2020年7月17日

独創・模倣帯域論

ソウル・フラワー・ユニオンって人ら(今Spotifyできいてみてる)も宮廻正明みやさこまさあきという芸大教授もAftab Tuhinという写真家(なんだろう多分)も今日ツイッターで知った。
 タンブラーやピンタレストにも拡散されてたこの写真、バングラデッシュ、Chittagongで撮影された少女らしい。
(引用元、タンブラーピンタレスト

 美術手帳でも特集されてたが(「合法と違法の線引はどこに? 現代美術のアプロプリエーション」)、米国だとウォーホルやリキテンシュタイン辺りから特に、ピカソ・ブラックらのコラージュみたいなのを超えて、直接的な流用の度合いが高い物の美術的文脈化って行われてきた。
 しかし日本語ツイッター民の世論をみてると、欧米系美術では既に疑義されて久しいオリジナリティ(独創性)信仰が現役で生きていて、流用(盗作)系アートをみると「パクリ」といって、ピカソ発でジョブス、バンクシーらが流用した某名言「偉い芸術家は盗む」全否定にかかる。
引用元。オリジナルはバンクシーのサイトから削除済み)

 僕がみるに、みやさこ作品も十分に流用の基本要素を満たしてるから、仮に米国で裁判したら勝訴するだろうと思う。なぜ著作権法で認められた二次創作に許可が必要と、彼がインスタ発言で考え直したか分からないが、普通に同人誌などでは無許可で原作を翻案し、大規模にフェアユースしているわけである。
 ソウフラ側は、アフタブ氏にカネ払い原作を使わせてもらった。それはいいだろう。だって原作そのものを勝手にタダで売り物にしてたらそれは美術用語でいうappropriation(アプロプリエーション。日本語訳は未確定だが仮に流用、盗用、盗作)ですらなく、唯の盗難である。が、みやさこ作品は二次創作だ。
 又、彼が日本画系の芸大教授、しかも院展系だった点が興味深いので、僕はこれらをネタに朝方、二次創作した。
 なんでかというと、日本画の伝統にも流用・盗用・盗作の系譜ってあって、絵画には(日欧で常識的に)模写なる代物があるが、模写どころじゃなくて同一画題の反復だ。短歌でいう本歌取り。

 以下の物は同一画題の反復、すなわち日本版の流用・盗用・盗作、アプロプリエーションの系譜だ。最後のは僕が2009年に描いたやつ。ほかのは順に、宗達版、光琳版、抱一版。



著作権以前の世界だし切れてて当然アリなんだけど、二次創作も同じ理屈。
 今朝描いたこれ。
風神雷神図あるいは宮廻正明みやさこまさあき『銀河鉄道』 とソウル・フラワー・ユニオン『死ぬまで生きろ!』ジャケット写真からのappropriationアプロプリエーション
『風神雷神図』の日本画系譜からいったら、二次創作に於ける流用・盗用・盗作・アプロプリエーションって昔から本歌取り的な技法としてあったのに、何を今更驚いてるの、という意図がないとはいえないかもしれない。
 なぜ素人が騒いで慌てるのか。意図して流用してないのかと?

 又、次の観点もある。
 そもそもプラトンとその弟子アリストテレスは、特にプラトンは『国家』、アリストテレスは『詩学』で、詩人や画家について論じる中で芸術家の仕事を模倣(まね、ミメーシス)だとしていた。世界の模倣可能性を拡張したのが、漫画や雑誌、商品をコピーしたウォーホルらだった。
 芸術の本質が真に模倣かといえば、自分はそれは技全体の要素だと思うわけだが(現代の美術用語でいえば再現芸術については一部そういえるだろうが)、要はダヴィンチが画家はあらゆる物を模倣できなければならない、と手記に書き残した様な、神の創造の模倣者というのが伝統的美術家の立場だったのだ。
 風景画は自然を作ったのが人ではないからまぁOKとして、現実には里山だって海岸線だって河川や山林のかなりの部分も人々が作ってるし、微妙な点がある。人工度が高い代物、例えばスーパーの好きな商品とか、トヨタ広告ポスターとかをまんま複製したウォーホル、クーンズらは商業製品の模倣者だった。
 んじゃ、杉本博司って何者か? 自分が知る限り彼は重要な近代建築をわざとぼかして撮った写真が、最も流用的な作品だったと思う。サヴォワ邸そのものに相当の独創性があったとしても、リヒター風にぼかすことでその模倣そのものを否定するポストモダン仕草ネタ(あんまおもしくない)がある写真家である。
 村上隆もDOB君に関しては、いわゆるミッキーのどぶねずみ版と解釈でき、彼の著作(『起業論』の方だったと思う)から推測される範囲では、滞米中にNYの地下鉄でみた肥え太ったドブネズミに芸術用語でいえばインスパイアされ、俺もミッキーよりタフになってやらぁ、但しマンガでな、ってキャラだろう。

