きでもない作品描かされるのと切れた。
 冷静に観て、会田は芸大閥商業ギャラリー系アーティストだとおもう。その証拠が美術手帳とかに現代アート風で出現することなんであって、いわゆる純粋美術って生前無名で死ぬみたいなのを指すと思うのだ。例えば石田徹也。
 食えてれば純粋美術家じゃないか? 否。船越桂も純粋美術だろうとおもう。
 例えばチームラボは純粋美術か? 物凄く微妙だと僕は思う。五浦美術館に来たときみにいった。かなりがっかり系というか、寸分も面白くなかった。僕の姉(美大卒)とか子供が珍しがるから好評してた気がする。でも自分は純粋美術じゃあねぇよと呆れた。いいたい事はわかるにしても文脈が浅すぎるのだ。
 五浦美術館って、所蔵作品がいれかわりで飾られてる所があって僕はいつもそこだけ必ず見る。で毎度納得も感心もする。五浦派の画家らが作った世界観って、完全に日本画の最もピュアな、fineな(素晴らしい)領域で、あれはTHE純粋美術の一つの典型だ。それに比べてチームラボは質が低すぎるんである。

 じゃあ会田は隆は?
 特に会田の方は日本画の伝統にも属してないし(試しに日展作家にでも院展作家にでも聴いて見るがいい。それで判定するなといわれるかもしれんが参考に。殆どの人がしかめっ面するだろう)、それというのも彼の画風って、浮世絵崩れの風俗画の延長にあるといえるだろうから。
 風俗画、例えば遊女とか市井の人を黄表紙の挿絵みたいなもんとして描いたり、それの少し高級版なら錦絵があった。あれらって今でいえば漫画、アニメの絵である。これらは確かに日本で作られた絵ではあってもnihongaではない。そこの境界崩しをネタでしてるのが隆だが、会田は素で風俗画だと思う。
 民間で売り絵しなきゃならないから切羽詰って。そういうのが浮世絵師たちだったわけだけど彼らなりにがんばってはいたのは分かる。僕は好きじゃないけど、北斎も広重も。なんとなく下品な感じが漂っており、幾ら立派そうに風景画額装してようがどことなく低俗だからだ。大衆向け商業美術の限界である。
 例えば境界例として、秋田蘭画の系譜がある。佐竹知事のお部屋に、背景に飾ってある名画(小田野直武『東叡山不忍池』)。割と素晴らしいほうと思う。日本画の伝統に遠近法とりいれた立派な美術といえよう。



 ですが、会田のとかそういう伝統おふざけで茶化すものばかり。立派な芸術ではない。
 東山魁夷『道』をパロった会田『あぜ道』、これとか典型例で、恐らく会田自身は半分まじめに三つ編みの素朴田舎新潟JCとかが好きで(彼得意のロリコン文脈)、その延長線上に東山画を半ば背景にする形で引用しているともみえなくもない。和人素人得意の「盗作」系ネタだ。
ま漫画でしょ? という解釈が会田作品一般に通常の物で、それなら日本画としてはどうですかねぇってなる。不真面目だから。
 それ純粋美術ぶる意味がわかるだろうか。僕は結構びっくりした。当人そういう意識で、ウンコ彫刻とか美術館にもりもりまきちらしてたのと。カルチャーショックではないが。
 思うに、日本画パロディ系キッチュ(キッチュは美術用語だが日本語訳すれば「紛い物」)作家の文脈化としては、クーンズみたいな位置どりのつもりだったのだろう。確かにそういう風にごねる事もできる。隆だってくだらねー性器の彫刻とかロンドンのサーチギャラリーだかに展示して威張ってるわけで。

 唯、自分が思うに、「そういう事じゃないでしょ。純粋美術って」という話。
 なんでグリーンバーグがポップアートは低俗で下らないと定義したかといえば、ポップアーティストの意図が軽薄で不真面目だからだろう。寧ろ模倣的な再現芸術の系譜で見直すとグリーンバーグ説も滑りすぎる事になるにせよ。
 一見して下品な所は全然ない、キラキラ光が動いてすごーい的な、僕は視覚的に驚きを感じなくてなんだこの文化祭の延長ってプロジェクションマッピング自体のしょぼさに失望しちゃったんだけれども、チームラボすら、僕は純粋美術ではないよねといっている。だったら会田や隆もそうでなければならない。

 例えば、これも五浦に院展きたとき現物みたが、神戸智行の絵(例『陽のあたる場所』)は、日本画に米画風ミニマリズム要素とりいれ、自然景物を平面に再構成していて、彼のミニ画集買ったくらいまあまあ面白かった。前衛よりは中衛かもしれんが上品な絵で、立派な美術と思う。

