水素原子のエネルギースペクトルより、
E=-13.6/n2
ここで質量とエネルギーの等価式よりE=mc2なので
mc2=-13.6/n2
よって、
m=-13.6/c2n2
更に、エネルギー凖位nを最小の1と置けば
m=-13.6/c2〔eV〕
これを最小質量と定義できる。則ち光子の持った単位エネルギーである。
もし質量とエネルギーの等価式を変形して
E=mc2
m=E/c2とするなら、
物質が光速に限りなく近づいた時その質量は最大になる。ならば、いかなる物質であれ光子より速く動かないだろう。以上が光速度不変の原理の根拠である。
2008年8月31日
2008年8月29日
私立大学の自由化
少なくとも私立大学の一種の特徴として飛び級の枠をきちんと設けることは、優秀な年少者が放課後にサブカルチャー以外のまっとうな趣味を有せる気風造りのためにも必要不可欠と云われる。国立や公立においてはなんらこの限りではない。特に公立にはある程度の自律した地域特色が期待される。能力別学習は偏差値を広げはしても底上げにならない。教学相長じるのである。
啓発の基本とすべき「長幼相教う」という陸まじい体制の理は、生徒を特別急がせない学習環境にあると知らねばならない。同じまなびやに違う齢同士が集い戯れつつ相習う、いわゆる寺子屋方式が必要なのである。北欧の初等教育に補修学年のゆとりがあるのは、多くの国立学校においてもつとめて模範に値する知恵だろう。
啓発の基本とすべき「長幼相教う」という陸まじい体制の理は、生徒を特別急がせない学習環境にあると知らねばならない。同じまなびやに違う齢同士が集い戯れつつ相習う、いわゆる寺子屋方式が必要なのである。北欧の初等教育に補修学年のゆとりがあるのは、多くの国立学校においてもつとめて模範に値する知恵だろう。
国体風紀改善策
救いの対義を虐めとするなら、組織風紀の善悪度を定めるのは構成員の総合的道徳観念に因るだろう。
例えば悪魔城があればこの中で行われる最善の司法判決と雖、暗黒裁判なのである。
多数決の原理はこれ故に欠陥を持っている。
もしこの欠陥を修正すべきならば、我々は「法治」を手始めとしなければならない。
人間は賞罰の原理がなければ容易に方針を定められない。然るに『組織内犯罪防止法』が制定されぬ内には、正しい風紀の基準があり得るという予感にさえ至らぬであろう。
党派、会社、学校など何の組織にあっても儒教におけるが如き徳治国家へ至る前提には、その理念が各人に共有されなくてはならない。いいかえれば、少なくとも良識に優る寡頭者又は極めて選り抜きの君主による法治主義政策がなければ、いかなる善意でも出番を失うのである。結局、民衆は自己の有する困難な性格から高い理想に思い至る暮らしのゆとりは生涯ありえないと云えるし、その為により一層高い生計を自覚しようと努力する少数の貴族による指導を要し、それらの貴族にとっても議論の合致が不可能な場合においては共通の象徴的権威へと政治権の総括を託す他ないのである。多数決の原理がネイティブアメリカンの部族習慣に根拠を保つものであるなら、文明の理法がこの経験則への若干の修整を加えてもばちは当たらないと思われる。なぜなら幾つかの例外も考慮できるにせよ、史上の政治学は少数派によるクーデターが屡々、煽られ易い群衆の選択より勝れた政策であったのを知っている。
則ち公開議会による法律制定において、『組織内犯罪防止法』を忠孝道徳に基づいて政策することは貴族政治の自由でなければならない。そしてこの勇気ある決断なくして、司法にさえ衆愚政治の暗雲がたちこめる今日より先の時代を、野蛮化の兆しがあちこち覆うのは避けられまい。
例えば元来は専制防止の意であった表現の自由の商業階級による濫用により、実質的に形骸化している猥褻物陳列罪は、表沙汰になり難い無知な年少者をターゲットにして悪徳蔓延規模を拡大しており、相まって下流の民間風紀へ野蛮化傾向をますます増大させるであろう。これらの末路にはローマ瓦解の再来が予想できる。
しかし、この傾向を抑止できるのは組織内犯罪としていかなる共同体にあっても虐め、即ち暴力行為を厳格な司法の手で直接に裁く限りにおいてである。人間では和を以て尊しと為さねばならぬ。組織内犯罪を隠し立てする汚れの傾向は浄められねばならない。衆愚の空気の中を闇から闇へ暗躍する悪魔的行為の中心人物群をはっきり同定できれば、これらの逮捕刑罰によって一般に、組織風紀も改善に向かうのである。
例えば悪魔城があればこの中で行われる最善の司法判決と雖、暗黒裁判なのである。
多数決の原理はこれ故に欠陥を持っている。
もしこの欠陥を修正すべきならば、我々は「法治」を手始めとしなければならない。
人間は賞罰の原理がなければ容易に方針を定められない。然るに『組織内犯罪防止法』が制定されぬ内には、正しい風紀の基準があり得るという予感にさえ至らぬであろう。
党派、会社、学校など何の組織にあっても儒教におけるが如き徳治国家へ至る前提には、その理念が各人に共有されなくてはならない。いいかえれば、少なくとも良識に優る寡頭者又は極めて選り抜きの君主による法治主義政策がなければ、いかなる善意でも出番を失うのである。結局、民衆は自己の有する困難な性格から高い理想に思い至る暮らしのゆとりは生涯ありえないと云えるし、その為により一層高い生計を自覚しようと努力する少数の貴族による指導を要し、それらの貴族にとっても議論の合致が不可能な場合においては共通の象徴的権威へと政治権の総括を託す他ないのである。多数決の原理がネイティブアメリカンの部族習慣に根拠を保つものであるなら、文明の理法がこの経験則への若干の修整を加えてもばちは当たらないと思われる。なぜなら幾つかの例外も考慮できるにせよ、史上の政治学は少数派によるクーデターが屡々、煽られ易い群衆の選択より勝れた政策であったのを知っている。
則ち公開議会による法律制定において、『組織内犯罪防止法』を忠孝道徳に基づいて政策することは貴族政治の自由でなければならない。そしてこの勇気ある決断なくして、司法にさえ衆愚政治の暗雲がたちこめる今日より先の時代を、野蛮化の兆しがあちこち覆うのは避けられまい。
例えば元来は専制防止の意であった表現の自由の商業階級による濫用により、実質的に形骸化している猥褻物陳列罪は、表沙汰になり難い無知な年少者をターゲットにして悪徳蔓延規模を拡大しており、相まって下流の民間風紀へ野蛮化傾向をますます増大させるであろう。これらの末路にはローマ瓦解の再来が予想できる。
しかし、この傾向を抑止できるのは組織内犯罪としていかなる共同体にあっても虐め、即ち暴力行為を厳格な司法の手で直接に裁く限りにおいてである。人間では和を以て尊しと為さねばならぬ。組織内犯罪を隠し立てする汚れの傾向は浄められねばならない。衆愚の空気の中を闇から闇へ暗躍する悪魔的行為の中心人物群をはっきり同定できれば、これらの逮捕刑罰によって一般に、組織風紀も改善に向かうのである。
2008年8月27日
都市部の自治策
単身者世帯の増加した都会の住宅地にあって、彼等個々の家を越えた共同体を誘発するには「神社」を造り直すのが恰好であるだろう。同じ象徴の権威を担ぎ上げることによって仲間意識が芽生えるのはまつりごとの基本と言える。或いは、「教会」や「寺院」を、イスラムを考慮すれば偶像を有しない「拝堂」をもこの許可に加えられる。
中~大規模の再開発が各都市で頻繁に行われる様になれば、その副産物として時勢の移り変わりに伴う荒廃もまた甚だしくなろう。ニュータウンの近い現状にある如く、世代交代に伴うplasticityすなわち粘りを考慮していない計画地は一挙、過疎地になってしまうだろう。
魅力ある都市への若年人口流入の副作用としての、これらの住宅街のスラム化を防ぐ最善の策は、社寺教会の多産である。我々は戦火を避けて残る下町の隅々に祭壇や地蔵が設らえられていた理由を、いわゆる下町人情という賢明な共生型理念に思い遣ることができる。
然るに一部の区で行われ出している単身者向けアパートの規制は却ってその周辺領域に向けて通勤ラッシュを激化させるに過ぎず、都市部の夜間空洞化および乱雑な商業地区化につながり、延いてはその居住世帯の活気や快適さ、ないし風情をも失うに到るだろう。
中~大規模の再開発が各都市で頻繁に行われる様になれば、その副産物として時勢の移り変わりに伴う荒廃もまた甚だしくなろう。ニュータウンの近い現状にある如く、世代交代に伴うplasticityすなわち粘りを考慮していない計画地は一挙、過疎地になってしまうだろう。
魅力ある都市への若年人口流入の副作用としての、これらの住宅街のスラム化を防ぐ最善の策は、社寺教会の多産である。我々は戦火を避けて残る下町の隅々に祭壇や地蔵が設らえられていた理由を、いわゆる下町人情という賢明な共生型理念に思い遣ることができる。
然るに一部の区で行われ出している単身者向けアパートの規制は却ってその周辺領域に向けて通勤ラッシュを激化させるに過ぎず、都市部の夜間空洞化および乱雑な商業地区化につながり、延いてはその居住世帯の活気や快適さ、ないし風情をも失うに到るだろう。
国家戦略
人体に差し障りがない電磁波長を出入力源において共鳴させる技術を「共振電源」と呼ぶならば、我々はこの社会資本化によって一定の電気供給を恒なる国土基盤にできるだろう。そして国のどの地点にあっても空間をそよぐ電気を使い放題にすることもできるだろう。この構想を『電気風構想』と呼べる。
そしてこの徐々なる民営委託は単に時間の問題となるだろう。
水素発電段階ではその開発費用に比例した料金の徴収が必要であろうが、永続的な太陽光を享受できる衛星発電を実用化できた国家にあってはその複数個を打ち上げておけば安定した固定電力を絶え間なく享受でき、費用はほぼ定型化できるのであたかも郵便物の様に、国有化している間その料金を税収の赦す最も低廉な価格へ一律化できるだろうからだ。
おそらく私企業にとっては、技術風土を向上していくうちに社会資本になった電気産業を譲り受けることが必要となるであろう。従って専ら、暫くは経済を高度工業への適応の為に整えて行くのは中長期的視野に立って世界史を構想するのには向いていると思われる。もしや利己より愛国に優る株式市場の賢明過ぎる性質によって金融業務の発達が幾分かは遅れても、工業技術の発達を永きに渡り確保できた国家が結局は、現代経済において覇権的となるであろう。
例えばこの電気風の無料化が促進されるに当たって従来の工業製品の過半は小型化した「受信機」を設らえることになろうし、従って旧来の電源コードや電池関連系統の殆どの製品は骨董になっていくだろう。無論、石炭や石油も一部の隙間産業を除けば事業としては廃れてしまう。結果的には工業製品の更新過程へ適応した市場が最も需要に合致するであろう。
だから足早な情報産業化は必ずしも正解ではなかろう。それが柔軟で速やかな情報共有の場造りによって工業力の潤滑剤となる範囲に限っては推奨できるが、今の人類文明の発達度に対しは幾分か時期尚早と云われる。
そしてこの徐々なる民営委託は単に時間の問題となるだろう。
水素発電段階ではその開発費用に比例した料金の徴収が必要であろうが、永続的な太陽光を享受できる衛星発電を実用化できた国家にあってはその複数個を打ち上げておけば安定した固定電力を絶え間なく享受でき、費用はほぼ定型化できるのであたかも郵便物の様に、国有化している間その料金を税収の赦す最も低廉な価格へ一律化できるだろうからだ。
おそらく私企業にとっては、技術風土を向上していくうちに社会資本になった電気産業を譲り受けることが必要となるであろう。従って専ら、暫くは経済を高度工業への適応の為に整えて行くのは中長期的視野に立って世界史を構想するのには向いていると思われる。もしや利己より愛国に優る株式市場の賢明過ぎる性質によって金融業務の発達が幾分かは遅れても、工業技術の発達を永きに渡り確保できた国家が結局は、現代経済において覇権的となるであろう。
例えばこの電気風の無料化が促進されるに当たって従来の工業製品の過半は小型化した「受信機」を設らえることになろうし、従って旧来の電源コードや電池関連系統の殆どの製品は骨董になっていくだろう。無論、石炭や石油も一部の隙間産業を除けば事業としては廃れてしまう。結果的には工業製品の更新過程へ適応した市場が最も需要に合致するであろう。
だから足早な情報産業化は必ずしも正解ではなかろう。それが柔軟で速やかな情報共有の場造りによって工業力の潤滑剤となる範囲に限っては推奨できるが、今の人類文明の発達度に対しは幾分か時期尚早と云われる。
科学熱の思議
人間が有限の一生の中で得らる知識の質量から言っても、その洗練ということは是非の中核なのは疑いない。如何なる科学の徒も、究極の真理を発見することに加えそのうつくしい表現というのが少なくとも、たしなみでもあり目当てなのである。逆にいえば科学の目的は記号配列のしあわせなのだろう。そしてそれより他に為しうる訳ではない。Pragmatistが明瞭な表記を貴ぶのも一つの流派で、難渋な解読をたのしむ有閑の徒にとってのこのましさは少なからず、この趣きをpopularなもの、通俗説の書き下しとも取れるところだろう。どの名文もまなばれることに意味を見つけられるから、知識の伝承の為には通俗的な表記が望ましい。情報がめずらしいほどにそれが金言という価値を帯びるなら情報文明の学識は共有の場を広げれば、翻って需給を一致させる。例えば電子レンジを知らない大衆の間ではこの製品の興味はないが、情報共有が進むに従ってこの需要は劇的に増大しやがては満ちる。
よって、もし科学が定常状態に至るなら知識共有の最適化が需給をバランスした地点においてであろう。この面からすると教育というのは必ずしも自然なありさまではなかった。それが寧ろ知識の普及によって科学への熱烈な需要を打ち消してしまう暗面を免れないだろう。即ち、科学熱をつねに一定以上へ保つには知識の囲い込みをしなくてはならないのだ。だから、教育過剰というのは文明にとっては好ましい助長ではなかった。
大衆の興味がより優れて洗練された趣味へと導かれるのにはいつでも工夫が要る。常識の度合いを効率よく精錬するのならあたかも飢えた砂漠へ雨を降らすまでは供給を絞れ。知識欲へ徹底的に飢えさせるが為には猿共を無知の荒野へ追い出しておくのが賢明なのだ。つまりまなびにくるまでことさら教えないでおくのが学問啓発の神髄。
