思うに、日本的和って集団圧力を加えるのが大得意なわけで、それを負の方面に出させたある赤羽出身日系フランス人(国籍日本)みたいなネットヤクザ類が平成時代の醜態の原因であって、もし僕みたいに偉いのが同等以上の権力握ってたら逆にいってたんじゃないか? よい方面に流せば抜群の国民性では?
例えばネットで袋叩きにするなら、匿名集団犯罪してる様な連中(いわゆる荒らし)へ警邏でそうすればいいわけで、その真逆なのがおかしいのである。
そもそも民衆は罪刑法定主義も理解していないし冤罪大好きだから私刑リンチになるに過ぎないじゃん、そうかもしれない。要は村的相互監視の向きだ。
日本の田舎ほど犯罪率が低い。それって日本民族なり日本国民なるものに田舎暮らしが本来の姿で、一番向いてる証拠に他ならないともいえよう。だって水田稲作の村落共同体で7000年、狩猟採集の村社会が11万年続いてきたわけで、都市文化なんて高々平城京から今まで1310年、しかも全体のごく一部である。
今も人口比でいうと東京都外の国民が9割。少な目にみつもっても東京圏(埼玉、千葉、東京、神奈川)約3447万人、中京圏(岐阜、愛知、三重)約1123万人、関西圏(滋賀、京都、大阪、兵庫、奈良、和歌山)約2089万人、3大都市圏計6659万人で全体約1億2776万人の約半分が田舎人だ(平成17年国勢調査。参考URL)。
都市文化にはまり込んだ悪人達が、匿名で隣はなにをするひとぞを濫用し、今日もイヒヒヒとかねるねるねるねCMオババ魔女みたく、辺り構わず蛮行している。これが平成の現実だったが、某赤羽系亡命者が金儲けで煽った事態とはいえ、天皇家含めろくな連中ではないといえる。相互監視を悪い向きに使うな。
ネット活動、できるだけ個人が特定できる条件でしか出現すべきではないのは君子道徳としていうまでもないが、大善行も嫉妬される。「見せつける為に善行するなかれ(≒善行は隠れてせよ)」は聖書(マタイ6:1)の文言であってモギケンの東京業界ポジショントークと違い松本人志起源でもなんでもない。
つまりこういうこと。
令和ネットはなるだけ集団行動を「正義」に向け煽るのがいいのであって、かつその正義も絶えず脱構築し続ける条件に置かないといけない(正義は脱構築できないとしたデリダ批判)。単なる道徳相対主義に陥らず、正義に多角的批評の余地を残しつつ、最善の向きに村社会を作る。
いわゆる日本的村、日本村ってのは、同調圧力自体が自動的に駆動する(今はやりの言い方。なんとかドリブン。駆動だろっての)、ほぼ永久機関になっている。ほぼ日じゃねーけど。ほぼ永久機関。実現してんのか。
だからそれを元々そうあったよう善行しましょうネ、悪事したら即白眼視にすりゃいい。
理論的にはそうだが、現実には、民衆は一般に、生まれつき利口でもあれば更に重ねて文化資本で満ち満ちている大知識人様がた(聖人様がた)に比べたら本当の馬鹿の部類なのは疑えないのであって、自由教養すらまともにないそんなのが自力で判断したら大抵、愚にもつかない濡れ衣になるに決まっている。
孔子曰く郷原は徳の賊、イエス曰く預言者は故郷では尊ばれない、僕曰く東京の名士は下衆ばかり。最後のは名言めかしたコロナジョークだが、事実でないと誰にいえよう。評価者が馬鹿なら最高の馬鹿が名誉を得る。
したがって正義の脱構築が最も重要な令和的なハイカルチャー主題になると僕は思う。
デリダは唯一脱構築できないのは正義だと書いたと。この道理は、彼の理屈だと法文解釈が無限に差延するとした時、それでもなお脱構築されない何物かがあるなら、ソクラテスの正義みたいなものだというわけで、要は限りなく善解釈すればどんな裁判上の有罪判決も原理的に誤りうるよね? というわけだ。
自分がここでいってる正義の脱構築とは、ある正義・不正判定が唯一解ではありえないという立場から、それでも全ての正義が等値とみなす相対主義(ソフィスト的詭弁)へ安易におもねる事もなく、冷静によりよい正義を常に、脱構築(原語déconstructionは破壊・構築のかばん語)し続ける事でしか、最善は達せないという原理。
例えば、福沢諭吉の有名な論点として、忠臣蔵なんて美談でもなんでもなくテロリストどもの勝手な暴行じゃないか、そんなの素直に言論で上に訴え出ろ、不当に裁かれても全員が訴え続けろっていう批判がある。いわばソンビ的な行動を取るのが、サムライ的行動より偉いという、言論優越議会政治論である。
福沢はどうも本気でそう思っていたらしく、『福翁自伝』でも「長州の気狂い共」と書いて山口勢のテロリズム(恐怖政治、暴政)を明らかに憎んでいた。彼が自らの慶応義塾の是をリシュリューのせりふ「ペンは剣より強し」にしたのとも、上野戦争中の講義伝説とも照合する。
これは今もいえると思う。
当時(江戸元禄期から)の世相は今の自称長州人・安倍晋三に至るまで、多数派は恐怖政治を言論政治よりマキャベリ的にエライエライという(明治美化論者らの過半数超え論点、勝てば官軍海賊正統説で)。僕はこの点で基本彼らに同意しない(最早武力以外道がない場合を除く)、これが正義の脱構築だ。
匿名モブキャラ民衆の方が、いわゆる知識人(なんらかの文化的な意味で名のある人といってもいい)全員より、数が多いが故に、極希に偶然、賢いかより善い論点を持ち合わせている場合がありうる。それが共和政(善い多数政治)を正当化できる唯一の根拠だが、少数意見を無視するかぎり正当化できない。
いいかえると少数意見の尊重こそ、多数政治が、多数派政党による寡頭政(自党の意見をよりよい少数意見無視で押し通す体制)より、議会政治が常に次善でありうる原因である。
正義の脱構築が民間でも同じ役割を果たすなら、より高度か高質な意見を少数で公に提出しうる高い表現の自由度が必要だ。
自分はデリダ的な正義の脱構築不可能論の観点を、偽だといっているわけではない。それと自分の観点を見分ける為、自分のものは正義の脱構築ではなく、単により高度な正義の提出、「正義の対話術」(正義の弁証法)といいかえておく。
それを行える表現自由度が、公的に維持されているのが重要事だ。