2009年7月31日

製品開発

ミニディスクからより汎用なICカードメディアへデータをブートする小型の携帯音楽プレイヤーを製造すること、つまり「ディスクポッド」を開発販売すること。

この先行きはあやまりなく明るい。
ATRAC形式の既成潜在市場を掘り起こしながら、iPodの一時的大流行を経由してより将来性の高いミニディスクサイズのMOその他の光ディスク分野を開拓する。ブルーレイとDVDとの互換共通性あるディスクサイズを最初から音楽メディア上で支配しておけばすべてのデジタルメディアデータを一元化してこのディスクポッドを経由させることになる。

LINE入力を付けておけば古い各種のアナログデータをも取り込めることになるだろう。

武蔵國と日本政府

われ今朝方、東京都内は調布市にてゴミあさりする飢えた老女を見たり。梅雨どきの極にかくも卑しい生態に堕ちぶれざるをえない者がいるのは、健康で文化的な最低限度の生活保障を行っていない行政府の、福祉についての決定的怠慢もあるだろう。

 蓄税で何着も飾りと変わらぬ高級な衣服をしまい込んでいる絶対安泰の天皇家がある一方で、あの阿婆の様な人間の生態とすら思えない餓えきった鬼が同時に住んでいる武蔵國は、決して幸福な文明國などではないだろう。そこは鬼と畜生の國である。
 天変地異が起これば、神は彼等へ自業自得の結果をもたらすだろう。そしてすべてを逆転させるに違いない。

2009年7月30日

マンガを読みあさり成人年齢ひきさげ

蓄財と酷税にしか興味のない祭人共、困窮しきった民へ教育の機会も授けず、堕胎させる為だけに極貧の青年へおさきまっくら発狂した堕落性愛を勧むるなり。おのれどもはかしこい子供以下の頭の完成度で連日マンガを読みあさり成人年齢ひきさげよとほざく、そしてカネなき国人見下しながらおかしなおかしな自称テンノー家の世襲権威をば笠に着て大奥ドラマDVD国家製販売でカネというカネを貪り尽くす、南蛮虫ごきぶりがきたならしき同類を肥やしまくり日の丸掲げつウハウハなりけり。
 おお恐ろしき世の末、やがて覆るであろう。やがてはすべての若者は自殺し尽くすであろう。そして下賎な獣欲塗れの死にかけの老人どもと、衰退しきった人身売買暴力団に囲われし知能の退化しきったおまつりテンノーマンガダラケの一家だけがこの島には残るであろう。おお恐ろしい。おぉ!

同調圧による退歩

法務省、結婚年齢は三十代、二十代後半でも経済的自立が困難な複雑化した超高齢社会で、成人年齢を18歳に引き下げるのが適当と判断す。2009年7月30日の新聞報道を参照せよ。

 当該会議の部会長、鎌田薫氏、早稲田大学の教授はこの決定へ深く関わった責任を負うだろう。
 人類の進歩はすべて成熟期の遅延を基とする。よって根本から道理を履き違えるこの朝令暮改の施策の典型は、半世紀もしない内に各種の矛盾発生から方針を真逆へ転じなければならなくなる。先進国の一角として他の国々へ無意味に同調したところでその判断が誤りなら何の意味もない。

2009年7月29日

曇り

通り雨傘なく走る少女も通れり
蒸し暑きことなおその上に川の流れる
葱の植わる畑のそばに雨傘よ
いつなりとも只ながれゆく川と雨足
かみながら感心すべき曇りの紋様

2009年7月25日

文事優性の発生論的展開

甘えるか甘やかす分量がある感覚遺伝的傾向について甚だしい時に、その一族は決定的に進化しやすい。この道理は現生人類にとって、少なくともその一部の文明人に於いて、学識とその表現力を問う文事に全く次元の異なる進化した形質が生じ得る証拠であるといえる。
 結局何かを学習するとき人類がおもに利用するのは書き記された言葉であり、その言葉を用いる才能に於いて、おそらくある程度より視力の近視可塑化傾向があって且つその遺伝された眼筋力が尋常より強壮な場合、決定的な文事能力が発揮され易い。遠くの文章を読書するとかいうことは狩猟で凝視の要る野生条件下でもなくばほぼありえないし、武術や運動競技の特殊能力への程度のつよい選好はこの決定的進化とは大幅に異なった異様に固定化された形質とその性特徴についての変種へ向かう奇形化作用をも伴うだろう。
 だから人類が既に獲得され確立されてきた多くの文化素を一気に揚棄し、それらを幼生早期に習得済みとさせるのは学習適性としての文事形質であるのだろう。そして少なくとも文化について一定の習性が性選択とその増産場で固定化し易いというのはつまり、将来の文明人種の中には胎生の段階で我々の幼児期に到達する系統発生素は経過される余地があるということ、つまり「個体発生とは系統発生の発生遺伝過程への連続的編入である」のに等しい。
 これらの道理を十分理解する者は、我々が文事を通じて学習してきた各概念素が既習的となる未来、即ち知能の極度の発展を後代へ確実に予見するだろう。そこでは、本能行動への抑制すら必要なくなるだろう。よりよく文明化された彼等は文化上にそれらの本能行動を牽引する誘因を根絶しているはず。人が他人と食事することも大昔の哀れむべき蛮風としていずれ文化面では消滅する陋習であるかもしれない。
 実際、ある種集団が進化へのより大きな誘因を文化へ定常化できた場合、その一族は他の種集団と混成する要求を自ら持たなくなるので、かれらにとり大部分の現生人類が行う出鱈目な配偶は害あって益はないことになる。失われないだけ決定力のある文事適応への突然変異はどの種集団を母体としてさえ等しく広がって行けるのだから。ある身体能力の増大は他の部位から栄養を奪う傾向は経済的配分の要素にかなっており、文化の過半以上は学習され得るものとしての文事へ集積し易い限り、我々が現代について少しよりは知っている様な各々の非文事活動の諸形態はいずれすべて趣味化しのちには過半数が絶滅して行くだろう。たとえば将棋やチェスという競技は戦争を実行していた時代の名残でありその儀式的結晶としてのリクリエーション化にほかならない。相撲は恐らく力自慢の喧嘩の、野球は部族間抗争の、サッカーは狩猟のそれ、やがては農耕やデスクワークもなんらかの自己目的化したルール内での運動競技に編集されてくる。そして、もしかくの如くなくばその種集団は学習可塑性を世代間で少しずつ失いつづけるので、他の系との比較では常に競走後退的となり、終いには淘汰されるに至る確率が高い。以上を相応かんがみると読書の習性を極端に甘やかすことは、我々にとってどうやら決定打となる進化誘因かもしれない。その点を考慮して読書を辞めさせるということには、誤った過度の視力矯正型治療方法による眼病や身体衰弱の防止のほどを除けばどんな優位さも見当たらない。

