後期ウィトゲンシュタインの慣習についての言葉遊び論は、形而上学というゲームがある民族語空間のルールで営まれている証への漸近。思うに、道徳は近代日本哲学の伝統を引けば、風土に於ける共通規則を特定の適応課題について慣習化したもの、つまり好ましい慣れの作り事。だから道徳律は蓄えられ、場合によって取り出されおきかえられる。普遍道徳が最も抽象的か定格である、という考え方は各種の風土からの原理が揺らぐ限り偽。好ましい慣れは唯一神格の理念を除いておそらくどこでも異なり続ける。しかも、時と処でこの唯一神格の呼び方すら違うだろう。
度合いに鑑みると、この好ましい慣れとは趣味と呼んでいい。だから特有の意味の取り方を各世界観へ積み重ねたところに生まれる趣味は、全くが固有の場の規則としか定義してよい訳ではない。結局、趣味の度合いは道徳観念が場に特有の適応課題をどう巧みに解いたかの証のみ。だから言葉遊びとみれば全て、自然描写の主観からの法則知の収集も含め現象論や学な形而上学野は趣味の定義をどう定めるかに等しい。よしあしも場に基本は依る。
全て、場所論もしくは体系化されれば場所学はできるか要る。そしていわゆる風土論は場所学の一幕のみ。かつ現象学と解釈学とやらは、巨視すれば場所での適応形質がどういう変形を文字や図像とその用法へ定めつけつつ来たかという場所学の、おもに地政学識の分野として有効。一般に語学と勘違いされ易いが、現象学と解釈学は分析哲学系からきたかなりの形而上学識を含み、必ずしも既存の用語分類へ回収しきれない。しかし地理学と政治学の中間分野の固有名詞として地政学へはそうでない。これは場所によれば更新も記録しつけ得るから。