とすると通俗化が絶対に正しい文化ではないと分かる。それが一つの嗜みであって、なおも真書の為には文体のゆとりを保つならまだしも。難しいことがとるにたらぬ真似を遠避け、知識の希少化に貢献して科学への信仰を維持する原理であればこそ、限られた人生時間を有効にもちいて可能なだけの複合概念を知らず知らずの内に則っていく道のりとして文法へ書きあらわすのが、学者にとっては伝承義務より一層に高い目的である。科学の通俗化は必要でもない。学問に難解を恐れる理由はない。
よって、もし科学が定常状態に至るなら知識共有の最適化が需給をバランスした地点においてであろう。この面からすると教育というのは必ずしも自然なありさまではなかった。それが寧ろ知識の普及によって科学への熱烈な需要を打ち消してしまう暗面を免れないだろう。即ち、科学熱をつねに一定以上へ保つには知識の囲い込みをしなくてはならないのだ。だから、教育過剰というのは文明にとっては好ましい助長ではなかった。
大衆の興味がより優れて洗練された趣味へと導かれるのにはいつでも工夫が要る。常識の度合いを効率よく精錬するのならあたかも飢えた砂漠へ雨を降らすまでは供給を絞れ。知識欲へ徹底的に飢えさせるが為には猿共を無知の荒野へ追い出しておくのが賢明なのだ。つまりまなびにくるまでことさら教えないでおくのが学問啓発の神髄。
とすると通俗化が絶対に正しい文化ではないと分かる。それが一つの嗜みであって、なおも真書の為には文体のゆとりを保つならまだしも。難しいことがとるにたらぬ真似を遠避け、知識の希少化に貢献して科学への信仰を維持する原理であればこそ、限られた人生時間を有効にもちいて可能なだけの複合概念を知らず知らずの内に則っていく道のりとして文法へ書きあらわすのが、学者にとっては伝承義務より一層に高い目的である。科学の通俗化は必要でもない。学問に難解を恐れる理由はない。
2008年8月26日
運勢勘定
経済力を順調着実に進捗させる原材料は学者の多趣味にある。
従ってもし財力を持て余す資本階級が君臨しているのなら、彼等は何よりも未来を案じてその余分の資産を「学問の助成」に費やすのが賢い。
例えば百人の失業者を養うよりも一人の天才を生じた民族の方がより優れた救貧法を発布しうるであろう。
従ってもし財力を持て余す資本階級が君臨しているのなら、彼等は何よりも未来を案じてその余分の資産を「学問の助成」に費やすのが賢い。
例えば百人の失業者を養うよりも一人の天才を生じた民族の方がより優れた救貧法を発布しうるであろう。
2008年8月25日
画期的発明の将来性
Intelが無線電源コードを発明した(WREL: Wireless Resonant Energy Link又はREL、則ち共振電源)。この応用によって、将来の人類は衛星発電からの半永続的電気供給が可能になるだろう。
おそらくは水素発電の次に、こちらが主流になるだろう。というのもこの「発電衛星」を稼働させるのには宇宙産業への活発な意欲がなければならない。従ってこの実用には富める高技術国が前提となる。
専らの課題は宇宙産業への全面的な助成を怠らない事にあるだろう。かなり遠い未来の話ではあっても、もし各国がこの取り組みを常態化すれば電気は殆ど只になりうるかもしれない。
おそらくは水素発電の次に、こちらが主流になるだろう。というのもこの「発電衛星」を稼働させるのには宇宙産業への活発な意欲がなければならない。従ってこの実用には富める高技術国が前提となる。
専らの課題は宇宙産業への全面的な助成を怠らない事にあるだろう。かなり遠い未来の話ではあっても、もし各国がこの取り組みを常態化すれば電気は殆ど只になりうるかもしれない。
2008年8月23日
ハンディキャップ原理
全人類は比較的な障害者である。完成された十全健康というものは何らかの環境抵抗に対する特定の適性としてしか定義されないのであって、全ての生物が進化途上にあるという某学者のお気楽な空想に学問の序に関する紳士協定の観点から多少の配慮を払っても、帯患健康の変異についてしか健全の水準は仮定しようもない。
よって我々は障害者という前現代の差別用語を捨てて、代わりに人間すべてを条件者と呼ぶのが適当であると思われる。結局、遺伝条件は必ず人類に於ても多様性を乱費し、それらの合目的観を環境適性という特定形質へと緩やかに傾斜する配偶の坂道に向けて転がすというのが自然のみならぬ運命選択論側の知見である。則ち全人類は初期条件がばらばらでしかも極めて様々なルールの競戯に遊ぶオリンピック選手に喩えられる。障害はルールの側にあって、個人にはない。故にルールを変えればゲームの順位も当然変わる。どれが障害かは誰にも判定できない。
生まれながらの障害者はありえない。環境が克服すべきフィールドなら、常にプレイヤーが新たに得る習性は生活目的であって、その初期条件は個性の範囲に属する。そして個性には人権の本質的等価が紛れない。故に障害者という差別用語を使って平気で少数派を迫害する哀れな感情知能の持ち主にも性格にまつわる適応障害はある。
よって我々は障害者という前現代の差別用語を捨てて、代わりに人間すべてを条件者と呼ぶのが適当であると思われる。結局、遺伝条件は必ず人類に於ても多様性を乱費し、それらの合目的観を環境適性という特定形質へと緩やかに傾斜する配偶の坂道に向けて転がすというのが自然のみならぬ運命選択論側の知見である。則ち全人類は初期条件がばらばらでしかも極めて様々なルールの競戯に遊ぶオリンピック選手に喩えられる。障害はルールの側にあって、個人にはない。故にルールを変えればゲームの順位も当然変わる。どれが障害かは誰にも判定できない。
生まれながらの障害者はありえない。環境が克服すべきフィールドなら、常にプレイヤーが新たに得る習性は生活目的であって、その初期条件は個性の範囲に属する。そして個性には人権の本質的等価が紛れない。故に障害者という差別用語を使って平気で少数派を迫害する哀れな感情知能の持ち主にも性格にまつわる適応障害はある。
医学
近視が現れる原因が遺伝でなく習慣にある場合、それは大部分、寧ろ近代生活に於て近くの作業に眼球が適応しようと変わった結果なのである。この点で、近代医術が視力矯正をのみ目指して無理に眼鏡やコンタクトレンズあるいは眼球手術をさえ試みたのは、生き物の自然からすれば誤りである。つまるところ近眼は近代化の並行現象であって、寧ろ人類の進化にとっては仕方ない適応形質なのである。
方針として、近場の作業に適応した眼球について、少なくとも日常生活に支障がない程度までには遠近調整機能を養っていくこと、則ち裸眼養生の習慣づけを方法論として多岐的に与えることが習慣型近視の医術が為には、より良い治療の筋だと私は思う。眼球のピントは毛様筋・Zinn氏帯(スポーク帯)・水晶体の連携によるというのが今世の通説である。ならば、この各々の機能を日常に鍛え、養う習慣づけを与えられれば、後天的な強度近視に至る人はかなり少なくなるだろう。
対策として、先ず人の眼球の標準焦点とされる6.5m以下に適応値が下がっている度合いに応じて、それぞれ相談者の生活事情に即した裸眼による遠見の工夫を与えるのである。例えば4m前後の人には2mほど先へ焦点距離を敢えて落とした遠視用眼鏡を日用リハビリ道具として与える。或いは50cmまで順応している場合はまれな遺伝ないし眼病の症状がなければ殆どがデスクワーカー型であるから、卓上作業に際しては裸眼を原則とし、日常では中くらいの度の矯正、外出事は必ず強い矯正をかける様にとバランスよく養生へ導くべきであろう。
また今、ある程度の薬学的根拠をもって次のいくつかの箇条を現状の治癒材料として挙げられる。
・アントシアニン等の色素摂取がロドプシンの再合成を促すこと
・ルテイン等のカロチノイド物質摂取が黄斑変性症や白内障を防ぐこと
・副作用を生じないだけ適量のメチル硫酸ネオスチグミンの目薬等による点下が、コリンエステラーゼの働きを抑えてアセチルコリン量を増やす中で毛様筋の活性化につながること
なお注意を要するのは近視症状に併せて水晶体その他の細胞気質が生まれつき弱い人がいる可能性を否めないことから、これらのリハビリ治療を非常にゆっくりとしたペースで行うことである。異状が現れたら即座に治療法を停止して、要因を考慮してこれまでの消極的な矯正型方法へと方針転換をしなくてはならない。
思うに、これまでの眼科医術では次の事が見逃されてきた。即ち、もし先天的遺伝ないし病源によらない一般の仮性近視の患者へ、リハビリテーションを薦めないままで矯正措置を強いるなら却って、そのつらい矯正状態へ更に前と同じくらいのきびしい適応課題を科すことになるのだからピント機能回復という合目的の為には逆効果なのであった。これは眼科医学の応用法にとっては明らかに錯誤の類であったと認めなくてはならない。健常という曖昧な定義の過信が、目が悪いという言葉により偏見を与え、障害阻止を優先して適応的獲得形質の習得者たちを患者あつかいしたのはひとえに近代医術の哲学幼き傲慢であった。そして改めて近代化に伴った近視傾向は人類の進化にとっても自然であると謂われなくてはならない。おそらく未来の文化人類は我々より柔軟に視力を調整するすべを、道具によってか遺伝によってか獲得しているであろう。
さて、ところでいわゆる老眼に対してはこれらの逆の手順を深慮を込めて図ることによってピント機能の老化症状をなくすまではいかずとも、今までより遅めることはできるはずだ。つまり眼球細胞の老化はこれへ適度な運動を習慣づけてある程度の若返りを図れるだろう。
薬理を踏まえながら近視用の眼鏡をリハビリ道具として与えること、或いは強度の老眼については裸眼による卓上作業を習慣づけることで少なくともその進行を遅められるであろう。これらの試みを我々は今までの矯正主義眼科医術に対して回復主義眼科医術と呼んでもいいはずだ。
方針として、近場の作業に適応した眼球について、少なくとも日常生活に支障がない程度までには遠近調整機能を養っていくこと、則ち裸眼養生の習慣づけを方法論として多岐的に与えることが習慣型近視の医術が為には、より良い治療の筋だと私は思う。眼球のピントは毛様筋・Zinn氏帯(スポーク帯)・水晶体の連携によるというのが今世の通説である。ならば、この各々の機能を日常に鍛え、養う習慣づけを与えられれば、後天的な強度近視に至る人はかなり少なくなるだろう。
対策として、先ず人の眼球の標準焦点とされる6.5m以下に適応値が下がっている度合いに応じて、それぞれ相談者の生活事情に即した裸眼による遠見の工夫を与えるのである。例えば4m前後の人には2mほど先へ焦点距離を敢えて落とした遠視用眼鏡を日用リハビリ道具として与える。或いは50cmまで順応している場合はまれな遺伝ないし眼病の症状がなければ殆どがデスクワーカー型であるから、卓上作業に際しては裸眼を原則とし、日常では中くらいの度の矯正、外出事は必ず強い矯正をかける様にとバランスよく養生へ導くべきであろう。
また今、ある程度の薬学的根拠をもって次のいくつかの箇条を現状の治癒材料として挙げられる。
・アントシアニン等の色素摂取がロドプシンの再合成を促すこと
・ルテイン等のカロチノイド物質摂取が黄斑変性症や白内障を防ぐこと
・副作用を生じないだけ適量のメチル硫酸ネオスチグミンの目薬等による点下が、コリンエステラーゼの働きを抑えてアセチルコリン量を増やす中で毛様筋の活性化につながること
なお注意を要するのは近視症状に併せて水晶体その他の細胞気質が生まれつき弱い人がいる可能性を否めないことから、これらのリハビリ治療を非常にゆっくりとしたペースで行うことである。異状が現れたら即座に治療法を停止して、要因を考慮してこれまでの消極的な矯正型方法へと方針転換をしなくてはならない。
思うに、これまでの眼科医術では次の事が見逃されてきた。即ち、もし先天的遺伝ないし病源によらない一般の仮性近視の患者へ、リハビリテーションを薦めないままで矯正措置を強いるなら却って、そのつらい矯正状態へ更に前と同じくらいのきびしい適応課題を科すことになるのだからピント機能回復という合目的の為には逆効果なのであった。これは眼科医学の応用法にとっては明らかに錯誤の類であったと認めなくてはならない。健常という曖昧な定義の過信が、目が悪いという言葉により偏見を与え、障害阻止を優先して適応的獲得形質の習得者たちを患者あつかいしたのはひとえに近代医術の哲学幼き傲慢であった。そして改めて近代化に伴った近視傾向は人類の進化にとっても自然であると謂われなくてはならない。おそらく未来の文化人類は我々より柔軟に視力を調整するすべを、道具によってか遺伝によってか獲得しているであろう。
さて、ところでいわゆる老眼に対してはこれらの逆の手順を深慮を込めて図ることによってピント機能の老化症状をなくすまではいかずとも、今までより遅めることはできるはずだ。つまり眼球細胞の老化はこれへ適度な運動を習慣づけてある程度の若返りを図れるだろう。
薬理を踏まえながら近視用の眼鏡をリハビリ道具として与えること、或いは強度の老眼については裸眼による卓上作業を習慣づけることで少なくともその進行を遅められるであろう。これらの試みを我々は今までの矯正主義眼科医術に対して回復主義眼科医術と呼んでもいいはずだ。
2008年8月22日
太平洋連合の手順
EUを例に取れば、太平洋連合・PUを形成した場合の日本へ東南アジア文化が流入するのは免れず、そこには悪影響も必ずあるであろう。
北欧ではEU加盟によって却って薬物まで容易に取引される様になってしまったという。東南アジアの中には多妻制を公認しているところもあり、PU結成によって一部日本人が売春を活発化する弊害は事前に予想できる。
地域連合の軽率な全面的肯定は危険がある。短期的国富の強化をのみ目標としてその基盤である「民度」をなおざりにすれば即ち持続型社会はない。
もし日米協調を重視して慎重な処遇を望むなら、日本は「関税緩和」という一見消極的な手順から東アジア一帯の経済功労へ進むのが賢い。時期を見た適切な協定により、単なる商材流通の自由化だけをよく選んで付き合うのが現先進国の義務だろう。
地域における国家間貿易連合は『国連主義』という独立外交の大原則より優先順位は低いと考える。貿易相手の多核balanceという当面の商務命題は関税があろうとなかろうと不変なのだから。
北欧ではEU加盟によって却って薬物まで容易に取引される様になってしまったという。東南アジアの中には多妻制を公認しているところもあり、PU結成によって一部日本人が売春を活発化する弊害は事前に予想できる。