2009年7月24日

生物学

現代人が感性とか感覚と呼ぶ能力は、遺伝形質の感覚器に関する鋭敏さを満たすものといえる。
 又一般に、どの有性生殖する哺乳類でもその性特徴は雄へより強力に現れやすい。これは生殖の原理として、妊娠の機能を分担しないために変異の幅を最大限に多様化する雄性形質が、雌性より被選択的となる適応誘因が大きいからである。
 これらは、人類に於いては一般に、より遺伝形質の傾向をみたすだろう感覚の良さが、女性側の選好みにとってより適応的であると示すものの様にみえる。雄性形質の特徴というものは、性選択の為にであるより一層のこと雄間競争の手段としてそうなのであり、もし全く競争的に優位となる形質をたとえ獲得的なそれに関してすらもたない個体なら、単なるいさかいのためにさえ自滅してしまう。いいかえると、度を超えて女性的な雄はかなりの割合で被淘汰的なのである。
 しかし又、つぎのことはたしかである。即ち獲得形質は遺伝しない。というのも、現状の生物学知識ではその可塑性の為だけにいくらかの形質は機会的浮動のさなかにあると目されるので。もしそれすらなくば環境変異に対する新規な適応は殆ど保証されない。
 以上の推論はこう知らせる。今生人類が感性か感覚と呼ぶ形質とは遺伝的なそれであり、およそ其れしか次世代に直接遺伝せず、さらにその保護は普通ある雄間競争の条件次第につき相当程度困難なので結局、感覚的進化は性選択の可能性についてしか保障されていない、と。より普遍的に観察してなんらかの面で審美的な雌が多数存在している国や場所があるとき、そこでは恐らく何らかの特殊な社会内誘因によって雄間競争が比較的弱かったのである。雄の性特徴誇示の誘因として多妻的要因が類として介在する場合は、雌性の形質へは目立った非獲得的な特徴は遺伝されないのだから。例、孔雀や揚羽蝶。逆にいえば、なんらかの感覚器について極端に審美的な、ということは性選択について圧倒的に特徴ある形質を種全体につき結晶させるつもりならば、その為の環境では一つ以上の雄間競争誘因をできるかぎり解除しなくばならない。これは人類を含む種集団が祖先種から決定的に進化する為には鍵となる概念であり、将来に及ぼす影響度からするときわめて希少性のある重要な概念であるといえるだろう。
 私はこの発見を先哲に習って古語から取ることにし、多少なりとも恒久性のある文化遺産素に自らの名を冠する愚行は避けようと思う。
 ギリシアの地から遠い所で最も古い伝統を持つ言語は漢語であり、その古書の豊富さから適切な語彙を拾い出し復活させるのは根気さえあればできることなので、私はこの概念をとりあえずギリシア語のほか漢語故事からも取るつもりだ。もしそうすれば数ある情報素に埋もれて忘却されるか見逃される時代が長く続いたとしても、西洋史と漢字の伝統が生き残る限りどこかで後生の学者によって再びその意義を見直され、ただちに回復できる言葉ともなるだろう。しかし大勢に於いて現代の世界語は英語かその簡素化された派生語が占めつつあることから、少なくともギリシア語彙から取捨したローマ字表記も翻訳用に残して置く。それなら発見された重要性が概念語の出現する珍しさの為に、看過される率もかなり減ると思われる。
 今の日本語の学問風土は受容的だが発信的となるには未熟なので、又それにも史的及び国風的必然性はあるにせよ、この場で発表した概念は流行の激しい学問史の上では、どこかの時代で誰か外来の学者によって運よく覓るのを待ち続けることになるに違いない。だが、もし他の誰かが同様の結論を導くとしてもなお私の辿った路程標の真上を行く筈である。
 進化する為には先ず甘えがなければならない。そしてその甘えの風土に応じてのみ、ある性特徴を大幅に解除された新種が生じる。これは人類を含む生物学上の真理であると考えていいだろう。
 英語圏にはこの正確な既成概念は存在しないので、翻訳するにはラテン語のindulgereを介して、ギリシア語のικανοποιω即ちikanopoiaを用いるのが賢明だろう。漢語圏では、この概念に最も適当な故事成句として陶淵明の詩題から責子が挙げられるだろう。

2009年7月23日

社会生物学

抑圧の社会学的誘因。原則として、我々が抑圧という措置を社会的に試みる時、それは場の誘因が増産戦略にとって不適だから。生態的に抑圧とは、甲にとりマイナスで乙にとりゼロとなる措置の事をいう。
 もし完全に開放的で無限に進出可能な超大陸的適所があれば、そこには一切の抑圧は生じえないだろう。
 一般に、我々が知っている各種の文化とは、抑圧された慣習を一定の規則のもとにまとめ上げたものである。だからもし完璧な理想的増産場が存在すれば、そこではどんな抑圧もない代わりに、最も低い種類の未文化性しか観られないことになる。きわめて長く隔離されていた南洋の未開の島国では性的抑圧がなく、そこに暮らす住民は文化というほどの現象を持たないのをみよ。凡そ外敵との戦闘および地域間の煩雑さの為の内部抗争の必要性の低さは政治活動を殆ど生じさせず、主としてそれらの間を道具立てとして援護する学術反応を無駄にする。
 かなり高い段階の文化に到達した種集団では、極めて巧妙な昇華への誘因が恒常的に存在する。それを共食い的競争性を十分避けさせながら、一定以上の共生体の状態へ止揚させるときに文明という文化間のかなり体系立った生化学反応系がみられる。
 これらの道理が社会学上の真理として遍く認知されたとき、我々は最大規模の文明を築き上げることに成功した系が、またかれらの抑圧の工夫が実際には高度の社会活動の切っ掛けとなったのを知るだろう。そして我々が社会進化する為の誘因として、高度に抑制された環境形質が絶えず好適となる系を挙げられるだろう。この面で、つまり人間的幸福の一切を犠牲にしてでも種的進化を求める一族がもし存在すれば、彼等は様々な文化上の工夫を通じてより完全な抑制を前提とした社会場を努めて形作るだろう。しかしこの幸福はいずれ我々が猿の幸福を見るのと同等の概念となるのがほぼ確実である。繁殖活動というものはおよそ人類に考えられる限り最も下等な生態機能なので、この誘因への徹底的な抑圧は何れどの上級生にとっても当然となる。そして初期からの住み分けで下級生との生態に差を設けることは両者を混濁させて育てるより進化にとって遥かに有意である。階級分化そのものはよって、善なる生態を擁護する為の初期段階の重要な抑制習慣なのである。
 仮にこのような措置を慣習化しても、我々の本能には退行という有能な心理的規制が平衡装置として知らずしらず備わっているので、そもそもの遺伝に系統の中性化による生殖能力の致命的な減退がありうる場合を除いては、如何に高級な知的能力を可塑性の上で達成させても決して行き過ぎという事はないばかりか、かえってそれが互恵化する種内貢献の為に彼等の総合的経済容量をも増大させるであろう。「男女七歳にして席を同じくせず」、と曰った古人の判断力はやはり道徳上きわめて優れていたのだ。もしそうしなければ生殖系統の混同はかれらの生殖能力そのものを次第に減退させて行き、やがて種集団自体を衰退させてきただろう。