 ではカスラック的なものは一体どこから出現したのか(カスラックとは、著作権管理団体であるジャスラックが、高々近所の個人音楽教室がクラシック使用するのにすら課金したがる様な過度の規制をしており、それへの恨み節からきた「カスみたいなジャスラック」のかばん語と思われる俗語)。
 著作権を一番美術界で強く主張してきたのってディズニー社である。THE商業大衆美術。売り物を勝手にパクるな、という訳なんだが、いわゆる純粋美術(ファインアート、fine art、立派な芸術。完成された芸術)の文脈でそのネタは通用してない。
 音楽でいうとミクスチャー、リミックスみたいな手法があって、原作に対する何らかの再構成が評価される文脈って、DJ文化などから常識化されてきた。更にはYouTubeやニコ動で歌ってみた系とかMAD動画など、より広く原作の二次創作に余地が生まれた。独創性信仰ってそこでは制作全体の要素なのである。

 ではなぜ、絵画分野でだけ、かつ日本人素人だけ、やたら、パクリパクリと騒ぐのか。音楽なら初音ミクが許可なしに名曲歌って市民権得てるのに? 結局それって、彼らが欧米系アートも日本画系アートも無知で、多分、マンガかアニメしかわからないからなんじゃないか。いわば無教養、ロウブロウさで。
 恐らく文芸でも、小説(又は昔ながらの言い方なら物語)の方は、詩に比べると本歌取り的な文脈化が十分にされてなくて、模倣性~独創性の全帯域のうち、模倣度が高い部類になんらかの著作権商法的なカスラック判定をしがちではないだろうか? 実例はまだ知らんけど。『1Q84』なぞ『1984』流用なのに。

 更につきつめると、それならなぜ、日本のマンガアニメとそのファンら(すなわち一般化すれば「日本語圏オタク」)、あるいはTHE美術史的な造詣のない一般大衆(つまりは「日本語圏美術素人」)の間でのみ特に、独創性信仰が過度な形で残ってしまっているのだろう。
 恐らく原因は子供向けの商材だからだ。
 マンガアニメファンの知的水準は、極めて大雑把に分類するとだが、主に大衆中でも半分以下の一般知能の人達で、大人になっても児童向けの低俗(無知でも分かり易い)商材に夢中なくらいだから、ハイカルチャー側の常識を一切しらないのだろう。アプロプリエーションなんて初耳だという事なのだろう。
 音楽や詩の場合は、流用文脈が大人向けで確立されてきた経緯から、美術の日本語圏素人や日本語圏オタがツイッターや2chまとめサイトなどで毎度発狂するみたいな意味不明な事態がなかなか生じづらい。思うに東京五輪エンブレム問題に巻き込まれたデザイナー某氏もその独創性信者らの犠牲者なのだろう。

 では、一体その日本国内外の純粋美術と、国内限定のオタカル・美術素人のとんでもない落差について、我々はどう対処していくべきなのだろうか?
 隆スーパーフラット説みたくごった煮で、あるいは津田あいちトリエンナーレ2019キュレーションみたく炎上商法化しときゃいいんだろうか?
 僕はなんかそれらって場しのぎと思う。

