何より恐ろしいのが、一度も皇室が慰霊にきていない事だ。何しろあの1865の祭神はみな皇室の為に死んだのに、彼らに無視されているのだ。
回天志士らのうち、天狗党の悲劇が最も悲劇度が高い。ニシン倉の中の扉に、暗闇の中で伝言として書いたのだろう志士の断末魔が刻まれていた。将来は風化して消えてしまうかもしれない。
何しろ彼らは皇室守護を目的に出奔したのにその皇室に殺された。それだけ皇室とは全く信用ならない存在なのだ。
せめて慰霊に毎年、維新後に皇室がきていたなら救いはあった。だから自分は宮内庁に意見をホームページから送った。せめて上皇は慰霊にくるべきだと。天皇と違って忙しさに差があるのだから。
しかしまだ一度もきたことない上に、彼らは高麗神社なんて行っている。徹底して利己的で薄情なのである。
靖国のほうは対外戦争の関係で慰霊しにいかないのはしょうがないのかもしれないが、回天のほうは完全に敵味方とか無関係に勤皇義士しか眠っていない。そもそも幕府とバトって尊王心で死んだんだから天皇からみたら忠臣の誉れのはずが、僕がこうして宮内庁に説教してもまだ一度も、まつりにきていない。
これはどういうことか。
つまり水戸学の尊王論って、飽くまで水戸の徳川家の学問的姿勢で、常陸国一帯から水戸市での中心教義になっていたが、天皇家の側は完全に、単なるお気楽公家の親玉で、忠臣ほめるなんて気持ちは全くなかったのである。完全ご都合主義の独裁者。ポピュリズムで忠臣無視する。
皇居前庭に楠木正成像を建立させたのは、THE水府の学でその一部が、皇室界隈に継承されたからといってもいいが、これだって天皇家自身の意向ではなんらない。岡倉天心時代の芸大に頼んで明治22年に住友財閥が宮内庁へ寄贈したものらしい。つまり天心らが水戸学の尊王義士の理想を形相化したわけだ。
これだけならまだわかるけど、前から書いてるけども、あの尊王の権化でしかない慶喜公の扱いをみてほしい。忠臣の極みといってもよく、禅譲伝説たる大政奉還そして無血開城を世界史上はじめて史実として実行した超絶偉人なのに、端的にいえば西軍の蛮族が明治天皇ともども彼へ汚名を着せて今にいたる。
これはどういうことか。
天皇は忠臣をほめるなんて基本的な大君としての心得も少しもわきまえていない家なのである。要は勝てば官軍で臣下へ同士討ちさせ勝った側を近づけ、尊王心から全権を譲った相手なんて負け組扱いで貶めて恥じない。それだけ野卑で傲慢な自己中で、中華思想の家なのである。
確かに慶喜公は生涯の殆どを天皇家とそのそばにはべった薩長藩閥から汚名を着せられて過ごした。彼は幼児から水戸で、あるいは小石川でも一橋でもいいけど、義公の家訓を守れと徹底した尊王教育を受けていたわけだ? 我々が水戸学の体系を学べばそんなの至善堂で習わなくても想像つく。第一義が尊王。
最晩年には明治天皇がわが慶喜公を皇居に呼んで、濡れ衣着せてすまんかったとは天皇だからいわないけども、偉そうに上から目線で麝香間祗候を任ず、とかいい、裏でやっと胸のつかえがとれたとかいってたところみるに、これって天皇家がプライドだけで生きてるろくでなしだっていう内情を示している。
もし僕が天皇だったら、どうしたろう。
先ず薩長なんて論外だろう。だって会津の容保さんはどうみても一生懸命、お父上にあたる孝明帝のお手伝いして下さっていた忠臣であるに、それへ濡れ衣とか父上に済まないではないかと10代だろうが意見くらいいえるだろう。慶喜公なんてますますそうであるぞ。
ということは、薩長両国の下働きの木っ端役人がだ。前将軍で天皇家を飽くまで守護して下さっていたばかりか、第一が、皇族の縁戚でもあるし、代々尊王250年も知られている水戸の徳川家からでてきた慶喜さんへ。濡れ衣着せて済まそ、とか、どんな不良の性悪だろうがよほどの京都人にしか思いつかない。
明治天皇はこの意味ではサイコパスだろう、間違いなく。その度合いが極限だったかといえば、晩年の慶喜をジャコウの間シコウにしたり、要はこれ昔の摂関家の役割で主要相談役であろう。それにしてるんだから、サイコ度が極限値かといえば100マックスとしたら80台後半かなと思うが、それでも十分酷い。
なにが申し上げたいかともうすと、水戸の理想は、いわば片思いだったのだ。義烈両公にヨシノブ公はまあ奥さん皇族だったと。だから片思いを実らせたといってもいいけれども、それでも天皇家の側は彼らを都合よく扱って適当に濡れ衣きせ、幕府とバトらせた果てに、最終的に大政奉還までさせてしまった。
その後に、「いや~ありがとね!」といって「すまんかったのう、つらかったのう」といって、毎年明治から150年、回天神社を慰霊にくるのが皇室の恒例行事となっていたら、そりゃ僕だって「しょうがなかったよな」となる。でも全くそうならなかった。完全無視。どういうことかわかります?