2009年7月20日

進化形質の論理

我々が人類という一過性の経験を通して悟るところによれば、将来の世代では極めて大な幼形化の為に我々がこれまでの世代で経過してきた文明の記憶は無くなるか、又はごく微少な期間をとってごく初期の胎生から成長の時期へ省力化して繰り入れられるだろうと。そしてこの記憶は、種内進化に必然の徑緯をとる。具体的には、現生人類の少数派では野蛮時代の痕跡として恋愛という現象が看られる。自然的配偶の侭ではその集団の変異は中庸に固定化するので競争的不利さから、彼らは何れ精神疾患の不適応的症状として治癒の対象になっただろう。そして最終的には改良されなかった種集団は消滅しただろう。
 巨劫な地殻変動や惑星衝突、異常気象及び地球外進出が身近に起こる場合を想定外に置くと、確実に惑星内で寡占的となる人種は配偶効率を進化法則へ適正化できた一派を中心とする。もしかなりの環境変異があったとして、幾らかの生態地位のいれかえが起き、代わりに星外進出が生じたとしても尚その種族の優位さは大きく変わらない。なぜなら固定化を最大限に避けた高い可塑性は未知の場合での適応変異をも蔵する確率が最も高いのだから。単にその中途段階で多少の拡散及び収容速度に僅かなばらつきがあるだけである。
 これらは最も端的に表現すれば、未熟の促進によってのみ人類からその種内進化が生じる証拠である。我々が獲得してきた文化は相当に多様なので、成長の遅延により生涯に渡り未熟さつまり学習可塑性を十分に保ってあったとしても殆ど困る所がなく、寧ろ維持された進歩にとり益する。未熟児と言う時はある成長阻害の症状を指す場合が多いのでより汎用的に表記すれば晩生の形質はみな進化の見地からは好ましいものとなる。
 成熟と見做される形質の傾向はすべて成長速度の促進へ働き、結果として繁殖期を整理してつづく世代の形質を益々早熟させようとする一般性の元にある。よって、この傾向からは如何に待望しても、新規な形質は出現できず単に既に知られた行動型が素早く既習されて示されるだけである。現生人類の殆どは多かれ少なかれこの作用を背景として、過去の世代が獲得し得た芸術をかなり若い又は幼い段階で習得済みとする。例えば絵を描くこと、文字を書くことは極めて遠い過去の世代で一部の天才種によってのみ営まれた新奇な芸術行為だったのが、普通の幼児でもそれをコンピューターを用いて再現する場合、この形質整理が働いた結果となる。
 遺伝的変異はその方向性が十分に晩生なら特有の進化場で保存され、又のちに増産されて新種集団を形成する。我々が今経験しているどの社会活動も、将来の我々か混合の可能性を含むそれを駆逐できた世代では既習済みとされ余り省みられることもなくなるだろう。狩猟採集時代のリクリエーションがその社会での貴重な資本獲得の誘因よりも大きくなることはないのは、我々が産業の生活を主要社会活動としていた過去の現代を趣味的に、退行の擬似行為による慰みにしか感じないのと同じ。

2009年7月18日

後生の芸術家への忠告

この世に於いてなんらかの芸術を図ろうとする者は、必ず次の問題に直面することになる。先ずそれは自由な独創の行いな筈だが、表現されたものを利用しようとする多くの俗物がその成果物にたかるということ。そしてたかられたそれはかれの知らぬ間に商材となり、俗物の食い物になるということだ。

 次に才ある芸術を模倣して生計をたてようとする模造者が、遂には寄ってたかって集団をつくりありもしない権威を偽造しだす。こちらの害毒は最初の例よりさらに深刻であり、時として本来の素晴らしい芸術をも覆い隠しそれを異端あつかいすることさえある。

 この二つの害毒は、政商の害とまとめあげることもできる。芸術にとって最もおそろしいのはこの政商両方にたかられることである。
 もし君が真実に独創性のある個人なら、どの歴史的地点にあっても必ず政商両方からの流毒と戦う必要に襲われるだろう。一般の人間集団は、芸術というものをじっくり理解できるほど有閑でないのが普通である。だから、かれらによって偽造された模造品やまやかしものの権威の方が無私の創造より貴ばれることも多い。
 絶望した個人の中には、かれが天才的であればあるほど孤立し、遂には自殺する者もめずらしくない。だがしばらく時がたてばそれらの俗物は散々のけ者にし生前罵倒を尽くした君の亡きがらを神のように崇め、国葬にしたり作品を財宝にしたりする。

 つまるところ、政治好きと商売人には俗物性が普通なのである。もしそれに気がつかないとすれば、君が同世代に現に存在している真実の芸術家を知らないからに過ぎない。天地というほど彼らの精神のよしあしは違っているものなのだ。政商は俗物であるがゆえに、君を虐げて平気である。そしてたとえ早死にさせてでも作家の仕事量を搾り出して自分のものにしたがっている。なぜならかれらにはどう頑張っても君と同等のものをつくりだす才能がない。

 我々は歴史的経験に照らして、後生の芸術家に向けて次のような忠告を贈ることができる。
「孤高を貫け、群れをつくるな」と。
もし記憶しやすい理念に昇華するなら、独行主義を貫くべきだ。貧乏や無名を歎くな。それはみなすぐに過ぎ去る苦労なのだから。
 もし体のいい取引気ある者にたかられたり、群れをなして君を褒めたてる者が現れたらよくよく注意せよ。それらは俗物であるがゆえ愛想を尽くし、君の成果物を法外に搾り取ってはおのれのものとして支配し、無能さを隠蔽しながら君の代わり大衆へ自慢するためやってきたのだ。

ゴルフ場

とこしゑのなつもちかくばはたらけるおのこのあせもはればれとす
西瓜一玉ころがりて畠の中に恵まれし
わだつみのいろもしらずばよは晴れとかえるの声にききにし夕立
人知れず忙しく運ぶ人足の使いし力は田畠の能ゆ
いとまなく動き回れるひとびとのなかであそびしゴルフ場
雀なくさみしき間々にすごしける梅雨も晴れては呆気なくおもう

