きのう私がなにをしていたか。正確にはおとといから。
私はアメーバピグというSNS(Social Networking Service)を開いた。一昨日の夜だったと思う。
なぜ開いたか。私はそのサイトの中でミューデと命という人達に絵を売れといわれたので、その通りにしてみたが、数年試して、結局ろくに売れない上に、嫌悪を感じてやめた。
それで命という人はこれまでも頻繁にイベントを開いていたので、ピグの中にいたら経過を話してみたらなんと言うのか試してみようとしたのだと思う。またミューデという人も、哲学部という私のアバターが作っているコミュニティにまだほぼ毎日ほど出入りしている風なので、この人にも同じ事を試そうとした。純粋美術のミームは商業と一致も、ほぼ調和もしないのだろうと私は感じたのだ。
しかし私が実際にピグに行くと、広場民に囲まれ、どちらかといえば歓迎された。これはピグ民はサイコパス的に悪解釈すれば玩具を欲しがっているとも解釈できるが、私はアバターにおいても善意の行動をするので、匿名の果てしない悪意の巣窟にあってはありがたい存在なのだろう。また以前からそこで下衆なナンパ師達とたわけているある女アバターがいて、私はこの人がしばしば娼婦じみた状態におちぶれている様子を見て同情していたのだが、この人にまたも声をかけている或る男に君は本意でつきあおうというのかと問い詰めると、その男は逃げてしまった。いつものことだ。
ところがその女アバターによると、彼女は下衆なナンパ師達を下衆だと思ってはいないのだという。寧ろ彼女はその私の目には最下等の男達(ほぼ性行為の道具としてしか女に対する価値を認めておらず、すぐに捨てるばかりか人格的価値を認めていない)が「楽しい」「いいところもある」人達だという。
彼女は単に下衆な男達(最近の20代広場男アバター連、通称としま(玉井)一派)だけでなく、その他の知能の面では対人的に不躾といわざるをえない類の、あるいはもっといえば育ちの宜しくない風にしかみえない、誹謗が趣味の人達にも同じく感じているのだという。まあ端的にいえばSNSの中で下衆と戯れているだけだ。彼女は「自分を誹謗しないので」その悪友らが私から嫌悪されるのは解せないのだという。一言でいうと、彼女は共感的知能が足りないので、他人の立場で、もしくはメタ認知的に、或る人が別の人達にどう振舞っているかを客体視できず、人格的評価を見誤っているわけだ。これも多分よくある話なのだろう。世の中には暴力団員の男に惚れている様な女がいて、この女からすると自分には優しい人なのだと思っているに違いない。ピグの上記の女(ここではLとしよう)も、これと似た思考回路を辿って他人を扱っているので、自分に都合がよければその人が犯罪者であっても「いい人」だと解釈するかもしれない。
私は仮初にもこのLに同情していた。だから彼女を上述の点で、或る人格を客観的に評価するのが処世術において重要だと教えるのに苦労した。彼女は広場で周りに戯れてくる匿名の悪意ある、もしくは愚鈍な他人のちょっかいを間に受け、「(私に)騙されない」「誰でも悪意をもっている筈(だから少々の悪意を持つ人々は普通だ)」などというのである。
それで私が以前からつきあっていてピグの事情にもかなり通じている別の人に、これはどうすべきかと相談してみたが、無論「放っておけばいい」「Lの自業自得」との返答だった。確かに、同類相憐れむといった風に、Lの中では下衆が仲間に見えているのだろうし、自由の範囲でそれでいいのかもしれない。
また別のピグ内での話だが、そこにちーちゃんという女性アバターがいる(一説によればゲイ説がある男性が中身だが、当人は否定している)。
彼女は喧嘩イベントという誹謗をゲームにしていた規約違反の不良集団の場が出身ではあるが、政治広場にきてからは論戦の才を生かし治安回復に活躍してきた。勿論、2chを使いながらの誹謗だの個人情報さらしだの、現実に女性を連れ出しての淫行を目的にしたピグの規約違反者らからするとちーちゃんの存在は邪魔なので、政治広場民の一部は彼女の方を荒らし扱いしているけど、それはまあ彼らからすればそう考えるだろうなというだけで、彼女は善意なのである。
ちーちゃんは政治広場を、僕のアバターらと、かなりの数の人達とのピグ内での複雑な協調行動で治め、荒らし達がろくに規約違反の行動をできなくした。このため我々はピグ内でやることがなくなった。でアラフォー広場という当時、ROSAなる荒らしがシステムに異常負荷をかけ誰も近づけなくする行為で、大荒れしていた場所に、ちーちゃんはきた。
僕も同時期に似た様な意図でアラフォーの様子をまず調べ、既にROSAらの行動を抑える為に先駆けていたので、ちーちゃんは少し後からやってきて、「あれお前もいたの」みたいな感じで、また僕と協調して行動する事になった。それから4年ほど、彼女は一生懸命、荒らしに虐められた人らを助けていた。
そしてきのうの話。
この1年くらい、ちーちゃんがアラフォー広場民に虐められまくって排除されていたおのりちゃんという女性アバターを助けていた戦いがあったのだが(通称さと事件)、なんとそのおのりちゃんが鬼月という男になびいて、助けてくれたちーちゃんを裏切る形で決着していたのであった。
恋が友情を切り裂き、善意が裏切られた結末なので、これは悲惨な話だなと思っていたら、ちーちゃんが僕に「女の友情なんてそんなものだよ」という。周りの女性アバターらもほぼ全員(黙っていた人をカウントしなければ多分、全員)が同意していた。これは社会学というか文学、心理学、脳かもしれないが、恐らく主に人文学の領域でちゃんと研究すべき課題だ。
1.一般に男の友情に比べ女の友情は浅いのか?
