官僚支配が腐敗の原因なのは、科挙制や資格試験制が形骸化し易く、公務員の倫理崩壊に際しても弾劾や革命の民意が反映されない為だと一般に思われる。他方この自治体の民衆が衆愚的である時、政治家は彼らに同調し易い暗愚さや悪徳によって選ばれる為、選挙を通さず政治参加している官僚の判断の方がより正しい可能性がある。また天皇制度に一切の民意は反映されず、試験も選挙もなく、単なる人種、身分、性差別を通じた宗教権力の独裁にその目的がある。
報道が商業的なら対象とする視聴者への迎合が必然で、自治体発や公共報道の時はそれらの権力に好都合な情報を発信する。衆愚は報道一般を真と誤認する。時に天皇や官僚、公務員を含む衆愚にとって、報道を通じ洗脳された周囲の多数集団と見える人々あるいは実際の多数派の中で、虚偽や誤解、悪意ある誘導を見抜くのは難しい。科学的知性を持つ人の大多数さえ、当時に珍奇だが真である様な知識を公認する勇気や判断の欠如が当たり前である事を思えば、より複合的な善や美、聖といった価値づけを含む情報について正確無比の理解を一定より大国の大衆に望むのは無理があるかもしれない。以上から、少数である事が正しさの根拠にはなりえないものの、良識一般が多数に属さず、また天皇や官僚、公務員、政治家一般といった政治的・宗教的身分にも由来しないのが明らかである。即ち良識は常に何らかの少数派か個人に由来し、政治制度や情報の本質から導いて、肩書きや地位によらない。この種の良識をもつ少数個人を善人と定義すると、我々はこの善人の恩沢に浴する事によってしか政治文明を前進させえないし、言論、表現、討議、演説、集会等の害他的でない範囲についての個人の自由が最大多数の間に確保され、結果として相互参照でまねされ得る社会においてしか、大数の法則による確率収束により、進歩できない事になる。その上、善人に学び自ら向上するという態度を持たないか、それに遅れる又は学び得ないだけ愚かな集団がある為、結局は少数集団からなり人口が十分に少なく、かつ、最大の自治権をもつ国においてしか、政治文明上の十二分な進歩は果たされ得ない。
治世は広義には社会生活の一切を意味し、人生で起きる諸問題や不条理を人為的に解決できる限り国民の幸福に結ぼうとするだろう。官僚主義に陥り公僕に横柄さが見られたり、政治家や議員が堕落して愚者同然の悪徳にまみれていたり、天皇の様な政教一致の超大な絶対権力を独裁する邪教祖が政府と密接に関わっていたり、大衆が公徳に無関心となり単に利己や害他を喜ぶ衆愚化していたりするのが人口の多い大国や大都会の日常なので、これらの地域では政治は必然に退廃し続ける。一国の内部でさえ、個人や少数者が正論を述べ得、しかも善意が素早く多数派に伝達され易い小自治体の方が、政治道徳的により先まで進む。もし最高幸福が良心の満足であるなら、人類の中で最も幸福な人物は、小国のいなかで公共へ最高程度の徳行を果たし続けた善人である。およそこの人物はその地方にあってさえ聖人と見なされるだろうが、イエスや孔子がそうであったよう、堕落した階級が支配した国、又は衆愚の中では犠牲にされ排除されてしまう。公徳の伝播に地域偏差や時代間での変容があるのはこの為であり、ある人が引っ越したり、都市の興廃が起きるのは、生計要因を含めた善意の偏りに応じている。教養や品性に欠ける人々にとって、大都市は望ましい移住先である。それは公徳に欠けたふるまい、数多の悪行が公然と罷り通っているからであり、無知を補って余りある愚か者の群れをあちこちで見つけられるからである。政治改革にあたって、大都市の解体が最初にはかられるべきなのは、この点から明らかである。ある程度の少数からなる自治体が良識的個人によって十分に統治されえる事が、幸福な国の構成単位として必須だからだ。巨大な人口を有する国々にあっては、連邦化が望ましいのである。