法文丈でなくどの差延も解釈界の辺りにあり、現象として各主観と対峙する全てはこの認識のずれを交易の誘因としている。解釈される物自体は理解が及ばない。物自体への議論は注釈の理論で説ける。つまり対象への名付けをこえては、感覚基盤は物事を客体化で理解しない。いわゆる主客未分の純粋経験は主観的解釈への無批判な肯定か是認で、嘗ての本居理学での全感情の全面的容認のひきのばし。
感情が全てよいものである証はない。幼な児が抵抗力や暴威では軽いものだからそこでの善悪は問われないかもでも、社会の将来にとって望ましい情緒とそうでない発露とは躾の旨へ納まる。いわば理知からの感情の推移は差延がつくる感覚基盤への慣習な水路。乃ち客観の注釈を定義づける故に全て、感情とよばれる偶有な又はたままな解釈はそれが別の主観との理解差を説き明かすが為の能力。純粋経験そのものを尊ぶのは付和雷同や団塊の癖を煽る事。つまり情緒な集団を拠り所にしたがる特殊な達のみ。
客観した世界と主観とが特有の偶有観で交易していくのが感情界の在り方。よって注釈できる物は現象からの感覚基盤な抽き出しを言葉の層できっかけづけたとき生じる。呼称か呼び名はこうしてありえる。
ところで人類生態学の知識から、大陸場で利他への強い希求が道義や理説の素になることは、本居理学での倭風感情の生まれつきの善への裏付けともみえる。京都を典型とした僻地の習癖は強い利己性を呼び覚まし易い。これでなぜ赤子の心を生得した善として、本居が唐心と対比させたかが分かる。
現代の目からでは、無論将来の世代にとって有徳と信じられるか少なくとも益する議論だと伝承内容の豊富さのみに焦点を絞っていえば、理性からの淘汰誘因は躾の定義が場所毎に道徳原則をより厳しい感情への抑制に求める、という点へ究まるだろう。要するに大陸場的な性質のあまり悪意の実例が知られ難い適所での躾は、そうでない時よりずっと厳しい理性からの本能抑制を前提としていく。社会誘因としてその場で自ら特徴化したくば利他性の実例を誇示するのが最善。道徳性やその感情への染み渡りも、こういう適所でこそ程度問題だが、実現できる。感覚基盤の注釈化された表現がそれだから。そして客観の立場は常に別の主観なので、知識の量も含めて理解される利他性が実質の社会誘因となるだろう。共感が及ぶ解釈界はこれと同じ。