上野千鶴子がいつもの調子で老人男性の性をディスってたので東浩紀がブチギレそういうのは下品、不正義とかいってた(2020年7月13日の午後1時14分頃から午後3時48分頃まで)。
上野が性表現に直接的なのは多分性格で周りはそれが女らしさからの解放との理屈汲み接してるだけで、下品さの質でいったらあいトリ不自由展アドバイスもオタク文化も随分と思う。
それで村上春樹や石原慎太郎、紫式部みたいに、普段から性表現あからさまにしてきた下品人間みたいなの。
周りは眉顰めたり吐き気したり嫌な連中だと迷惑がってたのに、淫行ごり押しで大儲けしてた人らが、晩年とか老衰とかで「ざまあ」「痛快だ」ってなるのってどの時代どの国でも大体同じと思う。
姦淫小説ばらまいた因果で式部は晩年不幸になった説を、秋成が『雨月物語』序に書き残したのって、要は過度に性的奔放な人って一種のシャーデンフロイデの前提となると示してると思う。多分、大食いとか成金、成り上がりもそうだと思うけど。煩悩独占に傲慢だった分だけ、周りに落とされる時は早い。
あと上野千鶴子って、自分は著を直接読んでないから深くは一切いえないが、式辞とかネット上の当人の言説だけみる限り、物凄く一典型的な欧米輸入学的な現代フェミニズム(故に女ひいき・男差別の偏り方が半端ない)を論じてる人物の様にみえるんだけど、性的奔放度でいえば娼婦に絶対勝てないでしょ。
僕が思うに、綿矢りさとか少し前だと山田詠美とかも多分そうなんだろうが、文系女みたいなのが性的奔放ごっこするのって本気で意味がわからない。それって式部以来の不良ごっこ、もしくは妄想阿婆擦れ文壇芸者ゲームであって、本物の娼婦が書いたの読むと大分違うなと感じる。森下くるみの読んだけど。
リアル娼婦がどういう人生で、何考えて何してきたか、生い立ちから内面の叙述とか読むと(これ自体、過去の国内文芸に記録ないから人間理解として大変興味深かったんだが)、いわゆるごっこ系の文芸者ってほんと幼稚といおうか妄想で淫行書いて威張るのって下品の極みというか京女流儀の悪習だと思う。
それと全く同じで、上野千鶴子みたいなフェミニストがいってる阿婆擦れ風の言動も、完全にガチ淫乱をなめたものというか、本物の娼婦側の言説ってユーチューブとかツイッターとかブログでもうみれるわけだから、全然違うんだってのはすぐ分かる話である。大半は、表面的淫乱さ自体、普通に演技である。
今まで式部みたいな下品人間が書いてきた女の淫乱さって、いわば最近の言い方でいえばオタ腐女子の妄想で偽物であって、本当に淫乱生活でカネ儲けてる人達って、そういうのあんまり楽しげというか全然そういう文脈に書いてないのである。演技してたわけで当たり前だが、つらかったみたいのが多いのだ。
娼婦のチューバー、ツイッタラーとかふえてるわけだが、その人達のある一人は「性行為が嫌い」とまでいっていた。それなのにそれを若いころ商売にしてたのは単純に遊ぶ金ほしさだったと。じゃあ綿矢が『夢を与える』『インストール』で描いてる様な娼婦落ちネタみたいのはなんなのか? 完全に芸者芸。
もう少し詳しくこの問題を考えよう。
例えば東京の文芸誌文壇って、支配階級は大手出版社の文芸誌担当である。この人達、売れない本を担当させられなにしてるかといえば箔づけゲームである。で辛うじて売れる方がましだから、適当に学歴とか話題性とかで作家志願を売文芸者として拾い上げる。
