私は恵まれない民衆に慈悲を向けるということを試していた。特に自殺志願者らが最も悲惨に見えたので、そうしていた。だがこれは凡そ全くの間違いだった。
慈善の中で人は自殺志願者らの内情を知る事になるが、彼彼女らがそうなのはきちんと理由がある。彼彼女らは自らの悪徳の故に死を望んでいる。
私がその種の慈悲慈善を試みていたのは、第一に聖書のパウロの文言に騙されていたせいだった。自分こそ知者だと思い上がってはいけない、却って身分の低い者の中に交われ云々。これも、実践すればすぐわかる話だが完全な間違いである。そうすればするほど邪悪な人間の渦中で苦しむだけで効果がない。
特に私が気づいたのは、卑しい人、つまり道徳知能が低い人とそうでない人は生まれつき大幅に違うということだ。後天学習によって補われる部分は生得的差ほど決して大きくない。最も顕著なのがダークテトラドに分類されるだろう本物の極悪人の類で、彼彼女らはそもそも良心をもっていないのである。
あるイギリス人が私へ次の様な事を言った。世界は生まれつき国あるいは民族、人種ごとに開きがある云々。私は彼よりずっと寛容度が高いのでその意見は差別的偏見にしか思わなかったが、別のあるノルウェー人も彼の意見に同意していた。西洋一般の通念あるいは民度としてその種の見解がある様に見えた。
だが上記の原理、つまり人は生まれつき大幅に道徳知能に違いがあるという点を鑑みると、彼らの意見にも一理なくはないことになるだろう。なぜなら特に邪悪な性格の持ち主達が集まりがちな地域があるし(京都市でいうイケズ文化など)、総じて集団ごとに大まかな知能指数や学力差などもみられるからだ。
ガウタマはパウロと全く別の見解を述べていた。曰く卑しい者や愚か者の言葉を見聞きするな、交わるな。孔子でいう小人と同じ発想で、愚者や賎者をはじめから遠ざけていた。ある香港人が孔子を批判し、人権や多数政治に矛盾するからだろうが、この発想を差別的だとみなしていた。それは唯の観念主義だ。
現実は愚か者や卑しい人が害悪を為している世界なので、彼彼女らに近づかなければ自らが害を受けることはそれだけ少なくなる。進んで都会に近づかなければ犯罪被害に遭う機会が激減する様なものだ。人権の尊重、あるいは人格主義とこの現実感とは特に関係がない。愚者や悪人は現に存在するのだから。
慈悲や慈善の実践についていえる真理は次の事である。
これらは完全に良心の満足の為に行うものでしかない。つまり一種の贅沢で、但ししばしば義務的な贅沢である。清貧を虚栄より尊ぶ人間なら同時に多少あれ慈善にも足を踏み入れる事になるだろうが、この贅沢で愚者や賎者を根っから改善できない。
愚者や賎者は総じて彼彼女らの生まれつきの性質でそうなので、例え望ましい啓蒙で向上するとしても全体の一部である。社畜志向のゆとり世代に独立心を啓蒙した所で総じてますます拝金主義を身につけてしまう様なもので、はじめからマルクスやウェッブ夫妻の理念を受けた中国や北欧に理解が及び得ない。
つまり上記の或るイギリス人は、少なくともパウロよりずっと現実的な見解をもっていた事になる。イギリスが世界侵略をした一つの原型になる考え方、自文化中心主義ともいえようが、その一部はフランス経由の啓蒙主義に毒されていない点で、間違ってはいない。慈善行為は唯の慰めの程度にすぎないのだ。
全く慰めというものがない社会に比べ、それがある、もしくは豊富な社会に比べると後者の方がまだましなのかもしれないが、それはどこまでいっても慰めに他ならない。宮崎駿が生きるに値するとこの世を定義し子供をそう洗脳してみたところで現実の人間性はそれより遥かに邪悪で、現実の東京は醜悪だ。
嘗て宗教は愚かな人間の心を捉え、慰めを与えていた。神道信者は今も彼彼女らから暴利する殺人教祖へ納税・賽銭し万歳三唱している。資本主義信者にとって長者番付の上位者が神々なのと同じである。だからこういえるだろう。慰めに満足している人は愚かで、信念次第で時に邪悪でもあると。