神をカミと読み、上方・上身と関連づける語源説は、古代日本語で神をカムと読んでいたり、アイヌ語のカムイを参考にすると、飛鳥時代に奈良地方の一豪族が中国神話(『史記』)の三皇五帝から引いて天皇と名乗り自己神格化しだしたのにあわせ、上位為政者の守・司などを階級制になぞらえ上方を意味させカミと呼び、方向的に上と結びつけた別語に基づく混同と考えられる。
一方で髪の場合は上方と結びつけられているので、語源はカミの方だろうし、雷(かみなり)がもし古代人の中で上方と結びつけられていたならやはりそうだろう。
いいかえると、神の本来の日本語音はカムなら、こちらの語源は、醸(かも)すの語源にあたる醸(か)むにあり、例えば古代人が山からの神気の現れと感じたかもしれない水蒸気の立ちのぼる様子や(後述)、狼(おおかみ)と同質の意味、即ち神性と古代人にとって感じられた神々しい畏れの質感に求まる。こちらの語源がより信憑性が高いのは、アイヌのカムイは随所に遍在する汎神論的な神、いわば自然の本質で、必ずしも上方にいるわけではないからだ。同じく神道にとっての皇祖の様な人格神(人の姿をとった神)は中国神話から多神教を借用したもので、奈良時代に中国大陸から輸入されたが、元々、本州・四国・九州・沖縄その他の日本列島の縄文人らはこの観念を持たず、アイヌと同様、汎神論に基づく自然崇拝(アニミズム)を続けていたろう。
例えば山自体が人格神に乗っ取られないまま神格化され祀られている奈良の三輪山などは、神道登場以前の自然崇拝の名残かもしれない。
私の地元にあたる北茨城市の花園神社も、神道化されない以前の自然崇拝の原型をとどめており、花園川を水源まで辿って行く途中の最も山奥に神社が現れ、更に礼拝対象にあたる神体を探し、入り口に据えられている人格神の像が両脇から見守る門を通り抜け、山奥の奥へ奥へと礼拝者が遡源する設計になっているのだが、その最奥にあるのは単に無限の神秘に繋がる寂然とした人為の入らない自然そのものである。この人跡未踏の最奥の山、神気漂う山林そのものに面する全社最奥の社裏を礼拝者らが回遊できるのだが、人が訪れる玄関にあたる表でなく、自然自体であるカムを出迎える様に裏山を見守る祠が、カムと人を繋ぐ最後の礼拝所として気づかないほど小さく、消え入りそうに設けられている。
つまり、この神社の構造は、古代以前の自然崇拝の原型に対し、後世の武将らによってもちこまれた古代奈良発の神道信仰を表面に上書きし、継ぎ足し設計されていると考えられる。槇文彦「奥の思想」(槇文彦ら『見え隠れする都市』収録、鹿島出版会、1980年)で考察された奥の方に重きを置く日本的設計思想が、宗教習合主義(Religious syncretism)で記録された例ではないか。
カムを祀っていた日本人なるものがほぼ皇祖と同義のカミへの信仰へと、強制上書きで宗教改変された歴史的前後関係、すなわち天皇・武士間の政権闘争を伴う自然崇拝から神道習合主義への宗教観念の変遷を、象徴化したまま残した一例がここにあると私には考えられる。類似の宗教改変は、近代でも明治期から昭和敗戦まで天皇制ファシズムが猛威を奮った時代、廃仏毀釈や、アイヌ、琉球、李氏朝鮮といった別宗教をもつ人々への国家神道の強制でやはり起きていたのだから。