これだけじゃないんだよね。冷遇は。冷遇どころか無視は。こないだ明治150周年のイベントを京都市長の門川らがやっていた。あれに水戸市長は呼ばれていない。維新の起源は無視され、誰が呼ばれたかといえば散々邪魔してきていた江戸こと東京都知事だ。何のため天狗党が幕府と戦ったかわかりゃしない。
芹沢さんの尽忠報国の鉄扇は、もう僕しか意味をわかっていないのである、150年後。尊王義士なのだ、彼だって。それが江戸組に潰された。だって彼らは尊王じゃないもん。全く違う。のっとられたのだ、新撰組って。でもそんなの知らんから京都市長の浅学野郎は、たしか調布市長を呼んでいたかと思った。
新撰組って作ったのは尊王攘夷目的なのである。芹沢さんがリーダーだった。そりゃそうでしょ。いわば天狗党の分派だもの。大体、当時の幕府だって異国船打払い令を出していた。これだって我々の先祖が働きかけたわけだ、だってこの僕の目の前の海でうろちょろ植民地化狙ってイギリス船きてたんだもの。
つまり江戸組が、もともと水長同盟で組んでいた尊攘のちぎりをね、ぶったぎっちゃったのよ。自分の権力欲で。誰がかって? ご存知の近藤勇だよ。
あれは悪党とまではいわないが、奸物と評するほかないよね、リーダー暗殺は。でもそれでさ、龍馬暗殺疑惑だの、色々京都で暴れ回る暴走集団になった。
水戸人はね、あのあともしっかり近藤勇を敵討ちしたと書いたよ。香川敬三さんですよ。この人は僕は幕末史を語る上ではいい働きしてたね! と思う点では渋沢栄一と同じくらい重要と思っている。勝海舟もいいけど、こいつは学が足りないから言う事がブレブレで忠臣なんだか奸臣なんだかわからんやつだ(この勝への評について最後に付記あり)。
侍は学があって忠義の観念がしっかりしてるやつが一番上だろう。大局観もあれば実地もきちんと模範的に働く人。つまり尊王義士が最上の部類なわけだ。水戸学的にいえば。
その点でいうと一応、水長同盟は尊王+攘夷の理念だったし、江戸組にのっとられる前まで新撰組は尊王の組織だったはずなのだ。
なにがいいたいかというと、芹沢鴨という人は尊王の歌ばっか残してるよう、正真正銘の義士といってもいいのに、江戸こと東京圏の軽薄な「サムライごっこ」の連中に裏切られて悲遇の死を遂げただけでなく、その後も汚名を着せられている。これも本当に武士道に反する点ではこの上ない歴史犯罪だ。
ちなみにね、新撰組が函館で最後に降伏したときの隊長、相馬主計だった。これ常陸の笠間のお侍さんね。ということはだ、作ったのも閉じたのも常陸人、茨城人だったんだよね。でも、途中で江戸人にのっとられて暴走しちゃった。その暴走させてた調布あたりの人らって農民だった。浅学で侍ぶりたかった。有名な話ですから一々説明するまでもないでしょう。
僕は調布に住んでました。あの多摩川沿いの道なんてのを近藤だ土方だのらは農民として女の尻を見て歩いていたという記録読んだ。京都でも江戸組は専ら芸者遊びやってたわけで品性が低い。だってもとお侍さんじゃない。学はない人達だったのです。
芹沢も、まあそんなのとつるんでいたから段々と都会に染まって芸者連れ込んでいた。でも想像するに最初は朴訥な田舎侍だったでしょう。そのままでいたほうがよかったかもしれない。どうでもいいですがね私生活は。
要するに、尊王の魂で浪士組作って主君の母方の皇族へ仕官したら、近藤に殺された。
ここでも、尊王義士が辱められている。
最後の相馬さんはいわゆる脱藩(藩なんて明治初期までなかったから歴史学的に誤ったウソ用語なので、正確には浪人化とか浪士化というべきだろう)して、彰義隊まで入っていたと。この人のほうが近藤らより最後まで戦ったんだから、武士としては格上かと思う。
会津の扱い方は色んな歴史学者が色々やってきているだろうし、会津史観だと完全に容保らの行動は正当化される。
では水戸学からみたらどうか。一般論として西軍へ恭順しなかったのは評価が分かれる。実際、諸生党は会津側で会津戦争戦っている。薩長討伐と解釈すれば尊王の義が正当化されるからだ。
『討薩の檄』を読めば当時の奥羽越列同盟軍の心情が理解できる。
鹿児島人が偽って天皇・徳川の親族争いを誘発しているにすぎないから、大義は鹿児島人の乱倫を罰する事にある、と当時の山形の侍たる雲井龍雄が書いている。今日読んでも全く正しい事実を指摘している。
現実に、小御所会議で西郷隆盛と大久保利通の2人が、岩倉具視と陰謀して慶喜公へ濡れ衣したのが史実なんだから、雲井の指摘は100%正しい。鹿児島人の共謀だった点ではまさにその通り。しいていえば岩倉という京都人も混じって慶喜へ濡れ衣きせウッヒッヒ、錦旗はどこじゃとかいっていただけである。
こうしてみてくると、この西日本の人達ってのは、今も佐賀に母方があるモギケン氏の言説とかみてても、なんも変わってないというか、わけもなく善良な人に濡れ衣きせてプゲプゲ笑って陥れたり、一方的に道理もなにもなく暴力ふるって汚名与えて恥じていない。
つまり、民族も歴史観も180度違うのだ。
容保公は慶喜公と一緒に孝明天皇の命令で、京都を守っていらせられた。それだけじゃない。冒頭にあげたよう尊王の自警団(天狗党ですね)が京都まで攘夷の命令くだされといってきたとき、天皇はなぜか慶喜へ討伐させた。どういうことでしょうか、これは。天皇は当時民衆を差別していたということです。
要するに公家とか武士とかを操ってヤクザな政治をするのが天皇の奈良時代くらいからの手法で、一般民衆は知った事ではないという話で、天狗党なんて女子供まじってたくらいで半分は民兵である。それを首チョンパさせて、謝りもしない。何百人も。しかも不衛生な魚倉庫にとじこめ拷問の上で殺している。
単に何百人も虐殺するのが天皇家の野蛮きわまりない悪業なのはいうまでもないが、謝罪の意もあらわさないだけでなく、なんと、その自警団の側は、尊王を目的にしていた。
どういうことかわかるだろうか。
今でいえば自民党の青年団みたいなのだ。それが天皇陛下万歳といって皇居へ奉仕きたら惨殺。
これだけでも天皇家は何百回も地獄におちていい。しかし未だに一言も謝罪のことばを聴いた試しがない。それだけではなく天狗党が眠っている回天神社に一度も訪れた事もない。天皇はサイコパスなので。
天皇なんてそんなやつらだった。
義公は奥ゆかしかった。サイコへ忠義などだいぶ不条理だった。
これは僕が描いた回天神社の祭神の油彩画である。僕がここを訪れたのは2014か2015年そのあたりだったと思う。前から書いてるが、この列柱の中に僕と同姓同名のがあった。僕は戦慄したが、暫くあとで、自分が尊王論に洗脳されていたと悟る事になった。
回天神社
2015年
画布に油彩
53 × 45.5 cm
作家蔵
2015年
画布に油彩
53 × 45.5 cm
作家蔵
そもそも義公はなぜ尊王論を唱えだしたのか。
有名というか水戸学上必須な『梅里先生碑』文や『大日本史』序をまとめたら、司馬遷『史記』の伯夷叔斉伝に感銘うけ自分の身に引き比べ臣下の義を悟ったというところだろう。実に奥ゆかしい。それで皇室再興を期して『古文孝経』序を素で履行しだした。
「君君たらずといえども臣臣たらざるべからず」
なるほど、義公の薨去後、今に至るまで水戸人茨城人らは奥ゆかしくもこれを遂行している。常陸国人はそれだけ素直で学ができたのである。これほど義に厚い民俗などほかにありえない。あの長州山口なんて禁門の変以後2度も天皇軍と戦争してるんだから。
諸生党は慶喜公が水戸を去ってすぐ弘道館戦争、で松山戦争で戦陣に散った。彼らは一言でいえば西軍の先鋒となって帰還した天狗党(及び本国寺党)の逆襲に抗ってはいたろうが、考えてみるだけで尊攘佐幕を旗印にしていたのだから天皇軍と戦うはずもない。
では彼らはなぜ新潟や会津を守ったのか?