地域連合の軽率な全面的肯定は危険がある。短期的国富の強化をのみ目標としてその基盤である「民度」をなおざりにすれば即ち持続型社会はない。
もし日米協調を重視して慎重な処遇を望むなら、日本は「関税緩和」という一見消極的な手順から東アジア一帯の経済功労へ進むのが賢い。時期を見た適切な協定により、単なる商材流通の自由化だけをよく選んで付き合うのが現先進国の義務だろう。
地域における国家間貿易連合は『国連主義』という独立外交の大原則より優先順位は低いと考える。貿易相手の多核balanceという当面の商務命題は関税があろうとなかろうと不変なのだから。
個性の自由
文面に対してであれ発言に対してであれ、どんな言い訳も徹るという事情が民主政の抱える自己矛盾。
デリダが少なからず法律に対して行った批判は、民主主義を語るどの行いについても誠に然り。人は科学体系の実証性を、議論の緻密さを求める終わりなき哲学の内へしか見つけえない。だから近代人が実証主義の信念を無条件に絶対視できる理由は、我々の哲学観にしかありえない。
もしソクラテスが悪意の徒だったなら、かれへの裁判は正しいことになる。だが誤解を解く為に人間へ許された手段はいつでも言論によるはずだ。そして不完全性定理を省みて、論理の中では言論そのものの正しさを論証できる命題が唯一解とはなりえないのなら我々は、感情論という極めて脆いその場かぎりの気分で物事の善悪を裁きがちとならざるを得ない。つまり厳正な論理学の範畴で法治国家の理想を考えるなら、人はその無謬性を信じるのが単なる合理趣味の命題としか考え様もない。歴史が示す政治の実績に一つならぬ過ちを見つけるのはたやすい試験である。なぜならその是非は哲学的だから。人間が長い試行錯誤の努力に際してもなんら誤りを侵さない境地に至ることは無いだろう。この正否を決めるのは善悪の理念であり、極めておそるべき事実背景だが、その主観的信念がなびくこと、多数派の移り気な感情を煽り起てて比較的共感を買った側という殆ど運気にも如かぬ程度の蓋然性に基づいている。
民主政治が理想として掲げるのは、従って悲しむべき結論ではあるが運任せの賭博国家と目的されてしまう。多数派が抱く感情の正統さを多数派自身が言い訳することは自体、自家撞着であり取るに足らない。何がこれらの軽率を戒められかといえば、少数の冷静な哲学者だけだろう。既に最大多数の論拠として宗教化された明文へと事態解釈の便宜的な指針を誘うことを生業とする法律家は、裁判是正の為にはつねに技術者に過ぎない。つまり彼らが理性の手段化を煽動の技能として蓄積した仲間達であり、その場かぎりの判定に全面的に職権の目的を定める言論職人とされねばならぬ以上はこの善悪の水準を如何なる知識調律とも伴奏しうる位に最適化しなおせる学問の担い手が哲学の側にあるのは明らか。というのも哲学は自律表現という文章ないし口頭による言論の復礼を主義する社会の外部監査装置。そしてこの機能が落とされてしまえば社会は善悪の根拠を失うだろう。
思うに、法三章と呼ばれた法治国家の究極理念を新しい時代局面で造り直すことができるかは哲学者の総合的批判がどれだけ高い機能を果たせるか、に由る。そして妥当な折衝を倫理観と大きくまでは逸脱しない様におそるおそる法文と弁明を擦り合わせるのが技術の中核であり、良識をつねに比較的増しな折衷案に託すのが職分である弁護士にとってすら正義の門所で閂を開閉する権力を裁判官の道義感覚以上に啓蒙できる訳ではない。すなわち司法の判決ではその社会での最善の哲学者が理念に昇華した道徳感情を当為と見なす様信じることが法治国家において望みうる善意の限界。そして人類が経た数々の暗黒裁判はこの善意が正義の為には決して十分ではないと知らしめる。裁判官はいかに法的に自律を要求しても法解釈の虫という誹りを脱却する程には神々しく判断できないのである。結果、人間が民主政の法律によって身柄を守られるのは実態、善意そのものの為にではなくて多数派理念妥当性の為に。
多数派が絶対に多かれ少なかれ誤りをも含むのは当然としても、寡頭政におけるよりは比較的増しな妥協を諮りうるという諦めが民主政の司法を彩る全理由だった。脱構築を主義する個人を法的に批判可能な理性は、この理念界の原因者以外には充てられないからこそ法律至上主義はそれをおかしいと感じる人間の多少によって揚棄せられるだろう。そして妥当な解釈を先延ばしにすることがよりよく精神性に合致する罰則だと大衆が目覚めた時に、人は無期懲役を最高刑と考えるのが倫理的であると疑わなくなるだろう。社会を壊すのは社会の成長の為には必要悪であるという必然が、犯罪者を人間視すること、人間が悪意を法学的にしか定め得ない現実から被疑者への最大限の人道的扱いを人情に赦せる限り否定してはならないことを構築主義者の信仰へも許容させる理由。
人間が善悪を完璧に見分けられるなら誰も悪人になろうとはしない。司法が可能な全ては悪意の原因を倫理の光のもと慮ることにある。もし裁判官が人間ならば過ちを冒さぬままで生を終えられもしない。よって、誤解への最善解釈が裁判官の最高徳。或いは多数派の善意の内々で安住していた被害者にとって、慈悲の理想はあまりにも惨い宿題。却って少数派が哲学的批判の民度を底上げする為には如何なる自律の妨げも独り慎しむべきは確か。こうして宗教家ないし神学者とは信仰の為には哲学の徒に依存する。尊い信仰の如何なる箇条も、言い訳の為の言い訳を排する実用主義哲学からの擁護がなければ法律家の恣意的定義によって狂信の偏見を免れないだろう。例えば当世の犯罪に触れた宗教祖の如きを道徳感情の水準へと引き戻すのは理念哲学者以外にはありえまい。故に、国家や国際連合が哲学者の言論に自由を確保しておくことは当面の不安な世界情勢にあっては、人道の舵を道徳的社会の実現という希望の航路からいつでも修正可能な程度に逸れさせない為には、命綱となる。哲学から看てみれば、信仰の自由は道徳理念の養生の為には相対的方便であって倫理の最終目的ではない。文明哲学度つまるところ平均的な良識の如何によっては我々は憲法から諸々に分かれて定義された自由関係の条項をまとめ、代わりに個性の自由という理念へと昇華して行くだろう。この考えは自由権の核心であって、この実践の為にはどの変異も人間性の遺産故。
デリダが少なからず法律に対して行った批判は、民主主義を語るどの行いについても誠に然り。人は科学体系の実証性を、議論の緻密さを求める終わりなき哲学の内へしか見つけえない。だから近代人が実証主義の信念を無条件に絶対視できる理由は、我々の哲学観にしかありえない。
もしソクラテスが悪意の徒だったなら、かれへの裁判は正しいことになる。だが誤解を解く為に人間へ許された手段はいつでも言論によるはずだ。そして不完全性定理を省みて、論理の中では言論そのものの正しさを論証できる命題が唯一解とはなりえないのなら我々は、感情論という極めて脆いその場かぎりの気分で物事の善悪を裁きがちとならざるを得ない。つまり厳正な論理学の範畴で法治国家の理想を考えるなら、人はその無謬性を信じるのが単なる合理趣味の命題としか考え様もない。歴史が示す政治の実績に一つならぬ過ちを見つけるのはたやすい試験である。なぜならその是非は哲学的だから。人間が長い試行錯誤の努力に際してもなんら誤りを侵さない境地に至ることは無いだろう。この正否を決めるのは善悪の理念であり、極めておそるべき事実背景だが、その主観的信念がなびくこと、多数派の移り気な感情を煽り起てて比較的共感を買った側という殆ど運気にも如かぬ程度の蓋然性に基づいている。
民主政治が理想として掲げるのは、従って悲しむべき結論ではあるが運任せの賭博国家と目的されてしまう。多数派が抱く感情の正統さを多数派自身が言い訳することは自体、自家撞着であり取るに足らない。何がこれらの軽率を戒められかといえば、少数の冷静な哲学者だけだろう。既に最大多数の論拠として宗教化された明文へと事態解釈の便宜的な指針を誘うことを生業とする法律家は、裁判是正の為にはつねに技術者に過ぎない。つまり彼らが理性の手段化を煽動の技能として蓄積した仲間達であり、その場かぎりの判定に全面的に職権の目的を定める言論職人とされねばならぬ以上はこの善悪の水準を如何なる知識調律とも伴奏しうる位に最適化しなおせる学問の担い手が哲学の側にあるのは明らか。というのも哲学は自律表現という文章ないし口頭による言論の復礼を主義する社会の外部監査装置。そしてこの機能が落とされてしまえば社会は善悪の根拠を失うだろう。
思うに、法三章と呼ばれた法治国家の究極理念を新しい時代局面で造り直すことができるかは哲学者の総合的批判がどれだけ高い機能を果たせるか、に由る。そして妥当な折衝を倫理観と大きくまでは逸脱しない様におそるおそる法文と弁明を擦り合わせるのが技術の中核であり、良識をつねに比較的増しな折衷案に託すのが職分である弁護士にとってすら正義の門所で閂を開閉する権力を裁判官の道義感覚以上に啓蒙できる訳ではない。すなわち司法の判決ではその社会での最善の哲学者が理念に昇華した道徳感情を当為と見なす様信じることが法治国家において望みうる善意の限界。そして人類が経た数々の暗黒裁判はこの善意が正義の為には決して十分ではないと知らしめる。裁判官はいかに法的に自律を要求しても法解釈の虫という誹りを脱却する程には神々しく判断できないのである。結果、人間が民主政の法律によって身柄を守られるのは実態、善意そのものの為にではなくて多数派理念妥当性の為に。
多数派が絶対に多かれ少なかれ誤りをも含むのは当然としても、寡頭政におけるよりは比較的増しな妥協を諮りうるという諦めが民主政の司法を彩る全理由だった。脱構築を主義する個人を法的に批判可能な理性は、この理念界の原因者以外には充てられないからこそ法律至上主義はそれをおかしいと感じる人間の多少によって揚棄せられるだろう。そして妥当な解釈を先延ばしにすることがよりよく精神性に合致する罰則だと大衆が目覚めた時に、人は無期懲役を最高刑と考えるのが倫理的であると疑わなくなるだろう。社会を壊すのは社会の成長の為には必要悪であるという必然が、犯罪者を人間視すること、人間が悪意を法学的にしか定め得ない現実から被疑者への最大限の人道的扱いを人情に赦せる限り否定してはならないことを構築主義者の信仰へも許容させる理由。
人間が善悪を完璧に見分けられるなら誰も悪人になろうとはしない。司法が可能な全ては悪意の原因を倫理の光のもと慮ることにある。もし裁判官が人間ならば過ちを冒さぬままで生を終えられもしない。よって、誤解への最善解釈が裁判官の最高徳。或いは多数派の善意の内々で安住していた被害者にとって、慈悲の理想はあまりにも惨い宿題。却って少数派が哲学的批判の民度を底上げする為には如何なる自律の妨げも独り慎しむべきは確か。こうして宗教家ないし神学者とは信仰の為には哲学の徒に依存する。尊い信仰の如何なる箇条も、言い訳の為の言い訳を排する実用主義哲学からの擁護がなければ法律家の恣意的定義によって狂信の偏見を免れないだろう。例えば当世の犯罪に触れた宗教祖の如きを道徳感情の水準へと引き戻すのは理念哲学者以外にはありえまい。故に、国家や国際連合が哲学者の言論に自由を確保しておくことは当面の不安な世界情勢にあっては、人道の舵を道徳的社会の実現という希望の航路からいつでも修正可能な程度に逸れさせない為には、命綱となる。哲学から看てみれば、信仰の自由は道徳理念の養生の為には相対的方便であって倫理の最終目的ではない。文明哲学度つまるところ平均的な良識の如何によっては我々は憲法から諸々に分かれて定義された自由関係の条項をまとめ、代わりに個性の自由という理念へと昇華して行くだろう。この考えは自由権の核心であって、この実践の為にはどの変異も人間性の遺産故。
2008年8月21日
清談
政治界への不信を払拭する最善の仕方は『公務の透明度を高める』ことに尽きる。マスメディアのみならず、芸能人の技巧を真似てblogに日常を記す閣僚が居てもいい。国家機密を平気で記しちゃう人材なんかはそもそも政治屋以前の胆力であろうし、向かぬ。
国民自身の批判的監視が隅々まで及べば、唯一の国府なのに癒着を隠蔽しているゴキブリ共の住処は集中豪雨に襲われるだろう。慌てて逃げ惑う姿をスカッとした気分で眺めていたのは賃金搾取されし若き労働貧者か、年金搾取されし退職老人か。
しかしこの一斉の棚卸しなくして、国内最大の赤字を叩き出す真っ黒焦げ企業に蔓延るきたなき湿り気を、外部監査の天日干しで一掃する思い切りも出まい。怠惰が慣習化した授業参観の直前に大掃除する先生の名なんか実は、どの親にも知られているのだったな。
徹底的情報開示を不良抵抗勢力にかかわずらってまたも躊躇えば、日本政府の集権性そのものが揺らぐ前に商業趣味くさいサルマネ道州制誘導の悪業が祟るやら。やれ地方州民とやらが自活した経済力を担保に幕藩命令に従わなくなれば、このめでたい国もあのお隣の如く一家分裂してしまうんだろうに。なぜそんなありきたりな道理も見えないのか。
代わりにシンプルな「地方制」としてより弾力化した税分割率調整handi capを含む柔らかな分権協業体制の方が遥かに、既存地方自治体の素早い団結と自発的工夫を絶えざる中央統制のもと引き出し易いのに。またまた無理な官庁自己満足の税収ばら蒔きダム建設が、我が国の清流から一品も美味しい鮎を追い出してしまったとして自称有識者諸君に天才官僚達はとうに某大量退職金で逃げ去った後だとは。はてさて、どうやら川床のビールもバドワイザーへ一律でいいやということらしいな。そうだ、それならここは《醜い国》と名づけよう。49番目の縁起わりいこんな濁った公害自由放任川で恵比寿とか頼めば全然風流でもなんでもないし、下らんから覇権に魂を売った奴らの一族の墓でも家でもぶち打ち壊しに行くか。
科挙風習の廃止、即ち手始めに「国家公務員試験の原則廃止」は成績徒用の弊害である試験趣味者の傲慢を挫くのにも、能力主義が基調となった今日の効率良い企業体験を財政改善へ活かすのにも充分なのに。必須なのは無駄知識だけでなく債務実績なのだ。
少なくとも閣僚会議から直接、ある重用な「省庁監査枠」へ一定勢力以上の民間企業から抜擢した経営適任者を送り込むのはtechnocracyを脱却するのにも国家公務員法に定めるべき当面の絶対課題である。官僚が役得席を入れ替えるには内閣権限を拡張する以外なにがある?