2.一般に女の恋情は友情へ常にまさるのか?
3.上記の事実があるならその原因は何か?
4.男女に限らず友情より恋情を択ぶ人がいるだけ?
5.脳はどういう経過を辿って恋情を友情より優先しうるのか?
アメーバピグというサイトは、はっきりいって内部での犯罪をほぼ取り締まっていなかった。アメーバ利用規約というのはあるのだが、それをちっとも守らせようとはしていなくて、空理空文と化していた。のみならず僕もちーちゃんもピグ内で無数の違法行為を見たと思うが、それさえ通報が無視された。ばかりか、ピグ内にも多かれ少なかれ善意を持つ人達はいたので、我々はみるにみかねて違法行為をする逮捕以前の被疑者だとか、規約違反者らから我々自身を守りあって相互に自衛行為をしていたのだが、サイバーエージェント社側は、寧ろそっちの方をBANする事さえあった。まあ法務が破滅的なのだ。
具体的にいうと、りおしというアバターがいて、彼は上述のROSAというこれは明らかに意図的にシステムに異常負荷をかけ全員を固める、個人情報連呼で集団虐めしまくるなど完全に荒らしの人なんだけど、このROSAと正面きって戦っていたら、なんとアメーバ運営側はりおしの方をBAN(禁止や破門などの意の英語で、ここでは利用者のアカウントを運営が強制削除し、サイトから排除する事)してしまったのである。まあこれは裁判でいったら先ず完全に誤判定で、冤罪事件となる事例であったから、広場民は僕も含めほぼ全員が驚愕した。だけど運営側ははっきりいって、広場を完全に放置していて内部の事情なんて何にも知らないまま、荒らし側の悪意ある虚偽通報とかを真に受けて適当にBANするレベルだったのです。
アメーバ利用規約というアメーバ全体の規約には日本法に準じると書いてあって、我々は(少なくとも私は)法律とこの規約に照らし、ピグを自らに信じられる限り公正に利用していた。だから日本法か規約に触れている行動で、他人に意図的に害をなしているピガーの災いが甚だしい時、通報するのだが、こっちは法に触れていても見逃された。
サイバーエージェント社は上場企業である。だから皆さん、この会社を信用している筈だ。けれどもアメーバピグに関しては、運営が潰して本当によかったと私は思っている。彼らがもし内部がどんな状態だったかきちんと調べていたら、幾ら営利とはいえ良心のある人ならとっくに潰していた筈で、正当防衛の自衛行為すら不可能な地獄でした。
ちーちゃんという人、またりおしという人も、端的にいってその様な場で、非常に賢明な利用者の各々一人であって、悪意ある匿名利用者らの犯罪行為の山の中で、僕も色々と彼らとやりとりはしたけれど、実質、自主的に被害者救済の為に物凄く努力していたのは事実である。日本も少数なら善人がいるのだ。りおしは別件でBANされた説(規約の範囲内で合法的な自動ツールを使っていた)も取れるし、まあ真相は分からないのだけど、私以外の誰も彼の英雄的行為の数々を擁護というか賞賛する機会はないだろうから(そもそもピグ論客やら史家が殆どいない)、私は彼の栄誉は後世に残されるべきだと信じる。
ちーちゃんも、上述のさと事件がアラフォー広場における数々の事件や劇の中で、最も悲劇的なものの一つになるとは思うけど、そこでも実に気丈に頑張っていたのは某広場に詳しい人なら大概誰でもわかる話だ。寧ろ敵の方が同情していた風で、さとちゃんというおのりちゃんと敵対していた方がよくわかっているのだ(ちーちゃんの上述の独白の時、普通に周りにさとちゃんらがいたけど、鬼月と共有したアバターでちーちゃんを蔑ろに責めまくるおのりちゃんらしきアバターの一方で、さとちゃんは寧ろちーちゃんの独白に頷いてる様な感じだった)。
ちーちゃんは、政治広場で最初の厄介事の中心であったホメという人とも深刻に対立してきたのだけど、ある時、僕らと議論してこのホメという人を十分に排除可能な機会がきたとき、ちーちゃんはホメを助けようと言い出した。この考え方は憐れみみたいなので、公の敵に武士の情けをかけるべしというのだ。この一件をとっても、ちーちゃんという人物もまた、ピグとかいう匿名偽名SNSの中では最も良識的な魂というかミームを持っていた人だと評せる筈だ。彼女の基本的なピグ利用法は、特にアラフォー広場にやってきてからは、政治広場における政治広場新聞というピガーのやり方に幾らか似たもので、自らのアメーバブログで広場等で公に話された内容を記録開示しつつやりとりしていくといった形になっていった。当人からすれば喧嘩イベント流儀で身につけた、公の議論での証拠を自らのアメーバブログで提示しているつもりなのだろうけど、副作用的にピグ内の些細なゴシップをばら撒く面もあったので、安易に広場で噂の種にされたくない人から反感を買いがちで賛否両論あるのだが。