2009年7月17日

日本の名誉のために

奴らは君から百円単位のカネをむしり取り
自称テンノーに媚びて人の上に立つことしか頭にない
ゴミ未満の人間だ
大人を信じた者から騙され派遣マシンになる
修理代も出さない
奴らには貪欲以外の特徴がないのだから
自称シーイーオー中身は豚の小躍り
アメリカ帰りのサラリーマンの長
くりかえす罪業は君を苦しめつづける
ガイジンと組んで労働力を買い叩く
知能の低い女ならよろこんで買う罪人
たまの贅沢品はコンビニ弁当だけだが
それには意味不明の添加物がサービスでついてくる
安く旨く装うための香水
本当は遺伝子組み換えの死ぬかもしれない中身だろうと
僕はだれからも離れているべきだろう
この腐臭のする世界では
関わるだけカネをむしり取られるに過ぎない
あたり構わず姦淫罪映像を撮っているゴミ虫連中が
唯一栄えているスラムトーキョート
一夜漬けで仕留めた名門校学歴だけが取り柄の
あの獣欲まみれのラグビー野郎が大企業に
入り込みそれを脂ぎった汚い顔で毎晩買いあさるのか
経済大国?
君は言葉一つもたない
そして大昔に通り過ぎてしまった風景を探して
放浪する
夢ひとつ見る余裕のないふらふらした足どりで
ゴミ虫連中を一気に全滅させる魔法を探している
君の上に何重にもなっておぶさっている
脂ぎった
カネという糞あさりの使えない豚ども
生産するのは金儲け情報と変態と冤罪だけ
自称テンノーというおかしな生命体のあたりにたかり
君から搾り出した税金をむさぼりくらう南蛮虫スポーツ
キチガイの様な芸能人が
毎夜猥談する下劣なテレビを垂れ流す広告代理店と
協力しながら生き残るお祭り
君は吐き気を抑え切れず
学校という家畜小屋でそれを机のうえにぶちまける
すると軍人教師がたちあがって
君をぶん殴りにげまわる教室中がさげすむ
二度と復帰できないだろう
この社会では
キタナイものは殺せばいい
そして見なかったことにして
美しい国でも開こうか
を殺せば世界から教科書で
あまりにできのいい国柄なので君は
その父親が言うように出来損ないなのだろう
そして反省してニホンジンを誇りに想い
自治体か商人から貰った給料で賎しい店に通い
奴らの仲間として自称テンノーのカミダナを祭ればいい
誰からもけがされるおそれのない
立派な伝統宮殿から民の税金で遊んでいればいい
ここではそれが最も賢明なのだ
一円も儲からない学問をするいとまなど
立派な伝統宮殿の自称テンノーにまかせておけ
絶対安全な退廃御殿から奴隷利権を守る暴力団を囲え
さもなければ税を搾り取られるだけだ
まるで駅前に停めておいたら
撤去された君の自転車の様に重すぎる一家が
君の大切にしてきたすべての宝物を只で奪い去って行く
どっかの地方から出てきた訳知り顔の一家が増長し
君の持ち物を軍隊片手に
自己神格化した経典片手に奪い取って行く
そしてトヨタ自動車に貢ぐのだ
日本の名誉のために

夜明け

最初に万物が現れた頃、余っていたのは真実だけだった。結局の所、誰であれ嘘か真かを見分けきれない。だから余った分の、嘘らしい真をまとう。それは作り事という魔法だ。
 君はそうして物語の中に入り込んでしまったのだ、この現実という名の。だが、誰であれそれが虚構だと悟れば、決して夢中になりはしないのだが。どうせこの世はその怪しげな魔法の効果を試す実験場に過ぎない。
 成功しても失敗しても、どれもみな台本通り。そして脚本家は、作り事を置き換えて継ぎ目のない一繋がりの時間軸を偽装するのだ。かんがえてみればいい。どの事物であっても空間としてみれば完全な広がりをもっている。それらの間に流通網がもしなければ、我々は万物を完璧に識別できるだろう。
 時間というものは神のつくりあげるまやかしものだ。我々は自らの代謝とひきかえにして、高い買い物をしている。それは長編映画に縛り付けられた退屈した子供の様な期間ではないか。我々は脱出を欲している。我々がただの仕事量の塊にすぎないというなら、尚更にだ。
 既に失われてしまったものはかくあるごとく、人はもう世界を十分なシステムであるとは思わないだろう。そこは教えられた学問と似た、使い物にならないプログラムの演じる場所なので。
 だから、夜に紛れた藍色の空の様に静かに、ただ静かに夜明けを待てばいい。すべての秩序が整えられたとき、宇宙には混じり気のない澄み切った青空が広がるだろう。そしてもう創造の真似をやめて、我々より優れて神格的な真理の為に貢献するだろう。人気のないグラウンドに降りしきる通り雨の様に、君は絶対に汚れることのない青空を奪うだろう。万物は十二分に浄められ、すでに過去の記憶を持たないだろう。川のながれは嘘を流しはしないのだから。

南蛮虫

金を貪る為に生まれたのだ
社会人が君を見下しながら言う
カネをむさぼり喰らうために生まれた
それだけがこの世の意味だよ
君は義務と呼ばれる地獄で
生まれてすぐに散々叩かれ殴られ
辺りを取り囲むヤンキーが
義務だと言う教室の虐めを嘲笑ってきた
カネをむさぼり尽くし
楽天家IT長者
猥褻物売りまくって都知事様様
それだけがこの世の意味だよ
世界中に変態漫画をまきちらすオタク昆虫
君は真っ白な目で
南蛮虫を無理矢理くわされるコスプレ少女を嘲笑う
それがこの世の意味だよ
どんな虐めも教育の義務なのだから
日の丸掲げて
地獄の谷間でなにをみせられてる
君は真っ白い目で
カネをむさぼり喰らい無駄に繁殖する虫どもを見た
このなんの価値もない世の中で
カネをむさぼり喰らい同類をいたぶり尽くす
南蛮虫の人生を見た
そしてすべては南蛮虫王の税金になった
君は一人きり
だれからも遠い真っ暗な部屋で
カネをむさぼりに来る役人と商人が
君を社会へ引きずり下ろすのを震えて待っている
誰にも助けられない死ぬまでの時間を
南蛮虫王が君を取り殺すまで君は虫刺されを掻きむしりつづける
狭く暑苦しいこの南蛮虫界の底で
君が一円も持たなくとも奴らは繁殖しつづける
ただカネになる死に肉を喰らって

2009年7月16日

原始信仰

猥褻小説や猥褻動画や猥褻漫画や猥褻写真を、むさぼり喰らうゴミ虫の国に産まれ、そのたぐいの品物を必死で生産しなければ一切生き残れない環境で、一体、ゴミ虫のために何を貢げというのであろうか?

それらのゴミ虫は寄り集まれば寄り集まるほど下等で、下劣な性行動しかしない。満員電車で押し合いへし合い連日痴漢で騒ぎ立て、行き帰りには姦淫風俗店でなにをしたかを語る。そして京都から買ってきた若いゲイシャを並べ、スポーツさせ、健康そうだと大声で笑う。

 高尚なら高尚なほど、そのゴミ虫の国では誰も寄り付かなくなる。そしてどれより姦淫好きの王様虫のもとへ平伏し、それがはべらせることになる出世頭のゲイシャにさせようと、おのれらの若い娘をできるだけはやくアダルトビデオで身売りさせる。だれも裁かない。ジャパニーズという生き物。

神様がおられるなら、この鬼畜の島国に住む奇形種に希望の光を照らすことは決してないだろう。その代わりに、彼らへ大きな天罰を下すだろう。

 この星はあまりに狭いので、性奴隷しかつくらない奇怪な島国に在来した変種を繁殖させるほど寛大な生態系のぬしは先ずおられないのだから。ゲイシャの国が将来的発展に恵まれるというなら、地球という惑星の中ではいかなる偉大な宗教も、いかなる善良な市民もかれらジャップの気違いじみた好色世界の犠牲になるに違いない。
我々が長い経験から悟っている限りでは、この世は因果応報なので、悪徳を積み重ねた一族には必ず余殃がある。
 ジャパニーズが偶像や姦淫を世界中にまきちらす悪魔のように歪んだ畜生類であると知れば知るほど、真実の信徒はかれらを大部分粛清することが神の正義に叶うと信じるようになるだろう。

金を儲けて清き明き心を踏みにじる俗物の代に生まれ、税を取り立てられて無代で死ぬる人間の魂は、その悪魔の君へ無限の怨みを重ねて地に還る。幾代のちに土は木々となり実を結び動物の血肉として料理され消化液に紛れ再び人の姿となり、やがてはその君を取り憑き殺す癌細胞として諸々の怨みを晴らす。因果応報の習い、驕れるもの久しからず。弱き者の魂も決して絶ゆることなく連綿と大地を駆け巡る。一寸の虫の息も消え去りはしない。