悉く科挙の及ぶ範囲は「公開議会主義」の国民視認が管理統制下になければならぬ。その外側に立つ如何なる公務員も民主政の根幹を揺らがす暗躍国賊である。
国民自身の批判的監視が隅々まで及べば、唯一の国府なのに癒着を隠蔽しているゴキブリ共の住処は集中豪雨に襲われるだろう。慌てて逃げ惑う姿をスカッとした気分で眺めていたのは賃金搾取されし若き労働貧者か、年金搾取されし退職老人か。
しかしこの一斉の棚卸しなくして、国内最大の赤字を叩き出す真っ黒焦げ企業に蔓延るきたなき湿り気を、外部監査の天日干しで一掃する思い切りも出まい。怠惰が慣習化した授業参観の直前に大掃除する先生の名なんか実は、どの親にも知られているのだったな。
徹底的情報開示を不良抵抗勢力にかかわずらってまたも躊躇えば、日本政府の集権性そのものが揺らぐ前に商業趣味くさいサルマネ道州制誘導の悪業が祟るやら。やれ地方州民とやらが自活した経済力を担保に幕藩命令に従わなくなれば、このめでたい国もあのお隣の如く一家分裂してしまうんだろうに。なぜそんなありきたりな道理も見えないのか。
代わりにシンプルな「地方制」としてより弾力化した税分割率調整handi capを含む柔らかな分権協業体制の方が遥かに、既存地方自治体の素早い団結と自発的工夫を絶えざる中央統制のもと引き出し易いのに。またまた無理な官庁自己満足の税収ばら蒔きダム建設が、我が国の清流から一品も美味しい鮎を追い出してしまったとして自称有識者諸君に天才官僚達はとうに某大量退職金で逃げ去った後だとは。はてさて、どうやら川床のビールもバドワイザーへ一律でいいやということらしいな。そうだ、それならここは《醜い国》と名づけよう。49番目の縁起わりいこんな濁った公害自由放任川で恵比寿とか頼めば全然風流でもなんでもないし、下らんから覇権に魂を売った奴らの一族の墓でも家でもぶち打ち壊しに行くか。
科挙風習の廃止、即ち手始めに「国家公務員試験の原則廃止」は成績徒用の弊害である試験趣味者の傲慢を挫くのにも、能力主義が基調となった今日の効率良い企業体験を財政改善へ活かすのにも充分なのに。必須なのは無駄知識だけでなく債務実績なのだ。
少なくとも閣僚会議から直接、ある重用な「省庁監査枠」へ一定勢力以上の民間企業から抜擢した経営適任者を送り込むのはtechnocracyを脱却するのにも国家公務員法に定めるべき当面の絶対課題である。官僚が役得席を入れ替えるには内閣権限を拡張する以外なにがある?
悉く科挙の及ぶ範囲は「公開議会主義」の国民視認が管理統制下になければならぬ。その外側に立つ如何なる公務員も民主政の根幹を揺らがす暗躍国賊である。
数学及び天文学
単位量あたりの掃除分を示すニュートンの流率法を幾何学に宛てれば、我々は流率幾何という新しい学野を切り拓ける。そして微積分の基本定理は、実は幾何学的にはこの動きのある図形つまり動態を数理的に記述できるが故に役立つ手段であったと分かる。ここで流率幾何とは動態力学の端緒である。Sとxの流率をdSとdtで表すと、この関数y=f(x)は一単位量あたり
dS/dt:dx/dt=y:1
の割合で変化する。即ち
1(dS/dt)=y(dx/dt)
(dS/dt)/(dx/dt)=y
よって、
y=(dS/dx)
つまりある単位面積dSの掃除分を、xの流率dxで微分すればyという関数になる。これはライプニッツの微分記号を用いて記すと
d/dx∫[0→x]f(x)dx=f(x)
また、流率幾何の原則としてこれは求積法と等価と考えて
S=∫[0→x]f(x)dxより、
掃除面積Sはy=f(x)という関数をxで積分した値に等しい。以上で流率幾何の原理を表記できた。
こうして我々は微積分計算を利用して、少なくとも幾何学的に整理され多少あれ単純な動態を数式で記述できるだろう。例えばケプラーの第三法則すなわち調和の法則はGM/4π2で省略表記できるが、f(M)=GM/4π2を掃除分Sで表すと、
S=∫[0→M]GM/4π2
=[GM2/8π2]0→M
ここで、Mを単位量1と置けば
S=G/8π2
即ち惑星の楕円軌道に於て質量Mの流率はG/8π2の割合で増減する。これは少なくとも巨視的な系に関する調和定数と呼びうる。質量あたり一定の流率で、如何なる惑星系ないし万有引力系もその離心率に関わらず運動するのだ。
dS/dt:dx/dt=y:1
の割合で変化する。即ち
1(dS/dt)=y(dx/dt)
(dS/dt)/(dx/dt)=y
よって、
y=(dS/dx)
つまりある単位面積dSの掃除分を、xの流率dxで微分すればyという関数になる。これはライプニッツの微分記号を用いて記すと
d/dx∫[0→x]f(x)dx=f(x)
また、流率幾何の原則としてこれは求積法と等価と考えて
S=∫[0→x]f(x)dxより、
掃除面積Sはy=f(x)という関数をxで積分した値に等しい。以上で流率幾何の原理を表記できた。
こうして我々は微積分計算を利用して、少なくとも幾何学的に整理され多少あれ単純な動態を数式で記述できるだろう。例えばケプラーの第三法則すなわち調和の法則はGM/4π2で省略表記できるが、f(M)=GM/4π2を掃除分Sで表すと、
S=∫[0→M]GM/4π2
=[GM2/8π2]0→M
ここで、Mを単位量1と置けば
S=G/8π2
即ち惑星の楕円軌道に於て質量Mの流率はG/8π2の割合で増減する。これは少なくとも巨視的な系に関する調和定数と呼びうる。質量あたり一定の流率で、如何なる惑星系ないし万有引力系もその離心率に関わらず運動するのだ。
政論
個人主義が民主政段階の目的なのではない。寧ろ一層の協力主義が個々人に自制されるのがその終極の形態になるだろう。
あらゆる集団競技でかくある如くに、個性を最大限に発揮させるのには互譲の精神、いわゆる「譲り合い」の気分が仲間に共有されて居なくてはならぬ。ある天才の個人技を美しく用いるには周りがそれを活かすため組織的に最適化されていなくてはならない。
あうんの呼吸とか気合いという究極言語化なしえない空気が、集団のより合理的な一致協力のためにはまわりくどい意志伝達そのものより重要なのは、論理より感情を優先して反射を連鎖するという医学的観察に基づいても猶、合目的である。
非常に質の高い協力とは脊髄反応を通じて殆ど習性化された「技」が各自条件反射の同時連鎖として、仲間内へ型になって共有されている証拠となる。火事場で人々が必死になった時に自動的にバケツリレーができるのはこの作用の原型であり、如何なる社会活動にもこの原理は方法論次第に応用可能なのである。
優れた個性が活きるのはあたかも組体操の様に、この協力の体制が同じ目的意識の為に一心となる場所に於てである。最も体重の軽く運動神経の良い個人を最高度の芸術的に舞わせるには、数多くの力持ちがかれの最も登り易い山を己れの鍛えあげた両手で長らく支え続けられなければならない。もし一員さえも手を抜けばその地盤は簡単に崩れるのだ。
個性のない体制というものはそもそも有り得ない。如何なる人間も機械でなく、生物である限り何らかの偏差を伴って生まれ育つ。
だが《個性を抑圧する体制》はあり得る。この体制では趣味観、いわば『志』が共有されていないが為に、夫々自由の持ち場を同じ目的の為に最適化しきれない。従って体制は最も低く最も愚かな指導を誰しもに我慢を強いる中で意に反して、無理に担がせるしかないのだ。この失敗した体制の原因は、『志』の高みが見られない事に帰せるであろう。
逆にいえば最も高い志の見られる場所ではあまねくこの協力体制への適合の努力が見られる。我々は新しく特殊な個性が要請される場所ではその前提に、偉大な志を立てた男らしく勇ましい人物が居たのを知る。地柄、或いは校風だとか企業風土とはこの言い換えである。
如何なる人間も見下されて生きるのに忍びない。彼は生まれもった自尊心により、少なくとも他人と対等に立つには死を厭うまい。主人の使いを果たせなかった丁稚が首を吊った話は、人間が如何なる身分にあっても自尊心を失えば生きる意味がない事を指し示している。
凡そ人間を他の哺乳類一切から隔てるのは、この「自尊心」の有無に由る。そしてたとえ同時代で犯罪や叛乱とみなされる反社会行動にさえ仔細に分析すれば、解消しきれなかった不条理に抑圧され昇華に向かっては歪まされた志の発露が視られるだろう。すべて善悪を捨てて人間を何らかの目的に駆り立てて止まぬものとはこの種の理屈を超えた『志』なのである。我々はいうにやまれぬ熱情に駈られた幕末の志士へ自分を省る遑を与えなかった原動力が維新の志という武士間の無言の協力心であったのを憶えている。この特別な変化の引き金を直接に引いたのは、永い大平の世にあっても侍の内へ滅びずに集積され続けて来た、ほぼ民族の天性となっていた忠義という獲得習性であった。
いつ如何なる時代にどの地点にあっても人間へ最善の判断の為には悔いを留めない理念とは正義感である。若しくは知恵者が常にこういう手に負えない頑固者を出し抜き、狡猾にも智謀へと利用するであろう。しかし民族は他の民族が為に民族の地位に就きうることを鑑みれば私の曇りなき最善の行動はどの観点からさえ、あまねく共感を得るのに十分である。ただ一人、救世主が現れた世界では偉大な倫理的革新が起こるのを防ぎ止めるのは不可能である。曰く、協力主義を民族の最善の判断力と一致させるのは全人間の魂を救う大志なのである。
もしあたうかぎり最高の大志が認識された人間にあっては、どの貧窮や困難も進んで挑むべき戦いとなるであろう。かれには幸せは欺瞞である。いずれ仮の姿である人に安住できる土地はこの世の範囲では誰にも見つけ得まい。狡賢い個人がかれの猪突盲信を嘲笑うとて、それが一途建設せんとし実践する人間性の共和国はなんびとも目下に見下し得ぬ国家をかたち造る。
だから、nationalityが民主政の上で団結するのには是非とも高志高徳の士が必須となろう。煽動屋が政治劇場を国民をからかう詭弁のcomedyに低落させようとしたところで、力強い雄々しさを有した性格者は必ずや彼らの偽善を暴くであろう。そして民衆が政の上で感服するのはいつでも単なる暮らしの安楽などではない。思うに徳川三百年の治世を実現した史的快挙は只の穏健趣味などではない。然るに家康の猛き高徳がもののふを率いる威厳を以て民衆の自発的協力を仰いだのである。主君の名を記した札をさえ踏めばその武士の魂は汚れると感じた民は現代の垂れきった均質衆愚とまるきり対照的に、政略の故にではなく圧倒的人格性の故におのずから望んで権力へ敬服した。それが世論に一喜一憂する女々しき権力者の批判にさえ値せぬ古人の道であったことは二流の経済に甘んじ先祖の功徳におぶさり続け革新を恐るかつては立派であった民族の退化、もし彼らが取るに足らない齢の幼児でないのなら情けなき恥辱であるのだ。
自分の命を狙った仇討ちの少年に勇気ある切腹を許した魂の高潔は、同国の如何なる狭く縮こまった土地へさえも匹夫どもの絶えざる反省をいざなったであろう。そして民主政がかたじけなくも最高に啓発された人間を生じさせるのならば、この様な威厳を保つ主君に忠誠を誓う準備に民族から細心を払って勇者を洗い出す役に立つに過ぎないであろう。
あらゆる集団競技でかくある如くに、個性を最大限に発揮させるのには互譲の精神、いわゆる「譲り合い」の気分が仲間に共有されて居なくてはならぬ。ある天才の個人技を美しく用いるには周りがそれを活かすため組織的に最適化されていなくてはならない。
あうんの呼吸とか気合いという究極言語化なしえない空気が、集団のより合理的な一致協力のためにはまわりくどい意志伝達そのものより重要なのは、論理より感情を優先して反射を連鎖するという医学的観察に基づいても猶、合目的である。
非常に質の高い協力とは脊髄反応を通じて殆ど習性化された「技」が各自条件反射の同時連鎖として、仲間内へ型になって共有されている証拠となる。火事場で人々が必死になった時に自動的にバケツリレーができるのはこの作用の原型であり、如何なる社会活動にもこの原理は方法論次第に応用可能なのである。
優れた個性が活きるのはあたかも組体操の様に、この協力の体制が同じ目的意識の為に一心となる場所に於てである。最も体重の軽く運動神経の良い個人を最高度の芸術的に舞わせるには、数多くの力持ちがかれの最も登り易い山を己れの鍛えあげた両手で長らく支え続けられなければならない。もし一員さえも手を抜けばその地盤は簡単に崩れるのだ。
個性のない体制というものはそもそも有り得ない。如何なる人間も機械でなく、生物である限り何らかの偏差を伴って生まれ育つ。
だが《個性を抑圧する体制》はあり得る。この体制では趣味観、いわば『志』が共有されていないが為に、夫々自由の持ち場を同じ目的の為に最適化しきれない。従って体制は最も低く最も愚かな指導を誰しもに我慢を強いる中で意に反して、無理に担がせるしかないのだ。この失敗した体制の原因は、『志』の高みが見られない事に帰せるであろう。
逆にいえば最も高い志の見られる場所ではあまねくこの協力体制への適合の努力が見られる。我々は新しく特殊な個性が要請される場所ではその前提に、偉大な志を立てた男らしく勇ましい人物が居たのを知る。地柄、或いは校風だとか企業風土とはこの言い換えである。
如何なる人間も見下されて生きるのに忍びない。彼は生まれもった自尊心により、少なくとも他人と対等に立つには死を厭うまい。主人の使いを果たせなかった丁稚が首を吊った話は、人間が如何なる身分にあっても自尊心を失えば生きる意味がない事を指し示している。
