2014年5月31日
奈良出身天皇邪教の末路
GHQ連合国みな侵略者アジアを抑圧する為に天皇賊と共謀せしなり
薩長土蛮戎関西目的は英米利用し侵略する事
蛮戎賊東京で罪を重ねあげ世界を搾取し大悪意持つ
山城の悪魔が人類睥睨し悪性自慢し侵略犯罪
極悪の蛮戎われらを侵害しそれを自慢に国連敵せし
災厄のみなもと蛮戎天皇賊人類へ害をなしたる一家ぞ
神信じ原爆おとされ爆破され天皇賊信じ邪教に殺されるなり
薩長土の極悪侵略反省せずアジアに恨まれ極悪関西
関西と付き合う者は極悪に染まり破滅するなり
業のみが地上を支配し神ならず天皇邪教も滅亡するなり
薩長土蛮戎関西目的は英米利用し侵略する事
蛮戎賊東京で罪を重ねあげ世界を搾取し大悪意持つ
山城の悪魔が人類睥睨し悪性自慢し侵略犯罪
極悪の蛮戎われらを侵害しそれを自慢に国連敵せし
災厄のみなもと蛮戎天皇賊人類へ害をなしたる一家ぞ
神信じ原爆おとされ爆破され天皇賊信じ邪教に殺されるなり
薩長土の極悪侵略反省せずアジアに恨まれ極悪関西
関西と付き合う者は極悪に染まり破滅するなり
業のみが地上を支配し神ならず天皇邪教も滅亡するなり
蛮戎賊の災厄
人殺し侵略するの片棒に天皇利用し悪徳関西
人殺し侵略するの片棒に戎を利用し悪徳天皇
人殺し侵略するのを目的に法を濫用悪徳英米
悪魔達地上を支配し薩長土極悪殺戮驕り散らせり
大虐殺誇る天皇一門は敗戦しても驕り昂る
島津毛利大量虐殺してもなお飽きもせず金を貪り驕れり
悪徳の山口なおも侵略しアジア荒らして驕り散らせり
極悪の鹿児島会津で殺戮し水戸を裏切り驕り散らせし
忘れるな蛮戎天皇乱賊の侵略犯罪濡れ衣の業
義烈の智ひとえに智恵と申すべく徳の前には座を譲るべし
人殺し侵略するの片棒に戎を利用し悪徳天皇
人殺し侵略するのを目的に法を濫用悪徳英米
悪魔達地上を支配し薩長土極悪殺戮驕り散らせり
大虐殺誇る天皇一門は敗戦しても驕り昂る
島津毛利大量虐殺してもなお飽きもせず金を貪り驕れり
悪徳の山口なおも侵略しアジア荒らして驕り散らせり
極悪の鹿児島会津で殺戮し水戸を裏切り驕り散らせし
忘れるな蛮戎天皇乱賊の侵略犯罪濡れ衣の業
義烈の智ひとえに智恵と申すべく徳の前には座を譲るべし
2014年5月30日
侵略罪の極悪蛮戎
我々の平和なくらしを汚しこわした天皇と東京蛮戎薩長土
原発で我らを搾取し逃げ惑う蛮戎天皇一族ぞ
蛮戎は侵略に驕り利貪り人を殺して得々とす
悪徳の平城平安東京で天皇一族侵略祀れり
人殺し政治屋どもと邪教徒が虐殺洗脳自称大和ぞ
侵略し虐殺驕れる薩長土蛮戎に媚びた天皇一族
原発で我らを搾取し逃げ惑う蛮戎天皇一族ぞ
蛮戎は侵略に驕り利貪り人を殺して得々とす
悪徳の平城平安東京で天皇一族侵略祀れり
人殺し政治屋どもと邪教徒が虐殺洗脳自称大和ぞ
侵略し虐殺驕れる薩長土蛮戎に媚びた天皇一族
2014年5月29日
蛮戎三賊
天皇を崇拝させている者は支配者層という独占利権者らであり、奴ら悪徳と強欲の塊が我ら国民を搾取対象としてきたのだ。天皇家や島津家、毛利家がその典型であり、奴ら蛮戎三賊は我々を奴隷に仕立てて犠牲とし、あるいは先兵へ唆そうと洗脳したきた。奴ら天皇や島津、毛利の利権の為だけにこの大悪に満ちた三賊は人殺しや労働を国民からさせてきたのだ。しかも奴ら南蛮西戎層は奴らへ都合の悪いことはみな我ら現住国民の所為にしてきた。奴らとんでもない蛮戎は悪業を好み、逆らうものを皆殺し且つ徹底して洗脳し、単に暴力をふるうのみならず宗教までも悪用してこのひたちの民を大量に犠牲としてきたのだ。神は天皇家や島津家、毛利家ら極悪人殺し達を決してゆるしはしないだろう。神は業のままに、奴ら蛮戎を永久に世界から葬るであろう。
三邪都
自称天皇がこの列島を支配していい道理はどこにもなく、それは薩長土だろうと同様である。奴等は侵略による暴力で人殺しを謀ったに過ぎず、単に悪業の印しか示していない。東京も平安京も平城京すらも、侵略者の都であったからには悪徳に染まった邪都という他ない。悪魔が造った都が善良であるわけはなく、これらの悪の都等を崇拝している諸外人は、単に悪を愛している点で悪魔に習う存在に過ぎず、その末路は悲惨だろう。
