2010年8月30日

理性の文化

理性という自明に思われてきた能力は、医学的にみれば言語を操り得る能力の程度。人生経験は理性的にみれば文化財の普遍さにしか意味がない。動物としての生態や生き様は哺乳類一般のそれと、経過される全ての現象で大差あるともいえず、単に社会の文化により経験される内容に違いがある丈。論理学が理性的言語使用の系を最大の母公理系とみなすのは、哲学という全ての言語用途が示す。又全て文章化された言葉は文の種類。学問や文芸はこの文の一種としてある時代に同じ基盤をもった。文の世界は、文字を創作に用いた人々のまねとして生まれてやがて想定できる全ての理性を、再生できるという可逆基盤へまきこんでいった。なお文は、日本語ではあや、又はふみ、音読みでブンといわれ、全て図像の抽象さを意味する。だから連なった文字としての文章のみならず広域な平面図像を示している。
 だが文の時代は、この形式でしか定義されないので永遠の基盤といえない。この形式が流行として忘れられたとき文によって造られた理性の神学つまり全ての哲学は機能を果たしきれなくなり整頓されるか忘れ去られ、場合によっては打ち捨てられるだろう。理性的経験の最重要さは全ての倫理哲学者や趣味人により広く認められる筈。又奴隷やそれに類した生態以外の全ての生活者は、他のどれを抛ってでも必ず理性の生活にだけ真実の人生経験を与える。結局この理性人の本性は、人類が文化の伝承と書ける何らかの世代間淘汰にその最高の強い選択を受けてきた証だろう。我々の底に眠る英雄崇拝は、全ての神仏信仰と同じ起源をもっている。それはカントが崇高という概念で示そうとした世代間淘汰への適応行動への強い感受性であり、実質でこの概念に当たる形質は、常に理性をその基準にしてきた。もし自然淘汰を信じる者が皮肉まじりに見下そうとしても、命の恩人への感謝は確実に利己心をこえた行いへの崇拝に近づく。もしその利己的な人が命の恩人を風変わりで劣った知性の持ち主だと思ったとしても、大多数の人類はこの選択を過去に受けてきた結末として、どの知識より現に命を救ったという行動に理性の合目的さをみつけざるをえない。だから言語が為せる実践理性の定義づけがそうだった様、哲学界での適者はより選れたべきの問題を解いた者へ集まる。
 道徳神学としての現代哲学は、必ずこの文化伝承の流儀に則らざるをえない。理性的に何もなせなかった者は殆どかえりみられず、逆にそのほどが過大なだけ後世は古人を模範とみなす。学術段階が高度に複合化するほどそれらの訳ある用途を指定する理性の能力は強められねばならない。文化的適応とみた文明の体面が漸次により理性高い生態に置き換わるのは、もし社会淘汰が過去にも同じ法則でその人種のいれかえを行ってきたと悟れば、確実視できる真理。総合知性としての理性は、言語その他の文の基盤をどれだけ利用してでも、必ず未来に自らの立場を、よって在来形質をも伝えるだろう。文化伝承の最先端に立ち、猶も彼らは前世代の達した趣味を基準に自ら代に立つ他ない。理性的に生きるべし、という命令はそれが完全に習性化され言語の学的検見に意識されなくなったとき本来の理想界に降り立つべき、遥かな前世代の血筋からの指令。