2020年2月17日

文化人の理想

道徳に基づき他人を攻撃するのは基本、ある性質をもった人間が自分に不利な行動傾向をもつ人々を統制する目的である。つまりある人の寛容さが低ければ低いほど、この攻撃性は頻繁に発揮されざるをえない。
 日本社会に規制が多いのは、属する平均的な人々の寛容さが極端に低いからだろう(国連幸福度調査での該当項目が一傍証)。
 一般的な知能指数と寛容さに正相関があるなら、ある集団が規制的であればあるほどその集団の平均知能指数は原則として低い事になる。

 進歩や革新のきっかけは例外なので、ある集団に意外で新しい組み合わせの行動系列が相対的に継続し辛いなら、結局その集団の人々が幼稚だからである。
 同じ様に、異質な他者理解にも感情・共感の知能含め、一般知能を程あれ用いる。いいかえれば他者より自己中心的な傾向のある人々(例えば伝統的に中華思想をもっている皇室の様な人々、或いは自文化中心で門地差別的な都民や京都市民の一部)はやはり、なんらかの平均知能指数が低い故にそうなのである。
 人々の個性をより単純な分類にあてはめ、その属性によって差別する癖も同じ原因から出てくる(人種・民族・学歴・性別・国籍・肩書き単位での差別など)。
 道徳的な攻撃性は、しばしばこれら認知の誤りも含んでいる。つまり自分の為に或る道徳説を使って他人を攻撃するのみならず、異質な他者への誤解や、分類による偏見をも重ねている場合がある。
 裏返せば、単に寛容なだけでなく、異質な他者へ同情的理解力をもち、分類に囚われない人が真に道徳的だ。

 この様な特徴をもった人を仮に「文化人」と呼ぶと、その種の性格であって尚且つ利他的なのが望ましい。究極で自己犠牲的なら聖徳に達している。
 例えば飛虎将軍が台湾人に神格化されたのは、彼が単に文化的で台湾の或る村のくらしを守ろうとしていただけでなく、自己犠牲を省みなかったからだろう(参考資料1)。