これ、天皇がまたも地元に残った尊王論者を弾圧している。明治天皇は摂関家がいながら岩倉や西郷らに操られてたといいわけはできない。諸生党って尊皇攘夷+佐幕の人達だった。ということは普通に天皇を崇め奉っていたのに、天皇にまたもぶっ殺された。
おわかりだろうか? 天皇は邪教祖なのだ。
茨城県、嘗ての常陸国で起きた全現象をしりうるかぎり歴史的に通観してきたわたくしは、この事実を知ってまたもびっくらこいたね。だって天皇の為を思ってあれだけ一生懸命ご本を書いていらせられた義公がだ。250年後に天皇から部下を虐殺されまくるとは。
天皇は150年後もまだ慰霊にこない一度も。
「君君たらずといえども臣臣たらざるべからず」は、『古文孝経』序の文脈だと、「父父たらずといえども子子たらざるべからず」と、忠孝を並べて論じる。
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ro12/ro12_00072/ro12_00072.pdf(6ページ)
忠臣孝子の考えを領民に説き、天皇は万代一系で徳川幕府の後も残ると予期した義公は確かに偉い学者だった。
150年後も確かに彼の教えたとおり、天皇は生きているし、象徴天皇になって、義公の子孫である烈公の考えた祭政一致の大義名分論の通りになった。次官である首相(将軍)が天皇の意思を代行すべしとは、現実のところ国民一般が天皇支持なので、『弘道館記』『弘道館記述義』の忠君愛民論にも合致する。
まあ愛民の面は飢饉に備えて備蓄米の倉庫まで作って神格化された水戸家ほどしっかりやってるかといえば微妙というか、天皇家はさっぱりその面では雑魚に近いのではないかと思う。テレビカメラ連れて被災地慰問とか「見せるための善行」はあるけど、具体的に都の浮浪者へ炊き出しとか生活保護与えない。
要するにわかりやすくいうと、水戸学では、主君の一番上に天皇をたて、次官にあたる人(将軍や首相)が天皇に頼まれた職務を代行し、愛民政治をすべしと教えていた。民衆の為になることをせよというわけだ(たとえば『弘道館記述義』文武不岐に愛民の語が出てくるhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/754705、下巻16ページ。国会デジタル図書館の18コマ)
一方で、民衆のほうはその種の徳政を行う主君へ忠義で報い、今の言い方でいえば、天皇はじめ公務員を信頼しなさいというわけだ。
君臣相和し、官民一致でめでたしめでたしとなるのが水戸学の唱えた理想だった。
あたりまえといえばあたりまえだが、乱れた安倍政治では特にこんな麗しさ一切ない。
安倍・麻生一派は、麻生家が皇族の嫁になったから互いに天皇の親戚になっている。
https://matome.naver.jp/odai/2136862417660256501
で、この人達、水戸学なんて頭の隅にもないだろう。大体、漢文読めないと思う。マンガ読んでたんだから。安倍については法学すらまともにやった形跡がない、あんなハイカルの権化近づけない。
特に安倍のほうは格差社会を作った、小泉家と竹中氏に継ぐ戦犯なのが歴史の事実である。
皇族だって米英留学した~いとか、留学費は借金だから、国民ちゃん返してね!(フィアンセがー)とか、そもそも神道系どころかキリスト教大学いってるし、愛子が犬をニンゲンと名づけるなど倫理崩壊がすごい。
つまり、ここでもまた水戸学の理想は、茨城県でしか通じていないのである。確かに茨城県域なら多少は通じてた気がする。僕の市だって一部の市立教員(体育教師)は酷かったが、前橋本県知事の考え方は実際、愛民面がかなりあった。県民も忠義なので実に大人しい。東京みたく知事へ悪口まずいわない。
僕の市長も同じで、大体、僕の中学のテニス部の前に市民憲章の碑みたいのがあって子供の頃その前で練習してたから折に触れ適当に読んでたんだけども、明らかに市民の為の政治をやろうという善意がある。これぞ水戸学といわざるをえない。義烈両公は県民の政によい影響を残している。これは間違いない。
僕が『北茨城学』と今は名づけてあるブログで、この空き地は公園にしたら? と書いたら市長か誰か市の職員が読んでるかなんかでいつの間にかほんとに中央公園になったり、海までの堤防の上は散歩道にしたら? と書いたらその通りに整備されたり、殆ど僕のいうとおりかよくらい市民の声が採用される。
つまりね、市長は市民の為に愛民政治をするという、水戸学の立派な理想は、普通に北茨城市では受け継がれまくっている。となると、市民としても市長のことは悪くいいづらい。当たり前だけど市民の為になる政治してくれてたら文句つけたくてもつけられないからである。
東京があれだけ乱れてるのは?