僕がみてた感じ、川上未映子が登壇したのもまさにその種の担当の抜擢によるもので、半ばビジュアル系で採用した様なもんであろう。五万といる作家ワナビーと全然違うところから話題性、売り方で編集者が恣意的に択ぶ。そこにあるのはどろどろとした政治的人間関係で、僕が宇宙で一番嫌いな世界である。
例えば僕と全然違う性格の作家、某京大卒の小説家さん最近ツイッターに出張ってますけども、2chにいたぽかったときはタヌキ顔で「ですねぇ~w」語尾の固定ハンドルだった説はさておき(例によって当人とは言っていない)、この人なんざ手紙を編集者に送って新人賞回避した如何物出世マニアである。
つまり菊池寛が芥川に嫉妬しまくってヒネタ随想残してる頃から、太宰が芥川賞頂戴ってストレートなお手紙送っても悪役川端が嫌がらせでベビーフェイスの芽摘むべく落としたり(春樹を大江が落としたのの前座)、逆に村上龍が綿矢金原絶賛しアイドル化させたのとかも、全部東京文壇何も変わってない。
もっと本当に無限にある。石原が三島のストーカーしてコネデビューさせてもらうとか。売れっ子漱石を正宗白鳥がディスってくそつまんない私小説=純文学公式を編み出し独自進化開始とか。詩でいっても雨情と啄木の北海道新聞での絡み(一緒に主筆排斥運動で挫折後放浪)とかも僕的には興味深かった。
この死ぬほど狭い東京文壇という世界があって、僕はそこが宇宙で一番くらい嫌いである。なんでかというと全員ズルだからである。でも、その腐った淀みみたいなのに媚びないとデビューできませんよ、でも舐められない様にネ、と書簡でいったのが漱石で、その通りにした芥川なんざ最終的に自殺択ぶのだ。
こうともいえよう。絵でいうサロン(公募展)世界と相似だと。正確に言うと銀座画壇みたいなのが背後にあって、頂点は日本芸術院に繋がるピラミッド構造みたいの。文芸が違うのはその上に、プロビデンスの目としてノーベル文学賞が設定されてることである。ここでも推薦状必要ゆえ文壇政治ゲーがある。
何で春樹が文壇政治ゲーで敗北したか。彼は最初からそこに離反してた、部外者の不良だからである。それで米出版社の方に接近、向こうで自著を売ってもらう契約で、逆輸入式の権威づけゲームで欧米崇拝の日本人を煙に巻いてきた。だが国内から推薦状がとりつけられない以上、最後の一歩で進めないのだ。
一般人は全く知らないであろうけれども、その文壇サロンで仲間から陰湿な相互監視の中でベストの評価を受ける為に、あらゆる政略と文芸誌面での権勢による謀略のかぎりを尽くす、これが東京小説屋の世界である。
僕はその詳細までガチで覗きに行って余りに汚いのですぐ離れた。俗世の中の俗世だ。
自分は他に建築界の方も、かなり深部まで覗きに行った。こっちは僕は全然ましだと思った。なんでかというと、建築家の皆さんって基礎教養はしっかりあるのだ。建築士取る最短ルートは、主に理系の院(最低修士)まで行くことなので、大抵プロはそこを出ている。足きりされてて人格破綻者が多少少ない。
建築界も、文壇みたく同業組合じみた狭い業界ゲームやってるのは同じなんだが、そこではかなり生真面目な、純粋に技術的な要素を含む知性主義が優越しており、僕はずっと観察してきたが、正直な所、基本的に立派な人達だという尊敬の念をずっと持ち続けてきた。それくらい文壇とは違う。間違いない話。
