我々の文化偏見は我々が教養的であると見なしたいものしか高尚と認めない。文化偏見は教養構造の上澄みで、階級性又は地域性を伴ってある。だから都市の教養は田園のそれとは違う。商業趣味は商業都市の外では軽侮されるものとなり、いなかの善は都市民にとって理解し辛い。しかし、都市的な事は必ずしも洗練ではない。又、それらの文化偏見はどれも、文化多様性の眼差しから見れば文明論の建築方法差に過ぎない。
都市民の邪悪は田園民の目からしか見えないものであり、田園民の不合理な慣習や技術的な遅れは都市の目からしか見通せないものである。文化偏見は地政学や民俗学、文化人類学などの地域科学により取り除かれねばならず、しかも文化多様性を維持したままでそれぞれの文明を向上させていく事が必要な統治的観点なのである。この点で、宗教原理的な天皇政治の帝国主義も、欧米の侵略史観と自文化の暴力による植え付け即ち植民地主義を模倣した薩長土肥の明治寡頭政治も完全に劣悪で、悪例や悪疫として全面的に否定されるべき政治体制であった。これらの侵略主義政治と真逆の、多文化政治がなされるべき真の政治体制なのである。