東京都知事が、都民がやめろっつってんのに五輪やるわ~カネになるからとか、原発推進だ~とか、民衆の為になることをしようという意識がない。愛民思想がない。水戸学がない。そりゃ水戸の徳川家が統治してた地域じゃないからね。
でも天皇も一緒だ。最初から民の為に祭政しようなんて思ってない。
それで浮浪者が都内には普通にそこらの河川敷にいるのに、やれ皇族はセレブどすとかほざいて英国留学どすえ~とかやっている。ばかかと。こんな馬鹿どものために我々の先祖は幕府とバトったのか。なんたることだと。身の程を知れと。たかだか移民の末裔が神どすとか。意味がわからないんだよ。天皇家。
前の橋本県知事は、僕が観察してた限り、先人が危険を十分認知せず東京人どもに置かせてしまった原発を40年寿命で廃炉だろうと消極策で、一応、JCO除いて致命事故は防いで軟着陸させた。この点は微妙だが、ほかでは本当に生活大県といって小沢さんくらい立派な理想をもっており、しっかり政していた。
それに比べてなんでしょう。安倍晋三。
山口県の4区。この人達やれ長州閥だだの明治維新は俺らがやっただの。オオウソばっかりこいている。お前らあとから出てきただけだろうと。
水長同盟で重い役割えらんで、桜田門外も大政奉還も無血開城も、開国すら俺らがやっただろうと。どこの節穴だと。
山口県はしいていえば長州征伐で引っ込んでいたものを、慶喜が皇軍におうちを譲って、水戸に帰ってきてからやっと東京に出てきて、高知の板垣、鹿児島の西郷を失脚させてからの話じゃん、やっと表の政治にかかわってきたのって。それまではずーっと西で天皇軍とバトって騒擾行為してたわけだ。尊王か?
もし尊王だというなら、天狗党や慶喜公みたいに皇軍がきた時点で恭順していなければいけないはずが、2度も長州征伐に反旗ひるがえして天皇とバトルしてるんだよね、山口は。ということは、長門・周防の人達は機会主義であって、水戸学みたいなしっかりした尊王の250年の哲学は根を張っていなかった。
なぜ山口県の人達が尊皇攘夷にはまりだしたか。これは関鉄之介らが遊説にいったからもありましょうが、吉田松陰が弘道館へ短期留学したからだよ。要するにそれだけ尊王論の根が浅い。だから幕末史の全体でも、最低でも3度は天皇軍とバトルした。禁門の変、第一次、第二次長州征伐。そういうわけだよ。
山口にはね、茨城でいう回天神社のたぐいはない。ということは、領民がガチで尊王主義者だったという証拠はないんだよね。
山口はしいていえば江戸からも京からも遠くドイナカだった。それでいつまでも戦国時代の意識が残存していて、勝てば官軍の古い野蛮さが残っていた。鹿児島もその点は同じだ。
さらには、山口では木戸孝允や伊藤博文、京都なら岩倉具視が書簡で「玉」など天皇を道具扱いしてる記述が複数残っている。これは当時の水戸だと絶対にありえない話で、尊王論なんて常陸国でしか常識じゃなかった。
(木戸孝允・大久保利通・岩倉具視・伊藤博文らの「玉」発言等
1.木戸公伝記編纂所・編『木戸孝允文書』第二、巻七
四十七「品川弥二郎宛書簡 慶応三年十一月二十二日」
336ページ、日本史籍協会、1929-1931年
2.1868(慶応4)年1月17日、大久保利通『参与大久保利通遷都ノ議ヲ上ル』「玉簾」「玉体」との表現で象徴的天皇を否定
3.『岩倉公実記』「具視王政復古大挙の議ヲ中山忠能ニ託シテ密奏スル事」「討幕ノ密詔薩長二藩ニ降下スル事」「小御所会議ノ事」等での岩倉による「倒幕密勅」偽造等
4.宮内省御用掛『ベルツの日記』、伊藤が天皇を笛を吹かれて踊る操り人形と物まねする記述)
実際、鹿児島の大久保利通は慶応元年(1865)9月23日西郷宛の手紙で、天皇の命令(勅命)なんて不義なら従う必要ないと書いている。
木戸は慶応3(1867)年9月4日坂本宛の手紙で、大政奉還を狂言と表現する。
要は天皇を敬うなんて恭しい心を薩長土ら西3国の侍と京都人岩倉はもっていなかった。
天皇機関説を美濃部達吉が昭和10年に国会で非難されるまで、西日本の殆どなんて、下級武士も、公家の親玉も、初代総理すら、天皇を道具と思っていたわけだ。これが史実なのだからしょうがない。
それに比べてどうだろう、我らが義烈に興山公は(興山は慶喜公の号です)。どれだけ奥ゆかしい国柄か。
伊藤博文が汽車内で渋沢栄一に語った。慶喜公の「唯庭訓を守りしに過ぎず」の言葉は本当に奥ゆかしい答えだと(渋沢栄一『徳川慶喜公伝』第4巻、逸事、父祖の遺訓遵守)。https://yuusukesuzuki.tumblr.com/post/190270871804/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3
これが茨城県に伝承し、今まで、回天神社が皇室から完全無視されていても誰も一言も言上しなかった。
渋沢は、『公伝』自序で、滅私奉公の偉大な精神が慶喜公に口をつむがせたといっている(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953146、40ページ)。
勝海舟もつまらぬ小大名と交際し品位を落とさないで下さいと慶喜公へ申し上げている(勝海舟『氷川清話』(28) 處世の秘訣は誠の一字だ)。
そりゃそうだ。西日本の外様なんて尊王心は演技だった。
結局ね、僕の県なんてこれだけ品位が恐ろしく高い県なんだよ。自分でいうのは違うでしょといわれるだろうけど、そこを敢えていうのが僕の役割でしょ。これまで江戸時代250年+明治から150年=400年も、我慢のし通しである。どんだけ我慢するの。
天皇側は完璧になめくさってるからね、わが常陸国を。
一応は、親王任国だと。そりゃ延喜式からそうだよ。令制国だったら関東筆頭だよ、『常陸国風土記』すら残ってるんだから。武蔵国が江戸ができていばりだしたのなんてあとからだよ。私は調べましたからね、馬などの配置の数を。常陸国府が一番の要所といっていい。コメ経済でした。日本随一の米蔵だ。
烈公が北海道を開拓するんだ~といってから、北海道はようやくああやって牧場作られて、今では農業生産でだいたい茨城は2位ですと。でももともと日本一の平野をもってる以上、これまでも今後も潜在的発展力からいったらそりゃ日本一の県ですよ。間違いなく経済成長率からいってそうなるでしょう。
したがって、天皇、今の上皇は常陸宮と弟を名づけましたと。昔からの伝統ですから、常陸国司。宮内庁の人か御用学者にいわれたか当人が言ったかはしらんけども。有職故実ですと。
でもね、回天神社に来ない。おかしいべ。
僕がここでいいたかったのはね、天皇なんて超絶自己中って話だよ。
いくら忠君だろうと。水戸の徳川さんちが。あるいはその部下にあたるお侍さんたちが。領民が。いくらね、尊王だろうとも。そんなの天皇側は「ラッキー」「あっそ」って感じなんだよね。そんですげー軽く扱ってくる。
がんがん自分の好きな場所には行きますよ。英国留学だの。馬鹿かと。足元みろと。
僕はね、その南関東だか京都だかの、本当に心底腐ってる天皇家なり皇族なりをね、じーっと観察してきました。こいつらどんな連中なのか完璧に見極めようと。
研究もし尽くしたくらいのもんだ。
それだけじゃなく佳子の絵まで描いてあげた。歴史に残してあげるためにだ。これもなんと奥ゆかしい話。
中華思想をもってる「主君」なんてね、はっきりいえば亡びたほうがいいんだよ。これが僕の結論だね。徳川家ももう公務やってないけども、僕が主権者として。天皇は象徴だ~とかいってますが、間違いなく亡びます。
だってやってることが愚かすぎるもん。
いくら民衆が忠義でもあんなの救えないよ。
こないだひさひとくんがね、首にあざできてました。宮内庁の人が、真っ暗闇でぶつかったから~とほざきますが、ほんと自殺未遂かもしれんし。偶然にしてはできすぎじゃないのか。あんな首にあたる?
