土地の生育条件は文化や人為系列についても同じらしい。私の観察した所では、社交機能はほぼ孟母の教えに比例する(自然地理学の人為地理への適用)。つまりかれらの文化背景、郷土の骨格は規制としての地政への環境建築にかなりよる。地政学識の応用として、特定の建築意図を一定の文化場へ次々おとしこむのは以上からも合理化できる。数学が論理の正式化なら、可塑性や粘りの定義は地理学の政治的か文明論的分析の、環境決定論から文化場理論にとって環境文化論潮流の、環境条件論への明白な反駁とか注解でありうると思える。この理由は、数理の決定力は全くそれらを可逆化し、いわゆる他の文明場への文化素潮流くみこみやその重畳を可能にしていく見込みをもっているからだ。
成るほど学識化は骨の様な微妙でくりかえしに向かない要素としての芸術感覚を遺伝しない。だが単に文化素の輸出にまつわる合理化、その利用価値を高める為の定式化自体は矛盾を消去法で捨てて行く限りなお合法則的たりうる。