凡そ人間を他の哺乳類一切から隔てるのは、この「自尊心」の有無に由る。そしてたとえ同時代で犯罪や叛乱とみなされる反社会行動にさえ仔細に分析すれば、解消しきれなかった不条理に抑圧され昇華に向かっては歪まされた志の発露が視られるだろう。すべて善悪を捨てて人間を何らかの目的に駆り立てて止まぬものとはこの種の理屈を超えた『志』なのである。我々はいうにやまれぬ熱情に駈られた幕末の志士へ自分を省る遑を与えなかった原動力が維新の志という武士間の無言の協力心であったのを憶えている。この特別な変化の引き金を直接に引いたのは、永い大平の世にあっても侍の内へ滅びずに集積され続けて来た、ほぼ民族の天性となっていた忠義という獲得習性であった。
いつ如何なる時代にどの地点にあっても人間へ最善の判断の為には悔いを留めない理念とは正義感である。若しくは知恵者が常にこういう手に負えない頑固者を出し抜き、狡猾にも智謀へと利用するであろう。しかし民族は他の民族が為に民族の地位に就きうることを鑑みれば私の曇りなき最善の行動はどの観点からさえ、あまねく共感を得るのに十分である。ただ一人、救世主が現れた世界では偉大な倫理的革新が起こるのを防ぎ止めるのは不可能である。曰く、協力主義を民族の最善の判断力と一致させるのは全人間の魂を救う大志なのである。
もしあたうかぎり最高の大志が認識された人間にあっては、どの貧窮や困難も進んで挑むべき戦いとなるであろう。かれには幸せは欺瞞である。いずれ仮の姿である人に安住できる土地はこの世の範囲では誰にも見つけ得まい。狡賢い個人がかれの猪突盲信を嘲笑うとて、それが一途建設せんとし実践する人間性の共和国はなんびとも目下に見下し得ぬ国家をかたち造る。
だから、nationalityが民主政の上で団結するのには是非とも高志高徳の士が必須となろう。煽動屋が政治劇場を国民をからかう詭弁のcomedyに低落させようとしたところで、力強い雄々しさを有した性格者は必ずや彼らの偽善を暴くであろう。そして民衆が政の上で感服するのはいつでも単なる暮らしの安楽などではない。思うに徳川三百年の治世を実現した史的快挙は只の穏健趣味などではない。然るに家康の猛き高徳がもののふを率いる威厳を以て民衆の自発的協力を仰いだのである。主君の名を記した札をさえ踏めばその武士の魂は汚れると感じた民は現代の垂れきった均質衆愚とまるきり対照的に、政略の故にではなく圧倒的人格性の故におのずから望んで権力へ敬服した。それが世論に一喜一憂する女々しき権力者の批判にさえ値せぬ古人の道であったことは二流の経済に甘んじ先祖の功徳におぶさり続け革新を恐るかつては立派であった民族の退化、もし彼らが取るに足らない齢の幼児でないのなら情けなき恥辱であるのだ。
自分の命を狙った仇討ちの少年に勇気ある切腹を許した魂の高潔は、同国の如何なる狭く縮こまった土地へさえも匹夫どもの絶えざる反省をいざなったであろう。そして民主政がかたじけなくも最高に啓発された人間を生じさせるのならば、この様な威厳を保つ主君に忠誠を誓う準備に民族から細心を払って勇者を洗い出す役に立つに過ぎないであろう。
2008年8月20日
2008年8月17日
自由化と保護化の調整
例えばJRでは車内放送のvolumeを耳障りな程の大きさで伝える大衆趣味によって一時代の典型な移動媒体となっただろう。しかし未来においても永久にそうであるべきではなく、より安価で放任化した手段も、又より高価で気品ある手段も「客層」に応じて併設されて良い。大衆車両しかないことがもたらす文化、即ち《均質文化》は如何なる意味でも最善ではない。それは慣性によって自己発展不可能の衰退をのみ目指す生態の集合であるだろう。つまり経済発展そのものには微積の限度は有り得ないのである。
規制緩和を計るに当たっての注意点は「保護産業」を民間のthink tankを利用して厳正に検討することにある、当面の課題へ怠惰な組織を動かすのが精一杯である誇大化した政府には長期的洞察が欠けるから。
結局、自由化による最大の欠落は、悲しむべき官僚の保身を除けば長期発展を原則とするが故に、短期的競争力に劣る分野への壊滅的打撃なのである。慎重に保護されてこそ公益に類する産業形態は確かに存在するのであって、例えば伝統工芸や地元商店街の有する文化付加価値は大量生産のチェーン店に如何としても替え難い。思うにある総合政策に必然な分野以外の産業形態について保護化か自由化かは自治体ごとに任意に択ばせるべきで、全国を一律化する益は「適所の多彩化」という付加価値原則にとっても限りなく零に等しい。いわゆる「infra構造の基準」だけが一元化を大抵必要とする部品である、例えば鉄道の線路幅や電波域は政府の介入なしには市場へ無用な対立や混乱を来すものであるからそのある程度の規則統制は少なくとも技術革新に矛盾を来さぬ限りは要請されて良い。
規制緩和を計るに当たっての注意点は「保護産業」を民間のthink tankを利用して厳正に検討することにある、当面の課題へ怠惰な組織を動かすのが精一杯である誇大化した政府には長期的洞察が欠けるから。
結局、自由化による最大の欠落は、悲しむべき官僚の保身を除けば長期発展を原則とするが故に、短期的競争力に劣る分野への壊滅的打撃なのである。慎重に保護されてこそ公益に類する産業形態は確かに存在するのであって、例えば伝統工芸や地元商店街の有する文化付加価値は大量生産のチェーン店に如何としても替え難い。思うにある総合政策に必然な分野以外の産業形態について保護化か自由化かは自治体ごとに任意に択ばせるべきで、全国を一律化する益は「適所の多彩化」という付加価値原則にとっても限りなく零に等しい。いわゆる「infra構造の基準」だけが一元化を大抵必要とする部品である、例えば鉄道の線路幅や電波域は政府の介入なしには市場へ無用な対立や混乱を来すものであるからそのある程度の規則統制は少なくとも技術革新に矛盾を来さぬ限りは要請されて良い。
2008年8月15日
天文学
光速度可変の原理を導入すれば、現代人の宇宙解釈は閉鎖系のそれであると近似的に認識しても構わない。極めて遅い光速の元ではエントロピーの低い系の秩序が、逆に極めて速い光速の元ではエントロピーの高い系の秩序が考えられる。我々は上述の可変解釈を銀河系より大きな系の枠組みとして宇宙系と名づけられるだろう。しかし我々は太陽系の属する天の川銀河の自然が如何なる規則に基づいて建設されているかを取り敢えず研究しなければならないことは、井の中の蛙が大海を知らないと同時に井戸そのものの有り様さえ知らない蛙がいるのに喩えられる。もし仮に我々の属する宇宙系を天の川銀河をも包む質量の流れであると定めるなら、それを織り姫と彦星の永久の恋の舞台になぞらえて七夕系と呼ぶ。即ち、我々の属する宇宙の光速度が観測に矛盾が現れて来ない限り一定水準であるのはローレンツ変換式√1-(v/c)2の物体の速度vを比較的増大させる結果、その光子に抵抗する引力の中枢がどれだけの質量を持って宇宙間を移動しているかに等しく、ある閉じられた系の中では最も巨大な質量因が各銀河系および恒星系の引力の歪みによる補整誤差を大幅に超えているからである。
そしてこの質量因より大きなブラックホールの存在する系では、少なくとも確実に光速が我々の七夕系におけるよりも速い事、逆により小さな宇宙系では遅い事が予想できる。なぜなら万有法則m=Acより引斥力の全体は釣り合う筈だからだ。
にも関わらず生物量の公式E=klogD=1/2mυ02-Wによれば、mかυ02つまり質量又は光電子振動数の初期条件が高いほどに複雑な生物が栄えるであろう可能性は否定できない。従って七夕系を基準とした光速より速い現象が有り得る宇宙系においては明らかに、質量とエネルギーの等価式よりE=mc2よりc2=E/mなのでその活動質量は我々の生態系より遥かに甚大な幅広さを保つ筈である。
我々はこの推論から七夕系宇宙より巨大な宇宙系への移動を単に速さによってではなく同様に時間によって、光速に限りなく近い空間の中ではその外側の観測空間より遥かに時間が遅く進む相対論の自由に沿って時空航路を執る者が現れた暁には、彼らが何れの時代にか我々を飲み込む宇宙系からの光速より速く動力を推進させる機構の持ち主との接点を持つ事が殆ど確率の問題であり単に論理的には必然であると知りうる。そして中には我々とよく似た次元の知的生物も含まれるであろう。然るに我々より低い系の秩序、つまりそれは地球において細菌界や原核生物界との接点が相応の観察装置により可能なのに等しく、彼らには彼らの異種との接触が進化する新たな種の形成により彼らの生態様式を革新して行くのは惑星文明間におけるのに同様である。だがエントロピー増大則が恒星系の大きさに応じて生物量の範囲へ許す限り、少なくとも七夕系のどこかの銀河には恒星の大きさと化学条件としての条件偏差値に応じて異なる秩序の生態系が実在することを否定仕切れまい。よってドレイクの宇宙文明方程式から適当な変数を除去整理してN=R×fpとするなら、文明数Nは恒星生成平均速度Rと惑星型恒星率fpのどちらかを定められれば、それらの内へ生物が栄えるのは恒星系の持続する時間の問題に過ぎず過去を省みない限り一以上と考えても合理的である。もしこの値を単に生命数に還元してnとすればn=R×fp、然るに惑星型恒星率は少なくともマイナスを取り得ず、虚時間条件のない場では恒星生成平均速度がゼロ以下には成り得ないことから各銀河系を探索する内に地球外生物を発見するのは単に確率論である。
更に、万有法則m=Acと質量とエネルギーの等価式E=mc2より、エネルギー平衡則E=Ac3を導き出せる。
また七夕系宇宙が今日普通の世界を保つ間は、中枢質量因に近い銀河系ほどに等価原理によりゆっくりとした速度で、又遠い銀河系ではより速く時間が流れると考えられるからエネルギー平衡則が意味するのは最も宇宙系中枢から遠ざかった文明ほどに素早く展開し、しかし同時に小型の生態系しか不可能な宇宙構造である。ハッブルの法則はV=H0×R、従って天体後退速度Vは定点から天体迄の距離Rに対して比例して増大するなら我々はホーキングの特異点定理を時間順序保護仮説のみを原理として採用することで回避し、宇宙系の内部ほど時間は悠久であってその中枢には過去の姿を留め続ける化学反応が保存されていること、又ある程度外側には優れて膨張してはいるが互いに光路的に孤立して発展した複数の文明もが存在しうることを予想させる。この時間幅のある全体として閉じた宇宙モデルを仮に普遍宇宙モデルと名づける。こうしてビッグバンとは微視的には絶えず無限に近づきつつある量子同士の化学作用で巨視的には最大値の核融合であり宇宙の中枢では我々から見れば世界は殆ど止まっていること、ビッグクランチは少なくとも時間軸が最大限に展開した光の未だに届かない宇宙の過疎地としてしか定義できず人類の感性の範畴では想像力が及ばないことを普段の世界観にも受け入れられるだろう。
そしてこの質量因より大きなブラックホールの存在する系では、少なくとも確実に光速が我々の七夕系におけるよりも速い事、逆により小さな宇宙系では遅い事が予想できる。なぜなら万有法則m=Acより引斥力の全体は釣り合う筈だからだ。
にも関わらず生物量の公式E=klogD=1/2mυ02-Wによれば、mかυ02つまり質量又は光電子振動数の初期条件が高いほどに複雑な生物が栄えるであろう可能性は否定できない。従って七夕系を基準とした光速より速い現象が有り得る宇宙系においては明らかに、質量とエネルギーの等価式よりE=mc2よりc2=E/mなのでその活動質量は我々の生態系より遥かに甚大な幅広さを保つ筈である。
我々はこの推論から七夕系宇宙より巨大な宇宙系への移動を単に速さによってではなく同様に時間によって、光速に限りなく近い空間の中ではその外側の観測空間より遥かに時間が遅く進む相対論の自由に沿って時空航路を執る者が現れた暁には、彼らが何れの時代にか我々を飲み込む宇宙系からの光速より速く動力を推進させる機構の持ち主との接点を持つ事が殆ど確率の問題であり単に論理的には必然であると知りうる。そして中には我々とよく似た次元の知的生物も含まれるであろう。然るに我々より低い系の秩序、つまりそれは地球において細菌界や原核生物界との接点が相応の観察装置により可能なのに等しく、彼らには彼らの異種との接触が進化する新たな種の形成により彼らの生態様式を革新して行くのは惑星文明間におけるのに同様である。だがエントロピー増大則が恒星系の大きさに応じて生物量の範囲へ許す限り、少なくとも七夕系のどこかの銀河には恒星の大きさと化学条件としての条件偏差値に応じて異なる秩序の生態系が実在することを否定仕切れまい。よってドレイクの宇宙文明方程式から適当な変数を除去整理してN=R×fpとするなら、文明数Nは恒星生成平均速度Rと惑星型恒星率fpのどちらかを定められれば、それらの内へ生物が栄えるのは恒星系の持続する時間の問題に過ぎず過去を省みない限り一以上と考えても合理的である。もしこの値を単に生命数に還元してnとすればn=R×fp、然るに惑星型恒星率は少なくともマイナスを取り得ず、虚時間条件のない場では恒星生成平均速度がゼロ以下には成り得ないことから各銀河系を探索する内に地球外生物を発見するのは単に確率論である。
更に、万有法則m=Acと質量とエネルギーの等価式E=mc2より、エネルギー平衡則E=Ac3を導き出せる。
