2007年9月19日

学歴論

女性の高学歴化には少しも憂うべきところなし。唯、命令は男性の尚更の高学歴化に過ぎない。生体本来の出来栄えには性別格差あり、同じだけ努力したところで男性の方に知力の軍配が挙がるのは相撲を取らせた場合と変わりない。そこに特徴あるなら、女性一般はその母体の必要から男性一般より比較的成長が早く、伸びが少ないという事実である。従って男性の成人は女性の二十歳に比べて三十路に引き上げられて然り、嘗てこれを丈人ジョウジンと呼んだ。その間、真剣に勉強すれば社会は劣等視する余地を持たない。男性の成熟のゆっくりさは貫禄といわれる。
 考慮されるべきは女性の学問の種類、女性学者は極めて少ないのが事実で、またそこには必然もある。なぜなら家内として構造的に最も適応的な女性という性別にとって、育児に無関係な知識の増長は却って身を滅ぼす原因になる可能性がある。それは男性からも男性としてしか見てもらえないような奇妙さをもたらすだろう。そしてこのような非家庭的な種が性選択で淘汰されるのは自然である。現代結婚は両性の合意に基づくから。よって、女性には家政学や一般教養という特別な学問部門が設けられるべきだろう。国際適応にはある程度の社交性を必要とするとあらば、花嫁修業的な女子大学における家政学部とは別に、一般大学内に一般教養学部を確立することは教育者の急に迫った命題である。現状では文学部にこの含みがある場合もあるが、それでは本来の文芸研究者志望と混同される節があり好ましいとは言えない。一般教養学部の新設は大学の必然となる。