僕が見たので、サブカル(サブカルチャー)傍ら痛いタイプは2種類いる。
1つはサブカルを自分の「世代のもの」みたいにいってるガキンチョ(といっても20代後半)でもっとコアな見方をしてる年長者を侮辱してきた或る新潟人。
もう1つは下品な2流3流のサブカルをさも最先端みたいにほざく東京人の中高年ら。
サブカルもロウブロウだろうがカルチャーだから、見てる人は見てるし、その見方もハイブロウなのも知った上で見てる人の見方は、単に無教養なだけの人の見方とは違う。それなのにその新潟人は自分世代がロウブロウの主役だみたいに思い上がっていて、ロウブロウアートも知ってる別世代を侮辱しだした。
何度もなんであいつはあんな言動とったんだ? と考え直してみたが、いつものことだがアホの気持ちはよくわからない。想像するに、適当に侮辱目的で自分の世代にしかそのサブカルが認知されていないという前提に立った、もしくは世代間差別の印に悪用したのだろう。下衆は文化をろくな使い方しない。
もう1つのタイプは単に悪趣味または知ったかぶりで、ろくでもないサブカルを最先端みたいに言い繕う中高年というか、東大閥みたいな人達である。誰のことか言わなくても推測できるかもしれない。その人達はハイブロウアートについては三文批評力しかない雑魚なので大炎上して公的市場から消えた。
ロウブロウなサブカルを主文化みたいにいってるのは第一に、頭が随分悪いからにすぎないが、当人達は東大閥で固めてるので自分の悪趣味を権威づけてしまえる。それで横でみててなんて恥ずかしい大人なんだこいつとみえてるのに気づかず、オタク批評家とか言っていた人達がいたのである。上の世代には。
流石に僕の年代以下にはその種の言動がなくなったというか、逆にサブカル洗脳を0歳時点から受けすぎててハイブロウのスノッブすらほぼ絶滅しているくらいなので、ガチの立派な芸術家が先ず存在すらしていない。僕がそうでなければもうひとりも国内にいないのではないかというくらいいない。
再三引用される村上隆氏。この人がスパフラ(スーパーフラット)理論で教養・無教養の境目をなくし、中間芸術というべきミドルブロウの果てしない氾濫を切り拓いた。その干潟がいい場所なのかといえば僕は全くそうは思えないし、寧ろ立派な芸術はそれ自体で進歩し続けるだろうと思うので単なる一時的停滞ではないか。
専らサブカル凄い、東京偉い、京アニ任天堂は神みたいな無教養界が新海アニメだかジブリのネトフリ配信だかでますます人類を汚染していくだろうけど、これを僕はちっとも望ましい変化だと思えない。寧ろ迷惑でもある。だって外人なんて日本人へ初対面で漫画話してくるくらい馬鹿だと思ってるのだから。
よく知らん西洋人から『ベルセルク』とか初音ミクとか寿司とか芸者とかいわれて、ヘラヘラ笑ってる都民だの京都の宇治市民はしてやったりで楽しくて嬉しくて、自分と同類がふえて最高でしょうがないんだろうが僕は不快でしょうがない。敢えて下衆都民の同人誌教えてやったら今度は大発狂してくるし。
結局、サブカルといって中にはましのもあるにせよ、大抵は下らないだけである。なぜなら無教養な一般大衆に向けた商業芸術だからである。学者が書いたブックオフ100円で転がってる印税目的の一般書みたいなもんだ。
つまりハイカルチャー自体が全体の品位の模範でなければならない。これが結論だ。
僕は、15くらいから油絵始め今まで20年創作活動を毎日ずっとやってきた一介の芸術家である。そして前衛芸術家である。だから食うとかくわないとかそういう問題では全くなく、アートマニアの自分が見たことない作品をみたい一心で作ってきた。それ以外でもう満足できないからほかの方法で生きられない。
で、その僕も、大体3年くらい前から去年まで、サブカルについて本腰入れて勉強した時期があった。小学生の頃の夢の1つがゲームクリエイターだったので、起業もちかけられ調度いい機会で実現してやろうとした。資本主義について勉強しようと思っていたので同時に経済や経営についてもしぬほど学んだ。
結果わかったのが上記の事実である。サブカルは所詮サブカル。無教養な子供や大衆に向けて作られる商品である。しかしハイカルチャー、ハイアートは基本的にそうではない。商業要素は必須でなく、本当は、単に無目的に進化していく独創の体系である。限界まで創造性発揮したら自動で立派な芸術になる。
最初に出した2つのサブカル傍ら痛い系。すなわちアホなだけなのにウチらスゲー的みのほどしらずなガキンチョと、オタク中高年はどちらもただの無知である。そうなってはいけない。芸術の最終機能は、技術を使ったよりよい趣味の啓蒙にほかならないからだ。上品さとは道徳的な善美を意味する。
サブカルは、単に無教養な人に向けているだけで、既にして下品さを含んでいる。ここに根本的限界がある。大声は里耳に入らず、豚に真珠というよう、単に高尚な内容を語っているだけで一般大衆はその芸術を自分達のなれしたしんだミームと違うとみなしてしまう。どれほどわかり易い表現法でも同じだ。
中間芸術を啓蒙的な代物と解釈すると、春樹文学のテーゼ「深い事をわかり易く語る」方法論になるわけだけど、ここに既にサブカルの根本限界が露呈している。例えば東京都民一般は露骨な性表現に腐るほどたかるが(実質的エロマンガにすぎない同人誌へ75万人)、正義について語っても誰も振り向かない。
いいかえると、一般大衆は、相対的に下品な人達なので、少数の高尚な人がいかに立派な芸術を作っていようがそんなの理解もできないし、仮にがんばって理解したところで共鳴も共感もできない。だから全体でも上品ながわに属する少数の人にしか、立派な芸術の意味はないのである。だがそれはより美しい。
少なくともわたしは、一人の美の探求者であり、より美しいものをそうでないものより好む。であれば立派な芸術のほうがサブカルより優れているとみなして当然ではなかろうか。その理屈は、上に書いたところで必要十分に論証されているのではないか。一言でいうと「上品なほうがより美しい」のだ。
また立派な芸術のほうには上に書いた特殊さがあるので、飽くまでよい趣味を解するのは全体でも上品な部類の人達にかぎる点がある。だから高尚さを十分理解できない人にとってスノビズム、いわば知ったかぶりの対象になる。中流は自慢目的に自分がその上品さをまとっているかのよう偽装したいのだ。
これも一つの欠点ともいえ、立派な芸術がそれ自体として抱えている「上座部仏教」的な矛盾であり、本当にその高尚さを理解できる人は同時代でも後世でも、およそ少数派を超えない特徴がある。もともと創造・批評の連鎖ゲームで内容を無限に難しくしていくつもりの専門家らなので外から高踏的にみえる。
たとえていえば、クジャクの羽みたいなものだ。どれほど美しくしてもきりがない。その知的負荷が限界をこえると、前衛芸術家は同時代的に理解者を1人もみつけられなくなり、どれほど作っても誰からも価値を認められない廃人状態で自殺しかなくなってしまう。だから立派な芸術は一種の負担なのである。
芥川龍之介と、藤子F不二夫を比べてみればいい。芥川が立派な前衛小説家とすれば藤子はサブカル漫画家である。芥川は経済的困窮の果てに自殺したが藤子は今に至るまで大勢の理解者しかいない。両者の中間の人々がスパフラ作家だろう。
自分にいえるのは、それでも立派な芸術がより偉大なのである。