世間的には建築家と小説家ってそう違いがなくみえるかもしれないけれども、僕(元々画家目指した茨城生まれ東京育ちの或る男)がかなり直接そういう部類の人達をできるだけ詳しく比較しながら間近に見てきて、はっきりいって天と地ほど違うといえると思う。小説家って人格的に相当破綻してる連中だ。
日本人建築家ってプリツカー賞(建築界でいうノーベル賞くらい凡そ一番有名な国際賞)を今の所、世界で一番貰ってるわけだけど、あれって彼ら日本人建築家の皆さんが本当に真面目で真剣に、いい建築(時に職人からは疑問がある前衛的な代物)を全力で作ろうとしてるからで、彼らは尊敬されて当然だ。
こうともいいかえられる。最初に建築士制度を導入した田中角栄(なお僕の祖父も第一号の一級建築士だったのだけども)、丹下辺りから戦後復興を担ってきた皆さんは、全ての工務に携わってる人々と共に本当に敬意を表するべき人達で、僕がどんだけ詳しくみても彼らは普通に馬鹿真面目な人達だったのだ。
姉歯建築士という人がいた。あの人がズルしてて大騒ぎになったのはなぜか? あれって日本の建築士の平均モラルが普通に(小説界とか商業界と比べても)尋常じゃなく高いので、罰則とかで脅さなくてもあのひと以外が自分からルール守ってたのである。業界が狭いから一発アウトになるし逸脱不能である。
裏を返せばこうともいえる。日本の(東京のも含め)建築界って、登場人物の奇人変人あるいは無道さでいうと(ある意味では頭の柔らかさともいえるが)同等の文芸界とか美術界と比べたら、ものすげぇ真面目君なので、かなり質が違う分野である。半分は工学だからその点、通り一遍の芸術界ではない。
で、そういう周辺分野からみて(ここでは音楽界を除いたが、半分芸能界に足踏み込む必要があるから複雑になりすぎるので別の所に分析は譲る)、東京文芸界とは、一言でいうと人間の屑のたまり場になっている。何しろ小説メインな時点で嘘つきしかいない。うそを仕事にしている。しかも陰湿すぎるのだ。
なぜそうなってしまったか? 原因は田山花袋に遡れる。当時の明治文壇で、『蒲団』という今でいうオタクのロリコン同人小説みたいなのを書いた。これがツイッター民みたいな連中からイイネ15万とかついて大炎上した。東京ならどの時代でもありそうな話だ。これ以後、私小説とは告白文芸になったのだ。
告白する内容が、人の汚さ、醜さ、恥ずかしい部分を曝け出してるほどそれはいい小説だ! みたいな流れになり、東大卒の漱石先生なんざ売れてるだけであんなのお遊びでダメだよ、俺らうれねー私小説家こそ真の純文学なんだ。弟子の芥川もダメ、こいつも東大でクールぶってるが、お遊び物語だとなった。
後世の僕としては芥川と漱石の方が遥かに(最高とは言ってないが、比較して)優れた純文学と評さざるをえないとしても、その後も東京文壇の主流派はずっと私小説の愚図愚図したネチネチした告白小説のままであり続けている。その追随者が又吉なのも例外ではない。そういう流れが王道なのが東京文壇だ。
そんで、春樹は最初からいってるが、そういう私小説が嫌いだった。晩年には妥協したのか芸の幅広げようとしたのかそれ以外か、告白文に近い様式も試しだした様にみえなくもないが(湿っぽく父を語るとかね。まだ読んでないけど)、本当は、彼の持ち味は初作に結晶されてる異端的な客観味なのだ。
んで、じゃあ何で女作家が、東京文壇だと、揃いも揃って中途半端な淫乱妄想書きつけるの? これ。彼らが単に人としてダメだからなのもあるけど(だってそれよりはまだ上品な人って別にいますからね。試しに今上上皇后の歌集でも読んだらいい。元民間人だ)、そこの流れが私小説礼賛だからなのである。
