2019年12月19日

ツイッターは返信を無視した方がまだ使える

きのう、たまたま自分がツイッター上に書いたことに返信がついてるのを目にしたのだが、それは「短くまとめろや」と関西弁で書いてあったのだけれども、これについて少し考えてみる。
 先ずこれは煽りであるから原則無視しなければならない。が論旨中には或る判断が含まれているのでそれを考察する。

 先ずカントは『純粋理性批判』冒頭部だったと思うが、物事を述べるには必要十分な長さがある、との趣旨を述べている。短すぎては抽象的過ぎて伝わらないが、たとえなどを駆使し分かり易くしようとすると冗長になり、結局なにが言いたいのか曖昧になる場合もあるからだ。基本はカントが正しいと思う。
 他方、清少納言は『枕草子』で、下衆は言葉が長いと書いている。これは冗長性を蔑視しているのでなく、語彙が足りない人は平易な言い方しか知らないので、高度な抽象概念を操れないと指摘していると捉えられる。
 情報理論でいう冗長性の方は誤解を避ける要素だから、簡潔すぎる脆弱性の問題もある。

 冒頭にあげた返信してきてた人は0.1秒くらいしかみなかったけど匿名アカウントぽかったので、まあ長文読解が苦手な荒らし目的でお節介風の返信をしたにすぎなく見えるが、一般論として、抽象度が高い専門用語を使えば簡潔にできる。しかし一般人に分かる文体を使うとある程度、冗長になるのである。
 また、そもそもツイッター民全般がそうだが、長文読解の力が低い可能性がある。特に文脈や相手の意図をよみとれず、国語(言語)的な読解力そのものに致命的落ち度がある読み手がみただけで溢れているので、構造的にも140文字だけでさえずると、益々誤解しか生まれない。要はバカッターというやつだ。
 しかも、資本主義経済ではひまをもっているのは一部の人で、比較的資産に余裕がある側(又は全くないか、庇護者に依存している側)にかたよっていることから、貧乏ひまなしの労働者クラスターでは仕事で絶えず疲れていることもあって、冗長性の高い文体に拒絶感を示しがちなのではないだろうか?
 自分がなぜツイッターでこうして、比較的中くらいの長さの文を書いているかなら、上記の思慮から、述べる事柄にふさわしい長さを用いると同時に、寧ろ愚者を遠ざけるには短文より長文の方が望ましいからでもある。しかし自分は俳句も短歌もつくるので、冒頭の人はただ、中長文に混乱しただけだろう。

 5G化でユーチューブ動画に大勢流れると或るインフルエンサーが煽っていたり、PISA2019で15位に落ちるなど高1一般の読解力が大幅に低下してる事実からも、長文を読める人は国内ではますます減るだろう。自分はこの流れを前提に、逆に知性の高い人しかついてこれない世界にいた方が自分に有徳と考えている。
 他人がネット上で只で出してくれている情報に、ああしろこうしろと命令口調(しかも標準語からみたら野卑にみえる関西弁)で不躾に罵る時点で荒らしと判断されるのは目に見えているのに、忠告めかして自己利益に相手を操ろうとするのはなぜか、さっぱりわからないが、理解しようとするだけ無駄だろう。

 ツイッター民の相当数は分析しまくっても「愚か」「卑しい」としか判定できない多くの難癖をあちこちでつけまくっているので、寛容さが低いと嫌になってやめてしまう。自分は感心する鋭い指摘を返信で見たこと1度もない。日本語ツイッターは知的民度が低い。使うなら返信を無視し受発信した方がいい。