また七夕系宇宙が今日普通の世界を保つ間は、中枢質量因に近い銀河系ほどに等価原理によりゆっくりとした速度で、又遠い銀河系ではより速く時間が流れると考えられるからエネルギー平衡則が意味するのは最も宇宙系中枢から遠ざかった文明ほどに素早く展開し、しかし同時に小型の生態系しか不可能な宇宙構造である。ハッブルの法則はV=H0×R、従って天体後退速度Vは定点から天体迄の距離Rに対して比例して増大するなら我々はホーキングの特異点定理を時間順序保護仮説のみを原理として採用することで回避し、宇宙系の内部ほど時間は悠久であってその中枢には過去の姿を留め続ける化学反応が保存されていること、又ある程度外側には優れて膨張してはいるが互いに光路的に孤立して発展した複数の文明もが存在しうることを予想させる。この時間幅のある全体として閉じた宇宙モデルを仮に普遍宇宙モデルと名づける。こうしてビッグバンとは微視的には絶えず無限に近づきつつある量子同士の化学作用で巨視的には最大値の核融合であり宇宙の中枢では我々から見れば世界は殆ど止まっていること、ビッグクランチは少なくとも時間軸が最大限に展開した光の未だに届かない宇宙の過疎地としてしか定義できず人類の感性の範畴では想像力が及ばないことを普段の世界観にも受け入れられるだろう。
民族状態の目印
脱構築は科学を含む文章を越えて、口語の差延についても当て填る。だからその理念は絶対的理解を拒むが相対的理解を究極で否定する論理ではない。我々の伝達が無内容・無形式という訳でもないし、おもにその能率や適性に様々なmodeがあるだけ。
だから脱構築は漸進的理解や文明の進歩を否定媒介として切っ掛け付ける方便ではあれ、妨げる力を持たない。分野意識の狭い科学者が哲学の意義を蔑むにせよその批判精神が捉え得る範畴は、全知性の限界である自然界を超えて理念界の全域である。いずれ思考の為の道具であるどの概念も理念哲学の対象でないことはなかった。脱構築は理念としては絶対の真理を、絶えず反省され来る正義以外には認めまい。そしてその正義はカントにより義務と呼ばれたものだ。我々は神の究極原因を全知全能の理想へ託す他には、因果律の起源を明白な仮説思考ないし信仰上仮定して置けはしないだろう。
科学者達が真理と呼ぶ概念図は、現実には比較的増しな定量的観測を吟味して推論の数学的規則と秩序づけようとし続ける暇潰しのゲームを導き出す理由ではあって、その意味するところは創造された諸世界の中で子供が次第に事象を法則的に追認して行く過程に変わらない。結局はいつしか神に極めて似た人が現れて、更に進化する未来の人は神そのものの近似解に極限的に漸近する事から、理性は自己原因の形相であること、スピノザの考えにも関わらず精神は神自身が理性の光のもとに照らされた秩序であると認識して良い。つまり自己原因である万有の鑑賞者はおのれを永久の秩序のもとに設置なされたのであろう。だから必ずや当為として即ち理想の姿として、我々は神の御身元を、常々想起される魂の連綿という生物および宇宙の一般関係の解答に見出すことができる。信仰と理性とは何れかの文化にとってもある段階でこの様にして普遍に一致する。それから我々は古代インドの偉大な哲人共同体が輪廻という訳語にこの原義を定めて行ったのを知っている。神は万象輪廻の内で変化している自己原因そのものなので、人類が様々な部族に別れて各々の独立と交易の中から自由に発見した理念にせよ究極原因である神は、精神の自律性へと、流転にも関わらず人間の魂の不変不滅をよく信じる長者の道徳として保存されて来た。
その文化段階において最も経験に富む最も年長の有徳者が保つ魂の形相は、精神性の具体的模範である。その絶えざる伝統はいわば文明の規律と呼び得る。最も理知さとく感情に富んだ個性は運命選択の許す限り、同世代でのあたうかぎり最大限の長命を最高の具体的善意と合致させただろう。そしてそれは我々が現実世界で目にすることのできる最も神に近い生であったし今でもそうであるのに違いない。孝という理念はこの様にしてよく倫理的善意と共に養われている。
確かに単に長く生きた豚より日々に精魂を傾けたソクラテスの一日の方がずっと良く、孔子の朝に道を聞かば夕べに死すとしても可なりという有名な言行録に際して懐いた感慨はおよそこの様な道徳的相対度が、文明の規律の内側にあっても依然として人生の最終目的であることを指し示したものなのだろう。中国の聖人は道という極めて簡潔な理念へと、以上の当然経るべき哲学と信教の世代間総合を果たしている。カントが神と理性とは矛盾しないことを道徳神学の理念により論拠づける遥か古に東洋の聖徳は、それを又湿潤な情緒との詩的混合型として定義付けることになった。恵まれた自然環境のお陰で奴隷貿易の常識がなかったので、彼らは知性を技術の命ずる必要以上に助長することが全体として民族協働にまつわる最大の和と幸福の害悪であると考えていた。
故に、西洋文化のどの一文人も、如何なる知性の必然もが脱構築的にしか真実でしか有り得ない比較論の積極性には、東洋文明が恰も怠惰の如くに見える豊穣と歓待の依存的生活への適応によって見通しの効かないほどの多種多才を寛容し育もうとする道士の諦念に関しても実に、いささか母集団を他より一歩先んじさせるのに性急で感情の調和を軽んずる為に自己破壊の衝動を、よって文明自体の解体と呼ぶべき不安定な集団の分裂と闘争を繰り返す傾向の内在した不合理さに連なることより遥かに、お喋りや他の民族への干渉には消極的ながら合目的性の形式が為には一層の賢明な判断である歴史の真実を各文化地の長足の進展を顧みおのずから反省し、文字の通りOrientに、起源へと学ばねばならぬ日が昇り来るだろう。無私の理想は必ずやあまねく認識される時に遇うであろう。例えどの民族がいつの世にそれを迎えるか未だ確定できない。だがどの個性も他より絶対迄には勝り得ず、絶えず配偶を通じてよりそれを改良するしかないことから、精神は可塑的であり乃至集団生活の中においてしか顕現され得ないことを悟り得る。人は他の人に対してのみ人間。故に最も精神的な個性は必ずや文明の規律のさなかに名もなき聖人として、即ち民族状態の恒常観として現れて来る。
だから脱構築は漸進的理解や文明の進歩を否定媒介として切っ掛け付ける方便ではあれ、妨げる力を持たない。分野意識の狭い科学者が哲学の意義を蔑むにせよその批判精神が捉え得る範畴は、全知性の限界である自然界を超えて理念界の全域である。いずれ思考の為の道具であるどの概念も理念哲学の対象でないことはなかった。脱構築は理念としては絶対の真理を、絶えず反省され来る正義以外には認めまい。そしてその正義はカントにより義務と呼ばれたものだ。我々は神の究極原因を全知全能の理想へ託す他には、因果律の起源を明白な仮説思考ないし信仰上仮定して置けはしないだろう。
科学者達が真理と呼ぶ概念図は、現実には比較的増しな定量的観測を吟味して推論の数学的規則と秩序づけようとし続ける暇潰しのゲームを導き出す理由ではあって、その意味するところは創造された諸世界の中で子供が次第に事象を法則的に追認して行く過程に変わらない。結局はいつしか神に極めて似た人が現れて、更に進化する未来の人は神そのものの近似解に極限的に漸近する事から、理性は自己原因の形相であること、スピノザの考えにも関わらず精神は神自身が理性の光のもとに照らされた秩序であると認識して良い。つまり自己原因である万有の鑑賞者はおのれを永久の秩序のもとに設置なされたのであろう。だから必ずや当為として即ち理想の姿として、我々は神の御身元を、常々想起される魂の連綿という生物および宇宙の一般関係の解答に見出すことができる。信仰と理性とは何れかの文化にとってもある段階でこの様にして普遍に一致する。それから我々は古代インドの偉大な哲人共同体が輪廻という訳語にこの原義を定めて行ったのを知っている。神は万象輪廻の内で変化している自己原因そのものなので、人類が様々な部族に別れて各々の独立と交易の中から自由に発見した理念にせよ究極原因である神は、精神の自律性へと、流転にも関わらず人間の魂の不変不滅をよく信じる長者の道徳として保存されて来た。
その文化段階において最も経験に富む最も年長の有徳者が保つ魂の形相は、精神性の具体的模範である。その絶えざる伝統はいわば文明の規律と呼び得る。最も理知さとく感情に富んだ個性は運命選択の許す限り、同世代でのあたうかぎり最大限の長命を最高の具体的善意と合致させただろう。そしてそれは我々が現実世界で目にすることのできる最も神に近い生であったし今でもそうであるのに違いない。孝という理念はこの様にしてよく倫理的善意と共に養われている。
確かに単に長く生きた豚より日々に精魂を傾けたソクラテスの一日の方がずっと良く、孔子の朝に道を聞かば夕べに死すとしても可なりという有名な言行録に際して懐いた感慨はおよそこの様な道徳的相対度が、文明の規律の内側にあっても依然として人生の最終目的であることを指し示したものなのだろう。中国の聖人は道という極めて簡潔な理念へと、以上の当然経るべき哲学と信教の世代間総合を果たしている。カントが神と理性とは矛盾しないことを道徳神学の理念により論拠づける遥か古に東洋の聖徳は、それを又湿潤な情緒との詩的混合型として定義付けることになった。恵まれた自然環境のお陰で奴隷貿易の常識がなかったので、彼らは知性を技術の命ずる必要以上に助長することが全体として民族協働にまつわる最大の和と幸福の害悪であると考えていた。
故に、西洋文化のどの一文人も、如何なる知性の必然もが脱構築的にしか真実でしか有り得ない比較論の積極性には、東洋文明が恰も怠惰の如くに見える豊穣と歓待の依存的生活への適応によって見通しの効かないほどの多種多才を寛容し育もうとする道士の諦念に関しても実に、いささか母集団を他より一歩先んじさせるのに性急で感情の調和を軽んずる為に自己破壊の衝動を、よって文明自体の解体と呼ぶべき不安定な集団の分裂と闘争を繰り返す傾向の内在した不合理さに連なることより遥かに、お喋りや他の民族への干渉には消極的ながら合目的性の形式が為には一層の賢明な判断である歴史の真実を各文化地の長足の進展を顧みおのずから反省し、文字の通りOrientに、起源へと学ばねばならぬ日が昇り来るだろう。無私の理想は必ずやあまねく認識される時に遇うであろう。例えどの民族がいつの世にそれを迎えるか未だ確定できない。だがどの個性も他より絶対迄には勝り得ず、絶えず配偶を通じてよりそれを改良するしかないことから、精神は可塑的であり乃至集団生活の中においてしか顕現され得ないことを悟り得る。人は他の人に対してのみ人間。故に最も精神的な個性は必ずや文明の規律のさなかに名もなき聖人として、即ち民族状態の恒常観として現れて来る。
2008年8月14日
自然論
時間とは質量の方向性。故に、宇宙は恒常と多様を両立して行く。もし宇宙模型がこの考えに則り造られるなら、それは全体としては閉じていながらにして部分は絶えず粗密の度合いを移り変わらせるコロイド態であるだろう。ともするとエネルギー保存則が成り立つ訳は閉鎖系としての空間構造を、又それらの流通にエントロピー運動がある由は質量の方向性という第四次元が座標軸上へ与えられているから。我々が引力の起源を物質間の距離二乗に反比例する微視の性質に求めるなら、絶えずそれに斥いて巨視的に再現されて行く自然は色相を移り変わらせているに過ぎず、根本として不変な事、言い換えれば世界は微積分を繰り返すカオスの中にある事を知るだろう。
唯一、精神だけが秩序を数学なしうる。宇宙に秩序がある訳ではなく、人間精神だけが自律して知性を世界へ投影しうる。神は宇宙の目的を自然の観賞者へも分ち与えた。生命は質量のmicro cosmos。厳密に考えて、万が一光速度以上を自然が許可しなければ如何に振動数条件の高い波束でも永久に宇宙の果てには辿り着かない。ということは宇宙に果てはない。その概念は少なくとも光速度が許可する世界観の内観にのみ森羅万象が有ること、我々には光に照らされていない宇宙外観を如何なる想像力によっても知り得ないと示す。
人類は将来に渡っても宇宙の外側に辿り着きも想像を致す事もないだろう。無い場所を想像する事を考えればいい。しかしそれでも宇宙の時空間の無限さを否定する論拠はあり得ない。だからもし生命が積極的に技術を高め続けて行けば、やがて彼らは光学的想像力の限りに広がる無際限の多彩世界の内へ冒険と移住を繰り返すだろう。
唯一、精神だけが秩序を数学なしうる。宇宙に秩序がある訳ではなく、人間精神だけが自律して知性を世界へ投影しうる。神は宇宙の目的を自然の観賞者へも分ち与えた。生命は質量のmicro cosmos。厳密に考えて、万が一光速度以上を自然が許可しなければ如何に振動数条件の高い波束でも永久に宇宙の果てには辿り着かない。ということは宇宙に果てはない。その概念は少なくとも光速度が許可する世界観の内観にのみ森羅万象が有ること、我々には光に照らされていない宇宙外観を如何なる想像力によっても知り得ないと示す。
人類は将来に渡っても宇宙の外側に辿り着きも想像を致す事もないだろう。無い場所を想像する事を考えればいい。しかしそれでも宇宙の時空間の無限さを否定する論拠はあり得ない。だからもし生命が積極的に技術を高め続けて行けば、やがて彼らは光学的想像力の限りに広がる無際限の多彩世界の内へ冒険と移住を繰り返すだろう。
2008年8月13日
再創造仮説
