2019年1月30日

名を名乗れ

やっぱ下らん濡れ衣ごときでツイッターみるのやめるのもばからしいので、自分よりばかに場を譲るのはよくないと思いなおした。これは正義の為だ。濡れ衣を着せるほうが悪いのだから打ち倒さねばならぬ。
 千万人と雖も吾往かん。全人類が敵だろうと正義を譲るべきではない。
 濡れ衣を着せてくるような無知蒙昧にして悪質なやからとは、地上から骨一つ残らぬまで徹底的に戦い尽くすべきだろう。わが国武士道の前に、良心のひとかけらたりともこぼれ落としてはならぬ。吾への嫌疑を晴らした末、全員が敗残するまで吾は戦う。
 匿名が卑怯かどうか。間違いなく卑怯だろう。どんな理由があるにせよ匿名で逃げ隠れする事は卑怯というほかない。日本人の殆どは卑怯者だ。だから2chであれだけの大悪業をしてきて恥じる気配もない。匿名の卑怯者は全員罰するべきだ。適当な言い逃れで匿名の卑怯さをごまかすのは誠に卑怯者の所業だ。
 偽名や仮名で行動するのは訳ありにせよ、これもやはり卑怯さが幾分か混じっている。人は親から貰った名前があり、それを玉の様に抱いて生きていく他ないのだが、いわば名誉や誇りはこの名前と共にある。名を失ってあるいはごまかして、人が誇りを持てるかといえばそれは偽だ。自分を失うだけだ。
 私は水戸で多くの武士が眠っている墓を見た。その中には私と同姓同名の墓があった。彼は幕末の志士であり、勤皇の志を抱いて懸命に生き、そして死んだ。彼の誇りであった名前だけが私の前になお残っていた。私はその武士に敬意を表する。彼の考えは今では古いかもしれない。だが彼の名は名誉ある名だ。
 私は私の名と共に生まれ、名と共に死ぬ。私の死後、私が懸命に生きた事は万人に忘れ去られるだろう。私の苦労も、私の感じていた感動も。だが、あの武士の様に、私の名前はきっと未来に残るだろう。だから私は名前を失って生きる事はできない。それは未来の私と同姓同名の自分に志を伝える為だ。
 武士の子は、自分の家名を誇らねばならない。武士はいつ死ぬかも分からない。残るのは名前だけなのだ。私達はもう武士という身分を失っている。だが先人の高貴な魂に学ぶ事はできる。死を賭し、自らの志に殉じる。死後もその名を汚す事なきよう、誇り高く生きて死ぬべきだ。
 私は2chの文学板という場所で、嘗て、綿矢りさという作家のスレッドでセクハラをしている者を注意した時、自分の名を名乗ってからそうした。それは匿名で、自分だけ安全な場所から誰かを責めるのが卑怯だからだ。愚物や下衆にはそれが分からない。だが高貴な使命を果たすことが何より重要だ。
 この世で、高貴さとは魂の命令に従うことを言う。決して外から与えられた身分や賞賛が、高貴さを身にまとうのではない。私は自分の魂の声に従う訓練に命を懸けてきた。誰に恥じることもない生き方をするには、先ず自分が自分を絶対に尊敬できねばならないからだ。俯仰天地に愧じずと心からいえるよう。
 偽名や匿名で生きる事についてぐだぐだと言い訳がましい連中は、みな自分を恥じる心を必ずや免れない。親の与えた名はかけがえのないものだ。他人がどういおうがその名を捨て、私は誇り高い者ですなどとなぜいえるのか。先ず自分自身をみるがいい。自分に恥じることがなければ捨てる名などありえない。