2019年12月20日

日帝とはなんだったのか

自分の話したあるイギリス人は世界侵略をなんら反省していなかった。寧ろいまだに英国中華思想で全地球人類を多かれ少なかれ見下していた。
 これで思い出したのが日帝の運命と、京都人や東京人の傲慢さとの相似形である。

 香港人がBNO(British National Overseas、英国海外市民)としてもともとイギリス人の一部ではなかったといったので、本当なの? と英人にきいたら当然みたいに植民地住民を見下しており、香港人のほうから出て行ったのだとどちらかなら差別的な扱いをしてるのをみて、UK海賊団だったのだなと感じた。
 国内だと京都人はいまだに京都市が首都といい(冗談なら奈良人もまれにいうが、京都のほうは本気で信じているのでたちが悪い)、『京都ぎらい』で有名になったけれども京都市内ですら洛外を蔑視している位だから中世意識のままである。民族ジョークとかでなく、現実で何度も頭ごなしに差別された。
 結局、中華思想をもちがちなやつらには大まかに2パターンがある。1つは英国・京都式の自文化中心主義であり、つまりは馬鹿だとダニクル効果で自分が何でも上、相手は下と歪んだ差別感をプライドで補強し続ける。これが文化にすらなるともはや修正不可能で、恐らく千年後も彼らは虚栄心に浸っている。
 もう1つは東京式のそれ。江戸時代の時点で既に落語の「そばの食い方ネタ」として、江戸っ子が中華思想の変種を発症していたのがわかる。(いなかものはソバツユをたっぷりつけるが意気でイナセなあっしらはチョンとつけてさっと食うんでえみたいな。でも死の床で、一度はたっぷりつけたかったがオチ)
 東京式のが英国・京都式の虚栄心となにが違うかというと、地味にモドキなところで、裏を返すと小中華思想(大中華が別にある)を暗に感じつつ空威張りでやり過ごす。多分、大阪とか神戸も京都に対し、似た様な民情を少なからずもってきたと思う。ま明治奠都からは東京も虚栄心肥大化しきってるが。

 日帝とはなんだったのかを前述の英人の傲慢っぷりを直接目撃してからつらつら考えたが、これも大体2つの要素がある。1つは水戸(茨城)流儀の純粋独立心。もう1つは薩長流儀の世界侵略心だ。水戸流儀を代表するのは水戸学の尊攘論と天心のアジアは一つスローガンで、薩長流儀なら吉田松陰である。
 幕末期の混乱からはじまって明治帝国がつくられてから、昭和敗戦までこの2つの流儀は複雑に絡み合いながら展開した。しかし大まかにいえば水戸流儀では「飛虎将軍廟」式の武士道がアジアを欧米植民地化から守る運動として唱導されていた一方、薩長流儀では「百人斬り競争」式に脱亜入欧を信じていた。
 この2つの歴史解釈の系譜は現代でも残り、例えば最近の文化人でいう茂木健一郎氏は(母方が佐賀らしいけど)薩長流儀である。僕は地元が茨城なのもあって、水戸流儀に近い。だから茂木氏はイギリスびいきを臆面もなくいうが、僕は中国とか朝鮮とかに同情的だし欧米も普通に批判する。大分違うのだ。

 現代の中華思想というなら、実のところ大英帝国は凋落が明らかになってからもう古都みたいな扱いだから隠然とした勢力くらいには思われていても、一番威張り腐っているのは米国。また日帝のおかげともいえるけど遂に世界の覇者レースに復帰してきた中国の2国だろう。ロシアは障害物競走でずっこけた。
 ここまで同時代をみていて、僕とその英人のあいだの、現在進行形で進んでいる世界史の見方は、相当違うなあと自分は感慨深かった。なぜかというと、その英人は「文化には優劣がある」とレヴィスト以前の考えを普通に言い、フランスや日本の比較的寛容な色恋の話きいただけで「野蛮人!」というのである。
 僕の友達のほかの日本人(東京の人)にこの話をしたら、「あいつら(イギリス人)が世界支配しなくて本当によかったな」といった。確かに江戸・東京からみたら、イギリス流儀だと全員銃殺されるレベルの風俗なんだからそうだろう。ある韓国人は「イギリスに統治されたかった」と僕に言ったことがある。
(いやそもそも植民地化されたくないでしょ、と嘗て尊攘論うみだした現地からは感じつつ、しかも確かに、結果からみたら負けて逃げるわ、下手するといまだに一部の人が南北朝鮮を差別してるわ、などなど、今日の国際公用語レースでも不利すぎた日帝統治よりましだったかもしれないから、大変面白い皮肉だなと一人でずっとその韓国の人に同情してるのだが)

