今思い出したが、ある神奈川の鎌倉出身の女に(そいつはサイコパスなのだが)、自分は色々と嫌がらせのかぎりを尽くされてきて、こっちは飽くまで善意で接してきたのだが、重々考えるとそいつは俺を無意識に好きで、反動形成で嫌がらせしてきていた風に結論できる。だがそいつに復讐すべきではないか。
聖書にみずから復讐するな、神がすると書いてある。相手の悪徳を放置しておけば基本的に自滅する、そもそも復讐コストを計算に入れろという意味かと思うが。
自分はその女に親切のかぎりを尽くしてきたのに相手は恐らく当人の精神的未熟さの為に、自分へ荒らしじみた蛮行をやりつくしていた。
つまり自分の被害分だけ全くこちらが損する一方なのであり、合法的・道徳的な方法で復讐しないことには既に防衛費用が回収できない。
人はこの意味で復讐について真剣に考えるべきではないだろうか?
たとえば茨城県民がどれだけ東京(マスコミやブランド総研)から風評被害をこうむってきたろう?
復讐は十分な英知で、かつ経済的に考えれば、そして飽くまで合法かつ道徳的な範囲で、計画を練りきって冷厳な計算のもとで行えば、むしろ費用回収ばかりか収益すら出せるものなのではないか? というより、それを本来「正義」と呼ぶのではないか? 善意の故に、ある種の復讐があるのではないか?
たとえば天皇は記録に残るかぎり1375年かけて我々日本人、特に先住の日本人を辱め、陥れ、時に虐殺し、奴隷化し、人種差別しながら徹底的に収奪してきた。だが、たった1375年であって、まだこちらの復讐ターンは来ていないだけである。未来は無限なのだから、計算次第で次の1375年で収益をあげられる。
私が思うのはユダヤ民族の歴史だ。彼らははじめ、旧約聖書という立派な書籍を残すほどの賢者をもっていた。そしてそれゆえに優越していたが、預言者イエスの登場によって、野蛮な西洋人らから迫害を受ける羽目になった。だがその後の苦難と栄光の交差する遍歴で、やはり復讐を遂げているのではないか?
古代インド人らが「業 karma」と呼んでいたのは、この必然的な復讐の応報が、意図せずとも、単なる道徳性の結果として現れていくという洞察なのであって、もっといえば、正義の計算とはわれわれが最善の生き方をえらびとることに他ならない。最善の生とは同時に、極悪人達へ圧倒的な復讐をする経過だ。
この場合、「復讐」は、忠臣蔵の様な同罪報復(目には目を)を示すとは限らない。むしろ復讐感情が高度に洗練されればされるほど、一見してそうみえないばかりか、全く無視しているのと等しくなる。だが、無視とは認知の埒外にあることではなく、意図的に相手を泳がせているのである。つまり復讐の形なのである。
自分はサイコパスと呼ばれる人達の生態を、ピグでかなり長期にわたって観察する機会があった。それで彼らがどんな行動原理をもっているかだいぶ理解したが、一ついえるのは、サイコパス性はある目的には極めて役立つ心術と捉えれば、応用可能である。サイコ自身は盲点をこの様な心術とは捉えられない。
ちょうど酔った人の動きをまねて酔拳がうまれた様なもので、サイコパス当人はそもそも良心の認知部分が盲点になっている脳なのだが、定型発達した脳の持ち主からみると、これはわざと良心のスイッチを切っている状態にしかみえない。わざと酔う、わざと良心をなくす、ということが学べるわけだ。
なにがいいたいか。正義の業を復讐によって成就するには、その種の良心を超えた神的ふるまいが有効になる場合がある。というより、究極では、自分の存在そのものをメタ認知して、業だけに注目すると、勧善懲悪とは完全に自他を相対化してみなければ成しえない。もともと神とはこの態度の象徴化だ。
私ははたちのころ神になりたいという願望をもち、全知全能全徳がその定義だろうと考えて、この目的に従事しはじめた。勿論それは当為なので到達不可能だったが、その後15年してこの宿願は、上記の結論に辿り着いた。われわれにできるのは業を操る神的知性の様なメタ認知を獲得する事だったのだ。
いいかえよう。我々は誰かを業に基づいてどうとでも操作できる。たとえばある人が悪行をした時(それが自分へのものでも、他人へのものでも)これを記憶し、別の人が善行をした時に比べ、全く第三者の目でより悪い結果を返す、といった業の正義の担い手になることができる。これが最も神に近い仕事だ。
私は、全ての生業の中で、この最も神的な仕事に従事したい。確かに、これは世俗的な職業名をいまだつけられていない。神官が最も近いかもしれないが、ここでいう神はただの象徴的な仮の名義だから、いわゆる宗教家ではない。
私は業を操る存在になりたかったのだろう。なぜかはわからないが。
私は人に全く親しめなかった。ひとは私より劣った存在にみえた。アリストテレスもほぼ同じことをいっているが、ある種の人達は神性としか形容できない、ある高貴な本性が宿っており(俗にいえば精神性、道徳性だが)、できるだけそれにしたがって生きるべきである。哲学者は哲学者になるべくしてなる。
冒頭の女についてだが、一体、その様にみじめで自分の心すらまともに表現もできない不器用な人間にどんな救いがあるだろうか。しかも当人はサイコパスである。復讐といえば、私が相手から好意を根底にもたれていると知っていながらに、全くそれを顧慮しないで徹底的に裏切り続ける事ではないだろうか?
あしきひとにはあしき結果を、よきひとにはよき結果を。そもそも良心を認知できないサイコパスに対しては、相手が最も傷つくことを、となる。度合いではあるが、もし彼らが他人になんらかの利益を与えるとしても、それが彼ら自身に都合がよかっただけだ。サイコへは良心スイッチを切って接するべきだ。