福澤の実学論から尾を引く、日本における大学の学部教育での就職予備校化は、全く経済的にさえ大きな負債者らの滞流地点であって、この膨大な逸楽児を淘汰できさえすれば日本の経済成長も又疑う余地がない。かれらの軛は経済崇拝に伴う産学癒着である。この範囲からは一向として、学部教育の質的向上という命題は自覚されずじまいだろう。彼等は単に入学試験つまり受験競技におけるこざかしさ丈が平均的な従順さの指針になる事を暗黙ながらに信念しつつ大勢の退廃に寄り添うから。彼等の結論は、学問無用であり受験勉強だけが人生の必要だ、という事。哲学の精神を鼓舞できない学部教育はuniversity則ち多様の統一の名を冠するに値せぬ混乱の社であり、その結果およぶあらゆる残酷な社会的退廃もみな、大学への心底からの侮蔑に行き着く他ない。若し彼らのうち生まれつきたるままの良心を保ちえた個性が生き延びることができたなら、先ず実学の予備校という誤った大学組織を破壊するだろう。次に、彼らが本来求むるところの、理想を抱いて進んで行ったはず元々あるべき進学先としてのuniversityをイデアの故郷へと想起するだろう。就職予備校としては特定な職業専門学校という場所が設らえられ絶えず産業界の実情に応え、予想しうる最新鋭の技術をてなづける修業の場として強化されるのは必然の流れ。そして学者の為の環境と職業の為の環境は分離されるべきである。学部教育はuniversityの範囲に留まる限り、ありのままの好奇心に基づく理知の自己目的な探究の幸せを啓発する場所として浄化されねばならない。学問は虚学である。福澤の実学論は明治の特殊命題として科学技術を高く評価し過ぎている。如何なる工学も基礎科学としての純粋理論の程度に依存するから。結局、学識そのものを自ら好き好み求む階級が多ければ多いほど、その社会の平均的な知性は高くなるだろう。