実際ね、ひさひとくん薨去でも皇室自体は残るからね。代でいいんだもん。
悠仁親王殿下はね、薩長藩閥の末裔に「玉」扱いされてるんだわ。仲間にする相手がおかしかったんだもの、自業自得なんだよね。勝てば官軍じゃ、全然なかった。だって実際、明治大正昭和と操り人形にした天皇を、薩長藩閥は首チョンパ直前までもっていったじゃん。全部薩長軍閥が暴走してああなった。
それだけじゃないよね。昭和だってCIAスパイ岸信介の孫だの、大久保利通の子孫だので、かつ皇族の親戚だのが、平成末だって令和初期だってしきってたんだから。つまりは薩長藩閥の末裔だろ。しかも皇族閥ときている。
この人達、西日本の果てから侵略にきてるんだよ。結局ね。渡来系の地域から。
もうわかった。
いわゆる渡来人というのは、昔の中国人の一部と朝鮮人の一部である。その人達は恐ろしく自己中であった。そしてその暴力団にしてヤクザの親玉が天皇。それを玉扱いで権力乱用してきたのが薩長藩閥で、安倍であり麻生だと。これが全てでしょ。
簡単な話、国民を奴隷化してんだよね。
そしてね、義公は天皇を信じすぎた。天皇家はそんな善良なおうちじゃ全然なかったんだから。サイコの極みみたいなもんだよ。天皇家はもとから兄弟で殺し合いなんてざらにあったわけだし、兄弟で譲り合いなんてやってる水戸の徳川家とは全く違う家柄であり血統といっていい。
天皇のが遥かに卑しい。
水戸の徳川家が治めていた250年と、その後、天皇が東京でいばりちらしていた(背後で操ってたのは山口や鹿児島のろくでなしたちでしたが)150年、見比べたらすぐわかる。水戸の徳川がはるかにまさった統治者でした。間違いない。
天皇がなにをしたか。戦争だ。しかも3回も4回も。で徹底田舎差別。
僕はね、主権者として命じるよ。天皇家はもう政界から永久に出て行けと。それが君らにふさわしい。だってあまりに無能なばかりか邪悪すぎる上に自己中で、本当に徳川家に謝れとしかいいようがねえだろ。義烈興山の御霊からみたら天皇皇族は本当に君君たらずどころの騒ぎじゃねえわ。極悪蛮族だ完全に。
400年も奥ゆかしく忠義しましたと。その間なにかわが県にしてくれました? なーんもしてくれないだけではない。原発おしつけて事故おこすわ、震災後にちょいっときてテレビ撮影してうまい高そうな弁当くらっておにぎり1個の被災者見下して帰るわ。そんなヤクザさんをほめるわけがないでしょうが。
昭和天皇がね、敗戦後に最初にきたの水戸なんだよね。だって尊王の聖地だもん。そんで、旧茨城県庁の屋上で、僕の父親が公務員の仕事つまんなくて泣いてたところで、
たのもしくよはあけそめぬ水戸の町うつつちおともたかくきこえて
と昭和帝が詠まれましたと。
僕がそこを絵に描いてやったわ。
でもね、その後、魅力度最低だ~とか。田中章雄っていうね、都内にきた福井人がね、悪口ばっか都民に広めたせいで、全国の極悪人どもが差別してきますと。東京のせいで。
なんだそれは。
貴様ら天皇を奉ってやってたんじゃないのか? こっちは。
そしたら差別してくる。殺人だけじゃなくて。
天皇は何百人も天皇に忠義な女子供含めた民衆こと天狗党を殺しました。拷問の末に首を斬っておとして平気な顔でいました。部下がやったことだから~。朕に責任ないから~。何回いうのそれ。原爆投下しかたなかった~。またか。南京も軍部がやったことだから~。永遠に責任とらず税だけとる。贅沢自慢。
東京に住んで電気つかいまくっておます。皇居の電気代、月々約840万円。1年で1億80万円どすえ。その電気は、原発を田舎におしつけ差別します。だって東京の自分が中華思想で偉いから。渡来人王朝どすえ。忠臣が1865人死のうがしったことではない。奴隷だもん。
こうでしょ? 英国訪問どすえ。
(電気代のソース https://toyokeizai.net/articles/-/114806?page=3
https://toyokeizai.net/articles/-/114806?page=5)
最終結論を書こう。
悪い天皇なんていないほうがはるかにましって話。そもそも天皇とか中国神話の名前だし。日本にいらないから。最初から。日本は共和政だったの。縄文期12万年。平和だったの。差別いらない。中華無用。
純粋に政治哲学の表現を使う。水戸学の尊王の教えってのはそりゃ奥ゆかしい。しかし大久保が批判したよう不義の勅命なんざ無視してやれってほうが合理的なわけだ(薩摩国に目先の権勢欲以外、大義なんてなかったが。西南戦争で西郷が自滅した様に)。
なぜなら、公徳に基づく政治が共和的だからだ。
天皇が不義の命令を下したか。慶喜駆り出して尊王義士の集まりであるところの天狗党を首チョンパするわ、その慶喜やら容保やらに濡れ衣着せるわ、手先の薩長軍閥へ大陸進出させまくった末にまけたらまけたで臣下身代わりに自分はマッカーサーのタバコに火つけてあげるわ、とんでもねえ裏切り者である。
つまり天皇なんて自分の都合しか考えてないって話だ。純粋利己主義者といっていい。だから1865人も天皇の為に死んだのに、そんなの完全無視で平気でいる。自分の贅沢三昧の金さえ手に入れば、適当に国民の為に~とかほざいて憲法すら破る。退位法なんざ決まってねえんだから。国民主権も侵害しやがる。
自分をね、天皇と呼んでいばるとか。そんなの幼稚な話だろ。最初からさ。