私小説がTHE純文学なんだよ、って思い込んでるのって、ほんとの話、全宇宙で日本人の一部だけである。だからガラパゴス進化の文化多様性として保護運動した方がいいのかもしれないが、その為に作られたのが芥川賞で、菊池寛が真の純文学でさほど売れなかった親友が自殺したから設けた餞別の売文賞だ。
一見真面目そうな美少女が、こんな淫乱小説を……うげへへひい、みたいな。そういう卑しさを楽しめるとか、ガチの話、東京都民の過半くらいだと思う。僕はそういう下衆の仲間になりたくもなければ、本当に軽蔑に足ると確信して、西新宿の交差点で偉そうにしていた石原慎太郎をわき目に渡ったのだった。
せめてね、淫乱さを書くとしても、当人が実体験として持ってる範囲で素朴なのを書くとかならまだ分かる。金原ひとみの最初のとか吐き気なしには読めなかったが、その部類だと思う。それも下品さではいかにも龍がすきそうなので酷いが、気持ち悪いのは妄想淫乱ぶらないと小説家じゃないみたいな態度だ。
大体、こうともいえると思う。女作家なら淫乱模様を描くものだ、みたいな東京文壇の雰囲気。それが僕は本当に近づきたくねぇ信用ならない嘘つきどもだなという感じで甚だ嫌いである。東京女の悪い面を結晶させている所に、京女の一番下賎な所を上書きした世界が、東京小説屋のある面だと断言できよう。
僕は最初、こいつら不良ぶってんのか? と思って呆れてみていたんだが、最終的に悟ったのは、彼らって単に不良なだけなのである。人間的にも。堕落してるのだ。淫乱模様を描いてる連中って、普通に実生活もそれに或る意味かなり近い。要するに頽廃している。そういう人達って人間としてダメだと思う。
高々淫行偉そうに描いてるだけのくそ小説を全国図書館にまきちらして子供や学生を汚染するだけならまだ公害ではあろうと、またかって感じで平安京からずっと同じくうんざり、ただで済まないが(なにせもっとましな文芸なぞ『万葉集』からずっとありました)、今度はそれに上書きし文化勲賞と抜かす。
まだこうともいえるだろう。京都人とか東京人って、淫行マニアの大分頭のおかしい小説仲間、外から見たらプーチン失笑の悪徳集団かもしれない。それは彼らの府民性、都民性だからしょうがない。当人らがもののあわれだか粋だか萌えだか知った事かって話だが、少なくとも国全体と誤認させてくるなよと。
例えばモギケンとか春樹とか、ドナキンとかがやたらウェイリー訳をもちあげるもんだから外人が甚だ勘違いすることこの上ない。本居も心底ろくでもない淫乱小説好きの批評ヤクザである。僕はこいつが国学を汚した点では万世に神罰受けるべしと思っているが、『平家物語』のが遥かに立派な物語だべしと?
試しに一度でもいいから新渡戸『武士道』と琵琶法師『平家物語』をそこらの素人子供に読ませ、次に本居『源氏物語玉の小櫛』と式部『源氏物語』をよませてみろと。俺が少年だったら120%の確率で前者の方がイイネっていう。ジャンプでも何でも同じだ。子供って正義とか勇気とか友情とか大好きなのだ。
少女はどうですかね? 僕は少女じゃないのではかりかねますが、なんか美少年ぽい皇族が、そこらの女に無理やり強姦しただの、未成年少女を連れてきて一晩中撫でて淫行しましただの、最終的にそいつの息子ら不良2人で処女をストーキングしてその生娘が発狂出家しました終わりって話がイイネっていう?