2009年7月13日

社会生物学

社会性生物の適応型には、長期的な戦略の観点からおおよそ三つの類型へ分類できる比例があるらしい。先ず増産性の高く、おもとして大陸的環境誘因へ適応的な内的増加率戦略次に、その類型がなんらかの隔離された場所へ入り込むことで一定以上の環境抵抗への適応的変異の傾向として現れる環境収容力戦略。前者の増産戦略が集団性のある社会生物にとって最も普遍的でありそこでは目的となる形質間の変異の分かりやすい一定性から極めて迅速で合目的に繁殖活動が行われ、それに伴い成熟期が次第に整頓され速まって行く。後者の隔離場適応はまた、多くの場合は幼型化の傾向をも伴うものであり、その繁殖流率の遅れの為にも生物群集にとっての多数派になることはあまりない。但し、この収容戦略は同時に、群生への最大限の好ましい変異の集積によってなりたつ以上は一部においてきわめて競争的な群密体をつくる。そしておもとして、寄生関係による入り組んだ形質奇形化が見られるのはこの過度に渡る異常な環境抵抗が続いた隙間に於いてだろう。更に、かなり希な確率でだが、これらのどちらでもない第三の適所に於いては進化的形質が集積しやすい場合がある。そしてこれは決して固定的ではなく、たとえば潮汐などの周期的自然現象や季節風その他の偶発の揺らぎを伴い時間帯や各生物環の遷移に叶って高度の偶有性をある特定方向性へむかってある程度以上持続的に確保していた流動する場に於いて観察可能な環境の性質であり、まさに場合と呼ぶに相応な、任意の合理性にとって適当な環境抵抗条件があるときに限る。だから、この進化場というべきものは増産場や隔離場のどちらでもなく、そのどちらかに偏ることもないような希な適所としてのみ発見できるものだ。この環境条件については臨機応変型戦略が観られる。そこでは増加率的な早熟主義行動戦略や、逆に繁殖行動の抑制にはたらくような未熟主義的遅延の形質よりも、どちらかといえばどちらもの長所を折衷しながらさらに高次元の飛躍的優位さを達するような、超中庸性あるいは進歩的変異に特徴のある個性に重点が置かれがちになる。一般に、この変異は高度に決定的であって、他の集団および群生的な個体群から大きく掛け離れた能力を達することになっただろう。たとえば、最初に陸生への進出を果たせた突然変異はほかの全魚類からはるかに掛け離れた呼吸器官の形質転換を、その磯場でのくりかえし起こった流入と選好の過程の中から一気に果たした筈である。なぜならば、もしこの進化と呼べる変異が徐々に起きたものなら、その形質が増産的になるか、または隔離的になるかは避けられなかっただろう。そしてもしその変異が増産されることになれば、それは集団を形成して大多数の種との根本的差異をますます連続した異系配偶で薄めてしまっただろう。逆に、隔離的ならその変異は間違いなく奇形化を進めてどんどんと少数派となり、いわゆる天然記念物にみられるような絶滅危惧を被るべき極端に閉鎖した一部の環境への群密度でしか生き延びることができなくなっただろう。したがって、この進化的形質は飛躍的な変異であったことによってその祖先種との配偶によっても形質の差異は大幅に保持されることになったと云える。亦たとえば、最も初めに二足歩行を可能にした類人猿は決してかれの血統以外によっては模倣されえないその能力差異によって、確実にその遺伝子をほかの母集団の種との分岐として蓄積し得たはずである。きわめて強壮な後ろ脚と、高度の平衡感覚を併せ持った種の形質が一定の平原で開花したとき、かれは先祖の暮らしてきた森の暮らしとはきっぱりと決別できることを確信しただろう。そしてその配偶によっても、かれの決定的に優位な遺伝的特徴が失われないことを知っただろう。
 比喩としてあらわせば、この適所は入り込みづらい僻地やはてしない大陸ではなく、自由な出入りの盛んな特有の島嶼に近い特殊な環境であるといえる。だから、遺伝形質として感覚器が先に高度の完成に達するという遺伝的浮動の事実上、性特徴への選好つまり性淘汰の規則は、進化論の立場からはまったく合理的な配偶方針なのである。結局、任意の方向性へむけて物珍しい形質を超鮮明的かつ綿密に選び取ることでしか、社会型生物は進化しないのだろう。この点はむしろ純粋な社会学または数理経済学の命題だが、ある種の人間が、もしその文化的条件づけによって、まったく次元のことなる配偶の理由をもつとすれば、その人間の生態的可塑性は任意の方向性にとって最大化しうることが確実である。つまり、我々のなかのある一員が己れの好みや社会的利害を超えて、より特殊な配偶者選択を重ねることはその進化にとって有意である。なんらかの任意な優生学的あるいは地政学的配慮によって諸生物の遺伝子管理を行うことは、進化そのもの為には自然淘汰よりはるかに有利である真実が、これら最小の知識からでもほぼ確定的に演繹できる社会生物学的推論結果だと言える。現実に飛躍的品種改良あるいは種の進化論的改造は可能なのである。対象を人類にかぎっていえばその例外の余地は、少なくとも社会性を伴う現生地球人種群の中には、アマゾン奥の僻地や無辺の宇宙進出を臨めないなら見当たらないだろう。

ユーラシア・クロスロード構想への私見

自民党首脳の先月末に講演会で示したユーラシア・クロスロード構想について。

 かれらの目的が憲法の命ずる名誉ある地位よりも商業的覇権にあるのなら、この方向性はなるほど、バイタリティが特徴のしぶとい華僑に先駆けるユーラシア大陸の開発権益にとって必須でもある。

 だがこの提案は‘経済’という一部の階層にしか興味のない作用をあまりに高く見積もりすぎている点で実践可能性からすれば空想的でもあり、なおさら人様の土地への勝手な線引き評論を語るなどは一国の事実上の元帥たる責務義務の重さ、口から出任せ等々の地球的に及ぼす後々までの影響度から言っても言語道断である。
たとえば、インドとイスラム圏およびペルシアとエジプトは我々漢語文化圏のいわずもがな持つ儒学の風土を持たず、きわめて色濃い独特の宗教色を持つ点で決して経済協力だけでは一体化できる地域ではない。かれらとの根本的な一致協力の為には、平均的日本人が想像を超える「宗教観念の一致」が前提になければならない。
 経済協力は援助と互恵によってはいくらなりとも可能だが、それをすこしなりとも政治問題へもちこむことは十字軍時代から根を引く執拗な強豪との無間地獄的部派抗争にいやおうなく参加することをも当然意味する。だが、国家戦略としてはこの問題に触れるのは禁忌でしかないのが確かだ。ユダヤ教問題はいうまでもない。

 国連決議を中心とした、いままできた正道を堂々と通って政治を行うべきである。一見おもしろそうな裏道、予想外の儲けがありそうな一応適法だが道徳的かは疑わしいうまい抜け道にはそれなりの落とし穴があるのではなかったか。
すこしばかりのわるぢえなら見抜かれるおそれのすくない一時のあさましい商略ならまだしも、世界史の筆跡にうらおもてなく完全に刻まれる一国の大道を推し進めるためには、全時代の誰もが衆目一致で納得する大義名分がなければならぬ。