そんだけアホが権力もっちゃった奈良の大和郡山あたりの古代人がわるい、もとは。そんなインチキ豪族はぶっ潰しとけばここまで事態が悪化することはなかった。今でいえば祈祷師のたぐいだから。メンタリストやくざだよ。
愛民なんて天皇には仁徳天皇の減税策程度しか一切できなかったって話ね。それもただの減税。只の減税で仁義ぶって威張る。普段から中華ぶって贅沢三昧目的の全国民・全人類差別での収奪が前提なのが根っから邪悪、野蛮極まる京阪神奈・東京人やくざ・暴力団一門だったのが歴史的事実である。この150年を振り返ればわかるけど、それ以前に、大化の改新でみずから中華皇帝ぶりだす1375年間をふりかえってもそうだ。所詮、雑魚は雑魚だった。
長く続く悪政の王朝なんて、地獄の経験でしかない。
一刻も早く皇室滅亡し、まともな政治にもどれ。
奈良県とか京都府とかは、くだらねえ連中しかいなかったに違いない。だからあんな天皇ヤクザがエライエライといわれていたんだ。
残念ながら、茨城県には立派なお殿様がいらせられた。控えおろう。こちらにおわすかたをどなたと心得る、畏れおおくもさきの副将軍水戸光圀公にあらせられるぞ、正に。
まあ矛盾してるよ。義公は尊王の権化だったんだから。けどね、天皇がくだらねー馬鹿殿でも、とりあえず武士としては忠義だろ、って無理があるよ。
この150年の地獄をみなさい。戦争しかしてないんだから。西日本果てのドイナカヤクザをね、九州山口ヤクザをね、つれてきて蛮行三昧だよ。あのばかは。
天皇が消えたらさっぱりしますよ。関西人の殺人教祖がエライエライと。意味がまったくわからないんだから。殺人してる時点でアウトなのにそれが偉いとか。しかも邪教祖すぎて信徒を虐殺しまくって無視なんだもん。どこの人民寺院だよ。沖縄戦なんてあれとなんもかわらねえから。二度と信じないよ。
僕がいてよかったね、首都圏。だってやっと洗脳解いたの僕が日本人初でしょ明らかに。
前からいってるけど僕は松陰や本居なんてはるかに超えて日本史で最重要の思想家だからね。思想の革命家なのは間違いないでしょう。
天皇は邪教祖だとか言い出したやついねえだろ俺しか。共和政にもどせとか。
でもね、僕はとっても優しい。だからね、ある京都の極左女に天皇は処刑しろといわれても、そこまで言ってない。民間人にして生かしてあげたらといっている。
殺人は野蛮だ。天皇は野蛮人で極悪人の家系だ。ずっと殺人教で税を貪っていた。でもゆるしてあげたらいいじゃん、どうせ徳が下なんだから。
殺人教祖の家に生まれたサイコパスがいたとする。そのまま生きていれば自分は特別扱いだと。各国でちやほやされるわなにやっても逮捕されないわ、カネもこの上なくもらえるわ、周りはひれ伏すわなんでもありだと。釈迦なら呆れて出家する状況だが、俗物サイコなら居座る。そんなの下の下でしょ、人が。
そんな下衆未満の存在をね、いちいちフランス革命みたいにギロチンしたいか。血でけがれるでしょ、日本国が。
私たちの国がそんなに野蛮だとしたら、それは天皇家のせいだったんだよ。殺人教祖の関西人なんざどうでもいいんだよ。
そんな蛮族どうせろくな末路にならねえんだから宗教家でいいだろ。
僕がね、最終結論ですよ、国体論の面で。水戸学の忠君愛民という立派な理想は、天皇とかいう偽装の君主がいるかぎり成立しないの。だって彼らみたらわかるよう徳に基づいてる存在じゃないんだもん。世襲だもん。だから馬鹿みたいに贅沢目的の借金を税から返そうとしてるもん。清貧のかけらもないもん。
麗しい国体はね、先ず民衆の為に自己犠牲をものともしない偉い君主が、公徳に基づいて選出されないといけないんだよ。世襲じゃなくて。親が公務員だったとかでもいいけれども、無条件ではない。公徳が高くなければいけない。
その上で、愛民政治をする。
かつ、民衆もその大統領を信頼すればいい。
その忠君の部分で、間に天皇という余計なのが入ってると、なんと、全体が天皇の奴隷になってしまうと。だって天皇は自己中の極みなんだもん。世襲なだけで公徳なんて大してないから。回天神社なんて1回も来ないで御用邸で遊んでんだもん、そんな雑魚がね、公徳云々いえるわけがない。下の下ですよ。
もうおわかりでしょう。
日本の国体がね、すばらしい! なんて凄い国なんだ、ここは。是非とも住みたいとか。だけじゃなく。国民自身がね、私たちの国は心からすばらしいんですよ、だってね、知事がこんなに立派な政治してくれてんですよ、とかね。あるでしょ。茨城はあるんだけど。日本にはない。
茨城は一杯あるよ、少なくとも前の知事は筑波学園都市も作ってノーベル賞2個だかもらうわ、偕楽園もすくなくとも世界2位まで拡張したわ、鹿島だって世界で2位までいったわ、まあ色々あるんだよね。知事がつくってねーけど世界一でかい大仏ですとか。僕の市の単位でも十分すばらしいんじゃないかな。
再三申し上げたよう、なんでなのかというと、水戸学の愛民精神が受け継がれており、知事が県民の為になることをしようと頑張る。愛郷無限と申す。梶山静六氏の言葉である。なんてすばらしい県でしょう。いくら無知な下衆が貶めてこようが全く関係ない。だってすばらしいものはすばらしいでしょう。
じゃあ日本の単位でなんでダメなの。それはね、天皇が腐ってるからだよ。再三申し上げましたが、これはもうダメだ。しくみが。