こうともいえよう。日本の国学者のかなりの部分(思うに水戸学者が『源氏物語』褒めてた場面って見たことないから全員じゃないと思う)と、国文学者のほぼ全てって、本居ごときに洗脳されてる。どんだけ知性低いの。それって欧米文学でいえばボッカチオの『デカメロン』って卑猥で最高! 級足踏みだ。
文学界って、源氏もデカメロンもだが、猥雑な描写を高評価するという不思議な世界である。なんでかというと、もっと前に『聖書』とか仏典(例えば『ダンマパダ』『般若心経』)、『論語』みたいなものがあって、完成された聖なる教えに比べ、俗界の様子って文にあんまり記述されてなかったからだ。
唯の俗人の様子も、記述していいんだ! っていう気づき。それだけの事で、昔はそれが珍しい行動だった(なんでかって知識人しか文を使いこなせなかったから)、だけどもう2chやツイッターみたいなのあるわけでほぼ下衆しかいないし、言動も恐ろしく下卑たのばっか。そこで私小説とか情報量0に近い。
ちなみにだ、僕は性的官能性みたいなのを、封建道徳式に軽視している人では余りない。逆に同人誌の発達(東京圏の)を最初に絵画史の中でどう位置づけられるんだろうって興味から冷静に観察してるくらいで、別に他の快楽類(美食文化とか)も人間性の一部として侮蔑しているわけでもない。
しかし自分がそこ(東京同人誌界だの京都~東京間の淫行社会)に直接加わるかの点からいえば、進んで外に出て距離置いて眺めてるだけの事で、サルみたいな連中だなぁと思っており、なんというのか別の生物達がなんかやってるが、これの人類史的価値はどうなんだっていう哺乳類の研究的な見方だと思う。
社会学者の目線ってそうでなければならないのであって、自分が渦中にいてはいけない。で、ここで冒頭の上野千鶴子だが、この人も余りに演芸的に社会参加しすぎだと思うのだ。
一度も日本にきたことないのにTHE日本人なるものを生々しく分析した『菊と刀』書くベネディクトみたいなのが理想的態度と。
そこからいうと、東浩紀の上野批判も、僕がみるに当人の主観が入ってる節がなくはないと思う。別に老人の性について誰かがフェミニスト・ポジションから何かいってもそれはそいつの自由の範囲なのに、川端の最晩年を馬鹿にするなとか切れてもしょうがない。そういう上野が正しく老いれてないだけだ。
孔子は「女と小人は養いがたし」といったらしく(と抜かしたと弟子に記憶されていた説に『論語』ではなっており)、のちの極東にかなりの影響をもたらした。孔子の小人ディスはいつもの理想人格を浮かび上がらせる対比修辞なので、個人の結婚生活があんま上等に行ってなかっただけの言い訳と思うが。
孔子はそれにもかかわらず、いわゆる従心で70すぎたらなにやっても道徳的に振舞える様になった、と申されていた、と同書に記録されている。つまりは、孔子って頭に穴ぼこあったからそう呼ばれてる様あんまり二枚目でもなかった様でもあり、彼にとって正しく老いるとはモテることではなかったのである。
もう70歳とかになっているのに、性が、性がっていってるのはみっともない、ってのが孔子的な老い方の流儀で、いわば瀬戸内寂聴的なものの対極に位置する。この点ではガウタマ(釈迦)もそうで35の時点で煩悩の火吹き消した、われは無欲とかいいだして、性生活なんざ話題にすらしてなかったのである。
孔子や釈迦と比べられても、って事なのかもしれないにしても、東による上野批判も、上野も、或いは東京圏の小説屋連も、俗界としかいえないのではないか? だから僕は一切近づかない。本当は話題にもしない方がいい。今はたまたまツイッターにいるから目に入っちゃった。もっと早く脱俗したいものだ。
しかし、最後に書いておきたいが、僕は実はいかにして釈迦の哲学をのりこえるか? ってのを結構前から考察していて、そもそも性って人にとって全否定できるわけない(できるとしても去勢以外の選択肢はないし、世俗的には他人から性欲を除去できない)のに、矛盾してるとしかいえないと思うからだ。
という事は、性は「中道」「中庸」なり、それに類した何らかの美化の元でしか文明化されない説になるだろう。この観点から人間界で性をとりまく諸々の現象を遍く観察してるが、いわば食とか睡眠とかと同質のものではないかと思う。基礎欲求どう扱うかは、文明流儀があるだけで、それは芸術だと思う。
(Charles Lalo "Esquisse d'une classification structurale des beaux-arts" 1951, pp. 9-37. シャルル・ラロ『美術の構造的分類のスケッチ』1951年、9-37ページ、に例えば類似の、広義の美しい技の分類がある。
このラロ分類は、いわゆる純粋美術の枠を超えて芸術を定義したものといえるだろう)