なにが言いたいか、モギケンが津田キュレーションを実験コメディ内で「単に趣味悪いだけ」と正論キャラに評させ津田っちが「どうしちゃったんだ茂木さん」とか傷ついたか軽く切れた(恐らく発言者が一般人ならブロック済み)風@メンションなしツイートで返答したのみた。これと似てるが微妙に違う。
 究極のところ、純粋美術、fine art、立派な、すばらしい、完成された芸術って、ポストモダン(略ポスモ)世界の殆どでは最早ネタ扱いされていたかもしれないが、そこから見返すと、会田も隆も所詮アンチモダニストのポスモキャラでしかなかったのである。それをのりこえ普通に純粋美術ってまじめに進んでいるのだ。
 だからこういえる。会田も隆も純粋美術じゃないよねって。それは精神論なら無論だけど、それだけじゃなくて理論的な視座についてもそうだ。パロディとか漫画(おふざけの絵という、本画に対置された形容)だよね、超平面とか中間芸術でしかないよね。純粋美術って他にあるよね。まじめな絵もあるよね。
 それと相似の観点から、小田野も神戸智行も本画なのに間違いないが、チームラボって微妙だよねっていえなくもない。客寄席商売かよといわざるをえないなんともいえない中途半端さ。多分、猪子氏はそういうつもりじゃないんだろうけど、行政とつるんで橋とかライトアップしてる光のアーティストっぽさ。
 恐らく原因は、チームラボ自体が株式会社で、利益追求を宿命づけられてるから、ガチですばらしい物を利益度外視で極度までつきつめていく、伝統的な画家の工房風の本気さが感じられない所にある。こんなもんでしょ、的しあげ。流石に狩野派も、SANAAもダヴィンチの画いたヴェロッキオの天使も違った。
 カイカイキキですら、売れない映画で潰れかけたか倒産の危機にあるくらいなわけで、僕が現場みた感じ、多分形としては株式会社なんだろうがSANAAの本気度とか普通ではない。千個も二千個も試作品の模型、僕も作らされていた。一個の適当にみえる線仕上げる為どんだけ試行錯誤してるのとしかいえない。
 これも(よかれあしかれ人づきあいが広いのでしょうが)モギケンがどれかの動画かラジオでいっていた、猪子さんはよく遅刻してくるだけじゃなくて、対談中とかに突然喋らなくなって1分後とかに口開く。僕は実作見た感じ、彼の性格が適当なのが根底にあると思う。純粋美術の本気度に接近できてない。
 ラフさ、一見しての雑さってのは、寧ろわざと作り出す場合が殆どだ。僕がウォーホルの色々な巧さの中で一番関心したのがそれであって、実作が必ず決めるべき所とそうでない所の落差が絶妙なバランスになっていた。弟子にやらせていた作業部分はただアメリカン製品だが、全体をよい感覚で押さえてある。
 チームラボも映像で制作風景みるかぎり、社員集団が実質データ作ってる物の様だが、最終的な仕上げ部分の厳密さみたいなのがブレブレなのである。この点がウォーホルと全く違ってこの質でよく世界に出て行くな、と逆に僕がびびった。だって本当に凄い作品の精度を知らないのに死ぬのは目に見えている。
 完成度の高さでいうと、ダヴィンチ『白貂を抱く貴婦人』が国来たときみたが、殆ど一部の隙もない。それは僕的にはウォーホル仕上げの合理的たくみさに比べると逆に、レオナルドの神経質さ凄かった証という風にしか感じなかったが、少なくとも、どちらも或る純粋美術の基準を超えた落としどころにある。
 しかしチームラボ作品ってそういうのでは、一から十までない。寧ろ文化祭に毛が生えたものである。本当に。なんで東大の人が応用美術制作に参加してきたかと思えば、俺たちならできる的な過信に他ならなかった、僕が事前に予言しておく。彼らには無理である。だって本気の純粋美術って命懸けなのだ。
 試しに春草のマスターピースのうち一個でも実物ふれてみるがいい。夭逝した彼がいかなる気迫で、画布に向かっていたか、即座に感じ取れる。それは調度宗教的な次元であり、今朝描いた五浦の美術院研究所でこちらをみている座禅が正に彼の原点だ。要するに、絵に魂を捧げているから全身全霊さが伝わる。
「アートなんて、ちょちょいのちょいっしょ」的なウェーイ系からは、現代アートと呼ばれるインスタレーション(仮設)だらけの現状、筑波大の某学長補佐氏もそれなんだろうけど、簡単に参入できる障壁が低いだけの感覚的アーチストごっこ世界にみえなくもない。でも全然そうではなく、魂の試合がある。
 一般人が、愚かな日本人の墓こと『idiot JAPONICA円墳』にこんなのアートじゃないといったり、『遠近を抱えて PartⅡ』天皇踏み絵にふざけんなという。『焼かれるべき絵』で公金詐欺を訴えるという。これらも、所詮は魂の試合である。尊い魂ならばそいつが勝つ。芸術は、純粋美術は魂の映し絵なのだ。
 美術手法の全ては、所詮、大観がいう通り、精神を写し取る手段に過ぎない。人格が勝手に絵に表れる、これは凡そ本当の事で、僕らみたいに子供の頃からずーっと日常の大半を絵みたりかいたりに使ってると、一瞬で作者の人柄とか透かしとれる事になる。純粋美術かどうかも直感で相当部分わかる事になる。
「アメリカで一流とされるクーンズもおふざけじゃない? それに、リヒターの不定型ぶった絶望系ポスモアーティスト精神論こと闇雲しぐさならまだしも、ハーストの薬物中毒ネタの点々だか、その桜バージョンだかにどんな精神があるっていうんだい」
これらも所詮ポストモダン論にすぎない。
 純粋美術は、ポストモダン仕草で停止するものでは毛頭ない。抽象表現主義で米美術が終わって永遠に、全画面(オールオーヴァー)にべたべた色塗りたくってりゃアートでございとはならない。その先に進もうとしてもがいているあらゆる本物純粋美術家らのうち或る筆先に、漸くどこかに突破口が見つかる。
「もう商業アートでいいじゃん、だから株式会社にして、画廊やプレスに交渉し、俺は一流アーティストなんだよ!」とかいわれても、井田幸昌の面白い点って超平面理論を否定しインパストの極端な抽象画かいてる点でしょとしかならない。商業要素は副次的なもの、ゴヤの本画が『我が子を食らうサトゥルヌス』だった様に。