 プラトンとアリストテレスのうち、プラトンはこの世の模倣者としての芸術家を無用な物としたが(厳密には、事物なるイデアの影を更に模倣する劇作家・美術家は、イデアを語る哲学者に比べて質の低い偶像制作者でしかないとする再現芸術否定論)、アリストテレスは寧ろ事物の本質を現わす者と定義した。
 アリストテレスによると劇(当時の言い方なら詩すなわち創作、作り事。ポイエーシス)とは、ありうる筋の再現で、民衆の感情を浄化するもの。喜怒哀楽で登場人物に共感しつつ、この世でありうる死生観に、創作の意義をみいだす点では、紫式部が『源氏物語』乙女で光源氏に語らせた物語論に似ている。
 彼らプラトンとアリストテレスの立場は、美術、ここでは特に絵画とは、プラトンにとっては当時しられていたのは具象絵画(再現美術)だったので高々偶像制作にすぎず、アリストテレスや式部にとっては創作一般が再現性を通じ人間の本質を浮かび上がらせる民衆娯楽的、あるいは学習教材的なものだった。

 では現代美術、現代芸術のうち(日本語で「美術」は一般に音楽・絵・彫刻・建築・文芸等が基本となるファインアートの訳語で、大衆的、商業的な民芸もしくは技術・工学、教養の意味など応用範囲がある広義アートの訳語たる「芸術」と専門的には峻別される事が多い)、現代絵画はいかなる意義があるか?
 ここで問題になるのは、近代には抽象画が出現し、プラトン的な偶像制作をのりこえたという点だ。そこでは言葉による哲学的な探求と同様、イデアそのものをより直接的に表現できる。それどころかタイトルが『無題』の場合にみられるよう、視覚表現でしか認知できないイデアに接近している場合すらある。
 またアリストテレスや式部の場合も、飽くまで再現的な手法を前提に、作り事(特に言語芸術の場合だが)を語っていたわけだが、同じ原理を絵にあてはめても、彼らは抽象性の高い代物を対象にしていなかった事になる。アリストテレスは舞台演出に視覚性絡めたり、式部は作中に絵巻物類も登場させてるが。
 という事は、近代以後の絵画論として、現時点では再現的な模倣に焦点を絞っては語りえない事になる。逆に例えばウォーホル『キャンベルのスープ缶』は商品の模倣、かつ平面上への(幻想的な)色彩配置による再現なので、寧ろ(グリーンバーグ説で考えられていたのと逆に!)伝統的系譜にある事になる。
 こうしてみると、リヒターはノートでウォーホルを中くらいの作家と評したが、それはリヒターが考えたようウォーホルが伝統美術家の無意味さ(過去の今更どうでもいい様な手法体系。例えばモチーフの暗喩みたいな事)に関わらなかったからではなく、ウォーホルが単に「古典的画家」だったからなのだ。

