自分は、いわゆる知識人のうち、道徳哲学の系譜の上にいるのだろうと思う。そしてそれは、現時点で自分に見える範囲では、この国で完全に忘れられている、または金儲けに比べ馬鹿にされ軽視され、特に若い世代であればあるだけ無視されているが、寧ろ学業、芸事の本質に根ざしているものだろうと思う。この国の通俗知識人みたいな人達、世俗的には文化人と称している人達は、正直な所ほぼ例外なく全員が雑魚であって、愚物であり、俗物であり、全くこの時代を代表しないまま消えていく存在だ。断定してもいい。それは先人らの遺産を全く継いでいないだけでなく、無関係の唯の商売に耽っているからだ。
いうまでもないこととして、道徳はその人の全教養の上に構築される或る信念で、各時代で特に哲学者・思想家(前者の方が、タレスからはじまった様にいわれるが古代ギリシア風の尊称に近い)と呼ばれる人達が、人生の最終結論として導き出している。これは各個の知識、科学から得られる内容ではない。しかし現代日本は、全く俗悪な世界で、金儲けの手段としての肩書き信号に学歴を使うとかそれにしか知性をみいだしていないとかお話にならないほど下賎の時空間なので、そこで人気になっている人々が一様に、道徳的に無価値でもなんら驚くに値しない。自分は世知でこれをますます確信する様になった。ソクラテスは、知的に腐敗した世相の中、当時の「学歴馬鹿」「科学信者」の類に違いない数多の教師、教授らを論難させ、最期に自ら毒杯を飲む事になった。しかし前から自分が言っていることだが、彼が代表的な最初の道徳哲学者だったといっていいと思う。タレスは自然科学的探究の始祖に過ぎない。
世界が現にどうなっているか、科学的に知った所で、人がいかに生きるべきかを語りうるものではない。知識と、道徳は全く別のもので、後者が目的の知性である。前者は後者を考えるための道具にすぎない。
道徳を軽視する現代日本で、ろくでもない人々が拝金的弱肉強食で生きているのはサル級の話だ。
自分は美大行った姉の影響下もあったろうが、美術関係の道から辿り、学術の本堂に入っていった。今いったようその究極の奥は道徳哲学で、特に、単なる個人のそれを超え公共に関わる政治道徳の哲学が、伝統的かつ最も高度な主題になっている。孔子、釈迦、イエス、ムハンムドら聖人らの理想がそれだ。
人間界全体がいかにあるべきか語った人々のうち、プラトンとその弟子のアリストテレスが後世に与えた影響は大きい。彼らの理想は、特に弟子のそれは分類学的であり、各時代に起こりうる政治形態を大まかに網羅していた、通時的且つ普遍的なものだった。彼らは今日までに優れた学識を残したことになる。
多くの学者らは彼らの知恵の水準になんら到達しておらず、それより遥か瑣末な問題にこだわって死んだ。調度、現代日本人の殆どが稚拙な小話に過ぎない漫画、アニメなどに耽って、聖人らの時代と場を超えて通用する様々な理想の記録に一度も触れずに死んでいくのと類似である。異端を攻めるは害のみ。
芸術は究極の所、或る道徳的理想に奉仕する活動といえるだろう。釈迦にとって最も粗末なぼろきれである糞掃衣が意匠だったのと等しい。ひとは建物、音や言葉に囲まれて生きている。それらは或る感覚論(αἰσθητικός、美学)のもと技術を応用して作られる。趣味のよしあしとは、道徳的理想の感覚面だ。
乃ちこの世でひとがなすべきなのは、道徳的社会をつくることで、その前提にあるのが道徳性、いわば善悪を見分けうる能力である。この能力はひと自身の信念として得られるもので、人々の間に共通性を伴うこともあれば、当為(到達できないが当然達すべき永遠の理想)として普遍的なものもありうる。
我々人類が、国、地域、家族など共同体の単位に分かれて暮らすのは、それらの間に程あれ異なる道徳性がみいだされる場合である。つまり異なる信念をもつ人々が共に暮らすのは難しいので、似た理想を抱く人々が集まって生きる。共同体間で同盟がありうるのは、道徳に共通性がみいだされた時だ。
現時点の地球で最大の共同体は国連といえるが、ここで得られた共通の合意(条約批准)は、各国にある諸々の道徳性のうち全てに共通する最も大まかなもの、乃ち最大公約数的な道徳に基づく。政治道徳のあらゆる面で最も広く社会改良の貢献度が高いのは、この国際法を改善することだといえるだろう。
ひとがこの世でなすべきことは、各々の個性と環境の相互作用(一般化すれば文化)に基づき自ずと導かれるが、特に、道徳哲学をなしうるだけのひとは、古今東西の全思想をできるだけ網羅し、その上に最高善を定義しなければならない。政治的理想が高ければ高いほどその集団の未来も明るく啓けるのだ。