2009年3月26日

福祉制限の説明

将に来るべき福祉国家路線にとって、最も注意深くなるべきはその最小単位に“個人”をではなく、『家族』を据えるという在来方針の貫徹である。

我々の話題をさらう事が多い有名な生物理論家からの指摘を待つまでもなく、福祉国家の現実は自然生態の合目的性つまり「人間当たり前の姿」から最も遠い一つである。
資本国家ではおのずと抑制されている破産宣告の潜在的可能性を法的に解除する、という赤軍残党なりの理屈に適った荒業は、経済力の過半を「持てる者」に強制的におぶさるという負担増をあたかも自明の権利かの様に正当化する。それが結局は多少の出生率の上向きにつながったとして、次に控えているのはあふれかえる‘持たざる者’の莫大な負債である。

 日本という伝統的に政府権力の甚だしい特殊なケースでは、その経済単位を細分化すればするほど法の抜け道を広げる悪循環を免れないこと、たとえば我々が深情けを浮浪者にどれほど報いてみたところで可能なのは餓死を見なくて済むという消極的な成果たるに過ぎないのはサッチャーの格言を引く前にも気づく世のあわれであった。
 確かに、資本制下にも関わらず財政難を抱えた、一般的な意味では無能な政府組織にとってなんであれ税源を益すものは無条件に取り上げたくなるのも政権政治の末路、考えられぬ醜態ではない。一方、民主政治の本質である「国民主権」の原則は世論の圧力によって無駄遣いを飽くまで規制したがる。
こうして多数派が教育を受けた経験を持ついくつかの先進自称国では当然、それら進取と保守の天秤は一定の振れ幅をともないつつ「中道路線」を穏当と見なす方向付けを次第に受け入れる。

結局この路線図に書かれている暗号の内容とは、政府の効率よい運営費の内訳に他なるまい――そしてそれ以外には国民生活改善への具体的道具さえ見当たらない。
 したがって安上がりでサーウ゛ィスのいい防衛者を国民があまねく見つけようとするならその雇用主自身が非効率的な経済単位を押し付けるべきではないのが自明の理なのである。
主人が熊手を持ってどれだけ粟を掬ったところでそれが自身に還元されない、という現象は福祉国家が単に‘個人の無際限な自由’をではなく、収穫率の向上を計る方法としてかれみずからに「ざる勘定」を教えるため、すなわち家計を更によりよく富ませるために起こる。

どの農家でも当たり前の道理が知らせるに、働かざる者食う可からず――或いは高度化した文明圏で労働種類の多岐化に及び緩和した見識では、すくなくとも食い過ぎるべからずという訳である。当然、無料でもてなしを受ける為にはそれ相応の代償として、税収に自主貢献した順番に、と云わねばならぬ。
勿論一文にもならない生業の真価はその国賓級の名誉により酬いられるに相違あるまい。我々後進文民はカミの恩寵のもとに何をまちがえたか、つかの間の交尾をくりかえすしか能がない個々のお猿さんを囲う趣味には、肌色の健康さの為か狭い国土にある動物園の容積制限のゆえにか随分縁がないらしいのであった。