 なにがいいたいかというと、日本人はこの150年くらい、主には2派が内部にいたにしても天皇の下で協力しあって、イギリス帝国らによる全人類の奴隷化に小国ながらなんとか抗い、実際すごく遠征してまでアジアを欧米植民地から解放しようとしていた。国連が原爆おとした結果、さすがに向こうも白けた。
 英人は自分らが全人類を植民奴隷化しつつあったのを日帝に邪魔され、アジア人の分際で生意気だとゲンコツ落としたつもりなわけだけども、我々の先祖は勇敢な上によく考えていたというか、かれらの末裔の僕とかもアジア人になんの差別心も持っていない。皆を守る為にアホなガキ大将に噛みついたわけである。
 戦勝国の常だが(余程文化的に洗練されてなければ、敗者を辱めるなり負の歴史にかきかえてしまい、自国や自陣営を英雄化するもんだ)、国連は日帝が極悪人だったという物語で完全にわが国を洗脳した。ひとりわが国だけでなく我々の先祖が「一つのアジア」として守ろうとした全ての国々でそう喧伝した。
 勿論、50歩100歩どころかジャンジャンバリバリ戦争犯罪してたくらいだしその気風は今の薩長政権であるところの安倍幕府にもうけつがれているので日帝統治がハチャメチャだったのは歴史の事実。敢えて英米仏はじめ国連側が、ねてどんな侵略をしていたかは読者の想像におまかせする。しかし大義は違った。

 僕は香港人が中国政府からいじめられてるのをみても「きみらがアジアの希望だ」と伝えるし、ウィグル人が北京から民族浄化状態なのにも反対だし、かといって全人民の平等を高い理想として掲げた中国にも悪意はないし、北朝鮮すら資本主義導入で発展すると寧ろ期待している。某英人にそんな発想はない。
 アヘン中毒で自業自得の清が悪かっただけとその英人はいう。日清日露戦は国連脱退への最初の一歩だったのかもしれないが、「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」は誠に真実というか、自称正義の大悪党どもが周辺アジアを荒らしているのに侍は黙っておけなかったのが本音だろう。
(まあ大概の外人なら主観を投影するだろうし、穿ったひねくれた見方して、どうせ自分らも利益がほしかったんだろうと名誉白人式なり汚名アジア人式に日帝の意図を評するだろうがこの見方にも全く根拠がないわけではないというか、上記の薩長流儀の歴史解釈だとまさにそれだ。主に薩長土肥と呼ばれる旧西軍を構成した県域での郷土教育などみていると確かに、東日本、北海道、沖縄、アジア諸国への侵略そのものを罪悪視している面は全くない。逆にそれを最大限美化さえしている。
 彼ら歴史解釈流儀の一派は、幕末の騙まし討ちの類(西郷が働きかけ戊午密勅を公卿に書かせたとか、桜田義士との約束破るとか、小御所会議で慶喜排除の陰謀とか、倒幕密勅は偽造とか、史実として無数にある)を全く自己正当化しているだけでなく、侵略被害者側の視点で自己中心な勝利史観を見直せない。「勝てば官軍」(Winner takes all)と、ノルウェー人にいわせれば「海賊の理屈」を素で信じているのがこの薩長流儀の歴史解釈なのだが、はじめは江戸の庶民がつづけて「負ければ賊命惜しむな国の為」と、西軍の蛮行を皮肉っていたのは無視しているらしい。
 例えば韓国の人が一般に学校その他で教えられている歴史観は日帝悪玉論だろうから、薩長流儀の侵略正当化・完全無反省の歴史観とは正反対になる。一般韓国人らが日本人の歴史観全てが薩長流儀だと誤認し、東日本側では「判官びいき」で寧ろ会津に同情している傾向があるなど見えなくなっている理由だ。考えればわかるが、会津史観(水戸史学会が現役で受け継ぐ水戸学研究での、水戸史観の親戚か要素みたいなもの。会津松平家は水戸徳川家の親戚の一つ)は奥羽越列藩同盟側全部の趨勢の帰結だから、薩長流儀は藩閥を通じ明治から平成の政府側の公式歴史観だっただけで、当然被害者の歴史弾圧の面もある。茂木健一郎氏は佐賀新聞社長の中尾清一郎氏らと『日本国紀』『反日種族主義』といった、よかれあしかれ一種の歴史修正主義(歴史観の見直し)的傾向をもつ書物を、自文化中心に(つまり佐賀有利に)肯定評価する傾向があるのは、薩長流儀の歴史観の一端に立脚しているからとみるのが自然であろう。明治から平成まで政府は大いに山口、鹿児島あるいは高知や佐賀の政治家実業家に有利な差別的人事(えこひいき)をしてきたのが事実で、特にそこへ果敢にきりこんできたのが不利なばかりか戦犯の汚名さえきせられた岩手の政治家らだったともいえるが、今も安倍vs小沢でその基本構図は変わっていない)
 英国ひとりが偏狭な利己心で全人類を蔑視しながら、自分の「グレート」な文化を大上段におしつけて回ってきたその内幕が、単なる人種差別だったとみえてしまえば呆気ない。目の前に原爆投下があろうとも、我らの先祖は正義の為には進んで自己犠牲するしかなかったのだろう。日帝と英帝のバトルはそれだった。