で、私はこのピグというSNSは恐らくほぼ完全に理解し尽したし、その内部で起きるだろう現象にもあまり知的好奇心やら向学心面での期待値が高くなくなったので、最近殆ど行っていない。一般的にいえば呆れたのである。そして上述のL氏を助けようみたいな啓蒙的意図も、もう凡そ無用だなと思い始めた。
ここからは一般論になるが、SNSとは何か。人々を社会的比較の欲求(社交的欲求)で縛り、何らかの課金の場を与えつつ、或いは広告で囲い込み、運営が金儲けする電子的社交場の事。心理的に顕示的消費だの羨望に基づく嫉妬を種にした場で、不幸を触媒しているに過ぎないのではないかと仮説づけられる、近年のネット上の流行。不幸を触媒にするとは、もっといえば「痛快(シャーデンフロイデを私が和訳したもの)」を目的に、自分より不幸だろう人を探す、下卑た快楽の場なので、SNSの全要素はこれではないが、実際にはこれが主眼になってしまう。人は社会的動物としてコミュニケーションに飢えているせいで、釣られてしまう。
SNS上で恋愛し、人の個性を見分け現実に配偶するという世界がもう現実のものとなっているが、一方でフェイスブックを筆頭に、人類全体に脳内線条体の嫉妬機能を援用した社交場を与え、そこでの中毒的苦痛もまた甚大になっている。私はもうその種の媒介にも呆れているのだ。肯定的側面が少ないから。
上述のLの話題にもどるが、彼女は「悪意」という概念を、倫理学での動機説、法学上の事実を知っているという意味と違う文脈で使っていた。より詳しく話を聞き質していくと、法的に「過失」という意味(意図しない他害)であった。だがこれを私が知るまで、彼女は私の人格を謗ったり、周りの衆愚と群れ尊厳を辱めるなどしてきたのだ。この一例だけ取っても、私は多大な苦痛を強いられ、しかも私側の払った費用は道徳性と遵法性の違いとか、動機説と結果説の違いとか、カント倫理学と法学の基盤みたいな話まで含め、半日以上かけて大変な労力であった上に、周りの衆愚の方は面白がって私を誹謗しまくるといった風で、まあ馬鹿げている。
即ちSNS時代に啓蒙主義は実際性を伴っていない。彼女の方は仮に過失の法的定義を少し認知した所で、他に彼女の気づかない自己中心性と客観性の違いとか、幾つも認知的障壁の様なものがあり、それらを乗り越え私とコミュニケーションの共通基盤を得るまで甚大な労力がかかるだろう事は目に見えている。
或る脳科学者が昨今、誰もが知る人気は失われ、各々の最先端は房化(クラスター化)しているといっていた。恐らくSNSの流行による情報環境の変化と、この現象にも密接な関連がある。啓蒙主義は素朴な考えで、文化的多様性を包含するものではなかったわけだ。寧ろ学問的愚の方が適応的な場面すらある。サイバーカスケード現象と、流行の房化は、ポスト真実、科学主義の後退等とも同時代的に起きていて、要は人は各々の情報場を脳内語彙として持ち、その体系から遠い物と無関係に生きている。文化的多様性とは学問的愚を含め、全ミームらを含むもので、我々は自分に似た人とつきあう様に導かれている。
私はといえば全知に到達したいという大望をもっていた。二十歳から10年間くらいの事で、今も当為としてある。だから海千山千と、愚人俗人の思考原理まで、あらゆる学的正解と別体系として理解しようとしていた。結局これは不可能で、博学の領域拡張になるだけな上に、無秩序な俗界の方が理解は難しい。SNSへ予め期待できるのは、はっきりいうと俗界の分析に留まる。学的知者は少数派だから彼ら単独を追えばよいが、個性に対し無作為な遭遇率の場になればなるほど、俗悪な多数派に遭いがちだからだ。孔子が「君子は上達し、小人は下達する」といった理由を我々はよく考慮し直すべきだと思う。