我々は善良な社会や、最良の都にのみ安住できる。欧米のどこに侵略の罪を負っていない地域があるのか。侵略犯罪の団長でしかない天皇一族は遠からず、その悪業の償いの為だけに、地獄へおとされるであろう。人類は業の中にしか生きていけないのだ。
我々は善良な社会や、最良の都にのみ安住できる。欧米のどこに侵略の罪を負っていない地域があるのか。侵略犯罪の団長でしかない天皇一族は遠からず、その悪業の償いの為だけに、地獄へおとされるであろう。人類は業の中にしか生きていけないのだ。
蛮戎の悪徳天皇
苦しんでいる我々を見下しながら天皇のみが玉座に贅せし
侵略し人を殺せし薩長土ほめちぎるなり南蛮西戎
悪徳の南蛮西戎驕りけるこの世に悪の栄えは浮雲
罪のない人を殺せし天皇の一族栄えて徳は亡びし
東京の悪趣味京都の悪性を外人羨み悪を真似けり
無知衆愚貶善崇悪亡び去らん
天皇一族大量虐殺を命じて濡れ衣ばかりなり
我らが義公天皇賊崇め邪君の擁護か
蛮戎の悪習を見つつ天皇は悪に加担しわが県民を虐ぐ
侵略し人を殺せし薩長土ほめちぎるなり南蛮西戎
悪徳の南蛮西戎驕りけるこの世に悪の栄えは浮雲
罪のない人を殺せし天皇の一族栄えて徳は亡びし
東京の悪趣味京都の悪性を外人羨み悪を真似けり
無知衆愚貶善崇悪亡び去らん
天皇一族大量虐殺を命じて濡れ衣ばかりなり
我らが義公天皇賊崇め邪君の擁護か
蛮戎の悪習を見つつ天皇は悪に加担しわが県民を虐ぐ
2014年5月27日
2014年5月26日
2014年5月22日
2014年5月21日
2014年5月20日
2014年5月19日
2014年5月18日
2014年5月17日
2014年5月16日
2014年5月15日
史学
天狗党処分についての研究
慶喜公は元治元年(1864年)3月25日将軍後見職を辞任し、禁裏御守衛総督へ就任していた。同年11月下旬、公は皇室警護を目的に、天狗党鎮圧のため江州路(琵琶湖付近)で早々追討出張仕りたい旨を孝明天皇へ上奏した。その内容は「職掌にとり恐入り候のみならず、右の内私実家の家来も交り居り候得ば」と公の禁裏御守衛総督かつ水戸藩出身者としての責任感が窺える。一方の天狗党は諸生党を含む大発勢(幕府軍)と争いながら尊王攘夷を目的に西行していた為、幕府側では公が天狗党と気脈を通じているのではないかと疑いかねない状況もあった[1][12]。公にとってこの時点で琵琶湖付近で天狗党を迎え撃つ事は、これらの差し迫った状況、即ち幕府からの嫌疑の目を退けながら、御所警護を図る解決策だった[2]。
同年11月31日、孝明天皇から慶喜へ天狗党鎮圧軍への出馬許可が出た。その内容には朝廷の命に「但降伏致候はば相当の取計致すべき事」とある[3]。この曖昧な命令は、後に悲惨を斉 した。
同年12月1日、武田耕雲斉ら天狗党一行は美濃の揖斐宿に到着した。この時、西郷隆盛の秘命を受けた桐野利秋(中村半次郎)がそこへやってきて武田に面会を求めた。武田は藤田小五郎や竹内百太郎へ彼と面会させた。桐野は薩摩藩が尽力するので本道(中仙道)を経て入京するよう天狗党一行へ進めた。しかし藤田らは彼ら薩摩藩側に感謝した上で、本道を行くのは断った[4]。恐らく当時の薩摩藩には文久2年4月23日(1862年5月21日)寺田屋事件以後にも誠忠組残党が残存していたので、尊攘急進派が公本陣と関わらないこの様な裏の手を回したのだろう。
同年12月3日公は山城を出発、大津に出陣した。節公も翌日、同年12月3日に本圀寺勢を率いて出陣した[5]。
同年12月7日、大津の総督公本陣から加賀藩、永原甚七郎に呼び出しが来て、大垣藩と彦根藩へ次の様な通達があった[6]。「薩摩藩賊徒による嘆願の節は公にないので、十分に討伐せよ」[7]。