天皇は国民の為の存在ではないから。先祖を神だといっている自己中の狂人であって、水戸の徳川家みたいに偉い考えはもってなかった。だから亡びます。政治は現実です。
私の先祖は神ですと。そんなの真顔でいってるやつが象徴とか、ちゃんちゃらおかしいよ。ならのね、いなかのね、すげーきちがいじみた宗教でおさまってりゃよかったんだわ。それならまだ納得できる。わざわざあの山奥から東京まで出てくるからいけない。恥かく一方だ。先祖が神。意味がわからない。
じゃあもう終わりにしますので、末尾を書きます。
回天神社にはね、もう皇族こなくていいのかも。だっていまさらきても「おせーよ」で終わりだろ。僕からするとあきれ返って、いまからきても「お前ら自分のことしか考えてなかっただろ」としかおもえないよ。実際そうだろうし。外道の家だよ天皇は。
付記
勝海舟について、学が足りない、とか、忠臣か奸臣かわからん、と書いた。これについてちゃんと根拠を挙げておく。
先ず『海舟座談』読むとすぐわかる。この人、いわゆる江戸っ子である。江戸弁使って忌憚なく語ってるのはいいんだが、畏まった相手をなめ腐る事甚だしい点で大いに町人気質入ってる。
この勝というやつは、経歴からも当然といえば当然だが水戸学の覚えはさっぱりない。なので、慶喜公が明治天皇にお呼ばれして、無血開城で世話になった勝のところにきたのを「得意になる人だからネ」(『海舟座談』明治31年3月14日)とか、ものすげー表面的な理解しかしていない。前述の場面だ。
(『氷川清話』28、に同場面がより詳しい勝による回顧の形で出てくる)
ま、江戸っ子からみてそりゃ慶喜が得意になってる様にみえたといえなくもないというか(実際は冤罪が晴れた感謝を世話になった勝へ伝えにきた)、勝は口が軽いというか捉え方がチャラい。嘗ての主君へその評。
渋沢『徳川慶喜公伝』とかミッドフォード『英国外交官の見た幕末維新』とかを辿るとすぐわかるけども、慶喜公のほうはまさに貴族的な人物なので、奥さんも母も、母方の先祖も皇族だし父方も将軍の家系だし当然だが、勝自身も上述『氷川清話』でいうよう品位が高い。勝はうっかり八兵衛みたいな感じだ。
慶喜公がこのとき嘗て幕臣だった勝のところへわざわざ回ってくれたのは
鎌倉にもとゐ開きしその末をまろかにむすぶ今日にもあるかな
結ぶうへにいやはりつめし厚氷春のめぐみに融けて跡なき
と勝自身が『氷川清話』で詠む通り、徳川に侍った幕臣の恨みを晴らしてあげようという思いやりに違いない。
それを、勝は「得意になる人だからネ」と評する。
ここの心のすれ違いがわかるだろうか。僕はよくわかる。もしかすると一般人は勝のほうの気持ちしかわからないのかもしれないけど、要するに立派な人を勘違いしているのだ。勝なら得意がって幕臣へ自慢に行くんだろうが慶喜公はそんな人物ではない。
勝が巌本善治へ語った形をとってる座談の筆記録なので、勝お得意の軽口がくちをついて出ているわけだけど、ここは、水戸の忠義な侍なら「慶喜公がわざわざ出向いて来られ、まことに畏まりました」とか「お仕え申し上げたかいがあったと痛く感激いたしまして候」みたいになるところである。得意ときた。
慶喜公は得意だったんじゃなくて、庭訓守って尊王に至誠貫徹で、ようやく31年も経ってからやっと、明治天皇のほうから冤罪していたと認めたみたいなもんだから、当たり前だけども一生で最も晴れの心でしょう。その場面で嬉しいのは嬉しいだろうけど、勝のところへ来たのは開城頼んだ一侍への奉公だ。
その開城の場面も、『海舟座談』に出ている。明治31年2月16日の談。勝は慶喜公が徳川宗家の当主なのに、その侍の分際で、家康公や烈公をもちだして慶喜公へ「徳じゃなく世襲で」仕えてると言い出す。
なんでかといえばこの勝は尊王論なんて知らないのである。戦国意識である。薩長の下士レベルだ。
中世レベルの意識で、学もどうもなく、軽口だわ、公徳についてもろくに理解していないといっても過言ではない人間が、何かの間違いで幕臣の中で出世してしまい、慶喜公のオン前に馳せ参じているだけでも、これ僕が隣でみていたらこいつぶった斬ってやろうかと思うんだけど、どうみても地位がおかしい。
当時の状況は上述『英国外交官の見た幕末維新』や、アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新』が客観的かつ丹念に描写してあるので十分想像できるが、英仏米独がうろちょろして外交ぶって、同時にグラバーが薩長に内乱起こさせようとして、時々刻々と侵略の準備を整えつつあった。内憂外患だった。
その状況で、岩倉・西郷・大久保らが小御所会議で慶喜公に濡れ衣きせて江戸侵略を始める。家風で慶喜公が天皇軍と戦うはずないと岩倉は知っていたろう(サトウ『一外交官の見た明治維新』 35章)。慶喜や岩倉の公徳の次元からみて、天皇制で大名諸国をまとめる必要があった。
つまり公徳がないのは勝なのである。だって西国の大名の国々のうち薩摩国と、長門・周防2国が暴れまくってどうしようもない上に(薩摩側は権力亡者だが、長州側は水戸学風の尊攘論を脱構築した松陰の倒幕・侵略・天皇機関説モドキへ転向済みなのが理由)、東西で大内乱すると外国に植民地化される。
