フェミニストの論理を使ってる男のうち、基本的に男性性的男性を貶めるという文脈でそれを用いることが多いのは、いわばなんらかの雄性形質とか、文化面での男性的徳を無視させようとする点で矛盾している。性差の多様性に当然、ある典型的性差を持つ性も含まれなければならない筈なのだが。
例えば勇気、正義感の強さ、進んで責任を取る態度などは女々しさの逆、「雄々しさ」と呼ばれる男性性的徳と関連づけて論じられる傾向にある。女傑もこれらを伴う場合があるが、英雄的・女傑的徳目はいづれにしても、この世界の道徳を考察する上で無視できない。しかし一部フェミニストはそれを貶める。
中性的であったり、曖昧な複雑さを伴う諸性差が、すなわち典型的な男性性的徳目とか、女性のそれを否定する代物である筈がないのだが、現代フェミニズムは性差自由という名目で、性差と性別が一致している場合を多数派として敵視する論理を使い易い。この論理は単なる疎漏だ。
全く同様に、典型的な女らしさを伴う女性、例えば貞操、お淑やかさ、細やかな気遣いなどだが、これらの特徴も、現代フェミニストは攻撃対象にし、逆にそこからの解放として阿婆擦れ(淫乱)さ、不倫を省みない奔放さ、また家庭に縛られない仕事中毒度を伴う女性性を強調してひいきし易い。
確かに女権論から離れてフェミニズムが社会学的考察対象になった頃にはそれにも意味があったのかもしれない。結果、両性の性別役割分業から人々を解き放つ途中では、なんらかの極論で無知を啓蒙する必要があったのかもしれない。だが性差と性別にかなりの組み合わせ幅がある今日では狂気の沙汰である。
真に性差を尊重するとは、ある人がその時代、その集団で典型的な性差だろうと、それ以外だろうと好きに選び取れることにすぎず、特定の典型的性差を侮蔑したり攻撃したりすることではありえない。また或る典型的性差を帯びた性別の人が、肯定行動(と呼ぶひいき)の名目で差別されるのも不合理だ。