同年12月10日には一橋家の探索人、渋沢喜作(渋沢誠一郎、渋沢成一郎)が葉原宿の金沢藩の陣へやってきた。喜作は次の様に語った。「河田十郎という薩摩人が美濃国と近江国の諸藩へ離間策の言を放ったのが知れた。拙者が濃州路で面会し彼を詰問した所、彼は大いに困惑したが、私は推してこれを追及もしなかった。公は薩摩遊説を知らないばかりか、寧ろ一橋卿の嫌疑を解くには速やかに武田勢を征討するに如かず」[8]
同年12月11日天狗党一行は新保宿に入った。ここで長州藩が密使を遣わして若狭国や丹波国を通って長州と共に行動する様に勧めてきた。天狗党側で72歳の山国兵部は、「是非そうしよう。ここで自首しても我らは滅ぼされる。華々しく一戦を交える為にも長州へ行こう」と主張したが、武田は次の様に言った。「国の正邪を明らかにし、先君烈公の遺訓を遵法、外敵を退け国威宣揚する為に常陸国を発ったが、二公に敵する事は臣子の情忍ぶべからざる所なので万事窮すというべきである。よってわが徒の態度はここに決した」[9]。
翌年、慶応元年(1865年)正月18日、田沼意尊が山城へ来て公に面会、公は以前からそうしようとしていた通り田沼へ申し入れた。田沼は次の様に言った。「天下の公論もこれあり、最もよき公平の処置方でなくては皇国人心の折り合いもあり、別して常野にもこれと同様、降伏の徒もあるからその処置は一致せねばなりませぬ」[10]
永原も朝廷も天狗党の助命嘆願をしていた、と茨城県立茨城東高等学校教諭、但野正弘は云う[11]。更に但野は、常野の浪士と幕府側に見做された天狗党を山城に入れない様にする事が禁裏御守衛総督としての公の役目だった、という。そして但野は降伏した者を受け取るのが浪士取締り役の田沼の役割だったので、公は天狗党を田沼へ渡さざるを得なかったという。
安政の大獄以後、桜田門外の変を通じ、天狗党の乱に於いては公の出陣した陣地となった彦根藩の士は、大獄と変の犠牲者数を遥かに超えた人数への斬首刑によって水戸藩士らへ復讐した。しかし、これら更なる数の殺人による報復の連鎖は、結局の所皆殺しに行き着くだろう。公的政府と名乗る勢力による殺人、即ち死刑に関する疑義が天狗党処分について萌芽的に見られると言えよう。
脚注
1 常磐p117-118
2,3 常磐p118
4 常磐p119-120
5 常磐p120
6 常磐p120-121
7 常磐p121
8 常磐p121-122
9 常磐p122-123
10,11 常磐p123
12 常磐p124
参考文献
常磐神社『徳川慶喜公――その歴史上の功績』常磐神社社務所、1998年
慶喜公は元治元年(1864年)3月25日将軍後見職を辞任し、禁裏御守衛総督へ就任していた。同年11月下旬、公は皇室警護を目的に、天狗党鎮圧のため江州路(琵琶湖付近)で早々追討出張仕りたい旨を孝明天皇へ上奏した。その内容は「職掌にとり恐入り候のみならず、右の内私実家の家来も交り居り候得ば」と公の禁裏御守衛総督かつ水戸藩出身者としての責任感が窺える。一方の天狗党は諸生党を含む大発勢(幕府軍)と争いながら尊王攘夷を目的に西行していた為、幕府側では公が天狗党と気脈を通じているのではないかと疑いかねない状況もあった[1][12]。公にとってこの時点で琵琶湖付近で天狗党を迎え撃つ事は、これらの差し迫った状況、即ち幕府からの嫌疑の目を退けながら、御所警護を図る解決策だった[2]。
同年11月31日、孝明天皇から慶喜へ天狗党鎮圧軍への出馬許可が出た。その内容には朝廷の命に「但降伏致候はば相当の取計致すべき事」とある[3]。この曖昧な命令は、後に悲惨を
同年12月1日、武田耕雲斉ら天狗党一行は美濃の揖斐宿に到着した。この時、西郷隆盛の秘命を受けた桐野利秋(中村半次郎)がそこへやってきて武田に面会を求めた。武田は藤田小五郎や竹内百太郎へ彼と面会させた。桐野は薩摩藩が尽力するので本道(中仙道)を経て入京するよう天狗党一行へ進めた。しかし藤田らは彼ら薩摩藩側に感謝した上で、本道を行くのは断った[4]。恐らく当時の薩摩藩には文久2年4月23日(1862年5月21日)寺田屋事件以後にも誠忠組残党が残存していたので、尊攘急進派が公本陣と関わらないこの様な裏の手を回したのだろう。