人間は徐々に活動をrecreation化しつつある様に思える。嘗ては生計の為に行われて来た慣習が、後の世では余暇の娯楽とされる。経済性を強化するに当たって、直接の人為が必要な領域は益々少なくなって行く。研究せられた法則を元に自然現象の活用を覚えた人類は生産に於いて、並べて自動化を可能にして行く。若しこの方角に大凡過ちがなければ、人類は文明化のとある末には諸労働から解放されるだろう。彼らは最早生計の為にではなく、recreationそのものの為に働くだろう。此は彼らの活動が益々自己目的を深める事を意味する。人間は他の手段と成る事を要せず、単に己れが成長則の為に活動する。結果、各地の民族性は既存よりずっと個性の度を高めるだろう。
自由主義の蔓延風儀がある時代に地球を覆ったとして、人間は少なくとも地域郷土を拠り所にしてその流れが有する均質化や一元趣味への潜在的抑圧へ最大限に抵抗するか。
文化は少なからず彼らが共有できる最終の記憶となる。国家が今日に於ける程の堅固な囲いではなくなった暁にさえ、民情を同一化する根源は彼らに普通の先祖が辿って来た辛抱強い足跡。文化摩擦、しかし負の失態を伴いつつ、如何なる面から眺めてもこの相互参照と自己反省の繰り返しだけが以前に優って近代化された文化様式を発見せしめる方法。我々は各種偏見を様々な共同化の工夫と努力を通じて次第に取り除くべきで、国家を民情を対外国へ隠し仰せるべきではないだろう。どの様な醜い部分ですら、客観的には慈しみ哀れむに足る特徴を示す文化の生態。我々は鏡を手本とし、己の姿を出来うるだけ客観視しようと常々勉めねばなるまい。文化は内側から見れば普遍的なのに外側から見れば多少あれ特殊なら、その差延にあって人間は交易を果たす。故に内省を、従って自己規律を絶えず与え直す契機とは実に幅広くゆたかな社交。
代表的一神教信念にとって罪の基調は内観にあると云いうる。然れど因果の網はたとえ罪の意識を彼ら程に強く持たない民情に於いても厳格な応報を行うだろう。この場所では何らかの環境誘因に依って、余りに窮屈な自己罰則は却って不適応となっている。だから、我々は一神教の尊い感情を狂信者の如くに、他方の未開とされる文化に殊更移植しなければならぬ理由を持たない。謂わば宗教とは地域文化に科せられた偏見の慣習。別の常識に基づけば、自由は彼らの信念に則り行動させる所に属するのが明らか。植民政策が大概に失策であった歴史事情は結局は人間が如何なる野蛮の風習に対してさえ、動物を扱いこなす程には冷酷であってはならない現実であった。人格は他者をまた目的とせねばならない。為らば宗教間に分別を、国家間に自律を要請するのは現代の国際交通が命ずる必然。
聖戦を主義して他方の信教を迫害感化せしめるのに適した民情にとってさえ、貢納の節度に就いて協働を尊ぶ親切が根強い。ともすれば人間は自らの目線からしか世界を観察できないと思い勝ち。実際には多数の、非常によく似た精神が各々の信念と共に各地各風土に能う限りの自助勤労により適当している。そのどの一つが人間的でないことは無い。
文明国を自称する浅はかな民も、如何なる生産労働からの日時の解放に鑑みてさえも他国民の生活様式を嘲笑う理由を持たない。なんとなれば彼らが最高度も見なす市民間にとっても犯罪が、悪意や錯誤が自滅したか否かを反省すれば。文化は永久に比較相対的。文明に際限がないとすれば宇宙に眼を向け、おのれの人格より遥かに勝れる理知の生活圏に想いを至すべきなのは普遍人倫に領域がなければこそだ。
自由主義の蔓延風儀がある時代に地球を覆ったとして、人間は少なくとも地域郷土を拠り所にしてその流れが有する均質化や一元趣味への潜在的抑圧へ最大限に抵抗するか。
文化は少なからず彼らが共有できる最終の記憶となる。国家が今日に於ける程の堅固な囲いではなくなった暁にさえ、民情を同一化する根源は彼らに普通の先祖が辿って来た辛抱強い足跡。文化摩擦、しかし負の失態を伴いつつ、如何なる面から眺めてもこの相互参照と自己反省の繰り返しだけが以前に優って近代化された文化様式を発見せしめる方法。我々は各種偏見を様々な共同化の工夫と努力を通じて次第に取り除くべきで、国家を民情を対外国へ隠し仰せるべきではないだろう。どの様な醜い部分ですら、客観的には慈しみ哀れむに足る特徴を示す文化の生態。我々は鏡を手本とし、己の姿を出来うるだけ客観視しようと常々勉めねばなるまい。文化は内側から見れば普遍的なのに外側から見れば多少あれ特殊なら、その差延にあって人間は交易を果たす。故に内省を、従って自己規律を絶えず与え直す契機とは実に幅広くゆたかな社交。
代表的一神教信念にとって罪の基調は内観にあると云いうる。然れど因果の網はたとえ罪の意識を彼ら程に強く持たない民情に於いても厳格な応報を行うだろう。この場所では何らかの環境誘因に依って、余りに窮屈な自己罰則は却って不適応となっている。だから、我々は一神教の尊い感情を狂信者の如くに、他方の未開とされる文化に殊更移植しなければならぬ理由を持たない。謂わば宗教とは地域文化に科せられた偏見の慣習。別の常識に基づけば、自由は彼らの信念に則り行動させる所に属するのが明らか。植民政策が大概に失策であった歴史事情は結局は人間が如何なる野蛮の風習に対してさえ、動物を扱いこなす程には冷酷であってはならない現実であった。人格は他者をまた目的とせねばならない。為らば宗教間に分別を、国家間に自律を要請するのは現代の国際交通が命ずる必然。
聖戦を主義して他方の信教を迫害感化せしめるのに適した民情にとってさえ、貢納の節度に就いて協働を尊ぶ親切が根強い。ともすれば人間は自らの目線からしか世界を観察できないと思い勝ち。実際には多数の、非常によく似た精神が各々の信念と共に各地各風土に能う限りの自助勤労により適当している。そのどの一つが人間的でないことは無い。
文明国を自称する浅はかな民も、如何なる生産労働からの日時の解放に鑑みてさえも他国民の生活様式を嘲笑う理由を持たない。なんとなれば彼らが最高度も見なす市民間にとっても犯罪が、悪意や錯誤が自滅したか否かを反省すれば。文化は永久に比較相対的。文明に際限がないとすれば宇宙に眼を向け、おのれの人格より遥かに勝れる理知の生活圏に想いを至すべきなのは普遍人倫に領域がなければこそだ。
都市の美観
一般に、公序良俗に反する看板は設置を罰金刑以上で法的に規制すべきである。同時に、良俗に著しく反する店舗や商材あるいは服装および行為そのものを厳格に罰則すべきである。
いかに幼い子供の目にも包み隠さず、又一般に人目に触れる場所へ態々これらを貼り付けておく意味は、一体何なのか。単に彼らが如何に公益の為に何事かを主義主張することが少ないか、つまり人というものの浅ましい利己性をかくまであからさまに表している側面はないと言える。
もし先進国を模範取るなら、如何に規制を厳しくしたところでこれらの野卑な風習が一切根絶できるものではなく、従って限れば限るだけ分散し隠蔽され地下深くに潜行して目立たなくなるのを知るだろう。「猥醜が公衆の目に触れない」ということ、それらの野卑な行動の全てが少なくとも公には存在していない様に世間を設らえることはどの観点からさえ、正当な文明化の方向である。これらの野蛮の陋習をどれだけ強く削減しても決して一つも人間に損害はないであろう。
いかに幼い子供の目にも包み隠さず、又一般に人目に触れる場所へ態々これらを貼り付けておく意味は、一体何なのか。単に彼らが如何に公益の為に何事かを主義主張することが少ないか、つまり人というものの浅ましい利己性をかくまであからさまに表している側面はないと言える。
もし先進国を模範取るなら、如何に規制を厳しくしたところでこれらの野卑な風習が一切根絶できるものではなく、従って限れば限るだけ分散し隠蔽され地下深くに潜行して目立たなくなるのを知るだろう。「猥醜が公衆の目に触れない」ということ、それらの野卑な行動の全てが少なくとも公には存在していない様に世間を設らえることはどの観点からさえ、正当な文明化の方向である。これらの野蛮の陋習をどれだけ強く削減しても決して一つも人間に損害はないであろう。
2008年8月12日
婚姻制度の指南
我々は既存婚姻外の浮浪生活者の為に特殊な社会保障を国法で定める意味を持たぬ。文明の必然は人口支持力の増大なのであり、決して単なる生物量として定量化してしまえる出生率ではないからだ。
いくら数多くとも、彼らの精神的生活程度が先祖よりずっと没落していればその国家は《不幸の文化》により失敗したと言える。だから女性への過剰教育により不安定な浮浪層の増大が起こるとしても、堅い婚姻による「最大多数の最高幸福」の福祉行為に適応した生を最優先して優遇すべきなのはいずれ変わらぬ。
なんとなれば倫理的に退化した種類に最低限度の文化的生活を定めるなら、それは彼らが「物質的に」生存を保障されるというに過ぎず、結局人間的家庭を築くには金だけでは足りぬのだ。
曰く、百万人の犬畜生より遥かに、唯一人の人格者の方が尊いのである。
いくら数多くとも、彼らの精神的生活程度が先祖よりずっと没落していればその国家は《不幸の文化》により失敗したと言える。だから女性への過剰教育により不安定な浮浪層の増大が起こるとしても、堅い婚姻による「最大多数の最高幸福」の福祉行為に適応した生を最優先して優遇すべきなのはいずれ変わらぬ。
なんとなれば倫理的に退化した種類に最低限度の文化的生活を定めるなら、それは彼らが「物質的に」生存を保障されるというに過ぎず、結局人間的家庭を築くには金だけでは足りぬのだ。
曰く、百万人の犬畜生より遥かに、唯一人の人格者の方が尊いのである。
商材案
インターネット閲覧機能だけを備えさせた、必要最初のインターフェースをテレビの外部入力端子へ繋ぐシステム。
つまり『インターネットシステム』を、我々は一部高齢者の情報格差を低減する為だけにでも商品展開すべきである。
これはパソコンとは適所の異なる商材として、操作系統をシンプルにするほど団塊の需要を、安価にするほど途上国の人気を買うであろう。
猶、多機能化する必要がなければブラウザはフリーソフトを最も単純な数個のボタンへ操作し易く改良したもので構わない。その独自商標にプロバイダーへの極めて省略化した接続事業を加え、有名年功芸能人を宣伝に起用しパッケージ化せよ。
つまり『インターネットシステム』を、我々は一部高齢者の情報格差を低減する為だけにでも商品展開すべきである。
これはパソコンとは適所の異なる商材として、操作系統をシンプルにするほど団塊の需要を、安価にするほど途上国の人気を買うであろう。
猶、多機能化する必要がなければブラウザはフリーソフトを最も単純な数個のボタンへ操作し易く改良したもので構わない。その独自商標にプロバイダーへの極めて省略化した接続事業を加え、有名年功芸能人を宣伝に起用しパッケージ化せよ。
2008年8月11日
文明は行路を遊ばせるが決して退行を許さない
現代社会に於いて、女性への過剰教育による家庭バランスの崩壊したがって婚外児増加などの伝統逸脱行動が現れるのは、自由化に伴う自然ではある。然るにこれらの否応なく不具合を伴う家庭から育つ子孫は、いわば不安児と呼びえるだろう。如何なる最低限社会保障によっても精神的安心感を、一度壊れた家庭へ補う事はできない。そして生態への活性酸素がそう働く様に、これらの不安児は社会にとっての反作用いわば必要毒素となる事によって、却って健全の機能を強く共有認識させ平衡を回復せしめる。
所で優れた天才人は、生い立ちに不幸を背負っている場合がある。つまりこの不安児は、もしも天性や社会資本の恩恵により反社会行動に陥る事なければ、屡々凡人には為し難い昇華適性を示す。
だから、我々は自由化の方向が大部分に関しては功利的結果を与える事象に照らして、「既存倫理に許容可能な限り」少なくとも法的には、婚姻に関する逸脱行動を黙認すべきである。無論ながら不道徳の因子はどの様に些細な点についても長い目で看れば確実に淘汰の具であった。文明は行路を遊ばせるが決して退行を許さない。為らば一時の雑多な試行錯誤を通じてさえ、最も人道からして安心できる婚姻制度に自律的に則り続けた子孫だけが長らく、周囲からの尊重を以てあまねく生存できるという信を疑う根拠を持たない。
所で優れた天才人は、生い立ちに不幸を背負っている場合がある。つまりこの不安児は、もしも天性や社会資本の恩恵により反社会行動に陥る事なければ、屡々凡人には為し難い昇華適性を示す。
だから、我々は自由化の方向が大部分に関しては功利的結果を与える事象に照らして、「既存倫理に許容可能な限り」少なくとも法的には、婚姻に関する逸脱行動を黙認すべきである。無論ながら不道徳の因子はどの様に些細な点についても長い目で看れば確実に淘汰の具であった。文明は行路を遊ばせるが決して退行を許さない。為らば一時の雑多な試行錯誤を通じてさえ、最も人道からして安心できる婚姻制度に自律的に則り続けた子孫だけが長らく、周囲からの尊重を以てあまねく生存できるという信を疑う根拠を持たない。
生物学
空間量の公式より、
G=c2r2/M
これよりc2=GM/r2…①
また光子の見かけの質量より
m=hν/c2
c2=hν/mなので、
①に代入して
GM/r2=hν/m
よって、
hν=GmM/r2…②
ところで生物量の定義は
S=KlogD
と表せる。
Sはエントロピー、Kはボルツマン定数、logDすなわちDの対数は生物量である。又、②の左辺は万有引力と等しく、同時に引力と斥力は作用・反作用の法則より等しいので
F=Sから
hν=Sと考えられる。ここで生物量の定義に照らし合わせると
hν=klogD…③
である。更に、仕事関数の公式
1/2mυ02=hν-W
へ、③を代入して
1/2mυ02=klogD-W=E
これより、
E=klogD=1/2mυ02+W