 一方、日本語圏オタと、同圏美術素人のロウブロウさは、先ず彼らが受けた明治時代的文脈に致命的な問題点があったと示している。
 黒田清輝が芸大にもちこんだボザール流の写実は、単に西洋の再現的伝統を植えつけるものだったが、逆に民間に流入したのが、高い独創度を主張していた印象派らだった。
 更に戦後、岡本太郎なる流行作家が出たのも影響がある筈。彼はピカソの精神的追随者で、独創性が芸術の本質だと主張し、かつそれが単に感性論・感覚論のみで受容されるべきだと高唱した。恐らく母・かの子が知識人で、自身が育児放棄気味にされた私怨への反抗、反知性主義は劣等感の裏返しだったろう。
 平成期の2009年に発売された『ドラゴンクエストIX 星空の守り人』でエルシオン学院の或る生徒が、岡本流の感性論を美術の前提として(冗談ではなく、至って真理だという口調で)語る場面があり、いまだ日本語圏の大衆次元で、ロウブロウな感覚論が美術創作・鑑賞の態度として主流になっている一証だ。
 しかも美大芸大の落ちこぼれの様な商業漫画家なる売り絵描きのうち、殆どが美術的造詣を持っていないとは実際には奇妙な現象だが(玄人はだしを人気投票で選好しているアイドル抜擢風の少年雑誌制度自体にも原因があるのだろう)、日本語圏オタも、美術素人も、印象派級の独創信仰を現役で持っている。
 例えば美術側だと、デュシャン『泉』以後にはっきりと既製品の文脈が発生し、ルネサンスの万能人らによって再興されたものの古代ギリシア哲人らの時点から元々あった独創性への疑義が限界まで推し進められたのが、ここで懸案になっている流用・盗用・盗作、即ちappropriationの文脈なわけだ。
 現実には、独創~模倣帯域にはもっと複雑な要素が絡んでくるので、単純に白黒の間のグレースケールで語りえないが(アフリカ彫刻からの流用者であったピカソは、模倣先を知ればさして独創度が高いといいがたくもなると共に、挿入要素スキャンダリズムによる売名名手だった様に)、美術は二元論でない。
 日本語圏オタと、同圏美術素人は、
1.感覚創作・鑑賞至上論
2.独創信仰(独創と盗作の二元論)
という極めて独自進化した、世界的にみれば特殊な認知をもつ集団である。
 美術側で1についてはじめからその要素でしかないし、2については古代から根本的に疑義され続けてきた態度でしかない。
 現実の芸術・美術創作やその鑑賞は、彼ら和人オタ・素人系の独自ルール外でその過半が営まれているので、玄人又は専門家としては基本的に無視すればいいと私は思うのだ。大向うの意見と違い、美術(史)的な意味をもっていない為、和人オタ・素人が客な一般漫画家にしか意味をもたないともいえる。

 ここで問題なのは、院展系の芸大日本画教授ともあろうものが、なぜか二次創作を許可なしに描いてゴメンちゃいとか言い出しちゃった事の方にある。彼の態度は、いわば美術文脈(ハイブロウ)を自分からマンガ文脈(ロウブロウ)に置き換える態度であって、まず全くの謎としか言いようがないではないか?
 こういう道理で、自分は今朝、一計を講じ、さっき出した作品をむかし描いた風神雷神図の流用版(2009年の『雷』)と又別個に描いたわけである。
 なんでかなら、事件自体を文脈化した方がいいなと思ったからだ。
 流用対象が世界全体であればこそ人は創作できるんだから。基本色だって既製品だし。

 物語風にまとめよう。
 これは唯の神話だけれども、神という創造主がいると仮定し(擬人化なしに現代科学的には自然現象としてもいいが、簡便な説明の為)、その神はヒトも創ったんだから、ヒトの作り上げた人工物、芸術の全ても所詮神の掌の内。即ち超広義で自然である。それを模倣し何が悪いのか?
 ここで出現してくるのが、ディズニーという男である。この人は、版権とかいいだし、自作の模造品を潰しながら工房を会社化し、金儲けで彼の夢の国ディズニーランドまで作っちゃった。中々の玉なんだが、その瑕もでかい。彼の駆動も主力だったと思うが著作権が成立し、創作自由度が極端に下がりだした。
 元々、著作権がなかった時代の画家達って、自分から巨匠の工房に入って巨匠の画法のコピーをしていたのである。仕事だから。つまりは模造役。純粋なパクリ。それが叶わないと、教会や博物・美術館で巨匠の作品を模写して修行したりもした。自然を直接模倣せよとダヴィンチは書いたが、コピーも一般的。
 もし和人オタ・素人が歴代画家の修行みたら発狂で顔真っ赤に怒り狂い、もしくは陰で「あちらさん石膏デッサンしてはるで」とか京都弁でいいだし、フィデアス(Pheidias)の独創性を前提に全力で匿名ツイッターに紛れつつ口汚く集団攻撃したと思う。僕だって高校の頃ミケランジェロの模写とかしてたが。
 バンクシーってディスマランドとかいう恐ろしくイギリス的に趣味悪い、ゴシックの極みといえる様な、皮肉と嫌味で埋まった紛い物プロデュースしてたが、そんな事いったら、ウォルト・ディズニーじゃなくて鈴木ランドか雄介ランドでもつくりゃいいのか。それが君らのいう独創性なんか。疑問でしかない。
 日本画の巨匠らだって同じだ。なんで宗達のオリジナル(現時点までではそう信じられてるが彼だってなにかを素材に模倣していたのに違いない)に対し、光琳や抱一までそっくりなの描いたか。僕は画家さんだから多分よくわかるけど、あれって憧れもあれば、普通に学習したいから描くんですよ。模倣論で。
 そこらの和人の子供が、僕もそうだったが、ドラえもんだの今でいやあ鬼滅のなんちゃらだか、当時のマンガキャラをテストがすぐ終わって試験用紙の裏の空白に描き出すよね。それは模倣である。それにぶちぎれとるのが君ら。
 模倣は芸術の明らかな一角なんだが。再現芸術って。なんで著作権で模倣が制限されうると?
 著作権なんざ後づけで芸大くんだりの有識者ぶった素人あがりが偉そうに文化庁に出向いていって、必死になってダヴィンチとミケランジェロの模写してた若きラファエロを完全に侮辱しているのである。彼がいかに遠近法や、人体の肉付け技術を見習ってたかなんざ、ディズニー如きにゃ永遠に分からぬから。
 「飽くまで販売用ですから。ダメなのは。私的に模写するのはいいっすよ」とか言い出すでしょうか?
「二次創作の権利も利益折半が原則で一応かきこんであるんで、そんなにカスラックにぶちぎれなくとも」とか。
 それいったら日銀が大好きなプニクロなんざパタゴニア・フリースのパクリ安売り会社だったじゃんと。

