2018年2月9日

貴族道徳と脱自民主義

無欲と乞食を理想視した仏陀は、本能としての自己実現の利己的充足、即ち俗悪な暮らしをしている衆愚と正反対の存在になった。税金を暴力で貪りつつ生活保護を出し渋り、国民を奴隷化している暴力団、即ち皇族閥と公務員は、世俗的衆愚が殖えれば己の贅沢と権力私物化による有利な地位が維持できる為、民衆の俗悪さを軽蔑がてら強化したがる。会社員という労働奴隷らは群れて、自らのいやしめられた立場を言い訳し、聖職者や僧を俗に染めるか、さもなくば非世俗的として貶めたがる。抑、格差を低減させるのが聖職階級という最も清貧な知識人らの自己犠牲的利他行動の目的だが、衆愚たる労働者階級は利己的で下卑ているためこの目的性を理解しない。だから労働者は無業を辱しめ、自ら奴隷志願し、搾取された立場を合理化しつつ、悪意の暴力団階級たる皇族閥や公務員へ卑屈に服従するのである。
 資本家と労働者に分離された階級制が、更に二極化されていくのが資本民主主義または自由民主主義の本性であり、それが格差に由来した差別感や嫉妬感の蔓延による不幸な国を作ることは明らかである。社民主義与党をもつ国で解決済みの欠点、つまり格差拡大による低福祉化、国民一般の不幸化を、世俗的利己で生きるしか能がない衆愚には永久に改善できない。抑何が失敗しているのか、公徳全般に欠如した衆愚たる労働者階級に理解する余地はない。堕落した暴力団階級たる皇族閥や自民党閥も、有利な世襲地位の旨味を自ら手放す誘因がない。資本家にとって腐敗した衆愚国民の不幸は、自らの富を羨望させる悪い快楽に他ならない。こうして、金儲けや政治から免れている無業階級だけが利害から自由な為に、自由圏の没落を社会主義段階への移行という論理で啓蒙できる最後の可能性であり希望となる。無業者達
が資本家、労働者、暴力団のいずれによっても貶められている国や地域では、これら衆愚層への高貴な説教は無視されてしまうため、それらの国や地域では凋落や破滅が必然の末路であり、新興国に株と主権を奪われ現実に滅亡するだろう。結局、無業者に対する尊敬の有無、つまり非生産的な生活をするがゆえに尊ばれる貴族道徳の有無が、その国が自由主義段階を抜け出す最後の手綱となるのだ。無業者にとって金儲けをはじめとする生活の為に行う一切の労働、わけても利益追求のごとき下賎のふるまいは侮蔑すべきどころか死に値する自己の品位への冒涜と考える、その態度こそ、職業的地位へ利己的に固執する暴力団、資本家、労働者全ての最も弱点とする急所であって、しかもこの貴族性こそが社会主義段階における資本への本質的侮蔑と労働からの解放という脱俗的性行の要だからだ。