の一般式が導ける。
我々はこの生物量の公式から、少なくとも数学的には、光電子の初速度が速いほど即ち巨大な恒星の元にある惑星系ほど、よりエントロピーの高くて複雑な生物や生態系が実在する事を予知しえるだろう。
G=c2r2/M
これよりc2=GM/r2…①
また光子の見かけの質量より
m=hν/c2
c2=hν/mなので、
①に代入して
GM/r2=hν/m
よって、
hν=GmM/r2…②
ところで生物量の定義は
S=KlogD
と表せる。
Sはエントロピー、Kはボルツマン定数、logDすなわちDの対数は生物量である。又、②の左辺は万有引力と等しく、同時に引力と斥力は作用・反作用の法則より等しいので
F=Sから
hν=Sと考えられる。ここで生物量の定義に照らし合わせると
hν=klogD…③
である。更に、仕事関数の公式
1/2mυ02=hν-W
へ、③を代入して
1/2mυ02=klogD-W=E
これより、
E=klogD=1/2mυ02+W
の一般式が導ける。
我々はこの生物量の公式から、少なくとも数学的には、光電子の初速度が速いほど即ち巨大な恒星の元にある惑星系ほど、よりエントロピーの高くて複雑な生物や生態系が実在する事を予知しえるだろう。
物理学
光電効果を考えれば光とは励起された高振動数状態の電子放射である。だから我々は太陽放射が電磁波を伴うのも核融合の現象で理解できる。ここで万有引力の法則より、
F=GmM/r2
また万有斥力の法則より
S=pAcm/r2
ここで、F=Sなので
Gm=pAc
よって、c=Gm/pA
Gとpは定数なので、
c=m/A
これより、
m=Ac
の一般式が得られる。mは質量、Aはブラックホールの表面積、cは真空中の光速である。以上より、万有理論の法則が説明できた。
F=GmM/r2
また万有斥力の法則より
S=pAcm/r2
ここで、F=Sなので
Gm=pAc
よって、c=Gm/pA
Gとpは定数なので、
c=m/A
これより、
m=Ac
の一般式が得られる。mは質量、Aはブラックホールの表面積、cは真空中の光速である。以上より、万有理論の法則が説明できた。
2008年8月10日
国民文学論
国民性は可変的。民族は語族と大部分重なるとして、どの民族精神も外来文化の影響外に有り得ない。若し何らかの奇遇で、常にこの種の共同体だけが進化史の生きた化石なのだが、僻地に免れた共同体が残るならという特殊条件を除いて何時如何なる場合でも民族は混淆のさなかだろう。Nationalismという概念は故に、偏見の名義。それが民族間に初めて、全く新たな性格を仮設する。共同体の場合分けが逆説的に国民性の基調を用いる。語族が民族に重なる部分とは、結果としては生活感情の共同体が詩歌を通じて共有される範囲について。だから言葉の通じない異民族間に橋を渡し架けるのは主には詩歌である。ともすれば特徴づけられる生活様式の文脈が、その文学には主旋律として与えられているからだ。
今日我々がliteratureとして認識する概念は、実際には記録された詩歌様式に関する感覚論。だから文学は想像力について、現実の詩歌よりも後から着いて行く。語られうる言葉だけが記されて行く。国民性を改造するのは生活様式の移行そのもの。伴う情感の推移が、必然に語族や、その共同体生活の枠組みをも移り変わらせて行く。日常に交わされる詩歌とは、会話と呼ばれ、この審美感覚の中核が、やがて国民性を組み換えてしまう。
文学が何事かを変えられると信じられていた時代があった。然しそれが実存主義者を取り囲む雰囲気幻想というのでもなければ、会話よりも先に詩歌の記述がなければならないことになる。国民性を先導する詩歌を口語に即した形式で記述しなければならないだろう。
小説が優先される場所では時事よりも文学が進む事は有り得ない。何故なら語られた小説とは既に宗教説に過ぎない。
今日我々がliteratureとして認識する概念は、実際には記録された詩歌様式に関する感覚論。だから文学は想像力について、現実の詩歌よりも後から着いて行く。語られうる言葉だけが記されて行く。国民性を改造するのは生活様式の移行そのもの。伴う情感の推移が、必然に語族や、その共同体生活の枠組みをも移り変わらせて行く。日常に交わされる詩歌とは、会話と呼ばれ、この審美感覚の中核が、やがて国民性を組み換えてしまう。
文学が何事かを変えられると信じられていた時代があった。然しそれが実存主義者を取り囲む雰囲気幻想というのでもなければ、会話よりも先に詩歌の記述がなければならないことになる。国民性を先導する詩歌を口語に即した形式で記述しなければならないだろう。
小説が優先される場所では時事よりも文学が進む事は有り得ない。何故なら語られた小説とは既に宗教説に過ぎない。
格差肯定の説
階層間の最大流動性を制度的に保つ限り、如何なる格差も認知されるべきである。
例えば、獣と戯る遊び女が居ると言う。この生命体はいわゆる穢多であるが、憲法がそう呼ぶのを禁じているだけだ。そして国民に最低限度の文化的な生活を権利として与えるのは法律ではあって、人間未満の畜生類にはその獲得義務すら不可能なのは疑いない。
事実上、人間を大規模に死滅させる未知の伝染病に疾患させる多くの元凶は、この種の人倫逸脱が起源であると知るなら、真っ先に亡ぶのは当の悪徳品種なのだから。我々は否応なく淘汰の前提に、劣悪な人品との住み分けを要求するだろう。
富豪が何千億の豪邸を幾つ築こうが世間は非難すべきではない。この邸に宛てがわれた古今建築様式の最高品質が、やがては民衆にとっての常識になるなら寧ろ盛んに散財を煽るべきなのだから。中には歴史遺構が残される場合もあろうか。
文化にとって殷賑と頽廃とは「相負的な循環」を経営している。前者が高尚を以て後の世を予言する際に、後者は滅びの合図を示して直ぐにも消え去る。
然し我々は確実な歴史の現象として、優れた文化活動が力強い民族文明に伴い広く伝承されるのと同時に、劣悪な文化活動が外来民族からの必然の「蔑視」を伴い確実に粛清されて行くと予知しても構うまい。これは我が国についても確かに。
格差はなくてはならぬ。ともすればこの種の貴賤の別が明らかな程に、素早く時事に応じた階級転換は可能ならば。
若しも公家が全国の一律な支配層であったなら今日の日本国の独立もあり得まい。様々な性格に自由な等級の場を分かち与えて置けば、品種はその各々の適所に優る能力を展開させて行くだろう。
格差社会の顕現は均質狂人の集合体がファシズムを待ち構える今日に於いて是非とも望ましいのである。
注意を要するのは階級固定に繋がる《相続の抜け道》を成るだけ最小化する為の工夫である。
主には『相続税制の堅持』がこの為には必然である。階層固着については種の自律した多様化そのものが妨げられる危険性があり、就いては優等新種よりも旧態墨守の無意味な助長に至らぬとは言えぬからには。
例えば、獣と戯る遊び女が居ると言う。この生命体はいわゆる穢多であるが、憲法がそう呼ぶのを禁じているだけだ。そして国民に最低限度の文化的な生活を権利として与えるのは法律ではあって、人間未満の畜生類にはその獲得義務すら不可能なのは疑いない。
事実上、人間を大規模に死滅させる未知の伝染病に疾患させる多くの元凶は、この種の人倫逸脱が起源であると知るなら、真っ先に亡ぶのは当の悪徳品種なのだから。我々は否応なく淘汰の前提に、劣悪な人品との住み分けを要求するだろう。
富豪が何千億の豪邸を幾つ築こうが世間は非難すべきではない。この邸に宛てがわれた古今建築様式の最高品質が、やがては民衆にとっての常識になるなら寧ろ盛んに散財を煽るべきなのだから。中には歴史遺構が残される場合もあろうか。
文化にとって殷賑と頽廃とは「相負的な循環」を経営している。前者が高尚を以て後の世を予言する際に、後者は滅びの合図を示して直ぐにも消え去る。
然し我々は確実な歴史の現象として、優れた文化活動が力強い民族文明に伴い広く伝承されるのと同時に、劣悪な文化活動が外来民族からの必然の「蔑視」を伴い確実に粛清されて行くと予知しても構うまい。これは我が国についても確かに。
格差はなくてはならぬ。ともすればこの種の貴賤の別が明らかな程に、素早く時事に応じた階級転換は可能ならば。
若しも公家が全国の一律な支配層であったなら今日の日本国の独立もあり得まい。様々な性格に自由な等級の場を分かち与えて置けば、品種はその各々の適所に優る能力を展開させて行くだろう。
格差社会の顕現は均質狂人の集合体がファシズムを待ち構える今日に於いて是非とも望ましいのである。
注意を要するのは階級固定に繋がる《相続の抜け道》を成るだけ最小化する為の工夫である。
主には『相続税制の堅持』がこの為には必然である。階層固着については種の自律した多様化そのものが妨げられる危険性があり、就いては優等新種よりも旧態墨守の無意味な助長に至らぬとは言えぬからには。
2008年8月8日
政論
百人の愚衆に好かれるのは一人の賢者に認められるよりもっと悪い。
だから、例え大衆民主政の建前に於いてさえ政権交代のspeedとして偽主君は現れる。当然、愚衆の長は愚かなので、最も政に挫折し易くその権力は僅か束の間であった。
我々は賢明な君主が必ず長期に渡り持続する政体に貢献するのを疑えぬ。そして天子を抱く国民は煽動家に誘導される国体より常に有利な国際化を可能とする。
故に「選挙」という手段は単に一時の範囲より政体維持の祐徳さで計られて良い。信頼は人格の核心に基づく。
我々は政治運動そのものがやがては最も祐徳な者を主君に立てる事を確信為うる。何故かならそうでない国家は亡びるからだ。
だから、例え大衆民主政の建前に於いてさえ政権交代のspeedとして偽主君は現れる。当然、愚衆の長は愚かなので、最も政に挫折し易くその権力は僅か束の間であった。
我々は賢明な君主が必ず長期に渡り持続する政体に貢献するのを疑えぬ。そして天子を抱く国民は煽動家に誘導される国体より常に有利な国際化を可能とする。
故に「選挙」という手段は単に一時の範囲より政体維持の祐徳さで計られて良い。信頼は人格の核心に基づく。
我々は政治運動そのものがやがては最も祐徳な者を主君に立てる事を確信為うる。何故かならそうでない国家は亡びるからだ。
2008年8月7日
情報多核化論
「勤勉」は普遍的人倫では必ずしもない。ある国民から見れば、勤労の義務を当然と受け止める国民性が驚異でも珍奇でもあるだろう。「休まず働かねばならない」という脅迫観念がある社会では、長期休暇そのものが罪悪感を以て理解されがちですらある。だからこの民情を何らかの反作用で改善に向けない限り、この蟻の様な働き者の人倫に於いて学問の権利とかrecreationの余裕とかはなおざりにされ続ける。
そしてもし、勤勉人倫の産み出す文化が甚だしい奇形さを含むなら、いわば労働狂としての人格群の盲点から生じる。満員電車という異常現象を看過する民族が産み出すあらゆる商材が、心のゆとりを欠くのは必然か。この文化の特徴は、無理に激しい消費を駆り立てる衝動となり、ある種の退廃を込む。最大多数の最低限の傾向に媚るが故に低俗化を免れない社会性、これが現代の勤勉人倫の欠点である。
働かねば暮らして行けない人間は、貴族から看れば哀れむに足るこせこせしさを示すに違いない。気忙しく、けちで、品性がなく、金儲けと来れば夢中になって飛び付く様な国民性が尊ばれる場では、どの様にしても上質の品種形成は不可能となる。
東京文化は相対化されるべきで、テレビ局を中心とした情報提供の多核化は全く異なる人倫を多数育む為には是非ともなくてはならない。情報発信の一元化がもたらす実例がここに現れている。それは否応なく極度の特殊化に繋がる。驚くべき下品の傾向を量産する勤勉さなら、何もせずにさみだれを眺めている方が、民族や仲間の名誉の為にも遥かに増しである。悪評が広まってある場の風紀改善課題が一般敷衍されるに伴って、自治的弾圧が要請されるのも自然の流れだろう。そしてこれらの弾圧の精度がなければ奇形文化の希少価値を逆説的に担い手側が認識することもない。その分、又獲得された技能の粋を伝承させる手順も忘却されてしまうだろう。
そしてもし、勤勉人倫の産み出す文化が甚だしい奇形さを含むなら、いわば労働狂としての人格群の盲点から生じる。満員電車という異常現象を看過する民族が産み出すあらゆる商材が、心のゆとりを欠くのは必然か。この文化の特徴は、無理に激しい消費を駆り立てる衝動となり、ある種の退廃を込む。最大多数の最低限の傾向に媚るが故に低俗化を免れない社会性、これが現代の勤勉人倫の欠点である。
働かねば暮らして行けない人間は、貴族から看れば哀れむに足るこせこせしさを示すに違いない。気忙しく、けちで、品性がなく、金儲けと来れば夢中になって飛び付く様な国民性が尊ばれる場では、どの様にしても上質の品種形成は不可能となる。
東京文化は相対化されるべきで、テレビ局を中心とした情報提供の多核化は全く異なる人倫を多数育む為には是非ともなくてはならない。情報発信の一元化がもたらす実例がここに現れている。それは否応なく極度の特殊化に繋がる。驚くべき下品の傾向を量産する勤勉さなら、何もせずにさみだれを眺めている方が、民族や仲間の名誉の為にも遥かに増しである。悪評が広まってある場の風紀改善課題が一般敷衍されるに伴って、自治的弾圧が要請されるのも自然の流れだろう。そしてこれらの弾圧の精度がなければ奇形文化の希少価値を逆説的に担い手側が認識することもない。その分、又獲得された技能の粋を伝承させる手順も忘却されてしまうだろう。