 結局。最終結論。先ずオタと素人はロウブロウ・無教養系なので基本無視に限る。いってること(反知性主義的な感覚至上論、独創信仰)がおおよそ理論破綻してるんだから。
 著作権厨も所詮ディズニーの回し者って点が拭えず、究極で美術はその人達の商業的陰謀をのりこえてきたので、模倣可能である。
 クーンズのトヨタ広告の絵。ROOOMY!とかいうやつ、あれとかほぼ完全に現物のコピーである。(1983年の絵"New Rooomy Toyota Family Camry"
 独創度がサイズ拡大くらいしかなくてほかは丸パクリだが、訴えられないからアリになっている。これがガチ系模倣美術流儀なわけだ。
 模倣度が99%くらいで、独創性がコピーミスくらいの代物でも、ギリで創作とみなせる。中国のコピー絵画村みたいな感じ。結局そこって、著作権厨との具体的な裁判バトルを前提に文脈作りしていく世界である。
 究極、裁判での勝敗も、ウォーホルの『花々』すら賠償金で負けてんだからあんま関係ない。
 そんで、独創信仰の方だが、例えば新造形主義なんざ、モンドリアン自身が全人類は当然かれを模倣するもんだ位の主張で、純粋美術として独創を全否定している。完全コピー可能な点にこそ意味がある様式論だった。
 という事は、著作権厨の謎理論って、所詮、商売の都合なのである。嘘抜きで。
 例えばアイフォンの丸パクリをホンハイがオリジナルぶって売り出したらアップルは本気で訴えだすと思うが、そういうブランド的な囲い込みの為、商標があるわけである。全く同じ観点を、創作全般にあてはめようとしたのが著作権厨なんだが、色自体が既製品で理論的にはほぼ破綻してんだから唯の政争だ。
 メロディも俳句も有限のくみあわせなので、可視光線の帯域のいづれかを盗作した、と理屈の取り方によってはいづれの絵画創作も訴えられうる。したがって相手が著作権厨であれオリジナル(独創)厨であれ、政争で勝っていく、もし負けても進歩的な創作手法に関しては譲らない、すなわちその根本で、なんらかの観点からの模倣への唯の妨害にすぎない諸々の難癖を原則無視していく事が、美術的な王道だというのが今日的見解かと思う。

 最後の最後に自分個人の見解を置く。
 模倣・独創の帯域がある意味は、創作の観点に自由度(ステアリングでいうあそび)がある方が、望ましい表現を穿ち易いからだとしかいえないと思う。政争が面倒なら死後に発表される形でしまっておけばいいが、公にして同時代文脈化するのも、構想次第かと思う。