2019年8月7日

哲学とはよりよく生きることそのもの

柄谷も浅田も東浩紀も現実の政治運動では無力を晒しまくった。この系譜は空想的左派と分類されるのだろうが、津田氏は東・浅田を頭脳なり背骨にしたので活動家としての政治勘のなさまで受け継いでしまった。
 今回の致命傷は、彼の今後のメディア活動のどこでも右派全体からの汚名として作用する筈。

 東浩紀の場合、そもそも彼は特定の政治思想をもっているというより、クールジャパン発生のとき猪瀬都知事にロビー活動し、村上隆と共にオタクアートの権威づけを行ったとき以外は、棄権よびかけ問題くらいだけど。それ以外はほぼ有料情報やブロックの城で囲い込み、「知的なノンポリ」ごっこしていた。「知的なノンポリ」って哲学の伝統からみたらある種の虚構への逃避というか、そもそも清談やポリスの理想として最初期から政治哲学が全学問の最高段階の知恵といえるのに、東氏は内輪受けする学閥マウント稼業みたいな閉じた言論空間を作り、一種の新興宗教教祖みたいになっている。
 津田氏はそのゲンロン教団とほぼ一体化しており、今回の展示も蓋をあけてみればアヅマ教義が現実社会ではまるで通じない論理になってしまっていた。政治的リアリズムが全く欠けているから、彼らの教団一派は今後も閉じた権威づけサーキットの内外で色々な炎上、しかも異様な狂気を起こす筈だ。

 老荘やストア派みたく政治的逃避を主義していた思想家もいたが、アヅマ教団のそれは隠遁の部類のものではない様に思う。寧ろ今回のアートテロのよう排他的同調者らの閉じた輪の内で、過激派の反響室をつくる類のものと思う。それで極左アートテロの類を僕が「過激」と指摘しても津田氏は見逃していた。
 一体その種の知性って、ごっこ遊びの類でなければなんだというのか。ほぼなんでも自分に同調してくる暗愚なお仲間や金を払ってくれる信者へ、日がな現実感のない教義を説く。柄谷や浅田がやっていたファッションえせ知識人ごっこでしかなかった批評空間なる思想誌。今日読んでも俗物の虚勢でしかない。
 彼らの愚劣過ぎる知性ぶった虚勢って、いわゆるソーカル事件で批判対象になった意味での「ポストモダン」に分類されるのだろうけど、中身はほぼ全部が無意味なスノビズムの塊でしかない。
 僕は東浩紀の本で1度も感心したこともなければ、小説はぱらぱら読んでて吐き気するほど酷くてびっくりした。どこにびっくりしたかといえば、『クオンタムファミリーズ』というやつで気持ち悪いオタクの主人公みたいなのが自慰し始めたのだ。なんというか文芸として成り立っていない似非私小説なんだけど、単に醜悪なだけで、それで東京の三流馬鹿作家どもや出版社に同業組合賞もらって威張っているのだ。
 村上春樹も大江健三郎も石原新太郎もあらかた読んで今思うと全部色々俗悪で酷いなと思うのだが、東浩紀の小説はモドキなばかりか単に本気で吐き気がする描写が一箇所あるだけで、ほかにどんな感慨も出てこないものだった。一体全体、そんなのが驕りまくるポストモダンの自称知性って虚でなければ何か。

 簡単にいってしまうと、彼らは学閥既得権みたいなのとか文芸誌の箔づけごっこ、都内マスコミとつるんでの俗受けばかり狙っていて何一つ、知性と呼べる代物は入っていない。まあはっきりいうとごみで金儲けしている。それに大喜びしてる連中が少数ながらいるのでいいのかもしれないが、僕は近づかない。

 今回の大炎上は傍目にみてて痛快ではあったが、別に今回に限らずいずれこうなるのは規定路線だった気もする。ソーカル事件のアートテロ版みたいなものだ。中身の空っぽな悪戯レベルの内輪ウケは、何も都内マスコミだけでなく大学界も出版界もほぼ全部を侵食しきっている。東京文化圏は腐っているのだ。大企業病みたいなものとして東京文化圏を蝕んでいるのは、学閥利権ではないかと今回感じた。アヅマ教団幹部の顔ぶれはほぼ東京圏の偏差値序列で埋められ、頂点に東大博士の東浩紀教祖が君臨する儀礼をとる。笑う身分制。なにせ知性の印ですらない学閥を露骨に位階にしてるのは科挙ブラックジョークだ。
 学問なり芸術の本質って、彼らがおもってる類の洋学仕草では全くないのだ。単に人が懸命に真理を探究している姿だったり、その議論の中身そのものに結晶している立派な知恵だったり、或いは人として恥ずかしくないものを残そうと妥協のない表現になんとか迫る純粋すぎる魂だったりする。