だから、自由圏にとって繁栄の弧を描く範囲は飽くまでも我々が戦前戦中予てよりの計画として全面的責任を取れる地域、大東亜共栄の的つまり『太平洋沿岸部』に限るべきである。
なぜ近傍への開発を大前提とするかならそこに暮らす人々には古くからの漢語文化という共通項があるので、意思疎通も和を講ずるのも相互理解と民族間協力作業にとって、他の地域よりずっと容易だからだ。立派な基礎のための足場がまずなければ歴史にのこるほどの城郭は築けないのではないか。
――たとえば仏教徒の多い殆どの日本人には蝿を扱うような、あるいはなにもしないお上を仰ぐようなカースト制度下での奴隷操作的貿易発展へ共感も肯定もしづらいだろうし、必ず自発的に払いたくなる喜捨税や日毎の厳しいアッラーへの礼拝についての本能に染み渡った習慣もない。
そして昔ながらのペルシア文化と外来的回教との民情における根源的な不調和への理解もそこからずっと遠い場所にある違和感から一民族状態として十分とは考えられず、誇り高い西洋古都としてのどこまでも豊かなナイルに恵まれたエジプト民族に敬意を表し貢ぎ物をする分には、日本人はあまりに勤勉で廉直すぎ、自助的経済発展に馴れきっている。

だが我々が‘勤労の義務’というもの、その勤勉趣味的行動規則は農奴生活の長くなかったどこの国民でもおよそ自然のありかたではないのである。

勿論西洋史上では最も複雑な身分にあるユダヤ人にとっての選良主義きわまる宿命思想に帰依できるだけ自尊心の完成された、労働集団の過半数な倭人など幾人いるか知れない。
つまり我々はかなしくも飽くまで、異民族だといえる。

 彼ら中東や東洋の個人にとってみれば、まるで縁のなかった極東の奇怪な風俗をもつ商売好きな一族は単によそ者、あるいはもの珍しい異邦人であり、かれらにとってしてみれば古くから土着してきた自国界隈の発展や展望についてただのガイジンに命令されたり指導される謂れなどまるでないのである。
某新興著しい単独行動主義国の民族精神ほど拙速の気象になりきれるというなら話はオフレコとなる。又、手痛い原爆投下による敗戦をこうむった国民には、英国や中国ほどみずからを完全無欠な独裁者向きの覇権国家と信じ込めない。ことごとく、衆議を尽くさないで決めた独行の国策はそれが個性的で性急すぎる危惧のゆえにナポレオンの英雄主義や関東軍参謀のあさはかな体育会系知能にも似て、総合的大局観についてはまるで誤りやすいのである。

要するに、“外政干渉”については最大限の注意を要する。原則的に、このナショナリズムにとって最大限にデリケートな部分に触れる行動は、当該国連登録政府から許可された範囲での「営業の自由」にかぎってしかまだ普段には常識ではない。
(五輪の際に起こしたカルフールその他の外国や多国籍企業への中華民族の強烈な報復や誹謗中傷を省みよ。資本主義の慣習は一部の寛容な自由圏をのぞけば決してまだまだ普遍的ではない。)
 無償有償のおおやけの経済援助をのぞけば、我々どこの馬の骨かしれない地方人にとってはおとなしく、彼ら大陸大文明圏の偉大なる人民をかれらからの要望に応えるかたちで我々狭い国土民なりに器用な製造業のつよみを活かした間接協力によって支えることこそ、もっぱらの国際政策上本道といえるのではないのか。

『縁の下の力持ち構想』こそ、わが国の、またとこしえの君が代にとっての名誉ある地位に今日なりにふさわしい限度であると思われる。
 もし、現自民党代表が構想しておられるがごとき大胆にして縦横無尽な大商略をはかりたいなら、我々日本民族の血統書の信用に関して未来永劫にわたる全責任を負う一国代表の立場という慎重すぎるほどの慮りを要した不利な職権からではなく、一個人としてわたくし企業のあきないごととして謀るほうがいつでも好き放題で、またかしこいことだ。

2009年7月11日

計画

昔むかし、宇宙がどこもかしこもおなじように平らだった頃、神様はそれが不思議に面白くありませんでした。なにも起こらず、なにも変わらないのは飽きてきます。そこで神様はこの際、完璧すぎた計画にすこしだけ間違いを起こそうと考えてみました。御自分でおつくりになったものを、どうやらなにか、わざとらしくおかしくしてみようと悪戯心が働いたのでしょう。それでまず手始めに、おおきな空に穴ぼこを開けてしまいました。片手でちょいと突いたにすぎませんでしたが、そこは修復できないほど落ち込んで回りのすべてのものを吸い込みだしました。
 神様はこんな大事になるとは予想していませんでした。それで、あわててもとに戻そうとして次々に埋め合わせをしていきます。星をつくり川を流し光をあふれさせてみては失敗したとおもって爆発させたり、なにもかもガチャガチャに掻き乱したようなひどい有様になってきました。
 それで最後の手段だ、とあせった神様はみずからにお似せになった型をつくってその中に入り込んでみることにしました。ちょうど、わたしたちが着ぐるみをきこんで遊園地の入り口に立つみたいに。そして神様は、とりあえず様子を見ようとなさったのです。そんないたずらがどうなってしまうのかを。だから、わたしたちはあちこちを見回して驚いたり面白がったり、忙しいわけです。本当は計画通りなのに。

かたつむり

昔むかしあるところに、小さなちいさなかたつむりが住んでいました。その虫は名前をカルゴといいます。そして友達の名前はスタブといいます。時々、屋上にのぼって空を眺めて遊んでいました。夜空はとても透き通っていて、何億もの星粒が見えます。
 ある日のこと、カルゴはスタブというその友達が見当たらないのに気がつきます。おそらく雨が好きな品種なので、水浴びかなにかで遠出したのかもしれません。カルゴは庭先の少し長めの草に隠れて、目の前の通りを歩いて過ぎ行く多くの客を眺めていました。しかしどれだけ待っても、スタブは戻ってきませんでした。
 やがてカルゴが大人になって、子供のいたずらで塩をふりかけられることもなく、その穏やかな一生を終えたとき、かれはふと気づきました。スタブという親友は、かれが抱え込んでいた家なのでした。親友はあるひ突然いなくなってしまったのではなくて、見えないのに彼と同じく雨に隠れていたのでした。そして夕暮れ時の綺麗なお月様を見て、彼の背中から多くの梅雨空をともに過ごしてきたのでした。
 カルゴはいなくなっても、スタブという友達は庭先でかれのお墓になって、蟻の行列やらカマキリの相撲やらを鑑賞しつづけるでしょう。多くの場合、かたつむりとはそういうものなのですから。