 あの(力で劣るこちら側には)致命的な戦いのあとで、75年ほどたち、日本も英国も途上国に追いつかれ、追い抜かれていきつつある。これもまた感慨深い。なぜなら最初にイギリス捕鯨船が自分の近所に漂着して以来、はじまった正義と正義の真剣勝負は、人種差別を覆す結果になり、かなりの犠牲を伴いつつも矢庭に他国を救ったのである。
 日本の先人は彼らなりに必死に考えた結果、どうしても、驚くべき勢いの海賊団に喧嘩うりまくるしかなかったのだ。僕はノルウェーの人みたいに侵略戦争などせずとも独立を保てれば理想ではないか、徳川王朝のままなら中韓その他のアジア人にも恨まれなかったのに、とその英人と会話するまで思っていた。
 目の前で差別され、麻薬中毒にされ、奴隷としてこき使われているアジアの人達がいたのに、そしてその人達を蛮族と軽蔑しながらガンガン殺し回ってる無法者が日々海賊行為をしかけてきているのに(内乱起こす為の武器横流しとか黒船での脅迫とか)、他国民を助けず一国平和で済ましているのは無理だったのだ。

 ガチバトルしすぎたが、あれはしょうがなかったというか義に厚い民族性が必然にもたらした歴史劇だったのだなと今にして思う。これから中国が一帯一路を大発展させ、昔は元寇で会いましたっけとかモンゴル成金とパリまでの電車で会ったりすると思うが(こっちが席を譲るだろう)、それでよかったのだ。
 未来の子供が歴史を読んで、日本が登場するのが一瞬すぎて誰も覚えておらず、しかもなんか負の配役させられてるのを知って「ああ、あの暴れてた小国」みたいにいわれると予想する。これも仕方ない。武士なら慶喜家の最後のご当主がひっそり、水戸の病院で薨去された様に平和が確立されれば用なしだ。
 新渡戸は『武士道』の末尾で、民族精神は滅びない、と書いている。春になれば咲き散るさくらばなの芳香のごとく、どこからともなく崇高なサムライの大義と死に様を伝えるであろうと。零戦や人間魚雷に自らのりこんでまで英帝の暴威(人類の奴隷化)に抗った英雄らは確かに、心では、負けて勝ったのだ。