2007年12月13日

現代国家論

現代人を感化するには民族国家・Nation stateを単位にするがいい。
 というのはglobalismのさなかにあって直接的な利害は彼らが国際社会に放り出される時にこそ、明らかに発生してくるからだ。甘えは国際社会には全く通用せず自文化中心主義は死の思想でしかない。
 それは日本人が太平洋戦争で神風特攻をも辞さぬ覚悟で戦い抜く理由が自負心であることを見抜けなかった連合国が、その間接統治機関において安直に自文化を移植しようとして君主を人間化せしめるという恥辱を与えてしまった結果、原因不明の競争力格差に不当とも感じられるほど極めて長い期間、日本人の間から白人不信を拭い去れなくなる事に例えられる。自負を以てnationaltyの根幹とする民族にとっては、単に名誉ある地位以外には何らの理由もない戦争でさえも、自由なる欧米的理念以上の大義となる事を彼らは理解しないからだ。
 天皇様は日本人にとっては元来、民族的神格に他ならない。「宗教国家としての日本」は実践的政治の為にではなく、現実にそれとは切り放された宗教的崇拝の理念として、天の皇・Heaven’s Kingつまりあらひとがみを血族連体の頂きへ祭って来た。ヤマトの民衆は伝統的に天皇様の生活や姿ばかりか、現実的存在をも知らぬ侭に、そのすみかたる神棚を各実家に奉り上げ神社には御神体たる自らを映し出すまことの鏡をうやまって暮らして来たのだった。彼らが仰ぐのは他でもなく、自らの血統だからである。幾ら外人が迫害を加えても日本人血統が一員でも地上に残存するかぎり天皇家はなんら解消不可能であり、ひとえにその暗喩でしかない。
 日本人にとって、唯一無二の神様が人間の全能性へ向かう当為である限り、諸形而上宗教からの忠告を一旦留保してすらも国家統合の象徴像としての天皇は永久に神と等価なのである。従ってその人間と同等視させるが如き誤解を招き易い報道は日本人民衆みずから慎むべきであり、同様に飽くまでもこの世の者ならぬ神格として我々みずからが心の底で常々仰ぎ、全能性の根源因として有り難い博愛のいつくしみと共に再生させる信仰の最終目的でなければならない。
 日本人自身は日本人の名を自ら択ぶ限り、いずれもみな至高の君を意味する自らの皇統以外の為には、死ぬ理由をなんら持ち得ない。日本人同士はどこでいつなんどきも、何らかの知的奇形を宿命された種的偶然に在らぬ限り国家宗族として、自らの国内にあるあらゆる人格関係を神格的皇統の最高次にまで全治しうるものだ。これを全国一家と呼ぶ。

 文明建設に従う文化の前提性を理解しない覇権気取りの裸の王様とは、邪教を奉じる外敵への徹底抗戦を旨とするイスラム諸国へ安易な内政干渉を仕掛けた国家群が、永久に終わらない戦争状態に巻き込まれても果たして、誰にも責任転嫁できない現代的自由主義とやらの醜態に等しい。
 文化は民族国家を単位としてのみ、その最大限の発展を魅せるものである。決して国際化そのものが風紀を向上させるのでもないし、大小の連合体も地球一家の有り様が「事実上」諸主要国の軍事主権委譲によって達成される迄は、ただの契約関係に過ぎない。それはいつ破棄されるとも公平裁判の余地がない不安定な「国家的信用創造」に頼る。その喩えの如く、国際通貨がそのまま、各民族国家の経済的実威を示すのに同じ半自然・半開化の無期限留保が現代国際の常態なのである。

 我々はinternationalismについて、民族国家単位の多声秩序を抜きにしては全く語れないだろう。国際連合は遅かれ早かれ多民族主義の国家を揚棄する。中央政府による国内統一が主権譲渡の前提になるのは明らかであるから。これを一国一族の原則と呼びえるだろう。逆に言えば多民族国家を主張する政体のもとでは、止むべくもない国内利害の対立によって、主権委譲の合意ですら覚束ない。このような国家は自らが頻発させる民族紛争からの反省によって、統括血族を意識しうる最小社会単位まで繰り返し分裂を余儀なくされるであろう。植民地に定住化した移民や軍事併合を経た帰化民についても同様の原則から自由にはなりきれない。人々は誰からも強制されず、自らの属したnationalityを国の名前によって自己選択しなければならない。それが世界市民の社会へと参加する資格であるからには。
 Nation stateとは諸国連体の政治統領が、全員の自主的合意に基づいてのみ正統である。公共政・貴族政・王政はいずれも民族国家を興隆せしめる手段でしかなく、また文化の条件特性に基づいて適宜使い分けるべきものだ。

 我らはフランシス・フクヤマを批判して自由民主主義の終焉を誇る事はできないし、例えば貧困を救済できぬ以上文化的な究極体制であるとみなすことすらもない。それはとある絶対君主のもののあわれな詠歌に過ぎない、「此の世をぞ我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えば」。驕れる強者は久しからず、政体循環説に基づき、今より福祉的善を体現する新たな秩序へと移り変わる。生物に比類したいけとし国家にとって重要なのは勝利ではなく、適応である。