2009年7月7日

人類社会の進化誘因

生物の社会化は彼らに協業の誘因を与えた。形質の分岐が働くのはこの社会誘因による。獲得的それのみならず遺伝形質そのものが大幅な種内分岐を伴う場合、効率に関わる質の異なる適所が先に形成された筈である。進化と我々が今日呼ぶ作用は実際には環境変異へ適合した突然変異を含む形質の選好が順次に集積された事による。だから進化は環境適応の結果であり、突然変異そのものを原因とするのではない。
 極めて首の長いキリンが突然変異で生まれても、その場にもし身の丈の低い雑草しかなければ新種形成には至らない。突然変異の一定の出現率に対して、場の変異は移動と定着の連続した経過を含めてずっと程近い周期で起こりやすく、殆どの進化の直接の原因となる。もしそこには雑草や低木への激しい資料争奪戦の為に潅木高木の余りしか期待できないと仮定すれば、その支配に秀でた首の哺乳類がより遺伝的形質の面で進化的となる環境誘因が存在したことになる。
 同等の成果を、我々にとって動物類の異種間に相当する程の大幅な形質分岐の為に人類社会への誘因調整として適用すると、そこでは明らかに物珍しい風習が存在していなければならないことになる。そしてこの風習の珍しさが極度のものならばそうであるだけ、選択的に淘汰される種の性特徴及び形質の方向性は特殊になることができる。
 もし人類が高度の進化を望むなら、社会を一様の法律で縛るのではなく、できるかぎりその地域の風習に沿ってできるかぎり互いに相違った社会習慣を醸成させることを勧めねばならない。協業能率がその要員間の専門化の程度に依存する以上、社会進化の法則もまた、徹底的な風習微分へ、種内分岐の最終決定権を与えている。たとえ極端に普通趣味的であったとしても同等だろう。もし圧倒的な競技選手をはぐくみたければその場から学問勉強の類は締め出さねばならず、もし至高の英知を求めるならいかなる労働階級との接触も無用であり、もし大商人のはてしなく欲深い血統をのべるつもりならその場ではかりそめにも政の話題など禁句でなければならない。単に一家庭のみでなく、地域地方全体がこの形質特殊化の趨勢へ協力的なら専門化の効果は如実に現れるだろう。

文学概念の分析

文学とは漢学色のつよい語学のことである。たとえば文法学、字学というべき分野も、統辞論や修辞法といった言語学または単に語学の部分集合であるのを省みよ。もし科学と哲学との間に何事かの便宜的な学があるとすれば、それは正に語学である。そして我々が明治のある時期以来、科学と分化させて仮にも文学と呼ばしめてきた学問じみた怪しげな形式とは、実に漢学風を引いた文面の各語法についての曖昧模糊たる研究論であるのを見よ。語学の方が少しなりとも体系立った社会学内での作業であるからには、文学というものは飽くまでも古代の漢文研究へ限られ用いられる方がよい。
 文や字へ装飾過剰な執着をみせているのは象形から表音への淘汰が、科挙による文字文化独占の副作用によって比較的ゆっくりとしか起きなかった古代中国語と、その系統を引く周縁文化に特徴的な社会現象だとみなせる。
他の語文化では、知識の大衆層へのかなり急速な浸透によってそれらの象形や形声の手法はこぼれ落ちて行った。おそらく文芸家という芸術の士が貴ばれるのは、この語学を応用した表音成語の、書き言葉または文面への装飾職能の為である。そして漢字や漢文がほかより極端な装飾度をみせているとすれば、それらが有能な文芸家を長期に渡って保護してきた文治趣味による中華政権の一つの徳だったからだ。文学というliterarureから派生した異類の概念は、語学と工学の間に存在する文章論についての特殊言語学分野の呼称について当てられる。しかし、その精確な学的翻訳は欧米圏では未だに十分ではないだろう。その概念は日本及び漢語圏でのみ便宜上有効であるのみだろう。

国是論

宇宙の広大さ緻密さは人類という種の傲慢さ卑小さを如何に対比させても不足しない。人が大海原の前に立つ時、深い森林の奥であらゆるひそやかな生命の詳細な繁茂を見る時、星空の限りない物理的無辺を観察する時、社会と呼ぶ雑然とした魚どものたわむる河がどれだけの価値と意義とを有するのか論証するのも困難である。しかしながらどの社会人もこの河の外で暮らせはしない。社会性生物のどの個体も、その群生によって種としてまとまった行動規則を身に着ける。人類にあっては、その体系だったまとまりを国と呼んでいる。清流がやがて渓流を過ぎて河川となり、大河へ合流し海へながれつく様に、社会の夫々には秩序の高下が仮にも存在し、さらに集合の理由によってその個性が強度の専門に適合すればする程、個体数の希少価値と達成される清らかな秩序は集積しやすい。諺に流れ清ければ魚棲まずと云うが、現実の象限としていかなる清流にも住む生物はあるが、その数が希少すぎて極度に分化した組成でしか実在できないだけである。山女の上流には更に繊細な生態組織を持つ山椒魚が存在するかもしれないが、それは鯨と鮟鱇にとっての適所が異なるのと同じ原理でしかない。
 だから、ある国が大多数派への適応に欠けるかつとめてそれを避けるとしても、原理主義者がそれを非難できる謂れなどはない。上流に住む生態が深海のそれとはあまりに違っていたにせよ、その清らかさを原理主義者の旧態墨守の干渉で汚がしてよい訳ではない。単にこのむ生活様式や摂食用内臓の適合体制が異なるだけだからだ。
 世界が一つに成れなければならないと声高に主張する者はいつか裏切られる。というのも、物理作用は分化を欲しているので国の単位ですらその中では文明に発展が見られればみられるほどに極度に専門化した生態が多彩に存在するようになるからで、同等の徹底的微分化は世界国家とでも呼ばるるべきある種の人間原理的高慢にとってもまた真なのであるから。そして、異文明接触の活動は本質的に宇宙の無辺な生成消滅の不対な律動と起源を一つにする限り止まず、いいかえると波動は時間的には形態間の能動性、空間としては可能態変換の軌跡なのであるから、この国家間微分化自体には永遠に純閉鎖系としての完成はやってこないのだ。非平衡開放系の高度な可塑性に於いてしか社会系は評価できない。山戸と言われるべき思想型は、よってやはり移ろい変わらねばならないものだった。その中華文明の消化による大和思想への転換は思想型の進化として歴史的なものだし、更にこれが欧米文明との折衝により日本へと脱皮したことも現実態の完成へ向かってやむをえず又必然でもあった。それらはみな異文明との競合によって我々自身の国家体制を自己改造させてきた証拠である。
 だが又同様に、かなりの遠い将来に亘ってはもしくは、我々は日本という称号をも改善しなければならないかもしれない。理念としての国名がその集合体の根本思想を表明する銘柄なら国家にとって原理的基盤となるのがそれであり、したがって彼らが望む適所の種類に応じて時代なりの看板を立てる要請に当該社会設計は駆られている。
 もし日本国とされている群生の規律が全体としての世界政府、少なくとも現在で構想されうる所での国連政府にとって矛盾点が生じる様なら、日本人は自らその名分をより現実に近いものへと転換させるべきだろう。或いはその逆として頑として名義を貫くこともありうるが、海外では中国語からの翻訳であるJapan(ジパング国)という便宜的紹介にとどまっている以上は、可能性からすると低いだろう。たとえばUnited States(統一立国)やUnited Kingdom(統一王国)や中華人民共和国または中華民国に比べると理想についての主張という政治的建言の雰囲気が薄い。その先進国ではめずらしいほどの国是の淡泊さがいわゆる国粋の軽視によって外貌からは涼しげとされ、商用銘柄の上ではかえって利点になる場面も軽視できないが、覇権面からは飽くまでGermany(ゲルマン民族国)の様な趣味でしかないだろう。
 国とは群生による誇示の方式だから、如何なる理想を鼓吹できるかにその志気醸成への鍵がある。結局、この目的に向かって資本主義は道具であり、原理主義は手段であって、これらの適切な采配が我々自身の進退をより合目的な設定へ導ける。
 このどちらかの考え方にだけつねに片寄って歩を進めれば危険か暗愚かどちらかに陥る恐れがある。だが両面の中庸を踏み越えない限りは、決して国内及びその周縁文化への高い福祉の浸透による人間の幸福そのものを侵す事はないだろう。尤も、もし中道のみに固執すれば全体最適の社会主義化という弊害も免れないだろう。

