言うまでもないが、智恵は詭弁や言い訳や、どんな不善とも違う。その段階の総合した知識量がある哲人へ特有の考え方を懐かせる時、それは明らかな倫理を示す何らかの理念になる。そしてこの理念は短な文句のみでは誇示するのが難しいか、ごく在り来りな言い方に埋没して見過ごされないとも限らない。例えば脱構築やイデアは日常語と差ほど離れた用法であった理念でもなく、哲学的文脈が十分考慮されねばこうして後生の参照に足るだけ特別な文言とも思えない。結局、哲学の産物に最も有用なのは、論理作用をその補佐官として用いること、及び形而上の問題のみへこの傾注を果たすこと、乃ち理念の説明というその能力を超えない範囲でだけ論理学識からの援護を借りる事だ。逆に、全て論理の為の論理や説得の為の説得は堕落に属している。積極的に主義すべき理念が到底信じおくに足らない場合、この論理は
もしより望ましい総合の観点が見つからないとき、最大多数の共通理解の要となるのはそれが決して批判できないだけ堅固に倫理の最小最大則を示している場合、つまり最も短い言葉でできるだけ豊富な知識量を集める事による。最上の理念を見つけだす事は常に新たな知識の上に立ち、以前のものを更に高い次元の理念へ止揚していくいわゆる弁証法を要する。だからこの働きは理念の外にある。いいかえると、論理でない方法で弁証法を駆け上がれる可能性は十分予知できる。すると、理念語にとって最上なのはそれが科学体系に対して後見範畴として働く世界の厳密さ。乃ち科学の上で使われる考え方を事前の理念語内に幾つも保有していれば、自然も社会も数理も同じく僅かな語法差で解決できるだろう。夜と夕の語の微差はそれらの自然としての現象を同じくらい違って分類させる。自然界の内で起こる現象はこの理念語からの援用でかなり合理的に捉えていける。なぜなら某最小最大則が働くので。もし後見範畴の莫大さや緻密を伴わねば自然現象への注釈そのものが極めて煩雑になっていく。