同年12月3日公は山城を出発、大津に出陣した。節公も翌日、同年12月3日に本圀寺勢を率いて出陣した[5]。
同年12月7日、大津の総督公本陣から加賀藩、永原甚七郎に呼び出しが来て、大垣藩と彦根藩へ次の様な通達があった[6]。「薩摩藩賊徒による嘆願の節は公にないので、十分に討伐せよ」[7]。
同年12月10日には一橋家の探索人、渋沢喜作(渋沢誠一郎、渋沢成一郎)が葉原宿の金沢藩の陣へやってきた。喜作は次の様に語った。「河田十郎という薩摩人が美濃国と近江国の諸藩へ離間策の言を放ったのが知れた。拙者が濃州路で面会し彼を詰問した所、彼は大いに困惑したが、私は推してこれを追及もしなかった。公は薩摩遊説を知らないばかりか、寧ろ一橋卿の嫌疑を解くには速やかに武田勢を征討するに如かず」[8]
同年12月11日天狗党一行は新保宿に入った。ここで長州藩が密使を遣わして若狭国や丹波国を通って長州と共に行動する様に勧めてきた。天狗党側で72歳の山国兵部は、「是非そうしよう。ここで自首しても我らは滅ぼされる。華々しく一戦を交える為にも長州へ行こう」と主張したが、武田は次の様に言った。「国の正邪を明らかにし、先君烈公の遺訓を遵法、外敵を退け国威宣揚する為に常陸国を発ったが、二公に敵する事は臣子の情忍ぶべからざる所なので万事窮すというべきである。よってわが徒の態度はここに決した」[9]。
翌年、慶応元年(1865年)正月18日、田沼意尊が山城へ来て公に面会、公は以前からそうしようとしていた通り田沼へ申し入れた。田沼は次の様に言った。「天下の公論もこれあり、最もよき公平の処置方でなくては皇国人心の折り合いもあり、別して常野にもこれと同様、降伏の徒もあるからその処置は一致せねばなりませぬ」[10]
永原も朝廷も天狗党の助命嘆願をしていた、と茨城県立茨城東高等学校教諭、但野正弘は云う[11]。更に但野は、常野の浪士と幕府側に見做された天狗党を山城に入れない様にする事が禁裏御守衛総督としての公の役目だった、という。そして但野は降伏した者を受け取るのが浪士取締り役の田沼の役割だったので、公は天狗党を田沼へ渡さざるを得なかったという。
安政の大獄以後、桜田門外の変を通じ、天狗党の乱に於いては公の出陣した陣地となった彦根藩の士は、大獄と変の犠牲者数を遥かに超えた人数への斬首刑によって水戸藩士らへ復讐した。しかし、これら更なる数の殺人による報復の連鎖は、結局の所皆殺しに行き着くだろう。公的政府と名乗る勢力による殺人、即ち死刑に関する疑義が天狗党処分について萌芽的に見られると言えよう。
脚注
1 常磐p117-118
2,3 常磐p118
4 常磐p119-120
5 常磐p120
6 常磐p120-121
7 常磐p121
8 常磐p121-122
9 常磐p122-123
10,11 常磐p123
12 常磐p124
参考文献
常磐神社『徳川慶喜公――その歴史上の功績』常磐神社社務所、1998年
2014年5月14日
天道
悪徳薩長土の呪い皇も英米仏もみな仁もなくしてうらみごと得し
悪徳東京関西を信ぜし者は裏切られ残ったわれらに神のみ寂びる
忠義思い先駆けしけり物の夫はわれの真上に如何なる思いぞ
俗物のさなかにわれら置き去りに親子の孝とは何たる定めぞ
悪人であふれた日本を省みて西南びとの大罪を思う
皇族の侵略罪は繰り返しわれらを襲う悪魔の仕業か
威公からわれらを脅しすかしたる至る末路が大量の死ぞ
悪徳東京関西を信ぜし者は裏切られ残ったわれらに神のみ寂びる
忠義思い先駆けしけり物の夫はわれの真上に如何なる思いぞ
俗物のさなかにわれら置き去りに親子の孝とは何たる定めぞ
悪人であふれた日本を省みて西南びとの大罪を思う
皇族の侵略罪は繰り返しわれらを襲う悪魔の仕業か
威公からわれらを脅しすかしたる至る末路が大量の死ぞ