2009年7月3日

裁判論

犯罪と呼ばれる行動には二つの法則がある。一つは結果説であり、もう一つは動機説である。
 もし結果説のみを楯にとれば、人々は如何なる行動も単に司法の手によらねば裁きえない。逆に、動機説のみをとればいかなる人物をもその言い分に応じてしか裁けない。現実の司法裁判は、この両方の境を曖昧にしたまま行われていると知るべきだ。善意思のみを重視する態度の温情なカント的裁判官も、結果の程度のみをとりあげる冷厳なホッブズ的裁判官も法廷ではしばし同居している。
 例えばまったく善意から助けようとした相手を殺してしまった場合、具体的には電車ホームで急ぐ相手の為にどいたところその故意の足に引っ掛かり転落死させてしまった場合など現実の裁判では、現行法では当然彼を死刑にするはずが、あまりに気の毒な結果から情状酌量という倫理的規制で無期懲役程度へ罪を軽減させることがある。
 逆に、きわめて悪辣な意図をおしかくしていながら平気な顔を装う者へは疑わしきは罰せずという冤罪防止の観点から、本来よりずっと直接の刑罰的償いが少なくなる場合がある。例えば涙ながらの迫真の演技で烏合の情緒に流され易い裁判員がみな欺かれたとか、いわゆる拷問と自白強要の禁止の原則の為に黙秘権をかたく守り通す場合、具体的には自らの本来のあくどい経歴を神妙な面持ちの戦犯や痴漢がなにも語らない場合、その心理的内面を推し量ることの困難さから明らかな悪意思で謀られた行動も、既存の最低限度の実例に即してのみ評判されることがある。
 結果説と動機説とは犯罪行動に関する是非ともありうるべき両面であり、原則として裁判官はどちらも適度に、或いは場合によってはどちらかを極端に持たねばならない。しかしまた、良心からの制裁の可能性を鑑みると、我々は動機説を結果説より基本として重視するべきだと言える。というのも、情状酌量の場合は結果について衆目の批評余地があるので誤った判断をすることは殆ど希にしかないが、裁判員という道義の素人を法廷へ招き入れようとする衆議の優位が主張されている環境では却ってその場かぎりの面倒を避ける為の倒錯した動機で、冤罪乱発への誘惑に欺かれがちになるのだから。いいかえれば事件の善悪を深刻に考えるのをやめ、道徳を問わずに、表面上の結果から被告を適法性だけで簡単に裁きがちになりやすい。キリストやソクラテスをその善意や本質的な啓蒙意図にも関わらずあのように誤って死刑に処してしまった過去の事例にも似て、我々人類が犯罪者というレッテルの前できわめて情念に駆られ概して近視眼に陥りやすく、自らが守られた多数派の側にいるという安心感はその非難の煽情へごくごく無意味にも加熱しやすいのを証明したのであったから。もしこの衆愚的扇動へのまれな例外の余地、すなわち歴史的に過った判断へのつねなる客観的批判の余地を残しておくつもりがあるなら、今では哲学者と呼ばれている良識を司る学問の階級へ少なくとも法廷外での言論の自由を確保しておくことが必要だろう。かれらによって後先どう批評批判されようと、直接に犯罪を裁く権利を裁判官の独立という普遍性ある職権として守られた司法官は、いずれ反省または参考するところあるにせよ、なんら職能上で迷うことはないのだから。ましてや行政府の人間は彼ら自身の大義名分、つまり行動指針の議論検討を絶えず行う重要な自由人層を失うべきではないのだ。孔子の言葉といわれるものに剛毅木訥仁に近しとある。これは善意の士にとって良心からの呵責がない場合、何も語らずとも刑罰は彼を苦しめるところがないという動機説上の知見とも受け取れる。

2009年7月2日

自殺率軽減策

日本人若年層の多自殺傾向は、その社会では先ず衰退とそれに準じて階級分化が急速に起きている証拠であり、前世よりも生活民度の高くない暮らしに同等以上の努力で到達不能なら、‘労苦の為の人生’は早く撤退する方が総合して勘定すれば得だからだろう。

もし何らかの誘因で過半の国家内所得を寡占している団塊とそのJr.世代が処分できれば、全体としての国民経済が養える幼年層の人数の増加によって、現況の惨たらしい傾向は治まるだろう。
 しかし、独裁制度による群生淘汰の為の戦争の可能性が排除されている社会場では、実質的にはこの「粛清の工夫」は実行がきわめて困難なので、もし日本人が限られた国土とそこに存在する労働量で群れた老年および餓えた青年層の生存を確保したまま景気を再び改善したければ、移民または引退の制度を確立しなければならないだろう。

定年後の団塊世代が私財を貪欲に貯め込んで手放さない以上は、その直接の子孫以外への利益配分は起こり得ない。
従ってここに存在する家格階級化への誘因は、もし若年雇用への大幅な公共事業政策が謀られなければその所得下層の子孫への、自殺か犯罪への自暴自棄行動を煽るだろう。
すなわち引退制度にはもし過労死や尊厳死などでの老年層への早期での処分可能性か、そのための安上がりな年金か老養屋が地方自治体かNPOの考案で図られなければあまり希望はない。
そして感性についての改良はつねに若者より劣った彼らの新規な情報産業増大への需要も期待できないので、ここには「孝行」という古きよき理念の生き残った奇特な後進地方を除けば、いわゆる介護福祉関係の雇用増への鈍く遅れてやってくる次第な貢献しか辛うじて意味はないだろう。

 すると、より実現性の見込める安全網とは移民策である。つまりは、『休息支援』の政策助成金でうまく老余の半生を沖縄、インドシナ、ハワイ諸島地域など南の島で送ってもらえるように導けば、国内で養える幼年人口への可処分所得の総量は明らかに移民が落として行った物価間交換差額から相対的価格として増大するので、悪化した労働環境で差別と道具あつかいのなかで懸命に働きながらも極貧を余儀なくされた不運な時代の若者そのものの自殺誘因は相当に減退するだろう。
尤も、彼らの急進派政治行動が鬱屈しきって暗殺で一息に暴力革命を齎す方が割得ならなにもいうまい。だが知的啓発に遅れた暴力は見当違いの方向へ及ぶ矢立ての如く、軍事防備のなくあきらかにかれらより無力な一般民衆や幼老弱者を狙うものだ。