ということは、選択肢としては天皇の下で諸大名がまとまって祖国防衛という、いわゆる後期水戸学が「尊王攘夷」を中国春秋時代の歴史から援用して、諸大名が天皇のもとで協力して防衛しようと決め、関らが諸国遊説にいった、最初の理念にもどるわけだ。この点ではずっと慶喜公は一貫していたといえる。
いいかえると、「攘夷」の言葉が独り歩きし、開国アウト、鎌倉時代みたいに外敵を追い払うんだと俗化して解釈され、薩長の対外戦争とか国内テロ含め下士が暴れまわってたのは、大分この理念をとりちがえていたといえるだろう。慶喜の次元からみると、統一国家の形成原理という初期の理念の通りだった。
開国、開港は貿易関係をオランダ以外の他国にも広げることだから、別に独立国として欧米からの侵略に対しては防衛し、主権を維持するという攘夷論と矛盾するわけもない。それをちょっと待って今戦争しても負けるから近代化が先と徳川一族がいってるのに、大老の井伊直弼とか鹿児島と山口が暴走した。
結局、勝は慶喜公みたく大局的判断ができる人物ではなかったわけだ。言動の端々からそれはよくわかる。小人とまではいかないけどどうみても知恵が足りない。身分がどうとかではなく、中身だ。それで慶喜は勝の言動みてこいつに話してもしょうがねえなと思って当然だろう。簡単にいうとおつむの出来が違う。
『海舟座談』明治30年9月○日、勝は徳川の臣は三河武士の遺伝(今でいうミーム)で、明治政府に復讐しようとするのは一人もいない、小さいといっている。これも全くお門違いの理解というしかないだろう。だって戊辰戦争を忘れているし、主君慶喜公が尊王を大義と考えているならそれに従うのが大義だ。
薩長が会津まで攻め込んできますと。そこで皇軍ぶって上陸してきました。しかし会津武士道からしたら、主家筋にあたる徳川宗家や、直近の主君である容保公への濡れ衣を黙って見過ごすのはありえない話で、そりゃ義に堅い侍のことなんだから薩長討つべし、冤を雪ぐべしとなっても自然な話だ。
飽くまで尊王であると。だから恭順しなさいといっていたのが慶喜公であり、また平田学派のいた秋田だ。それで薩長と京都人ははるばる秋田までいって、正義の武士道で会津守護に回った仙台やら山形やら新潟やら水戸の諸生党まで入れて、東北全体で同士討ちさせようと邪悪な陰謀を働いた。最悪の史実である。
この部分は、僕は本当に読み返すのも辛いので、薩長土肥やら京都人こと西軍の野卑さ野蛮さ悪辣さ、極悪非道ぶりに吐き気がするから、知りたい人は是非辿ってほしい。秋田側で史書もあり、会津史観や奥羽越列史観と一定程度違う見方もあるから(ここでも尊王秋田の方がある意味皇軍に冷遇されてる)。
結局あの乱暴狼藉の限りを尽くした野蛮きわまりない外道の極みといってよい西軍がどうなったかといえば、いまだに明治維新は成功だった~とかほざいている。馬鹿かと。侵略殺人犯なだけでなく親族争いだの濡れ衣だの差別と陰謀の限りを尽くして滅茶苦茶やった悪辣蛮族どもの薩長土肥京がほざくなと。
勝の評にもどる。上述の部分だけで学が足りないのはもう説明が足りてると思う。尊王も攘夷も開国も(因みに書いておくが最後期の水戸学は豊田天功『防海新策』などにみられるよう開国論だった)、禅譲伝説に至る義公の家訓なんざ理解及ぶ筈もない一江戸っ子だったので、しょうがない。忠臣か奸臣かだ。
『海舟座談』明治30年4月廿二日、勝は徳川の政治でなく天下の政治、天子の役人(要は尊王論の援用)だといって、幕臣を怒らせたと「得意そうに」語っている。得意になる人だからネはあなただろうと。
これをみても明らかである。忠義な三河武士を馬鹿にしてる時点で怪しいわけだけど奸臣かわからん。
忠義な武士、例えば山岡鉄舟みたいに本当に偉い古きよきのから、渋沢栄一みたいに途中で民間人として商業に転じた新しいのまで、徳川の遺臣らは大抵よくやっている。特に容保公の思いはみな理解している筈だ。
しかしこの勝という男は慶喜公を呼び捨てでなめてる。大体『海舟座談』の全体の論調で。
徳川の侍だけではない。外様でも同じだ。例えば福沢諭吉が勝をどう評してるかは同時代人の意見として貴重なわけだけど、『福翁自伝』で勝を船酔いで部屋の外に出れない病人同様とかいっている。同時に福沢は慶喜公を将軍慶喜公とかケイキさんとかいっている。それだけなんだけども。
(いくら外様の侍でも幕臣でもあったし、慶喜公が将軍じゃなくなっても福沢はちゃんと敬称つき。勿論、忠義の節度からいって随分軽い敬称すぎ、親しみこめてる感じ一種のユーモアでしょう。しかし勝は飽くまでずっと幕臣だったのに呼び捨て。言葉が軽い。勝は慶喜公の十男をこの後、養子にもらったが)。
ついでに書いておくが、自伝で福沢は水戸の老公(烈公)を天下第一の人物と思っていたとか、大分の地元で水戸学系の国学を習った侍をそれはそれは立派な風采と評していたり、そもそも全集でわかるよう一番弟子の石河幹明を水戸人からわざわざ史局以来の文学に達したミームがあるはずとして選んでいた。
福沢と水戸なり常陸国人の関係は、「学者は学者を知る」みたくなっていた。
勿論、後期水戸学が通俗化した外人排斥的攘夷論とか対外戦争の薩長的攘夷(本来は国家統一が目的)なんかは、福沢の天皇機関説的王室論からみると批判対象だった。
勝は働きはよいが学の水準や忠義への誠意は疑問って話。