 僕がみたというか間接的に眺めた範囲で、最も僕の人生に影響を与えたのは妹島和世さんの事務所とそこが兼ねてたSANAAでみた彼女の全力を捧げた仕事に対する姿勢だった。それは現場でみないとわからないというか、そもそも全員が理想の設計に魂を捧げている。妥協のない自己犠牲を限界までやっている。ここで十分説明できているとは思わないが、言語化して残せる部分にできるだけ僕が感じたことを後生に伝えたいけど、もっとスペースのある別のところで書く。とにかく自分は畏敬の念を感じた。尊敬できる人の下で働きなさい、とバフェットが言ってたがあれは本当と思う。人生によい影響を与えるからだ。
 僕の行ってた専門学校の講師はほぼ全員実務やってる建築士だったり、いわゆる建築家と一応名乗ってる類の人はみたが、一流と二流を分けているものは仕事への真剣さだ。人生自体を含め完全に全身全霊を一点に捧げないと一流になれない。みな途中で恐れて逃げたり妥協する。それで一流の数が少ないのだ。
 一流と二流は実際にはすぐわかるもので、二流の方が威張ってたり派手だったりするものだ。たとえ偽物にどれほどメッキしてもすぐ剥げてくる。僕は一流の人を人生で一人だけ間近にみた。それが妹島氏だったが、古今の建築家でも彼女は世界史に残る人なのは間違いないと感じた。他の人達と根が違うのだ。

 孔子が「年40にしてにくまれるはそれ終わらんのみ」とか、仏陀が「ただ年をとっただけなら空しく老いぼれた人と呼ばれる」と説教してたのは、長幼の序が成立するのは或る人の徳によっているという意味だろう。
 孔子の弟子だった子夏は『論語』学而第一の七で「徳行の優れた人なら学歴がなくとも既に学んだとみなしていい」といっている。これも洋学仕草がただの教養俗物を作るポストモダン的なものなら空しいと示している。それどころか学歴学閥の後光を種に金儲けするの類は、孔子が「浮雲」というとおりだ。
 現時点の政府や企業は、マイケルスペンスのシグナリング理論に基づく学歴差別を行っている。安冨歩氏が指摘するとおりこれが人間軽視の風潮に拍車をかけているのは間違いない。徳行面が優れている人と、単に学歴だけ立派な俗物なら後者が出世する組織では、当然ながらろくな結果を出せないだろう。バフェットは採用時の経歴書で学歴をみない、ただ実績だけ見るといっていた。或いは仕事のパートナーなり経営者にとって最も大事なのは人格だとも。つまり彼は孔子、仏陀、子夏らと多かれ少なかれ同じ観点をもっているのだ。何の実績もない時点でも既に人徳者で、独学した人というのがいるのだから。
 科学主義は人々の知能のうち、特定分野の研究史的潮流を知っていることに余りに重きを置きすぎている。それは確かに一定の学習を意味しているにしても、応用のきく知能の証拠でもなければその知識そのものが将来的に否定され間違いな場合すらある。科学的知能を主とする限り、狂った科学者が出現する。
 科学を主に教える大学までの教育課程は、別の言い方をすれば洗脳だ。研究史の履歴を辿らせ教条的に試験するのだからゆたぼんがいう「ロボット」の方が得意といいかえてもいい。勿論、科学者としては研究史を踏まえつつ別課題をみつけたり、既存知識の誤りを修正する。だがこれは倫理と特に関係がない。研究倫理とか科学者倫理という狭義の学会文法はあるものの、本質的に倫理は後自然学的なもの、科学の後に自ら考えるもので、故に上位の知恵である。どれほど科学的に優れていても乱用すれば却って悪い結果をもたらすかぎり、各科学はどれも道徳的な文明社会にとっての道具でしかないからだ。
 いわゆる哲学という語彙は、科学を下位の要素として踏まえつつ、この種の倫理を考究する広義の知的活動の総称だ。その中には全芸術の工学的側面や、趣味の批評も含まれているので、応用科学のみならず感性論や感情知能、美学といった審美的要素も扱う。つまり道徳とは本来、全学問の総合的知見である。

 ではアヅマ教団はどうか? 彼らがプラトンや孔子の学園式に全学の総合を行えているか。
 自分の見るかぎり全然そうではない。単に真を穿った異見に排他的なばかりか不埒極まりない教義をうみだし、今回でいえば昭和天皇の侮辱が行政展で可と判定してしまった。結果からいえば、大衆に批判された。
 なぜ東浩紀一派が排他教団化していて、本来の哲学が斯くあるべき全学の総合、即ち全批評の止揚を行えないか。それは彼の知恵を愛する心が足りないからなのである。ソクラテスがそうしたよう大衆の只中に自ら進んで行って、賢者らと議論を重ねる必要がある。それが哲学という活動、つまり対話術なのだ。下らない選良主義もどき、今回でいえば身分制じみた学閥・学歴・学位序列だのが含まれるが、それは自分のもっている知識と似た知識の者を近づけ、寧ろ知恵の本体というべき未知の世界を遠ざけるだけだ。哲学は全知全能を前提にしなければ永遠に全徳に到達しない。多重知能的に、異なる人に学ぶべきだ。
 津田氏は盟友の選択を間違えた。東浩紀氏は上記の理由で、真に知恵を愛する人ではなく、親友の破滅を多かれ少なかれ予想しながらも面白がってアートテロで炎上させたり、それどころか元々徳を探求していないので差別観を弄して一般大衆を食い物にしている。人徳とは全人類をよりよく導くものなのに。
 アヅマ教団は今後も二転三転しながら然るべき末路を得るだろう。自分がここでいいたかったのは、哲学の王道とは決して洋学仕草だの大学風だので履行できる代物ではないということだ。それは純粋な徳の探求で、最も知恵を愛する人へ与えられた最高の仕事の一つなのと同時に、よく生きることそのものだ。