2019年5月9日

イケメンという俗語は下衆女による顔への発情の言い訳に使われている

Men'sは男物、男性用の意なので、顔というより服飾用語(俗語)だったのでは? 某ファッション雑誌の。着心地とか無視すればかなりの程度は視覚的な概念だった筈。それを更に俗用した人達は、men(男達)を面と混同し、顔のよしあしへ援用する様になったと。いずれにしても和製英語の混乱を含む。もしメンをmenの、本来の英語に近い意味で使っている場合、複数形だから特定の男性に向けていうのは、一種の性差別・属性差別的な内容を含んでいる。特に見た目に関していうとき、「あなたは見た目のいい男達だ」といっているのだから、個性を無視している。ゆえ一般には面の意味で曖昧にされている。
 なぜ平成時代にあれほどイケメンという俗語が、そこらの下衆女の中で頻用されていたかといえば、この和製英語の曖昧さの中で、男性への好みに紛れ込ませて見た目に発情する卑俗さを女だてらに正当化できたからなのだろう。それまでは見た目だけで発情するのははしたない態度だったから便利だったのだ。いいかえれば、「女性は少なくとも淑女でなければならない」という上品さへの性差偏見を、イケメンという渋谷ギャル用語は覆すのに便利だった。もっといえば下品な意味で、単なる男性の顔(見た目)に発情していても、それに失望された時「でもメンは見た目だけの意味じゃない」と言い訳が用意できた。
 更に深く分析すると、三島由紀夫が『若きサムライのために』でいうところのプラトニズムの堕落が起きて、江戸の旧町人に該当する一種の下層階級(教育程度が低い東京商人)の中で美意識のアメリカ化が進んだ。彼らは服飾用語を転じて心の価値より見た目だけで発情していいのだと女に大義名分を与えた。それまでの日本の美意識では、特に武士階級以上で婚姻相手を上司が政略的に決めていたお見合い婚の名残もあって、人間の本質的価値は心(心理学的にいえば人格、特に性格)に置かれていた。三島が言うとおりアメリカ人は肉体を精神と同等以上に見積もる文化ならば、戦後はその影響を受けたのだろう。
 因みにこのイケメンという言葉は出自が俗語なこともあって、たとえば皇族だの箱入り娘が公の場で使えば品がない言葉に聞こえるだろうし、正格の意味をもっていない上に、内容が見た目の賞賛または卑俗な類の関西弁(いけてる)+和製英語による曖昧な発情が含意されるので上等な部類とはいいがたい。自分はイケメンという俗語を使ってる女はその時点で出自が低い(その意味で育ちが悪い)んだろうなと思えるので、一種の階級用語みたいなもので、便利といえば便利だが、自他いずれに使われても見聞きするのが不快でもある。勿論、世俗化した皇族も現実に使ってるかもしれないが、立派な言葉ではない。なぜ立派ではないかといえば、見た目に発情すること自体が伝統的な意味で下品だからだが、同時に、これを曖昧めかした言葉で語るのは誤解を呼び易いだけで誰も得をしないからだ。つまり卑怯な言葉なのだ。見た目のよさを褒めたければ美男という言葉が既にあるし、中身なら良い人でいいのだから。
「やばい」という俗語(元は犯罪者の隠語)はイケメンと似た曖昧さを含んでいて、素晴らしい、美しい、偉大だ、あるいは逆に、ろくでもない、下らない、どうしようもない、醜いなど、本来使われていた不都合、危ないという意味以外に若者言葉として転用されている。多義語は単純な脳に好都合なわけだ。多義語を修辞法として二重三重の意味を含意させて使うという知的な冗談を含んでいる場合は例外として、語彙の不足を曖昧な多義語で補おうとすると思考自体が矮小化してしまう上に誤解を招き易い。イケメンもこの部類の俗語である。言われた相手も聞いた人達も何を指して褒めているのか分からないのだ。
 男性でも女の真似をして、イケメンといって男を褒めるかそれに類した文脈に置く人が出てきた。この人達は下衆に基準を合わせているに過ぎない。例えば徳仁天皇陛下とか愛子内親王殿下に「イケメン」というなら面白いかもしれないけど、それはこの語の含意する下品さを階級差別への皮肉にできるからだ。つまり下品な言葉を素で使ってるのは単に野暮な話に過ぎないといえよう。まあかまととが受け狙うなら却っていいのかもしれないが、そんな程度の用語を東京神奈川の南関商人だか関西女が連発してても、ああろくな育ちじゃないんですねとしかいえない。当人らの中では通俗性が高評価なんだろうけど。